15-1 源頼朝・鎌倉幕府と東密
源氏と東密には深いつながりがあります。
ここでは、源頼朝挙兵にあたって、心身ともに後ろ盾となった伊豆国・走湯山(走湯権現、伊豆山権現)の成り立ちと頼朝時代のつながりを確認してみましょう。
【 走湯山縁起 】
「走湯山縁起」によれば応神天皇2年(271)4月、相模国唐濱磯部の海漕(現在の大磯)に直径三尺有余の円鏡が出現したといいます。円鏡はある夜、日輪のような光明を放ち、ある時には響声を発して琴の音曲かと聞き間違えるようでした。
近づこうとすると波が荒れて円鏡は海底に隠没し、また高峯に飛び登っては松の枝にかかり、海中に入っては波底を照らしたりします。よって時の人は円鏡を二処の日金と呼んだといいます。
応神天皇4年(273)9月、一仙童が日金山に円鏡を奉祀します。この一仙童は「開山祖師」「勧請仙人」とも呼ばれる松葉仙人であったとのこと。
推古天皇2年(594)、海岸より温泉が湧き出したことから走湯権現の神号を賜ります。文武天皇3年(699)、役小角(えんのおづの 舒明天皇6年・634~大宝元年・701)が走湯山に堂宇を建て、以後、多くの修験者が集うようになったと伝えています。
弘仁10年(819)には、東寺大和尚・空海(宝亀5年・774~承和2年・835)が来山と伝えます。承和3年(836)4月、甲斐国八代郡の人・賢安が走湯権現の霊験を得て、日金山本宮から現在地に遷座。本地仏千手観音像を造立し、仏堂を建て自ら出家します。
空海の十大弟子の一人である杲隣(ごうりん 神護景雲元年・767?~?)が伊豆国を訪れ、修善寺と走湯山を開創と伝えています(櫛田P481)。
走湯山の起源について貫達人氏は賢安の事跡を受け、論考「伊豆山神社の歴史」(三浦古文化 30号P3 京浜急行電鉄 以下、貫・伊豆山と表記)において、「伊豆山神社文書」(「県史料」所収)七号文書弘安九年(1286)十一月廿九日付、鎌倉将軍家寄進状中の「抑伊豆権現者、自承和往代祠宇祐基、」を引用、「静岡県史」の「走湯山神宮寺の創建はまず平安期承和年間(834~848)と想定して大過あるまい」との解説を紹介されています。
斉衡2年(855)、比叡山の安然(承和8年・841~?)が走湯山を訪れ、岩戸山(松岳)西谷に舎房を構えると伝えます。虚空蔵菩薩求聞持法を行ったところ、明星が井戸の中に入る瑞があり、以来、その井戸は智慧の水と呼ばれるようになりました。安然は聖教を数百巻安置し、読経修学に励んでいます。
元慶元年(877) 、安然の門弟・隆保が来山し、神勅により伽藍を建立。元慶2年(878)、堂舎を造営して12月に法華八講を始め、翌元慶3年(879)1月には、一山をあげて不断観音品読誦を行っています。延喜4年(904)2月15日には、法華長講を始めます。
賢安の代に建てられた堂閣が破損してきたため、講堂を修造して十一面観音像を安置。礼堂を造立して金剛神を二体奉安。経蔵も修造して五千余巻の聖教を奉納します。
天徳4年(960)、鐘楼を建て始め、講堂をさらに修繕し、康保2年(965)、堂宇を造り、礼堂を拡充して金色の十一面観音像一体、正観音像一体、権現像一体を安置。安和3年(970)、依智秦永時宿爾を願主、延教が勧進となって常行堂を建立。西廊に金身の仏菩薩七体を奉安、僧坊一宇を造立します。
天禄2年(971)、仏像を修復し普賢・文殊の檀像に金泥を塗り、供僧を選び法華経を誦し、懺法(せんぼう)等を修しました。天禄4年(973)から翌天延2年(974)にかけて、北条太夫平時直が願主、延教が勧進となり宝塔一基を建立。金色の五仏を安置。永観元年(983)、大門を造立し金剛力士像を安置。御祭所、礼殿、中堂を改造します。
【 新猿楽記と梁塵秘抄 】
日金山を神聖の地として崇拝した山岳信仰から走湯山の歴史が始まったと考えられますが、往古よりその名は知られていたようです。
平安時代の学者・藤原明衡(ふじわらのあきひら 永祚元年・989?~冶暦2年・1066)が著した「新猿楽記」(しんさるごうき)には、
「次郎者一生不犯之大験者,三業相応之真言師也。 (中略)凡其言之道究底,苦行之功拔傍,遂十安居,満一落叉度度。通大峰、葛木、踏迎道年年,熊野、金峰、越中立山、伊豆走湯根本中堂、伯耆大山、富士御山、越前白山、高野、粉河、箕尾、葛川等之間,無不競行挑験。山臥修行者,昔雖役行者、浄蔵貴所,只一陀羅尼之験者也。今於右衛門尉次郎君者,己智行具足生佛也。」
