14 聖地を創る仏教者 ~宗派を越えた熊野信仰~
先に見た「三宝絵詞」「いほぬし」から推測すると、平安中期に熊野・那智の「信仰の教理面」をつくったのは天台僧ではないかと思われる。
11世紀中頃までに成立した「いほぬし」からは、平安後期の熊野本宮には2、300の庵室が建ち並び、礼堂では僧正のもと例時作法の勤行が行われ、大衆が祈りを捧げる様は喧騒に包まれたもの、霜月には天台の法華八講が行われていたことが確認された。同じく熊野について、その態様を詳述している「三宝絵詞」は永観2年(984)に成立している。
両書が成った10世紀から11世紀にかけては、天台聖が諸国をめぐり在地の社堂を再興しては聖人伝説をつくり、由緒あるものにすることが活発化していた時代だ。(1)「慈覚大師円仁による創建・再興」を伝える寺院は数百にのぼることから天台聖の活動は広範囲なものであったと思われ、例えば東北の恐山、平泉・中尊寺、山寺・立石寺、松島・瑞巌寺、東京の瀧泉寺、浅草寺等が円仁により開山・再興されたと伝えられる。また安房国には平安後期の薬師如来像が多く、千葉県で見ると県内全如来像のうち薬師如来像の占める割合は33.3%であることから(2)、天台聖の活発な伝道が推測され、日蓮が学んだ清澄寺の不思議法師開創・円仁再興との所伝も天台聖の活動を伝えるものだろう。
そして熊野にも多くの天台聖がおとずれていた。彼らが熊野に向かったことが確認される史料としては、長久年間(1040~1044)に成立した「法華験記」が挙げられる。
・熊野より金峯山に向け、山中を斗藪していた沙門・義睿が山中で出会った、20歳位の聖人(第17代天台座主・喜慶の弟子)。
・法華経の持経者・壱睿が宍背山で出会った、法華経を読誦し続ける比叡山東塔の住僧・円善の死骸。
・熊野から大峯の山中で、夢の中に現れた童子の導きにより、遭難を免れた天台の山僧・長円。
法華経信仰を鼓吹するための脚色・霊験譚は差し引くとしても、このような話は「法華験記」成立以前からの、天台僧の山中斗藪、熊野との往来があってはじめて生まれるものではないだろうか。
ほかには平安中期の公卿・三善清行の子で、比叡山で出家した浄蔵(891~964)がおり、「大法師浄蔵伝」によれば25歳の時に那智滝の草庵で日夜、法華経六部を誦して験力を獲得したという。浄蔵の験力云々はともかく、彼が熊野・那智で修行したことが史実であるか否かについては、伝記中に二度にわたりその地名が出ていることに注目すべきだと思う。自らの験力の裏付けとしての霊場修行譚であるならば、「新猿楽記」の次郎が修行した地として「大峰、葛木、熊野、金峰、越中立山、伊豆走湯根本中堂、伯耆大山、富士御山、越前白山、高野、粉河、箕尾、葛川」の名を挙げる如く、一度その地名を記せば事足りるのであり、一度目の12歳で熊野修行は考えられないにしても、浄蔵25歳の青年期ならば十分あり得る話ではないだろうか。
また、天平神護2年(766)、熊野牟須美神と速玉神に各四戸の封戸が与えられ、天安3年(859)以降、数回かけて熊野早玉神と熊野坐神が昇格し、延長5年(927)に成立した「延喜式」の「神明帳」に「熊野坐神社」と「熊野早玉神社」が載せられていることから、10世紀初頭には熊野信仰は都で広く知られるものとなっていたことが窺われ、後にその験力が伝えられるほどの人物であれば、意欲旺盛な青年浄蔵が霊験あらたかなる聖地へ修行に赴く姿を想像しても、間違いではないと思う。
続いて12世紀の天台僧、行誉の那智山籠と現地での仏像等の鋳造、経典書写と奉納は、前代からの天台僧による熊野往来、参籠、修行の中に位置付けてよいものだろう。
