16 弘安年間の授与書き
「御本尊集」により日蓮が顕した曼荼羅を確認すると、文永、建治年間には授与書きのあるものは少なく、弘安元年から次第に授与書きが多くなり、弘安2年(1279)以降は同年11月の曼荼羅68-2、弘安3年(1280)3月の曼荼羅81・臨滅度時本尊、同じく弘安3年(1280)の系年と思われる曼荼羅90(守護曼荼羅か)、弘安5年(1282)1月の曼荼羅117、同年6月の曼荼羅122、123の計6幅を除き、他の72幅の曼荼羅は全てに授与書きが記されています。このことは、布教の進展により日蓮法華信奉者が増加、弟子檀越からの曼荼羅授与の申し出が多くなり日蓮はそれに応えたことを示すとともに、弘安元年(1278)以降は授与される者の名を意識して書き入れ、それが定形化していったことを意味するのではないでしょうか。
以下、弘安元年(1278)以降の曼荼羅授与書きを、「御本尊集」をもとに確認してみましょう。
⇒は筆者が加えました
◇曼荼羅47 弘安元年3月16日 授与書きなし 「病即消滅御本尊」
⇒曼荼羅 28、29、38、39、40、49と同じく、由来を明示する文がなく、形態の簡略化、「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」との讃文の意から「守護曼荼羅」と区分されるでしょう。
◇曼荼羅48 弘安元年4月21日 優婆塞日専
◇曼荼羅50 弘安元年7月5日 沙門日門授与之 「若宮御本尊」「竹内御本尊」
◇曼荼羅51 同日 授与書き削損 「輪宝御本尊」
◇曼荼羅49 弘安元年7月 授与書きなし
⇒曼荼羅 28、29、38、39、40、47と同じく、由来を明示する文がなく、形態の簡略化、「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」との讃文の意から「守護曼荼羅」と区分されるでしょう。
◇曼荼羅53 弘安元年8月 日頂上人授与之
◇曼荼羅54 弘安元年8月 授与書き削損
◇曼荼羅56 弘安元年10月19日 授与書きなし 「鴛鳶御本尊」
◇曼荼羅57 弘安元年11月21日 優婆塞藤太夫日長
◇曼荼羅52 顕示年月日削損 比丘日賢授与之
◇曼荼羅55 顕示年月日なし 授与書きなし
◇曼荼羅58 顕示年月日なし 授与書きなし
◇曼荼羅59 弘安2年2月 妙心授与之
◇曼荼羅60 弘安2年2月 釈子日目授与之
◇曼荼羅61 弘安2年4月8日 日向法師授与之
◇曼荼羅62 弘安2年4月8日 優婆塞日田授[与之]
◇曼荼羅63 弘安2年4月 比丘日弁授与之
◇曼荼羅64 弘安2年6月 比丘尼日符
◇曼荼羅65 弘安2年7月 沙門日法授与之
◇曼荼羅66 弘安2年9月 日仰優婆塞授与之
◇曼荼羅67 弘安2年10月 沙弥日徳授与之 「子安御本尊」
◇曼荼羅68-1弘安2年11月 優婆塞日安授与之
◇曼荼羅68-2弘安2年11月 授与書きなし
◇曼荼羅69 弘安2年11月 沙門日永授与之
◇曼荼羅70 弘安2年11月 優婆塞日久 「四天王画像御本尊」
◇曼荼羅74 弘安3年1月 日仏
◇曼荼羅71 弘安3年2月1日 俗日頼(四條頼基)授与之
◇曼荼羅72 弘安3年2月 日眼女(四條頼基妻)授与之
◇曼荼羅73 弘安3年2月 藤原清正授与之
◇曼荼羅75 弘安3年2月 俗■□・読取困難
◇曼荼羅76 弘安3年2月 優婆塞日安
◇曼荼羅77 弘安3年2月 俗吉清
◇曼荼羅78 弘安3年3月 日□授与之
◇曼荼羅79 弘安3年3月 沙弥妙識
◇曼荼羅80 弘安3年3月 日安女
◇曼荼羅81 弘安3年3月 授与書きなし 「臨滅度時本尊」
◇曼荼羅82 弘安3年3月 授与書き截落 「紫宸殿御本尊」
◇曼荼羅83 弘安3年4月10日 尼日実授与之
◇曼荼羅91 弘安3年4月13日 盲目乗蓮授与之
◇曼荼羅84 弘安3年4月 削損
◇曼荼羅85 弘安3年4月 俗□・読取困難
◇曼荼羅86 弘安3年4月 日妙[之]
◇曼荼羅87 弘安3年4月 削損
◇曼荼羅88 弘安3年4月 優婆塞藤原広宗 授与之
