16 寂澄と法鑁
ここでは頼瑜(嘉禄2年・1226~嘉元2年・1304)の弟子・頼縁と法鑁(日吽)、寂澄らの事跡を確認し、清澄寺での真言・東密の法脈の可能性を探ってみましょう。
【 寂澄 】
寂澄の手択本(しゅたくぼん・持ち主が手元に置いて愛読した本)は称名寺に多数残されており、どのようなものを伝領・書写・伝持したのか、「金沢文庫古文書」に収録された奥書を確認することで寂澄の法脈が理解できます。
◇「不動法」
文永七年(1270)庚午二月廿二日 亥時書写了 寂澄 春秋□二十九
(識語編2・P299 No2146)
◇「不動法」
文永七年(1270)八月十九日 寂澄 春秋□二十九
(識語編2・P299 No2147)
◇「胎蔵界自受法楽説」
文永七年(1270)庚午十一月十二日 寂澄
(識語編2・P144 No1584)
◇「自性法身能加持説」
文永七年(1270)庚午十一月十三日 寂澄
(識語編1・P286 No961)
この写本により、寂澄は頼瑜教学を学んでいたことが窺われます(櫛田・続P231)。
その場所については、櫛田氏は金沢・称名寺としているようですが、その典拠はあるのでしょうか。寂澄の手択本が称名寺に伝来しているといっても、その学習場所までは特定できないと考えます。
◇「金剛界自受法楽説」
文永七年(1270)庚午十一月廿日 寂澄
(識語編1・P225 No760)
◇「二界他受用法身説法」
文永七年(1270)庚午十一月廿一日 寂澄
(識語編2・P215 No1854)
これら寂澄による文永7年(1270)の書写本、11月12日「胎蔵界自受法楽記」、11月20日「金剛界自受法楽説」、11月21日「二界他受用法身説法」により、寂澄の周辺では頼瑜の「加持身説」が談議されていたことが確認されます(櫛田・続P231)。
◇「四種曼荼羅義」
建治元年(1275)乙亥七月十七日 右幹寂澄
(識語編1・P283 No949)
◇「三部細行口伝幷加行次第表白」
弘安五(1282)六九日 寂澄 花押
(識語編1・P260 No881)
◇「最極秘密羅誡記」
弘安五(1282)六九日 寂澄 花押
(識語編1・P243 No821)
◇「覚源深理論」
永仁六年(1298)戊戍五月十一日 右翰寂澄
(識語編1・P62 No219)
◇「聞持秘事」
正安元年(1299)己亥八月十二日 右翰寂澄 春秋□五十八
清澄山
(識語編3・P63 No2425)
◇「蝕時露地法」
正安元年(1299)己亥八月十三日 右翰寂澄 五十八
(識語編2・P68 No1283)
◇「虚空蔵菩薩念誦法」
正安(1299)己亥八月十七日 右翰寂澄 五十八
清澄山
(識語編1・P200 No660)
◇「摩界得脱啓白」
正安二年(1300) 庚子十二月十三日 金剛仏子良―云々 釈寂澄
(識語編3・P37 No2316)
◇「神供幷破壇等」
正安二(1300) 庚子十二廿一 寂澄
(識語編2・P83 No1336)
◇「八千枚等文集」
正安□十二月廿六日校点了 寂澄
(識語編2・P250 No1971)
◇「求門持 私」
已上表裏所載者、抄集儀軌幷大師御説、又衍師蓮
師予見等明哲所伝、尤納笞底莫他散而已
高祖十五代資 寂澄
正安三年(1301)辛丑正月三日
(識語編1・P123 No437)
◇「両部曼荼羅秘要決」
正安三年(1301)辛丑正月九日 以右本書写了
金剛資寂澄
(識語編3・P119 No2576)
◇「続曼荼義」
正安三年(1301)辛丑正月十五日 書写了
金剛末資寂澄
(識語編2・P118 No1469)
◇「法身偈」
正安三年(1301)辛丑正月廿七日 以右本書写了
金剛資寂澄
(識語編3・P8 No2218)
◇「梵字」
(朱)正応三年(1290)四月十四日於鎌倉
佐々目御房奉伝受了
右朱点口伝也。加私之。 金剛資心
正安三年(1301)辛丑二月二日 於清澄寺書写了
金剛資寂
(識語編1・P251 No845)
◇「梵字」
正安三年(1301)辛丑五月廿七日 金剛資寂澄
正安三年(1301)辛丑六月十六日 於清澄寺書写了
金剛資寂澄
(識語編2・P99 No1396)
◇「梵字」
正安三年(1301)辛丑六月廿三日書写畢
金剛資寂澄
正安三年(1301)辛丑十月書写了
金剛資寂澄
(識語編2・P294 No2122)
