15-2 源頼朝・鎌倉幕府と東密

                        芦ノ湖
                        芦ノ湖

【 日本第一の御厨にある清澄寺 】

 

青年日蓮が書写した「授決円多羅義集唐決」奥書にある「阿房国東北御庄清澄山」の「東北御庄」は「とうほくみくりや」と読み慣わされ、東条御厨のこととされます。17歳の日蓮が「東北御庄」と書いたことは、山中講一郎氏が「日蓮伝再考」(P222 平安出版 2004)で指摘されるように、源頼朝が伊勢神宮の外宮に東条郷を御厨として寄進して以降、清澄寺が御厨内にあることを大衆は誇りにしていたことの表われではないでしょうか。

 

他にも「新尼御前御返事」(文永12216)には、「安房の国東條の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八幡加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源の右将軍と申せし人、御起請文をもってあをか(会加)の小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。此人東條の郡を天照太神の御栖(おんすみか)と定めさせ給ふ。されば此太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房の国東條の郡にすませ給ふか。例せば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城の国男山に移り給ひ、今は相州鎌倉鶴が岡に栖み給ふ。これもかくのごとし。日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東條の郡に始て此の正法を弘通し始めたり」とあります。

 

「聖人御難事」(弘安2101)には、「安房の国長狭郡之内東條の郷、今は郡也。天照太神の御くりや(厨)、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして」と記述しています。

 

日蓮が自らの出身地について、「天照太神の御栖・日本国の中心である安房の国東條の郡」(新尼御前御返事)とし、「右大将・源頼朝が立てた日本第一の御厨の内の清澄寺」(聖人御難事)を意味することをわざわざ記述したのも、そのような誇りが少年・青年期の修学時代に培われたていたことによるものといえるのではないでしょうか。

 

このような清澄寺大衆の意識、誇りともいうべきものが、「源頼朝側=幕府側・体制側にある者・東密僧」を迎え入れる精神的な下地になったと考えるのです。伊豆、鎌倉に根を張っていた東密の僧ら、東寺系の鶴岡別当と付き従う東密系の僧、鶴岡坊舎の東密系供僧とその弟子・法縁、幕府高官とつながりのある僧らが関東各地に教線を伸ばしていき、その一つに虚空蔵菩薩求聞持法の霊場である清澄寺があったというものではないでしょうか。

 

真言・東密僧が清澄寺に進出してきたのも、「源頼朝が立てた日本第一の御厨の内の清澄寺」となったことの一現象、時代がかくしたもの、と天台・台密系の大衆はとらえたのかもしれません。

 

北条実時(元仁元年・1224~建治2年・1276)が六浦荘金沢に創建した称名寺に、下野薬師寺で密教を修め、律僧としての名声もあった妙性房審海(※)が開山として入寺しています。その時期は文永4(1267)9月ですが、半年前の3月には清澄寺にいて「求聞持口決」を書写しています。このことは円仁が再興したと伝え虚空蔵菩薩求聞持法の霊場であった清澄寺へ、台密だけではなく、他の法脈・法系の修学・修行僧が集っていた一つの事例としてあげられるのではないかと思います。

 

求聞持口決

文永四年(1267)丁卯三月五日妙性(審海)書写了。

本云

同年二月於安州清澄寺書写了。

(金沢文庫古文書・識語編1P125)

 

また、「氏名未詳書状」では、去年8(年号は不明)下旬に日々の宿願が叶い、清澄寺に参籠したことが記されており、法脈・人物が明らかではないものの、清澄寺での参籠自体が一つの願望であったことがうかがえます。この文書により、修学・修行者が目指すべき宗教的境地到達への一つの手段として、清澄寺での修行、参籠のあったことが読み取れるのではないでしょうか。

 

氏名未詳書状

無指事候之□□不

申入候、抑去年八月

下旬に日比宿願候天房州

清澄寺に参籠□下向

(闕名書状編P99)

 

※下野薬師寺における審海の師僧は慈猛、その慈猛の師僧は密厳でした。

 

密厳は下野薬師寺を中興した律僧であり、密教にも造詣が深く、無住の「雑談集」には「下野の薬師寺の長老密厳故上人は天台、東寺両流の真言顕密の学生にて随分の名人なり」と賞賛されています。

慈猛は円仁門徒で顕密の修学に励み、後に東寺の門に入り、醍醐の法脈にも連なり浄月の灌頂を受けています。下野薬師寺では長老職につき、関東では律僧かつ東密の僧として名声を博しました。