とあります。
生涯不犯を貫いた山伏にして、身口意三業相応の真言師でもあった次郎についての記述の中で、山岳修行の場として熊野、金峰、立山、伯耆大山、富士山、白山、高野といった名立たる霊地と共に伊豆走湯根本中堂が並び出ており、平安中期には全国に名が知られるほどの霊験所となっていました。
後白河法皇(大治2年・1127~建久3年・1192)が編者となって治承年間(1177~1184)に成立したとされる「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)にも、
「四方(よも)の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか、土佐の室生戸、讃岐の志度の道場とこそ聞け」
とあります。
そのような所へ東密の祖・空海が来山した、台密の大成者・安然が修行したという伝承は、走湯山では平安時代から東密僧と台密僧が活動したことを物語っているもの、といえるのではないでしょうか。
【 源頼朝と文陽房覚淵 】
時代は下って平安末期、伊豆に配流中の源頼朝が監視役の伊東祐親(いとうすけちか ?~寿永元年・1182)の娘・八重姫と秘かに通じ、安元元年(1175)9月、激怒した祐親が頼朝の殺害を図った時、頼朝は間一髪で走湯山に逃げ込み、北条時政(保延4年・1138~建保3年・1215)の館に匿われています。北条政子との逢瀬の舞台は走湯山だったと伝わります。
「吾妻鑑」治承4年(1180)7月5日条の、源頼朝と文陽房覚淵のやり取りは興味深いものがあります。
伊豆走湯山の密厳院を開創した東寺の僧・文陽房覚淵は頼朝の帰依を受けていました。治承4年7月5日、頼朝は覚淵を配所に招き「吾心底に挟むこと有り」(挙兵平家討滅のことか)と覚淵に秘かに明かし、続けて「法華経一千部読誦を成し遂げて、その功を以て自らの真意を表明しようと法華経読誦をしてきたが、世の動きは慌ただしく火急を要することになり(5月26日、以仁王と源頼政らが平家に敗れていた)、続けるのは難しくなった。そこで八百部で打ち切り仏陀に捧げようと思うのだが、いかがだろうか」と語ります。
覚淵は「一千部に満たざると雖も、啓白せらるるの條、冥慮に背くべからずてえり」と一千部に満たなくても神仏の御意に叶わないはずはないと返答。覚淵は香花を仏前に供えて表白を読み上げます。
その後「君は忝なくも八幡大菩薩の氏人、法華八軸の持者なり。八幡太郎の遺跡を稟(う)け、旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、八逆の凶徒八條入道相国(平清盛)一族を退治せしめ給うの条、掌裡に有り。これ併しながら、この経八百部読誦の加護に依るべし」と平清盛一族を退治することは八幡太郎義家の業績を継ぐ頼朝の手に握られており、それは法華経八百部読誦の加護によるものである等と語っています。
これを聞いた頼朝は大いに感嘆して施物を贈ります。晩になり導師・覚淵が門外に出ると再び呼び戻し、「世上無為の時、蛭島に於いては今日の布施たるべき」と世が平和になったならば、この蛭島は今日の布施として覚淵に与えよう、と約束します。実際、「(醍醐)三宝院文書」(櫛田P484)によれば、応永6年(1399)6月25日到来、走湯山領知行に「蛭島郷」が寺領として記入されています。
【 源頼朝と東密・台密の僧 1 】
治承4年(1180)8月18日、これからの戦により長年の祈りができなくなることを嘆いた頼朝は政子の勧めにより、祈り続けてきた経典の目録を伊豆山の法音尼に渡し、日々の勤行の代行を依頼しています。法音は一生独身を貫いた尼で、政子の御経師でした。
翌19日、石橋山(相模国)の合戦を前にした頼朝は、政子を走湯山の文陽房覚淵の坊舎に避難させています。その後、合戦に敗れ箱根権現別当・行実と弟の永実らに匿われた頼朝一行は安房に逃れて再び挙兵。
10月6日、畠山重忠(長寛2年・1164~元久2年・1205)が先陣、千葉常胤(ちばつねたね 元永元年・1118~建仁元年・1201)が殿(しんがり)を務める頼朝軍数万は鎌倉に入ります。
7日、頼朝は鶴岡八幡宮を遥拝。