◇曼荼羅89 弘安3年4月 尼日厳 授与之
◇曼荼羅90 系年は弘安3年か 授与書きなし 「今此三界御本尊」
⇒曼荼羅28、29、38、39、40、47、49と同じく、由来を明示する文がなく、形態の簡略化、「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」との讃文の意から「守護曼荼羅」と区分されるでしょう。
◇曼荼羅92 弘安3年5月8日 沙門日華授与之
◇曼荼羅93 弘安3年5月8日 削損
◇曼荼羅94 弘安3年6月 俗日円 授与之
◇曼荼羅95 弘安3年6月 俗藤原国貞 法名日十授与之
◇曼荼羅96 弘安3年6月 俗日肝授与之
◇曼荼羅97 弘安3年8月 俗日重 授与之
◇曼荼羅98 弘安3年9月3日 俗日目 授与之
◇曼荼羅99 弘安3年9月8日 優婆夷源日教授与之
◇曼荼羅100 弘安3年11月 比丘日法 授与之
◇曼荼羅101 弘安3年11月 釈子日昭伝 之 「伝法御本尊」
◇曼荼羅102 弘安4年2月2日 優婆塞藤原日生 授与之
◇曼荼羅103 弘安4年2月 俗資光 授与之 亦云宝日
◇曼荼羅104 弘安4年3月 俗日大 授与之
◇曼荼羅105 弘安4年4月5日 僧日春 授与之
◇曼荼羅106 弘安4年4月17日 俗真広 授与之 「若宮御本尊」
◇曼荼羅107 弘安4年4月25日 比丘尼持円授与 之
◇曼荼羅108 弘安4年4月26日 比丘尼持淳授与 之
◇曼荼羅109 弘安4年8月23日 摩尼女 授与之
◇曼荼羅110 弘安4年9月 俗日常授 与之
◇曼荼羅111 弘安4年9月 俗守常 授与之
◇曼荼羅112 弘安4年10月 □□□□授与□(削損)
◇曼荼羅113 弘安4年10月 俗守綱授与 之
◇曼荼羅114 弘安4年10月 俗眞永 授与 之
◇曼荼羅115 弘安4年10月 俗近吉 授与 之
◇曼荼羅116 弘安4年12月 優婆夷一妙 授与之
◇曼荼羅117 弘安5年1月 授与書きなし
◇曼荼羅118 弘安5年1月 俗安妙 授与之
◇曼荼羅119 弘安5年1月 俗日専 授与 之
◇曼荼羅120 弘安5年4月 沙門天目 受与之
◇曼荼羅121 弘安5年4月 俗藤三郎 日金 授与之
◇曼荼羅122 弘安5年6月 授与書きなし
◇曼荼羅123 弘安5年6月 授与書きなし
一覧で分かるように、特に弘安2年冬以降は「守護曼荼羅」と区分される曼荼羅90「今此三界御本尊」(系年・弘安3年か)と、最晩年の弘安5年を除いて全ての曼荼羅に授与書きを記しており、やはり授与書きは定形化しているのではないでしょうか。その中で明らかに守護曼荼羅ではない、大型の「臨滅度時本尊」(81)に授与書きがないということの『意味』が気になるところです。この御本尊は門下に授与するというよりも、常とは異なる意をもってこの曼荼羅を書き顕した、日朗のもとに至ったのは後の事である、との推測もまた可ではないかと考えるのです。
授与書きのない弘安5年の曼荼羅を見ると、(117)の寸法は95.5×47.0㎝で3枚継ぎ、(122)は67.9×45.8㎝で2枚継ぎ、(123)は67.6×44.5㎝で2枚継ぎの大きさ。いずれも弘安完成期といえる相貌座配となっており、現地写真撮影の時には確認されていないものの、授与書きを削り取ってある可能性を探るのは考え過ぎでしょうか。
曼荼羅(117)(122)は、共に日弁開山と伝える鷲山寺(千葉県茂原市鷲巣)の所蔵であることも気になるところです。曼荼羅(123)は本圀寺(京都府京都市山科区御陵大岩)に所蔵されますが、「御本尊集・解説」によれば同寺所蔵の曼荼羅 (51)「輪宝御本尊・弘安元年太才戊寅七月五日・120.6×64.5㎝3枚継ぎ」には年月の下に授与書がありましたが、削損した形跡があるとのこと。また、曼荼羅(34)「授与書きなし・建治二年太才丙子卯月 日・152.7×94.5㎝ 10枚継ぎ」は右下隅の紙背に墨痕があり、本圀寺では日朗への授与書きと伝えています。実際のところは、墨痕に何が書かれていたか正確なところは不明だと思うのですが。