このような天台聖熊野来訪の背景としては、熊野・那智は古代より山中他界の祖先崇拝、死者供養の習俗を伝え、黄泉の国・常世国に連なる地、神霊の籠る霊場としての観念があり、天台聖・修行者らが霊験・宗教的体験を求め、また自らが抱く仏教思想を浸透させるのに恰好の地としたことがあるのではないだろうか。彼らの活動により導入されたのが、「三宝絵詞」「いほぬし」に描写された天台・密教の法会、作法ではないか。寛治4年(1090)の、白河上皇熊野御幸の先達を努めたのが園城寺の増誉であることも、それ以前に天台、なかんずく寺門系の僧が熊野への往来を重ねていたことを物語っており、その時代も「三宝絵詞」「いほぬし」の成立期と重なっている。
「元亨釈書」にある円珍の熊野詣での所伝と、礼殿執金剛童子(雷電八大金剛童子)の本地・弥勒菩薩を円珍が顕したというのは、その系譜に連なる天台僧(寺門系)の活動によるものだろうし、瀧尻王子社の本地・不空羂索菩薩を円仁が顕し、切目王子社の本地・十一面観音を義真が顕したとの所伝も、法系の天台僧(山門系)によりつくられたものだろう。一方、良源が毎年、那智で一夏九旬行法をなしたとの「熊野山略記」の記述については、康保3年(966)に天台座主に就任する以前の、40代の頃までなら有り得る話だが、、確実な史料の見当たらない現段階では、その可能性がある、という範疇に留めておくべきだと思う。
古くより神祇への信仰を集めていた各地の霊場では、平安後期には本地垂迹説により神の本地としての仏・菩薩が語られるようになり、神仏習合思想が一段と浸潤していくのだが、それは神の仏教理論による位置付けと信仰の展開となり参詣者は増加し、寺社の興隆をもたらし、在地の思いと合致するものでもあった。本地仏を創り、本地垂迹説を伝播した立役者が天台・真言の僧であり、「聖人信仰」はもとより「本地垂迹」説流布の一翼を担った天台僧であれば、当時、貴族から庶民・大衆にまで広まっていた浄土教と密教の加持・祈祷、更に本地仏の概念を熊野の地に移植し、創作することは容易に考えられることだろう。彼らにより、「本宮・証誠殿の神の本地は阿弥陀如来でありその地は西方浄土。新宮の神は薬師如来であり東方瑠璃浄土。那智の神は千手観音が本地であり那智山は如意輪観音を祀る観音菩薩の補陀落浄土」とされ、喧伝されるようになったのではないだろうか。社会の各層とつながりを持ち諸国を往来する聖であれば、霊場の名と法験、その利益を伝え浸透させるのに時間を要するものではなかったろう。
事実上の開創期と言うべきか、それとも再興期というべきか、いずれにしても「世に名が知られるようになった時」の熊野三山の信仰は法華経との縁、深きであったといえると思う。
また、後に東寺長者となる範俊が承保元年(1074)より3年間、那智で修行を行ったこと。神護寺の中興の祖とされる文覚(1139~1203)の滝修行からは、この二人だけではなく、少なからぬ真言僧が熊野・那智を訪れていたと読み取れるのではないだろうか。
文覚が興然より付法されたのは50歳の頃だが、彼は保延5年(1139)に生まれ、熊野で修行したのが長寛元年(1163)で20代半ばだ。それから5年後の仁安3年(1168)秋の頃、はじめて神護寺に参詣し、その荒廃を嘆いて復興の大願をおこし(僧文覚起請文)、草庵を構えている。彼の信仰姿勢は「熱烈な大師信仰に由来する真摯な真言の行人」(3)というもので、出家後の信仰がどこにあったか、それは修験の行人の道であり真言だったといえるだろう。
平安末期、大験者・真言師である次郎が熊野で修行したとされる「新猿楽記」の記述も、次郎当人の熊野修行が史実かどうかはともかく、世に名が聞こえる大験者・真言師の修行の地として、熊野が挙げられていることに注目したい。「大峰、葛木、熊野、金峰、越中立山、伊豆走湯根本中堂、伯耆大山、富士御山、越前白山、高野、粉河、箕尾、葛川」等での修行こそが(実際にはすべての地に向かうのは無理としても)、真言師が大験者となり、「智行具足の生仏」と称される前提だった、といえるのではないだろうか。