◇「梵字」
正安四年壬寅三月廿一日
金剛資 寂澄
(識語編2・P186 No1742)
◇「虚空蔵一印口決」
正安四六廿日書写了 右翰金剛資寂澄
(識語編1・P199 No655)
◇「阿闍梨寂澄自筆納経札」
房州 清澄山
奉納
六十六部如法経内一部
右、当山者、慈覚開山之勝地
聞持感応之霊場也、仍任
上人素意六十六部内一部
奉納如件、
弘安三年(1280)五月晦日 院主阿闍梨寂澄
(早稲田大学所蔵文書)
文永7年(1270)の「不動法」はどこで書写したのか明らかではありませんが、弘安3年(1280)5月の「院主阿闍梨寂澄自筆納経札」と併せ考えると、鎌倉等で修学していた時期を除き、弘安3年(1280)の「院主」であった時から正安3年(1301)の20年以上、寂澄は清澄寺に居住したことになります。また、文永7年(1270)から正安4年(1302)にかけて書写、相伝したものに頼瑜と覚鑁のものが少なからずあり、寂澄は東密・新義真言の法脈に連なる人物であったことが確認されるのです。
【 法鑁 】
法鑁は東密・小野流の書である「胎蔵界沙汰 付小野延命院次第」を書写しており、東密の相伝を受けていることが確認されます。
◇「胎蔵界沙汰付小野延命院次第」
建長五年(1253)癸丑九月十四日未時書了
於長佐郷打墨□ 筆師肥前公法鑁
(識語編2・P144 No1583)
◇法鑁は京都で「舎利略行法 付大師十八道次第」、「愛染王」を書写し、安房で上記「胎蔵界沙汰 付小野延命院次第」と覚鑁の書「金剛界鑁口伝」を書写しています。書写の地は記入しませんが、やはり覚鑁の書である「五輪九字明秘密釈」を書写しており、東密・新義真言教学を学んでいます。
また法鑁は、自らが書写した「金剛界鑁口伝」と「五輪九字明秘密釈」を寂澄に譲り渡し、即ち相伝していて、法鑁と寂澄が同一の系譜・法脈にあったと理解されます。譲り渡した=相伝した時期が気になるところですが、まず法鑁が「金剛界鑁口伝」を書写した建長5年(1253)当時の寂澄が何歳であったかを確認してみましょう。
寂澄が文永7年(1270)2月22日に書写した「不動法」奥書に「春秋□二十九」とあり、正安元年(1299)8月12日の「聞持秘事」には「春秋□五十八」とあります。これによれば、建長5年(1253)時点での寂澄は12歳であり、まさに少年です。当時の密教僧が法門上の重書、秘書を少年に相伝することがあったか否かについては確認できていませんが、日蓮が17歳で「授決円多羅義集唐決」を書写している先例からすれば、法鑁から寂澄への相伝は建長5年(1253)より4、5年後、正嘉年間(1257~1259)の頃であったでしょうか。
以下、奥書。
◇「舎利略行法付大師十八道次第」
建長四年(1252)八月廿五日酉時 印性上人御本
於法勝寺西門法雲寺書写了 筆師肥前公
□鑁
(識語編2・P1 No1067)
◇「愛染王」
建長四年(1252)十一月廿八日子時書了
於法勝寺西門法雲寺執筆
肥前公生年廿五才
(識語編1・P3 No11)
◇「金剛界鑁口伝」
建長五年(1253)癸丑九月廿日午時書了
於打墨□筆師肥前公
雖無極悪筆為仏法興隆法界衆生也
法鑁廿六才也
今寂澄
(識語編1・P229 No774)
◇「五輪九字明秘密釈」
建長六年(1254)甲寅九月三日未時了
清澄山住人肥前公日吽生年廿七才
為仏法興隆法界衆生成仏道也
(識語編1・P222 No747)
(表紙に本文とは別筆で「寂澄」と記されているところから、法鑁から寂澄に渡されていることがわかります。寺尾英智氏の論考「日蓮書写の覚鑁『五輪九字明秘密釈』について」の教示より。中尾堯氏「鎌倉仏教の思想と文化」所収P301 2002吉川弘文館 )
法鑁と寂澄の活動は、清澄寺における真言・東密の伸長を示すものといえるでしょう。一方では東寺の真言を三流相伝し、台密の蓮華院流、穴太流、三昧流を相伝して、台東両系の法脈に連なったとされる亮守(?~一説、正平13年・延文3年・1358)は清澄寺で求聞持法を三度修し(華頂要略・真言血脈相承次第)、1330年代から40年代の間に同寺において灌頂を授けています(窪田P326)。
【 高木豊氏の指摘 】