日蓮真蹟を裁断して末寺に分けたり、護りとして檀家に与えたりした中世の日蓮系僧侶の信仰形態からすれば、真蹟曼荼羅といえども寺院に縁のない授与者の名を削り取るのに抵抗のない人物もいたことでしょう。ということは、京都本圀寺に伝来する曼荼羅(34) (123)も授与書きを削った可能性があるのではないでしょうか。
※1
「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」(藤井教雄編集 昭和45年11月21日 身延山久遠寺発行)に身延33世・遠沾院日亨が日蓮の曼荼羅を拝写した記録がありますが、中山法華経寺曽存分については「南無妙法蓮華経」を「題目」と書いたり、相貌座配が棒線で略されています。
「日蓮聖人真蹟の世界・上」(1992 雄山閣出版)には日亨模写本が掲載されるも、山中喜八氏により「この一例のみである」「疑いを存する」「写誤」「失であろう」等、指摘をされるところが多くあります。寺尾英智氏は山中喜八氏の指摘を踏まえて、「資料として配慮が必要」(日蓮聖人真蹟の形態と伝来P51 1997 雄山閣出版)とされています。このように、授与書きの有無を確かめる資料として日亨模写本を用いるのは躊躇せざるをえないと考えます。
尚、「日亨本尊鑑」において、弘安元年以降で授与書きのない模写本は以下の2幅となるでしょうか。
◇「日亨本尊鑑」(P50) 第25 弘安二年四月日御本尊 底本(第17)
「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P192)
弘安二年太才己卯四月 日
◇「日亨本尊鑑」(P53・P195) 第26 弘安二六月日御本尊 底本(第32)
弘安二六月 日
「南無妙法蓮華経」を「題目」と書き、相貌座配の多くが棒線となっています。
※2
京都頂妙寺20代貫主の真如院日等(1655~1730)は下総・中山に行き、法華経寺の輪番住職として56代貫主を務めました。在職は宝永5年(1708)8月27日から正徳元年(1711)8月27日の3年間。宝永8年1月、正徳元年(4月25日改元)7月、日等は法華経寺宝蔵において日蓮の曼荼羅を書写、その「日等臨写本」6幅は頂妙寺に所蔵されています。その内、弘安元年以降のものは次の4幅になります。
◇弘安元年三月十六日曼荼羅本尊 2幅あり
・2幅は若干、寸法が異なるほかは全く同じ。
「御本尊集」曼荼羅47・通称病即消滅御本尊(中山 法宣院)と相貌座配が同一
・顕示年月日
弘安元年太才戊寅三月十六日
・授与書きなし
・讃文
此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病
得聞是経 病即消滅 不老不死
・相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行無辺行菩薩 南無浄行安立行菩薩 南無天台大師 南無伝教大師
・寸法
一つは、曼荼羅本尊部分は65.5×49.0cm 1枚
曼荼羅47は66.1×43.4 1枚
・「御本尊集」曼荼羅(28)(29)(38)(39)(40)(47)と日等臨写本「弘安元年三月十六日曼荼羅本尊 2幅」は、由来明示の図顕讃文なし、形態の簡略化、讃文の意からすると「守護曼荼羅」と区分されるでしょう。
◇弘安元年七月十六日曼荼羅本尊
・通称・同日三幅曼荼羅
法華経寺95代・日亮による「正中山本妙法華経寺御霊宝目録鑑」(文政8年[1825]6月良日付)により、同年同日付の曼荼羅が3幅あったことが確認されます。
・顕示年月日
弘安元年太才戊寅七月十六日
・授与書きなし
・寸法
曼荼羅本尊部分は129.5×72.6㎝ 3枚継ぎ
◇弘安二年六月日曼荼羅本尊
・顕示年月日
弘安二年太才己卯六月 日
・授与
釈子日家授与之
⇒釈子日家とは、日保とともに小湊誕生寺、興津妙覚寺を開いたとされる寂日房日家のことでしょうか
・寸法
曼荼羅本尊部分は104.5×57.0㎝ 3枚継ぎ