 

元園城寺の僧で、山城国松尾の法華山寺峰堂を開いた勝月房浄月は真言・立川法門を密厳に伝え、密厳は慈猛に、慈猛は審海に相伝しています。慈猛から審海への相伝は建長6年から文永元年の11年間にわたるもので、称名寺には立川法門の印信が多数伝来しています。

 

審海は、下野薬師寺で慈猛より立川流を相伝し、極楽寺住僧・道海からは戒学を受け、称名寺在山時代を含めると次のような法脈を相伝しています。

 

< 法脈 >     < 僧名 >

立川流          慈猛

 同           憲静

意教流          頼賢

 同           憲静

 同           公然

壺坂方金剛王院流   憲静

安祥寺実厳方     定仙

勧修寺真慶方     定仙

同 増瑜方      増瑜

西院宏教方      憲静

西院円祐方      智照

 

 

(櫛田P345P541P547)

 

【 走湯山の安居院一門 】

 

建仁元年(1201)、京都・青蓮院の慈円(久寿2年・1155~嘉禄元年・1225)は安居院(あぐい)澄憲(※1)の子である聖覚(※2) に伊豆山(走湯山)、箱根山の支配を委ね(※3 門葉記)、安居院流の一門が関東に進出しています。

 

一、桜下門跡荘園等

甘露寺 在松崎

穴太園 在東坂本

伊豆山

箱根山

大学寺 伊勢国

国友庄 近江国

安養寺 丹波国

件庄園伝領之輩為尩弱之間。毎処違乱。爰権少僧都聖覚領掌之後。為小僧房領。仍経院奏達執政多以令落居了。~件領等可令聖覚僧都門跡永領掌也。

 

安居院聖覚の箱根山、伊豆山の管理がどのようなものだったかは不明ですが、安居院一門は伊豆山・箱根山を拠り所として説経を行ったと考えられ、安居院の「神道集」には伊豆・箱根の二所権現の本地譚をはじめ関東諸社の縁起類を収めています(角川源義氏「語り物文芸の発生」[1975 東京堂出版]の教示 P467P472)

 

親鸞(承安3年・1173~弘長2年・1262)に関する所伝では建仁元年(1201)、親鸞は聖覚に導かれて吉水の法然のもとに入門しており、箱根山、伊豆山を掌握した聖覚は天台僧であり、同時に法然浄土教の門人でもありました。

 

前に見た走湯山の東密僧・文陽房覚淵と源頼朝の親交が、「吾妻鑑」治承4(1180)75日条に記録され、走湯山の住侶・専光房良暹(りょうせん・東密僧)が鎌倉に来て鶴岡八幡宮寺の仮の別当になったのも同年のことでしたから、それから21年後、建仁元年(1201)の走湯山は天台僧の管理下にあったことがうかがわれるのです。

 

1 澄憲

澄憲(ちょうけん 大治元年・1126~建仁3年・1203)は平治の乱で自害した信西(藤原通憲)の子で、比叡山東塔北谷竹林院の里房である安居院に居住しています。冶承元年(1177)、配流地・伊豆へ向かう明雲から一心三観の血脈を受けています。数多くの法会で導師・講師を務め、「富楼那尊者の再誕」「四海大唱導一天名人」「説法珍重」「説法優美」と讃えられた唱導法談の名手でした。安居院流唱導の祖とされています。

 

2 聖覚

聖覚(せいかく 仁安2年・1167~嘉禎元年・1235)は恵心・檀那の両流の相伝を受け、唱導については父・澄憲同様、説教の巧みなることで一世を風靡します。法然の門人となるや、念仏門の布教に多大な貢献。承久3(1221)814日、専修念仏の肝要はただ信心であることを説いた「唯信鈔」を著しています。

親鸞は「唯信鈔」を尊重し、註釈を加えた「唯信鈔文意」を著します。嘉禄3(1227)622日に延暦寺衆徒が法然の墓を破却し、7月には弟子の隆寛らが遠流となり、10月には延暦寺衆徒が「選択集」の版木を焼いた「嘉禄の法難」の際には、聖覚は専修念仏の停止を要求して「選択集」の版木処分を進めたようです。

 