更に、鎌倉末期から南北朝期の成立と推定される「源平盛衰記」の花山法皇の那智滝籠りを伝える巻三の「(後白河)法皇熊野山那智山御参詣事」には、「今の世まで六十人の山篭とて、都鄙(とひ)の修行者集りて、難行苦行するとかや」とあり、「今の世まで」即ち「源平盛衰記」が書かれる時代まで、「都鄙の修行者」都とその周辺の修行者の多くが那智に集まり、滝籠りをしたということは、そこに天台・真言の行者が集ったと読解してもよいのではないか。「熊野山略記」にも「花山法皇正暦年中、恭凝三ヶ年之参籠、号移千日之涼煥、専連六十人之禅徒」と、六十人の禅徒=僧が連なったとある。
範俊と文覚の事例、そして大験者・真言師の修行の地として熊野・那智が挙げられていることから、10世紀には多くの天台僧が訪れ修行し、創り上げた(としてもよいだろう)熊野・那智山に、11~12世紀には真言僧も入っていたのであり、平安末期には天台・真言の僧が熊野・那智山で共に住した、ということになる。
白河上皇の参詣により熊野信仰が盛んになる以前の、平安前期に遡るが、「天台と真言が共に在る」ということについて、当時は両者の垣根は低かったことが確認できる史料がある。佐伯有清氏の「聖宝」では次の事例を紹介されている。(4)
・「醍醐雑事記」巻第一に、「貞観十八年、上醍醐の諸堂の供養の導師は、遍照僧正なり」と記されている。貞観18年(876)、真言僧・聖宝が如意輪観音と准胝観音を造立し、笠取山山頂に安置の堂を建てた際、落成供養の導師は天台の遍昭(816~890)が務めたとされる。遍昭は円仁、円珍に学び伝法阿闍梨位を授けられ、貞観10年(868)に笠取山から約6キロのところに花山寺を建て住している。
・貞観16年(874)11月と元慶6年(882)10月の二回、貞観寺(かつて京都にあった真言寺院)の上座僧・延祚(えんそ・生没年不詳)は、円珍から大法を授かり金剛界の灌頂を受けていて、当時、真言宗と天台宗の僧侶のあいだにわだかまりのない交流があった、とされる。
佐伯氏は「円珍」(5)でも、真言僧の宗叡(809~884)が円珍より両部の大法を受けたことを紹介されている。禅林寺僧正・宗叡は実に多彩な顔ぶれから教授されているようだ。比叡山で出家して修学した後、興福寺で法相教学を、高野山の開創に尽力した実恵からは真言密教を学び、空海の弟子・真紹が開基した禅林寺で真紹より灌頂を受けている。貞観4年(862)1月頃には、園城寺で円珍より胎蔵蘇悉地の大法を授法されている。貞観4年7月、真如親王らと共に入唐し、帰国後は東大寺別当、東寺長者をつとめた。
鎌倉時代にも、窪田哲正氏が論考「安房清澄山求聞持法行者の系譜 ― 清澄寺宗旨再考 ―」(6)で紹介されたように、台密・東密両系の法脈に連なった亮守(?~一説1358)のような人物がいる。亮守は東寺の真言を三流相伝し、台密の蓮華院流、穴太流、三昧流を相伝している。清澄寺では、求聞持法を三度修し(華頂要略・真言血脈相承次第)、1330~1340年代の間に、同寺において灌頂を授けている。
時、場所、人物同士の関係性により、天台・真言の垣根は低かったものか。このような事例はほかにもあることだろう。
鎌倉時代後期に、那智に奥の院(滝見寺)という由良・興国寺の末寺となる相応の坊舎を構えたであろう臨済宗法燈派の僧は別として、平安から鎌倉期、この地を訪れた天台・真言の聖・行者達の、居住実態はどのようなものだったろうか。熊野・那智を訪れる聖・修行者は伝道と山林斗藪、滝籠、そして熊野三所権現参詣が主目的だったろうから、彼らは一定期間の居住に耐え得る簡易な庵室を結ぶ程度で、本格的な坊舎を造ることはなかったと思う。
増基法師の「いほぬし」では、本宮には庵室が200~300あったことを記しているが、そこでは行者達は蓑をかけ、木材を枕にごろ寝して、芋を食しており、彼らの生活ぶりからすれば寺院建築ではなく簡素な造りと理解できるもので、熊野・那智に滞在した聖・修行者の居住の態様を知るのに参考になると思う。