11日、走湯山を出てきた政子が頼朝と合流。同日、走湯山の住侶・専光房良暹(りょうせん)も以前からの約束により鎌倉に入ります。良暹も東密の僧であったと思われ(櫛田P485)、覚淵と同じく流人の頼朝が師と仰いだ人物でした。
12日、頼朝は祖宗を崇めるため小林郷の北山を選んで宮殿を作り、鶴岡宮を遷して良暹を当面の別当職に任じ、大庭景義(大治3年・1128?~承元4年・1210)をして神宮寺の事を執行せしめています。
16日、
「武衛の御願として、鶴岡若宮に於いて長日勤行を始めらる。所謂法華・仁王・最勝王等、国家を鎮護する三部妙典、その他大般若経・観世音経・薬師経・寿命経等なり。供僧これを奉仕す。相模の国桑原郷を以て御供料所と為す」(吾妻鏡)
と、頼朝の発願として鶴岡若宮において長日の勤行を始め、法華経・仁王経・最勝王経等、鎮護国家の三部妙典とその他大般若経・観世音経・薬師経・寿命経等の読経を供僧が勤めたとしていますが、貫達人氏は、「良暹が来て4日しか経っておらず、この時点では供僧がいたとは考えにくいものがあり、この記事は10年後の建久(1190~1198)初年、25坊が整備される頃のことと考えないわけにはいかない」、とされています(貫・鶴岡P33)。
この日(16日)、駿河国に達した平維盛(たいらのこれもり 保元3年・1158~寿永3年・1184)の数万を迎え撃つべく、頼朝率いる軍勢が鎌倉を発しています。
10月20日、富士川を挟んで東岸に源氏の兵、西岸に平氏の兵が対峙するも、夜半、平氏の軍勢は急に撤退を始め、本格的な戦闘のないまま「富士川の戦い」は終結しています。
21日、頼朝は平氏の軍勢を追撃して上洛しようとするも、三浦義澄(みうらよしずみ 大治2年・1127~正冶2年・1200)、上総広常(かずさひろつね ?~寿永2年・1184)、千葉常胤らが「まずは一部不安定な東国を固めることに専念すべきである」と諌め、受け入れた頼朝は鎌倉へ戻ることになります。
同日、黄瀬川駅で平泉から駆けつけた源義経(平治元年・1159~文治5年・1189)と対面。また三島社に参詣して神領を寄進しています。
12月4日、頼朝は上総広常に命じて阿闍梨定兼を上総国より鎌倉に呼び、鶴岡八幡宮寺の供僧職に任じます。定兼は安元元年(1175)4月26日、何らかの罪により上総に配流となった東密の僧でしたが、鶴岡八幡が再建されたものの当時の鎌倉には碩徳と言われる人物がいなかったので、「知法の聞こえ有り」(吾妻鏡)と仏教の学徳が高いと評判だった定兼が鎌倉に呼ばれたものでした。
12月25日、石橋山の戦いの時、頼朝が岩窟に納めた小像の正観音を良暹の弟子が見つけ出し、閼伽桶の中に入れて持参。頼朝は手を合わせて受け取り、信心を強盛なものにしたといいます。
「吾妻鏡」冶承5年(1181)3月1日条には、
「今日、武衛、御母儀の御忌月を為すに依って、土屋次郎義清が亀谷堂に於いて仏事を修被(しゅうせら)る。導師は箱根山別当の行実、請僧(しょうそう)は五人、専光房良暹・大夫公承栄・河内公良睿・専性房全淵・浄如房本月等也。武衛聴聞令(せし)め給ふ。御布施は導師に馬一疋・帖絹二疋、請僧は口別に白布二端也」
とあり、頼朝の亡き母の忌月(きげつ・忌日のある月)である3月になり、亀ヶ谷にある土屋次郎義清の堂で法事が行われました。
そこでは箱根山別当の行実が導師を務め、請僧5人の一人として専光房良暹が連なっています。
同年(養和元年・1181)8月29日、頼朝は御願成就の為、鶴岡並びに近国の寺社において「大般若経」「仁王経」等の転読を命じます。特に長日の御祈祷を鶴岡と箱根山、走湯山に命じています。一日を通して経を読む長日の祈祷について、箱根山と走湯山には毎月一日は大般若経一部で「衆三十人」と命じているので、両山の大衆は、30人以上はいたことになり、その規模の一端が窺われるものとなっています。
10月6日、走湯山の住侶・禅睿を鶴岡八幡宮寺の供僧に補任して大般若経衆とし、免田二町(鶴岡西谷)を支給します。
寿永元年(1182)8月11日、政子が産気付き頼朝と諸人が集まり、地元に居住する在国の御家人らも鎌倉に参上。安産の祈祷のため、奉幣の使いを伊豆山、箱根山をはじめ、相模一宮、三浦十二天、武蔵六所宮、常陸鹿島、上総一宮、下総香取社、安房東條庤、安房洲崎社といった近国の主な宮社に向かわせています。
8月12日、専光房良暹と観修が祈祷をする中、政子は男子(頼家)を出産。
9月20日、三井寺の円暁が京都より下向。