高木豊氏は論考「安房国清澄寺宗派考」(日蓮攷P25)にて、金沢文庫に所蔵する寂澄手択本の奥書にある寂澄の署名は一貫して同一だが、「納経札」の「院主阿闍梨寂澄」とは一致せず、別人との断定はひかえるが同一人とすることもできない旨、指摘されています。
文永7年(1270)に「不動法」「胎蔵界自受法楽記」「自性法身能加持説」「金剛界自受法楽説」「二界他受用法身説法」を、建治元年(12750)に「四種曼荼羅義」、弘安5年(1282)に「三部細行口伝幷加行次第表白」「最極秘密羅誡記」を学んだ寂澄と、弘安3年(1280)の「納経札」の院主阿闍梨寂澄が別人であれば、同時代に二人の寂澄がいたことになります。
実際、高木氏は「実勝授与記」の「寂澄 重照道房 七十歳 同四年改元 弘安元 九月廿七日於高野授之」を紹介して(日蓮攷P18)、その年齢の異なりから「二人の寂澄」がいたことを指摘されています。
文永7年(1270)に29歳の寂澄と弘安元年(1278)に70歳の寂澄は明らかに別人ですから、手択本奥書の寂澄と「納経札」の寂澄も別人ということであれば、齢70を越えた照道房寂澄が弘安3年(1280)当時の清澄寺院主であったということになるのでしょうか。
ですが、文永7年(1270)の「不動法」には「寂澄 春秋□二十九」=29歳とあり、この寂澄は弘安3年(1280)には39歳となっているので、年齢的には阿闍梨号を冠した清澄寺院主となっていたとしてもおかしくはないでしょう。
私としては、例えば筆跡鑑定などにより、誰人にも理解可能なように手択本奥書の寂澄と「納経札・寂澄」の「別人説」を論証して頂きたいと思うのですが、可能性としては高木氏の指摘通りということも有り得ます。ここでは念の為、手択本奥書の寂澄の署名と「納経札」の寂澄とが別人であるとして、「納経札」を除外して考えてみましょう。
・建長5年(1253)9月14日に東寺真言・小野流の書「胎蔵界沙汰 付小野延命院次第」を、9月20日に覚鑁の書「金剛界鑁口伝」を写しているところから、法鑁(日吽)は真言・東密の法脈の人であると理解される。
・(「納経札」とは別の、金沢文庫に手択本が多く残る)寂澄が文永7年(1270)から正安4年(1302)にかけて書写、相伝したものは覚鑁と頼瑜のものがあり、寂澄も真言・東密の法脈に連なる人物であると理解される。
・法鑁から「金剛界鑁口伝」「五輪九字明秘密釈」を伝領している寂澄は、同一の法脈であったと理解される。
・法鑁は「清澄山住人」(五輪九字明秘密釈)であり、建長5(1253)・6(1254)年頃、清澄寺と周辺で活動していた。即ち真言・東密の人が清澄寺で活動していたことが確認されます。
・寂澄の清澄在山の初見について、現存文献上では、「聞持秘事」奥書に「清澄山」と書写地を書き込んだ正安元年(1299)8月12日、58歳の時に清澄寺にいたことがはじめて確認されるということになります。
しかし、寂澄は建長年間に清澄寺と周辺で活動していた法鑁に連なり、正嘉年間(1257~1259)、10代後半には重書を伝受した可能性があり、また文永年間の青年期より活発に真言法門を学習していたことも踏まえれば、建長5年(1253)、12歳の頃には清澄寺に居住していたと考えられるのではないでしょうか。少年日蓮が12歳で清澄寺に登山したこと、大石寺・日目が13歳で走湯山円蔵坊に入ったことが想起されます。
以上のように、高木氏の指摘を踏まえたとしても、日蓮と同時代の清澄寺における真言・東密の法脈の存在は確認されるところだと考えます。
尚、櫛田良洪氏は寂澄、法鑁らの事跡について、次のような解説をされています。
・永仁年間(1293~1299)、頼瑜の弟子・頼縁が鎌倉佐々目谷に下向しており、ここで寂澄は頼瑜教学を学んでいる。覚鑁の求聞持法についての修法上の秘決を伝えたもの等、多くの新義真言の書籍を付与されている。覚鑁の「吨枳尼法秘」「金剛界口伝」「金剛界鑁口伝」「胎蔵界鑁口伝」「菩提心論」等、各一冊を相伝している。
・法鑁は中性院流を受け、「梵字」口伝を相伝して東寺の止住僧・亮順に授けている。法鑁は亮順と共に関東に下向、亮順は建長5年頃に下総長居郷で活動している。称名寺開山審海は亮順の教えを受け、文永4年(1267)2月、清澄寺で「求聞持口決」を書写している。
(以上、概要。櫛田・続P231、232、868)
ただし典拠不明のものもあるようなので、今は参考とするに留めたいと思います。