時代を下らせて「熊野山略記」(7)を見ると、「彼那智山者、三百余房皆清浄、而無男女共住之義、本・新両山者、共菴室外在男女共居之坊舎故也」(8)とあって、本宮と新宮の坊舎は男女が共住していたのに対して、那智山は男女が共住することなく300余の坊舎が皆清浄だったとしている。それにしても、室町時代の那智山の坊舎の数が平安期の本宮の2、300を超え、300余もあったというのには驚かされる。もちろん、実数であるかどうかはともかく、いかに多くの修行者が観音菩薩の浄土、滝籠の聖地をたずねていたかを物語る数字なのだろうし、狭い山間の地である故、その坊舎というものも、簡素な庵室程度のものだったと思う。そして遥々、熊野本宮に参詣した増基法師が「親しう知りたる人のもとに行」ったように、目的地に着いた修行者達は法系、法友のいる草庵へと向かったのだろう。
ここまで熊野・那智における天台と真言に的を絞ってみてきたが、正確には、那智に奥の院(滝見寺)が創建され臨済宗法燈派の僧が住している可能性が高いので、同院が建てられた13~14世紀には、一山内に天台・真言・禅の三者が共住したということになる。さらに文永11年(1274)夏の一遍の熊野成道に倣い、熊野・那智で参籠する念仏僧もいただろうから、その場合、天台・真言・禅・念仏の四者となる。もっとも、源師時が長承3年(1134)2月1日に「丞相(証誠殿・本宮)の和命家津王子」の本地は「阿弥陀仏」と書いた(長秋記)頃からは、諸方にその名が伝わったと考えられ、一遍以前に熊野に参籠した念仏僧が既にいて、その系譜に一遍が連なった可能性もあると思う。
根井浄氏と原田正俊氏の教示では、禅律僧尼の熊野参詣も活発で、心地覚心の弟子・賢心(和歌山・歓喜寺長老)が諸国を行脚する仏教者、熊野参詣往来者の接待所を設け、元徳2年(1330)に接待所料田を寄進している(9)。このような参詣の禅僧、律僧が三山で山籠したのも十分考えられるところで、14世紀には、熊野・那智に天台・真言・禅・律・念仏という、当時の主要宗派が共に住したということになるだろう。
これまでみてきた経緯をまとめてみよう。
熊野・那智における在地の衆徒(社家)の宗教は、平安期に天台聖らにより「教理」が持ち込まれ、同時に神仏のいる世界へ分け入る山林跋渉と斗藪の「行」も伝えられ、在地勢力はそれを摂取した。それが古来よりの、山岳などの自然を崇拝して神霊の加護を祈る信仰と結びつき、在地色の濃い熊野・那智修験教団というべきものとなった。室町期に至り、道興をはじめとする熊野三山検校の直接支配が及ぶようになると天台寺門の影響力が増し、熊野・那智はそれを吸収しながらも、寺門側も多分に摂取するものがあった、いわば都と在地で相互に影響しあうことにより熊野信仰の隆盛期を迎えたのではないか。次に本山派(天台・聖護院)と当山派(真言・醍醐寺三宝院)の勢力拡大により、衆徒(社家)と後に台頭してきた本願勢は本・当のどちらかに連なるものとなった。両派の活動は旺盛なもので、一つの寺院が短い年月のうちに天台、真言を移り変わることもあった、という理解になるだろうか。
いずれにしても、熊野新宮の新宮庵主、那智山の社家・本願寺院に見られるように、元禄16年(1703)と享保12年(1727)の「切支丹御改帳」に宗派が書き入れられるまでは、幾多の変遷を経たのではないかと思う。
以上、大変に長い文章となってしまったが、平安から鎌倉、そして江戸時代にかけて、熊野・那智の地には主だった宗派が揃っており、熊野三所権現の神威と阿弥陀如来の西方浄土、薬師如来の東方瑠璃浄土、観音菩薩の補陀落浄土という「熊野信仰」は、各宗・各派を包含する懐の深いものであり、異なる宗教者を向かわせる力に満ちたものだったといえるだろう。もちろん、「熊野の神威」「熊野信仰の裾野の広さ」といっても人間が創り出したものであり、その創られた、目に見えない神仏への信仰がまた新たなる人物と宗教者、そして価値を生み出し、それが衆生の心田を耕すことになるのだから、ここに「宗教の妙味」ともいうべきものがあるように思う。このような観点から、筆者は「宗教とは終わることのない人間精神の創造活動=永遠の創造ではないか」と理解している。