3 「門葉記」

青蓮院第17世門跡・尊円法親王(永仁6年・1298~正平11年・延文元年・1356)が、青蓮院門跡の祖・行玄(承徳元年・1097~久寿2年・1155)以来の歴代の密教の修法、勤行、法会、灌頂、所領、雑事等の記録を集大成したもの。

 

 

【 走湯山管領・浄蓮房源延 】

 

走湯山で生まれたとされる浄蓮房源延は、天台僧にして熱烈な浄土教家でした。三田全信氏の教示(「伊豆山源延とその浄土教」仏教大学研究紀要・第54)に導かれながら、源延の事跡を追ってみましょう。

 

源延(保元元年・1156?)は比叡山に登って安居院澄憲の門に入り、顕密を学んでいます。次いで、信濃国筑摩郡にある法住寺に住した味岡流・忠済のもとで、台密を学んだと伝わります。彼は遮那業相承では円仁の法流に連なり、その系譜は「円仁長意玄昭智淵明靖静真皇慶長宴範賢経海寛賢豪賢伊豆上人(源延)」というものでした。

 

また「善光寺縁起」には「毎日三万遍」の念仏行者で、40歳から66歳まで毎年二度、三度と善光寺に参詣したと記される浄土教家でもありました。建仁3(1203)86日に師僧・澄憲が亡くなりますが、専修念仏義について法然に問法。翌建仁4(1204)217日、法然より「浄土宗略要文」が送られています。

 

「吾妻鏡」建暦3(1213)323日条には、「浄遍僧都・浄蓮房等召しに依って宮中に参る。御所に於いて、法華・浄土両宗の旨趣御談儀に及ぶと」と記録され、浄蓮房源延と浄遍は源実朝(建久3年・1192~建保7年・1219)に法華・浄土の法門について談議しており、その博学ぶりがうかがわれます。

 

貞応2(1223)612日条には、「伊豆の国走湯山の常行堂造営の事、柱に於いてはすでに立てをはんぬ」とあり、走湯山の常行堂が造営されていますが、「走湯山上下諸堂目安」によれば修理供養は「上蓮上人源延」が導師を務めています。

 

貞応3(1224)88日条に「今日故奥州禅室の墳墓[新法花堂と号す]供養なり。導師は走湯山の浄蓮房[加藤左衛門の尉實長の斎なり]」とあり、源延が導師となって北条義時(長寛元年・1163~元仁元年・1224)の墳墓供養が営まれています。

 

走湯山は度々火災に見舞われています。

「吾妻鏡」嘉禄2(1226)1229日条には、「今夜夜半、伊豆の国走湯権現の宝殿並びに廻廊、堂舎数十宇焼亡す。その火翌日午の刻に至る迄滅さずして云云」とあります。

 

嘉禄3(1227)14日条には「去年十二月晦日亥の刻、走湯山御在所の拝殿・竈殿・常行堂並びに廻廊・惣門・金剛力士像以下回禄の由、平左衛門尉盛綱之を披露す。この事重事為に依って、去る一日中間を顧みるに不及に、当山の所司馳せ参じ之を申すと雖も、元三之間たれ者、盛綱これを抑へ留むと」とあって、平盛綱が火災の模様を将軍に報告していますが、この時の火災では拝殿、宝殿、竈殿、常行堂並びに廻廊、堂舎数十、惣門、金剛力士像等が焼けています。また、夜半に出火して鎮火したのは翌日の午の刻・昼頃ですから、走湯山の伽藍は相当な規模であったことがうかがわれます。

 

安貞2(1228)23日条には、「伊豆の国走湯山の専当参着す。去る夜子の刻、当山の講堂・中堂・常行堂失火の為災す。俗躰は取り出し奉らず。同じく以て灰燼と為すと。常行堂は、去年冬の比相州の御沙汰として造営す。而るに孫子死去するの間延引す。未だその功を終えざるの処、また以て回禄す。直なる事に非ざるか。」とあります。これによれば、22日、またもや走湯山で火災が起き、講堂、中堂、常行堂という主要堂宇が灰燼に帰してしまったようです。

 

特に常行堂は北条時房(安元元年・1175~仁冶元年・1240)の沙汰により昨年・安貞元年(1227)冬に造営されたのですが、時房の孫が亡くなったため、作業が中断されていたものでした。頼朝以来、幕府にとって由緒ある宗教的聖地で火災を繰り返し、主要堂宇が完成前に燃えてしまったのは衝撃的な出来事だったのでしょう。ただ事ではないとの不安が感じられる記述となっています。