9月23日、円暁は頼朝と共に鶴岡八幡宮寺に参り、拝殿で別当職を申し付けられます。
9月26日、頼朝の立ち会いのもと、鶴岡の西麓で別当坊の柱を立て棟上げを行います。
【 源頼朝と東密・台密の僧 2 】
元暦2年(1185)3月27日、土佐国介良庄に住む琳猷(りんゆう)上人が、走湯山住僧・良覚の紹介により頼朝と面会します。琳猷は寿永元年(1182)に土佐国で討たれた頼朝の同母弟・土佐冠者希義(源希義・みなもとのまれよし 仁平2年・1152~寿永元年・1182)の遺体を葬り、供養を続けてきた僧でした。
同年(文冶元年・1185)10月27日、頼朝は箱根山、走湯山に奉幣の使いを出し、両山に馬一匹を奉納します。
文治3年(1187)4月2日、鶴岡八幡宮寺、箱根山、走湯山をはじめ相模国の寺が全山あげて勤行、百部の大般若経転読を始めます。後白河法皇の病気平癒祈願のためでした。
文治4年(1188)1月16日、頼朝は鶴岡八幡宮寺に参詣した後、二所詣で(箱根権現・伊豆山権現[走湯山]への参詣)のため精進潔斎の沐浴を始めます。
1月20日、頼朝は300騎余りを従え箱根、伊豆、三島社への参詣に向かいます。
1月26日には鎌倉に戻ります。
2月23日、源範頼(頼朝の異母弟 久安6年・1150~建久4年・1193)が一日おきに発病、「吾妻鏡」は瘧病(おこりやまい)と記述しておりマラリヤにかかったものでしょうか。この日より、専光房覚淵を呼び加持祈祷させています。
尚、専光房といえば良暹で、覚淵といえば文陽房であり、専光房覚淵という名は他には見当たりません。政子の出産の時には良暹に祈祷させており、良暹と頼朝家族との関係、先例からすれば、この時も専光房良暹に祈祷させたものでしょうか。専光房覚淵は「吾妻鏡」の誤記だと思われます。
3月2日、範頼の病が治癒したことに頼朝は喜び、馬を良暹の坊へ届けます。
3月15日、鶴岡八幡宮寺の道場で梶原景時の宿願であった大般若経供養が行われ、頼朝も結縁のために参列します。法会の舞楽で舞った稚児は箱根山5人、走湯山3人でした。
「吾妻鏡」12月18日条に「二品走湯山に参らせしめ給ふ」とあり、頼朝は走湯山に参詣しています。
文治5年(1189)7月18日、頼朝は走湯山の住侶・専光房良暹を呼び出し、奥州征伐のため秘かな願いがあるとし、持戒清浄なる良暹が留守中の鎌倉で祈祷を行うこと。奥州へ向け出発して20日経ったら、持仏である正観音像を安置する堂宇を御所の裏山に建てること。その際、大工には依頼せずに良暹自身の手で柱を立てること。これらを命じます。
造営にあたっては別途手を打つことも伝え、奥州征伐祈祷のため、伊豆国北条に伽藍を建てることを立願しています。
約束より一日早い8月8日、良暹は「夢想の告げ」(吾妻鏡)によって御所の裏山に登り、「白地に仮柱四本を立て、観音堂の号を授」(吾妻鏡)けています。8月15日、鶴岡で放生会があり、舞楽は箱根山の稚児8人が舞い、流鏑馬も行われました。
建久元年(1190)1月15日、頼朝は二所詣でに進発。
1月18日、走湯山に参詣。
19日、三島にある伊豆の国府に滞在。
20日夜、鎌倉に帰着しています。
8月15日、鶴岡放生会に頼朝が参列。先ず供僧らが大行道、次に法華経供養。導師は鶴岡別当の円暁が務め、舞楽で舞ったのはこの時も伊豆山(走湯山)より来た稚児達でした。
8月16日、「馬場の儀也。先々会日、流鏑馬・競馬有りと雖も、事繁きに依って、今年は始めて両 日に分け被(らる)るところ也。二品の御出昨日の如し」(吾妻鏡)と、今迄一日で終わらせていた放生会を今回から二日に分け、この日は流鏑馬が行われています。
建久2年(1191)1月8日、頼朝は鶴岡の供僧と走湯山・箱根山の衆徒らに対し、今年中は毎日十二巻の薬師経を読誦することを命じます。
1月28日、二所詣でを前にした頼朝は50人の供を従えて由比ヶ浜に行き、海水で身を清めています。
2月4日、頼朝は鶴岡に参詣して奉幣した後、二所詣りに進発。
2月10日、鎌倉に帰着しています。
建久3年(1192)1月25日、頼朝は走湯山に参詣。
住僧らの臈次(ろうじ 法蠟の次第、順序)については文治4年(1180)に細目を決めてあるが、ややもすれば法蠟、序列を違え越えてしまうことがあったので、今後は法蠟の次第を守るよう重ねて決めています。