 

安貞3(1229)211日条には、「武州の御亭に於いて、走湯山造営の事その沙汰有り。当山管領の仁浄蓮房参上す。陰陽師を召し日次を定めらる。三月五日事始めたるべきの由、親職朝臣以下四人これを撰び申す。盛綱奉行たり」と、武州亭・北条泰時の館で走湯山の造営等についての話しがあり、浄蓮房源延は走湯山管領として出席し、陰陽師を呼んで造営の日時と奉行を決めています。

 

慈円から安居院聖覚に走湯山・箱根山の管理が委ねられたのが建仁元年(1201)のことでしたから、引き続き天台僧が全山を掌握する要職の立場にあったことが確認されます。続く221日条では、「三崎の海上に於いて来迎の儀有り。走湯山の浄蓮房駿河の前司の請いに依って、この儀を結構せんが為、兼ねてこの所に参り儲く。十余艘の船を浮かべ、その上に件の構え有り。荘厳の粧い夕陽の光に映え、伎楽の音晩浪の響きを添うなり。事訖わり説法有り。その後御船を召され、嶋々歴覧し給う」と記録しています。

 

三浦義村(?~延応元年・1239)が三浦半島三崎の海上で行った阿弥陀来迎の儀式は、10余の船を浮かべ音楽を奏でて島々をめぐる盛大なもので、義村の要請により源延が儀式の進行を取り仕切り説法をしています。

 

 

【 走湯山遍照院・宥祥 】

 

安居院聖覚の走湯山・箱根山管理から100年近く、管領・源延の時代から70年後、正安元年(1299)の冬、東寺に住した妙静上人宥祥が走湯山遍照院に入っています。宥祥は幼くして高野山で密教を学び、比叡山でも台密を修めて理海法印、全考大納言に随い安流を受け大日経疏を伝授されたといいます。

 

走湯山遍照院に住してからは日夜弘法に励み、嘉元3(1305)頃に鎌倉に移っています。宥祥が唱えるところは従来説とは異なる新説でした。真言の根本義である、地水火風空識の六大の円融により万有を形成する「六大縁起論」について、一般的な法爾随縁説に対して不二法性説を主張する等、高野山・東寺の学説・相承の域を超えたもので当時の真言教学に刺激を与え、これらは「伊豆の伝=伊豆教学」と呼ばれ関東から西国各地にまで広まっています(櫛田P693708)

 

このように120年の間に真言僧、天台僧の活動が伝えられる走湯山は、真言・東密と天台・台密の法脈が同居していたといえるでしょう。

 

 

【 走湯山で学んだ大石寺・日目 】

 

ここで意を留めておきたいのは、大石寺3世・日目(文応元年・1260~元弘3年・正慶2年・1333)が少年時代に走湯山で学問に励んだと伝えられていることです。まずは富士門流に伝わる二つの文書を確認しましょう。

 

◇「三師御伝土代」 大石寺6世・日時(?~応永13年・1406)の著作(池田令道氏の教示)

 

日目上人御伝土代

右上人は八十九代当今の御宇文応元年かのへさる御誕生也、胎内に処する一十二ケ月上宮太子の如し。豆州仁田郡畠郷の人なり。族姓は藤氏、御堂関白道長廟音行、下野国小野寺十郎道房の孫、奥州新田太郎重房の嫡子五郎重綱が五男なり。母方は南条兵衛入道行増の孫子也。文永九年みづのへさる十三才にて走湯山円蔵坊に御登山。同十一年きのへいぬ日興上人に値ひ奉り法華を聴聞し即時に解て信力強盛十五才也。建治二年ひのへね年十一月二十四日、身延山に詣で大聖人に値ひ奉り常随給仕す、十七才也。

( 日蓮宗宗学全書2 興尊全集P257 )

 

◇「申状見聞」 保田妙本寺14世・日我(永正5年・1508~天正14年・1586)が天文14(1545)47日に著す

 