5月8日、後白河法皇の四十九日法要には南御堂(勝長寿院)で百僧供が行われます。参加の僧衆は鶴岡八幡宮寺20人、勝長寿院13人、伊豆山(走湯山)18人、箱根山18人、大山寺(石尊権現 阿夫利神社)3人、観音寺3人、高麗寺3人、六所の宮2人、岩殿寺2人、大倉観音堂1人、窟堂1人、慈光寺10人、浅草寺3人、真慈悲寺3人、弓削寺2人、国分寺3人でした。
建久4年(1193)3月4日、この日、後白河法皇の一周忌である13日の千僧供養に参上するよう、鶴岡、勝長寿院、永福寺、伊豆山、箱根山、高麗寺、大山寺、観音寺に使いを出して知らせています。
3月13日、後白河法皇の一周忌を迎え仏事を修し、千僧供養を行います。箱根山の行実と走湯山の良暹も、一方の頭(他にも多数いる)として百僧を従えました。
「吾妻鏡」建久5年(1194)1月29日条に「御台所、伊豆・箱根両権現に奉幣の為、進発せしめ給ふと云々」とあり、この年は頼朝ではなく政子が二所詣でに進発しています。
2月3日、鎌倉に帰着。
4月12日、頼朝は宿願があるとして、伊豆権現(走湯山)の宝前で大般若経を転読することを命じ、神馬を奉納しています。
【 文覚 】
挙兵に先立つ伊豆蛭島での流人時代、頼朝と親交があったとされるのが神護寺の僧・文覚(もんがく 保延5年・1139~建仁3年・1203)です。青年時代は北面の武士・遠藤盛遠として鳥羽天皇の第2皇女・統子内親王に仕えていましたが、19歳で出家しています。
実際の日時は不明ですが、神護寺再興を御所で訴えたところ(「平家物語」は治承3年[1179]3月とする)、後白河法皇の怒りに触れ伊豆国に流されてしまいました。
「愚管抄」には「(治承)四(1180)年同じ伊豆国にて朝夕に頼朝になれたりける」とあり、文覚は同じく配流の身であった頼朝と知遇を得たといいます。「平家物語」では、文覚は頼朝に打倒平家を働きかけるも、「そのようなことは思いもよらず。私は池の禅尼(平清盛の継母)に助けられた身であるので、その恩を報じるために毎日、法華経一部を転読するほかに他事はない」と渋る頼朝に、父・源義朝(保安4年・1123~平治2年・1160)のものだという髑髏を見せるも、頼朝は「勅勘の身では謀反を起こせない」と伝えると文覚は福原の新都に向かい、8日後には後白河法皇の平家打倒の院宣を頼朝に渡し、挙兵を決断させたとしています。
ただし、父・義朝の髑髏云々については、以下の「吾妻鑑」との整合性がないものと思われます。頼朝と文覚の関係は「玉葉」にも記録されるところで、寿永2年(1183)7月に入京した源(木曽)義仲(久寿元年・1154~寿永3年・1184)軍の平家追討懈怠、市中での乱暴狼藉を勘発(かんほつ=譴責[けんせき])するため、同年9月25日、頼朝は文覚を派遣したことを記しています。
また「吾妻鑑」文治元年(1185)8月30日条も、頼朝と文覚の関係が理解できるものとなっています。平氏一門が滅亡し天下が平定された今、頼朝は父・義朝の菩提を弔うため鎌倉に寺院を建立することを発願し、後白河法皇に相談。法皇は頼朝の平家討伐の功に感じ、刑官に命じて義朝の遺骨を探させたところ、東の獄門のあたりで義朝の首が見つかります。勅使の江判官公朝一行が義朝の遺骨と義朝に仕えた鎌田政長の首を携えて鎌倉に向かい、頼朝はこれを出迎えるために稲瀬川の辺りまで向かいます。父・義朝の遺骨は文覚の門弟が首にかけており、頼朝は自ら受け取って幕府に帰ったと伝えています。
以上の「玉葉」「吾妻鑑」等の記事よりすれば、頼朝は文覚に相当な信頼をよせていたことがうかがわれます。
【 行慈と性我 】
文覚の弟子も頼朝の信任を得て、鎌倉で活動しています。
「東寺講堂仏共被籠真言」(金沢文庫蔵)の奥書に「修理人高尾上人文覚上人弟子二人 大覚房行慈 恵眼房性我 建久九年(1198)正月記之云云」とあり、行慈と性我は東密の僧で文覚の弟子であったことがうかがわれます(櫛田P487)。
文治元年(1185)9月3日、源義朝の遺骨と鎌田政長の遺骨は南御堂(勝長寿院)に葬られました。この時は文覚の弟子・恵眼房性我と、走湯山住侶・専光房良暹等が導師を務めています。
同年10月24日、頼朝が父・義朝の菩提を弔うために発願した、南御堂・勝長寿院の開基の法要が営まれます。鎌倉における頼朝建立の初の寺院でした。勝長寿院の初代別当には性我が補任され、頼朝・政子の帰依を一身に受けたといいます。
「吾妻鏡」文治3年(1187)1月8日条に「営中の心経会なり。導師は行慈法橋と」と記され、行慈の頼朝営中への出仕が確認できるので、師の文覚が京に戻り神護寺再興に力を注ぐのと入れ替わるようにして、弟子・行慈が鎌倉での活動を始めたことが確認できます。
建久4年(1193)3月13日、後白河法皇一周忌の千僧供養が修せられ、行慈は100僧が従う10人の宿老僧の一人として他の老僧と共に道場の選定、接待の手配等の指揮を執っています。
建久10年(1199)1月13日、源頼朝は死去。「吾妻鑑」同年の3月2日条には、「故将軍四十九日の御仏事なり。導師は大学法眼行慈と」とあって、行慈が頼朝四十九日忌法要の導師を務めたことを記録しています。
【 二階堂永福寺 】
鎌倉における東密の展開に重要な役割を果たした寺院として、鶴岡八幡宮寺と勝長寿院、それに永福寺があげられます。
「吾妻鏡」文治5年(1189)12月9日条に「今日永福寺の事始めなり」とあり、永福寺の造営が始まっています。永福寺は源頼朝が発願し、その意とするところは、文治5年に藤原泰衡(久寿2年・1155~文治5年・1189)をはじめ奥州藤原氏を滅亡させた奥州合戦(7月~9月)での怨霊を静め、三界(欲界・色界・無色界)を輪廻する苦悩を救わんというものでした。
「吾妻鏡」同日の条には「奥州に於いて泰衡管領の精舎を覧せしめ、当寺華構の懇府を企てらる。且つは数万の怨霊を宥め、且つは三有の苦果を救わんが為なり。抑も彼の梵閣等宇を並べるの中、二階大堂(大長寿院と号す)有り。専らこれを模せらるるに依って、別して二階堂と号すか」とあります。頼朝は平泉の二階大堂・大長寿院を模して堂舎を作らせ、二階の堂であったところから、二階堂とも呼ばれています。
建久3年(1192)11月25日、永福寺が完成し、三井寺の公顕(天永元年・1110~建久4年・1193)を導師として落慶供養が営まれました。
「吾妻鏡」同日条は「今日永福寺の供養なり。曼陀羅供有り。導師は法務大僧正公顕と。前の因幡の守廣元行事たり。導師・請僧の施物等は勝長壽院供養の儀に同じ。布施取り十人を採用せらる。また導師の加布施銀劔は、前の少将時家これを取る。将軍家御出でと」と記録しています。
建久5年(1194)12月5日、幕府の御願の寺社である鶴岡八幡宮寺(上下)、勝長寿院、永福寺に奉行人が定め置かれました。
・鶴岡八幡宮寺(上下)
大庭平太景義、藤九郎盛長、右京進季時、図書允清定
・勝長寿院
因幡前司広元、梶原平三景時、前右京進仲業、豊前介実景
・永福寺
三浦介義澄、畠山次郎重忠、義勝房成尋
同阿弥陀堂
前掃部頭親能、民部丞行政、武藤大蔵丞頼平
同薬師堂(今、新造)
豊後守季光、隼人祐康清、平民部丞盛時
同年12月26日、永福寺内に新造された薬師堂の供養が営まれ、東大寺別当の東密僧・勝賢(保延4年・1138~建久7年・1196)が招かれて導師を務めています。勝賢は平治の乱で自害に追い込まれた信西(藤原通憲 嘉承元年・1106~平治元年・1160)の子で、安居院澄憲とは異母兄弟でした。
醍醐寺座主、東寺二長者、東大寺別当、東大寺東南院院主を歴任し、付法の弟子は仁和寺の守覚法親王(久安6年・1150~建仁2年・1202)をはじめ22人以上という醍醐三宝院流の正嫡で、頼朝のために修法等を行い(明月記)、深い親交がありました。勝賢の鎌倉下向は、醍醐三宝院の法系が関東地方に発展する因となっています(櫛田P488)。
【 定豪 】
治承4年(1180)、定豪(仁平2年・1152~嘉禎4年・1238)は大和国忍辱山円成寺にて仁和寺・寛遍(康和2年・1100~永万2年・1166)の弟子・兼豪より伝法灌頂を受け、尊寿院、忍辱山流等、諸流を兼帯しました。
建久2年(1191)3月3日、源頼朝より鶴岡八幡宮寺の供僧に補任され、住坊は永全坊と称しました(後に永厳坊)。
建久10年(1199)2月13日、定舜に供僧職を譲ります。
「吾妻鏡」同年(正治元年・1199)6月2日条に「今日、法橋定豪勝長寿院別当職を補す。これ恵眼房の譲りと」(吾妻鏡)とあり、恵眼房性我より譲られて勝長寿院の2代別当になっています。
建保7年(1219)1月27日、3代将軍・源実朝(建久3年・1192~建保7年・1219)が鶴岡4代別当・公暁(正治2年・1200~建保7年・1219)によって暗殺されると同年の承久元年(1219)3月1日、鶴岡5代別当に永福寺別当だった三井寺系の慶幸(?~承久2年・1220)が補任されますが、翌承久2年(1220)1月16日には死去します。