日目上人御申状

中略

虎王殿と申し十三才にて伊豆国走湯山に御登山。又湯の山共伊豆の山共云ひ習はせり走湯山の事也。真言半学の天台宗也今偏に真言也。此の御児利根聡敏にして修学にうとからず手跡他に超え一山是にかたぶく。十七才迄御童躰也。爰に興上湯治の為に身延従り彼の山に移り玉ふ。小師は円蔵坊と申す彼の坊に興上立寄り玉ふ、御児を御覧有り文を送り玉ふ。其の時歌を遊ばし障子の中より投げ出し玉ふ。歌に云く、かよふらん方ぞゆかしきはま千鳥ふみすてゝ行く跡を見るにも、其の後酒宴乱舞様々の会釈也。其の時伊豆山の一番の学匠・所化名は三位阿闍梨、後には式部僧都と云ふ人に対(?)興上仰に曰く、無間地獄の主し式部の僧都とは御房の事歟云云。若人不信の文を以て遂に云ひ詰め玉ふ也。御児是れを聴聞有り自解発明(?)法花皈伏の心肝に銘す。之れに依て興上御皈路の跡を追ひ夜にまぎれ歩行にて追ひ付き玉ひ御契約有り。身延へ御同道あり、建治二年丙子十一月廿四日也。落髪の後宮内卿と申す新田の卿の公と申す是れ也。

(富士宗学要集4 P104)

 

文応元年(1260)、伊豆国仁田郡畠郷(にいたごおりはたけごう・現在の静岡県田方郡函南町畑毛)に生まれた日目は文永9(1272)9月、13歳の時に走湯山円蔵坊に入室。「此の御児利根聡敏にして修学にうとからず手跡他に超え一山是にかたぶく」(申状見聞)と伝えられるほどに学問に励んだようです。

 

文永11(1274)、日目15歳の時、日興(寛元4年・1246~元弘3年・正慶2年・1333)が走湯山を訪れ初めて対面し、「法華を聴聞し即時に解て」(日目上人御伝土代)と、日興の教示を即座に理解したといいます。この年の5月に日蓮は身延に入山しており、日興の各地への法華勧奨が活発に展開されていたことがうかがえます。

 

日我の「日目上人御申状」にも触れられていますが、大石寺9世・日有が語ったことを伝える「聞書捨遺」には、走湯山を訪れた日興が走湯山中500坊でも随一の学匠である式部僧都と問答した時のことを伝えています。

 

大石寺9世・日有(応永9年・1402~文明14年・1482)

「聞書捨遺」日有の語りを弟子がもとめたもの

一、仰ニ云ク、日目上人御発心ノ根源ハ日興上人伊豆ノ湯ニ御座シケル時節、走湯山ノ大衆達湯ニテ興師ト寄リ合ヒ申サレタル大衆ノ中ニ、是ハ当山ノ少人能書ニテ御座スカ遊シタル文ナリトテ、文ヲ一通日興上人エ見セ申サレケルヲ御覧シテカク遊ハシ給フ。

通フ覧カタソ床シキハマ千鳥 フミ捨テ行ク跡ヲ見ルニモ

此ノ御歌一首ニヨリ走湯山ノ円蔵坊ニ御対面候キ、其ノ後一献分ニテ又走湯山エ日興上人入御ノ時、山中五百坊一ノ学匠トテ式部僧都トヤラン相伴ニ渡ラセ給ヒケル御法門アリ、日興上人仰ニ云ク、式部ノ僧都無間ト説キ給フト仰ケル。式部僧都云ク、サ様ニ一向ニ有ルベカラズト諍論シ給フ、其ノ時日興ノ仰ニ云ク涅槃経ニ云ク若善比丘等ノ文ヲ引キ給テ、末世ノ善比丘トハ式部僧都ナリ、然レ共仏法迷惑ノ人ナリ無間疑ヒ無シトノ玉フ時ツマリ給フ、其ノ時ノ御上座ニ寅王丸トテ少人ニテ御座シケルカ、其時ノ御法門ヨリ御発心召サレテ十五歳ニテ日興上人ニ参リ給ヒテ御弟子ニ成リ給フ、十七歳ヨリ高祖日蓮聖人ニ参リ常随宮仕エ給フト云云。

( 日蓮正宗歴代法主全書1 P422 )

 

意訳

日目上人の御発心の根源というのは、日興上人が伊豆国の湯にお越しになった時のことにあります。伊豆の湯で日興上人と走湯山の大衆が参会した時、大衆の一人が『これは当山では、能筆な少年が書いた文です』といって、一通の文を日興上人に見せられました。日興上人はそれを御覧になり次のように詠まれました。

『通フ覧 カタソ床シキ ハマ千鳥 フミ捨テ行ク 跡ヲ見ルニモ』

この歌が縁となり、日興上人は走湯山の円蔵坊へ行かれ、初めて日目上人と御対面されたのです。その後、別の機会があって日興上人は走湯山を訪れ、山中500坊で随一の学匠といわれる式部僧都と一献酌み交わし、法門について問答されました。日興上人は式部の僧都に「経文によれば、あなたは無間地獄に堕ちることになると説かれています。」と仰せられました。式部僧都は「さようなことは一向にありません」といい、言葉の応酬となりました。その時、日興上人は涅槃経の「若善比丘」等の文を引用されて、「経文に説かれる末世の善比丘とは式部僧都殿のことです。仏法に迷惑するならば無間地獄に堕ちることは疑いありません」といわれた時、式部僧都は返答に窮してしまいました。

その時、その場には寅王丸という少年がいましたが、この法門談議を聞かれて発心され、15歳で日興上人の御弟子となられました。17歳の時には高祖日蓮聖人のもとへ参られて、常随給仕されたのです。

 

日興と式部僧都の問答の詳細は分かりませんが、日興が涅槃経の一文を以て式部僧都を諌めているのには注目すべきでしょう。日蓮が他宗を批判する際、自らの正当性を裏付ける文証として頻繁に引用するのが涅槃経の該文なのです。

 

例えば「災難対治抄」(正元2[1260]2)には、「問うて曰く、汝僧形を以て比丘の失を顕すは罪業に非ずや。答て曰く、涅槃経に云く、若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せざれば当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」とあります。涅槃経の文によれば、仏法を破壊する者を見て放置し、呵責・駈遣・挙処しなければ善比丘といえども仏法の中の怨となってしまうのであり、逆に破仏法者をよく駈遣・呵責・挙処するのならば、善比丘は仏の真の弟子であるということになります。

 

日興が涅槃経の一文を引用して、式部僧都を指弾したということはどういうことなのでしょうか。

 

「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し・・・」が引用されていると、他の教えを批判する日蓮一門を詰(なじ)った式部僧都に対して、日興が涅槃経の文を以て反論。諸宗批判の正当性を示したもの、と理解される向きがあるかもしれません。

 

ですが、この時の問答では、日興の方から式部僧都に「経文によれば、あなたは無間地獄に堕ちることになると説かれています」と指摘し、その根拠として涅槃経の「若し善比丘あって・・・」の文を引用していますので、日興から見た式部僧都は涅槃経に示されるように、他の誤れる教えを批判すべき立場にあったということになるでしょう。ところが今の式部僧都は誤れる教えと同居してよしとしているが故に、涅槃経を以て指弾されたというのがこの問答の展開のようです。日興と式部僧都の立ち位置は、それほど異ならないように見えます。

 

では、式部僧都の法脈は何かと推測すれば、日蓮法華信奉者であったとは考えられないので次に日蓮法華の信仰に近い立場、それは法華経を信じ学ぶ者、即ち天台・台密の僧であったと読み解けるのではないでしょうか。

 

少年日目が学んだ円蔵坊も山川氏の言葉を借りれば、「真言宗よりも、天台宗に親しみ多い房号」(山川P86)です。日我の「日目上人御申状」にも「真言半学の天台宗也今偏に真言也」とあり、日我から見た日目の時代=文永9(1272)の走湯山は「真言半学の天台宗也」と真言が入った天台宗としていて、台密であったと認識されていました。そして日我が「申状見聞」を著した天文14(1545)には、「今偏に真言也」と真言になっているとするのです。

 

大石寺・日有の「聞書捨遺」は上代からの所伝ではあるのでしょうが、全くの故なきものではなく、話の内容の大筋はそのとおりではないかと思われます。

 

尚、広蔵院日辰の「祖師伝・駿州富士山大石寺釈日目の伝」(永禄3年・1560)には、「日興、蓮蔵坊に向って云く、汝山伏は法華誹謗無間の業なり」(富士宗学要集5P30)とあるのですが、円蔵坊が蓮蔵坊となり、式部僧都が蓮蔵坊に住したことになっています。また少年日目が日興の後を追うべく、深夜に坊を飛び出し駿河国で再会。そして「蓮蔵坊、児の在らざる事を思ふて、人をして駿河に追はしむ。駿河にて追ひ就いて児を取り還さんと云って、遂に刀劔を交へ矢を飛し戦ひ合へども、日興、日目を具して甲州に登るなり云云」()と、式部僧都の門人が日目を取り戻すべく日興らと刃を交えたとし、「已上重須本門寺日出上人の談なり」()以上は北山本門寺9世・日出から聞いたものであると記録するのですが、これらは脚色性が強く史料としての信用性は著しく低いと思われます。