三井寺で受戒した公暁が実朝を暗殺したことにより、北条氏と三井寺系には距離感が生じたようで、承久2年(1220)1月21日、定豪が東寺系としては初めて鶴岡八幡宮寺の6代別当に補任されます。
続いて7代・定雅、8代・定親、10代・頼助、11代・政助と東寺系の人物が鶴岡別当に補任されるようになります。
承久3年(1221)5月に勃発した承久の乱では、幕府は5月20日、定豪に世上無為の祈祷を始めるよう示し、26日には関東で初めての仁王百講(大仁王会)を行っています。この時の導師は安楽坊法橋重慶、読師は民部卿律師隆修が務め、鶴岡・勝長寿院・永福寺・大慈寺等の僧百人が参列しました。
「吾妻鏡」5月22日条に「武州京都に進発す。従軍十八騎なり」とあるように、幕府の東海道軍はわずか18騎で鎌倉を発っていますが、道中で各地の武将が加わり10万を超える兵力となります。
6月14日、幕府軍は京方との激戦の末に宇治川を渡って京都に入り、東寺の戦いを最後に京方の軍勢は完全に敗北し、乱の終結となります。
7月、倒幕を企てた後鳥羽上皇(治承4年・1180~延応元年・1239)は隠岐島へ流され、順徳上皇(建久8年・1197~仁冶3年・1242)は佐渡島へ、土御門上皇(建久7年・1196~寛喜3年・1231)は望んで土佐国へ配流となりました。
承久3年(1221)8月29日、定豪は鶴岡別当職を弟子の定雅に譲ります。続いて承久の乱での祈祷の賞により、幕府の推挙で熊野三山検校になり、新熊野検校、高野山伝法院座主も兼ねています。ですが定豪は鎌倉を離れることはありませんでした。
貞応2年(1223)8月20日、弥勒像を本尊とする鎌倉・南新御堂の供養の導師。
貞応3年(1224)7月30日、北条義時の四十九日仏事の導師。
嘉禄元年(1225)8月27日、北条政子の葬儀の導師を務めます。
「吾妻鏡」同日条には「今日二品御葬家の御仏事。竹の御所の御沙汰なり。導師は弁僧正定豪、曼陀羅供庭儀例に加う。(以下略)」とあります。
同年12月、東寺三長者に補任されます。
安貞元年(1227)12月13日、4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね 建保6年・1218~康元元年・1256)の護持僧となります。
同日条には、「護持僧・陰陽師等結番せらる。隠岐入道・周防の前司・後藤左衛門の尉奉行たり。先ず護持僧、上旬・弁僧正、丹波僧都、宰相律師、中旬・大蔵卿法印、大進僧都、常陸律師、下旬・信濃法印、加賀律師、蓮月房律師。次いで陰陽師、一番・泰貞、二番・ 晴賢、三番・重宗、四番・晴職、五番・文元、六番・晴茂」とあります。
安貞2年(1228)8月7日、東大寺別当に補任。
貞永元年(1232)5月18日、北条泰時(寿永2年・1183~仁冶3年・1242)の子・時氏(建仁3年・1203~寛喜2年・1230)の三回忌を迎えて墳墓堂に阿弥陀三尊像が新造され、供養の導師を務めます。同日条に「今日武州故修理亮(時氏)の第三年忌辰を迎へ、彼の墳墓堂に於いて、新造阿弥陀三尊を供養被る。導師は弁僧正定豪と」とあります。
文暦2年(1235)、4代将軍・藤原頼経により鎌倉十二所に明王院・五大堂が建立され、定豪が別当となります。
同年6月29日条には「寅卯の両時新造の御堂の安鎮を行わる。弁僧正(定豪)これを修す。~中略~同時に五大明王像(不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉なり)を堂中に安置し奉る」とあります。この寺院の歴代も、東密僧によって相承されるところとなりました。
嘉禎2年(1236)12月7日、鎌倉を発ち上洛、年末には東寺一長者となっています。
定豪の祈祷には、幕府から多大なる信頼が寄せられていました。
嘉禄元年(1225)、鎌倉に疫病が蔓延して死者が数千を越える事態となり、幕府要路は災いを払うため祈祷を行うこととし、5月1日、「弁僧正定豪、大蔵卿法印良信、駿河前司義村、隠岐入道行西、並びに陰陽権助国道」(吾妻鏡)らを集めて協議します。北条政子は隠岐入道行西(二階堂行村 久寿2年・1155~嘉禎4年・1238)を以て、「般若心経」と「仏頂尊勝陀羅尼」をそれぞれ万巻書写供養することについて意見を求めます。
これを受け定豪は「千口の僧を屈し、一千部の仁王経を講読(こうどく)被(され)る可き歟(か)」(同)と、千人の僧を集め仁王経を講読すべきことを提案。
また定豪と良信は、「嵯峨天皇の御宇、疫病発し、五畿七道夭亡之族甚だ多し。仍て宸筆を染め、心経を御書写令(せし)め給い、弘法大師を以て、供養を遂げ被(られ)ると」(同)と、空海の時のこととされる先例を挙げて般若心経書写の功徳を説き、書写供養を行うことが決められました。
5月22日、予定通り鶴岡八幡宮寺において、定豪を導師として千二百口の僧供養が行われます。同日条では「寅刻衆会。各、左右の廻廊並びに仮屋等に於て座に着く。先ず仁王経一巻之を転読す。次いで心経、尊勝陀羅尼等十返誦(とな)う。亦、心経、尊勝陀羅尼各、一千巻之を摺被(すられ)る。次いで彼の経、各、百巻金泥を以て書写令(せし)め畢。是者(これは)、諸国彼の一宮毎に、一巻宛てを奉納被(され)る可きと」と記録。
当日、金泥で書写された経巻は、諸国の一宮ごとに一巻を奉納するというものでした。
定豪は40余年も関東にいたことになりますが、各種の法会、祈祷で導師を務めた彼のもと、東密は根を張り展開することになりました。定豪に伝法灌頂を受けた主な弟子には、「貞遍、隆豪、正範、寛耀、定季、定親(鶴岡8代別当)、定清、定雅(鶴岡7代別当)、道快、定舜、有嘉、行仁、顕宴、定証、教雅、良瑜」らがいます。
(以上、櫛田P488~491、貫・鶴岡P131~137)
【 厳海 】
鎌倉における東密勢の活動では、定豪一門のほかにも、親厳(仁平元年・1151~嘉禎2年・1236)の門弟である厳海が足跡を残しています。親厳は大江広元(幕府政所初代別当 久安4年・1148~嘉禄元年・1225)の親族にして、随心院初代門跡、東寺一長者、東大寺別当となっています。
厳海は東密の法匠として京で名を馳せており、4代将軍・藤原頼経の要請により天福2年(1234)9月13日に関東に下向し、文暦2年(1235)、鎌倉十二所に建立された明王院・五大堂の供僧職となっています。
東寺一長者を務めていた師僧・親厳が嘉禎2年(1236)11月に亡くなると、明王院の別当であった定豪が親厳の次の東寺一長者に就くことになり、12月7日に上洛。定豪の後を受けて、厳海が明王院の別当となりました。
厳海は幕府要路の信頼が厚く、嘉禎3年(1237)6月11日、北条政子の十三回忌追善のため、北条泰時が施主となって一切経供養が大慈寺で営まれた際には、導師を務めています。
「吾妻鏡」同日条には「二位家追善の奉為、大慈寺に於いて一切経を供養す。導師は助僧正厳海、題名僧六十口。舞楽有り。施主は左京権大夫也。将軍家御聴聞の為御出と」とあります。
同じく政子の十三回忌を期して、4代将軍・藤原頼経により大慈寺(建暦2年・1212、3代将軍・源実朝が創建する、新御堂とも呼ばれる)に丈六堂が新造され、厳海らにより五壇法が修されています。
6月22日条には「明日新丈六堂供養有るべきに依って、魔の障りを除かんが為、五壇法を修せらる。鎮壇供・助僧正厳海、五壇法 中壇・安祥寺僧正良瑜、降三世・信濃法印道禅、軍茶利・大夫法印賢長、大威徳・佐僧都寛耀、金剛夜叉・民部卿僧都尊厳」とあります。
延応元年(1239)11月20日、将軍・藤原頼経の妻・大宮局(二棟の御方・大宮殿、藤原親能の娘)が産気づき、厳海らが呼ばれて祈祷します。同日条には「二棟の御方(大宮殿と号す)御産の気有り。大倉自(よ)り施薬院使良基朝臣が薬師堂の宅に移り給う。御産所為る可きと。御験者助僧正厳海以下皆以て彼の所へ参集す。鳴絃(めいげん)の役の人参進す。兵庫頭定員の奉行為。御祈り等の事其の沙汰有りと」とあります。
厳海は仁治元年(1240)まで関東に滞在し、仁治3年(1242)2月、東寺長者に補任されています。
以上、源頼朝の挙兵から北条泰時の代に至るまで、東密とのつながりを概観しました。
頼朝にとっては自らの生死のみならず、源氏の再興をかけた一大決心、挙兵だったわけですが、その精神的背景、拠りどころとしてあったのが文覚や走湯山の住侶等、東密の僧でした。このような頼朝と東密=鎌倉幕府と東密のつながりは頼朝の死去後も続き、北条得宗体制のもとでも東密勢は拡大発展して、その法脈は各地へと展開していくことになるのです。