 

日目と伊豆山住僧との問答も、「問答記録」(正平3年・貞和4[1348]210日 慶俊〔日慶・日向国日睿の舎弟、日郷の弟子〕書写)に残されています。

 

伊豆山の玄海が「四教五時の惣別・一心三観の相即・自宗他宗を見・権実偏円を探るにぞ教は妙法の始・権法は実法の便りなり。其の執をば一往破ると云へども実相の理躰を開会して玄宗彼れ是れ得意て偏執を以て永く無間と定む。・・・」(富士宗学要集6P10)と、「実相の理躰を開会」することにより「権法」は「実法」になるとしていますが、これは釈尊一代の教説を法華経に会入させる天台・台密の「開会の法門」を想起させるものがあります。このような思考法を玄海がどこで、誰より学んだものか、興味のあるところです。

 

 

【 真言・天台が共にあった走湯山 】

 

これまで見てきたことをまとめると、

・「走湯山縁起」では空海の来訪、安然の虚空蔵菩薩求聞持法の修法を伝える。これらは東密・台密の法脈が、早くから走湯山に共存していたことを物語るものではないか。

・同じく「走湯山縁起」では安然門弟の隆保が法華八講を行ったことを伝えている。

・天台僧・青蓮院慈円と、天台僧で法然浄土教の門人であった安居院聖覚の伊豆山・箱根山管理。

・源頼朝挙兵の頃、東密の文陽房覚淵と専光房良暹が走湯山に住し、頼朝の支援に動いていた。

・天台僧にして「毎日三万遍」の念仏行者、法然と親交があり信州善光寺如来の信奉者である浄蓮房源延は、走湯山の管領となっている。

・東密の僧・宥祥は走湯山遍照院に住して活発に弘法し、「伊豆の伝=伊豆教学」を興している。

・日興と問答した式部僧都は天台・台密僧と考えられる。

・大石寺9世・日有「聞書捨遺」の「山中五百坊」は正確な数字ではないにしても、走湯山は相当な規模であったと推測でき、東密と台密が共住しても十分な寺域があったと思われる。

 

以上を併せ考えれば、走湯山には東密と台密の二つの法脈が同居していたといえるでしょう。頼朝が再興した鶴岡八幡宮寺では、寺社勢力と源氏との関係を考慮したうえで各派のバランスを取ったという側面もあったと考えますが、別当は三井寺と東寺出身者が続き、25坊の初代供僧は山門・比叡山4坊、寺門・三井寺15坊、東寺6坊となっていて台密と東密が共に在る寺院でした。窪田氏は論考で、台東両系の混住の例として京都愛宕山白雲寺を紹介されましたが(窪田P334)、そこには鶴岡八幡宮寺と走湯山を加えるべきでしょう。

 

東密・台密が共存した走湯山。

この走湯山の一例を以て、清澄寺にも同様のことがいえるのではないでしょうか。走湯山は「走湯権現・走湯社・伊豆山」「伊豆山権現・伊豆大権現」とも称されて諸方にその名が聞こえ、鎌倉時代には箱根山(箱根権現)と合せた二所権現として、関東武士の信仰を集めていました。

 

この宗教的聖地、霊地には東・台の僧が集い居住して、活発な活動を展開しました。清澄寺は「慈覚大師建立求聞持七所成就霊地事」(沙門鏡心書写)に見られるように、文明15(1483)になっても慈覚大師・円仁が虚空蔵菩薩求聞持法をなした霊地として喧伝されており、無限なる宇宙空間の尽きることなき知恵、溢れる慈悲を内蔵しているとされる虚空蔵菩薩のもとへ、「一経耳目文義倶解。記之於心永無遺忘」経典を一度見聞きする事有れば、経典の意味を理解する事ができ、永く忘れる事が無いという知恵、知識、記憶力の増進を求めて東密の行者が足を向けるのも、けだし当然なことであったでしょう。

 

「虚空蔵菩薩求聞持法・山林修行の霊場」である安房国清澄寺に、東密・台密の修学・修行者が居住することは、十分に有り得ることだと考えるのです。

 

 

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