14 以仁王の乱
はじめに平安末期の以仁王(もちひとおう)の乱における、源氏と比叡山の関係を概観しておきましょう。
源義光(寛徳2年・1045~大治2年・1127)は三井寺(園城寺)の新羅明神で元服し新羅三郎と称しましたが、それ以来、源氏と三井寺の関係は深まっていきます。治承4年(1180)4月、後白河天皇(大冶2年・1127~建久3年・1192)の第3皇子・以仁王(もちひとおう 仁平元年・1151~冶承4年・1180)は「平家追討の令旨」を発して全国の源氏勢力に決起を促しましたが、翌月には計画が露見してしまい情勢不利となり5月15日、以仁王は三井寺に逃れ匿われる事態となります。
5月21日、そこに源頼政(みなもとのよりまさ 長治元年・1104~治承4年・1180)らが合流しましたが、比叡山延暦寺は中立の立場を取りこれを支援せず。5月26日、源頼政らの軍勢は興福寺をはじめ南都の寺社勢力の協力を得るべく奈良へ向かうも、宇治平等院の戦いで平氏軍に敗北。頼政は自害、以仁王も討ち取られてしまいます。
その後も平氏への反抗に動いた三井寺は12月11日、平重衡(たいらのしげひら 保元2年・1157~文治元年・1185)らに攻撃され、同じく反平氏であった興福寺をはじめ南都の寺院も、平重衡を総大将とする軍勢によって12月28日に攻撃され焼かれてしまいます。ですが、以仁王の令旨の効果と挙兵の影響は大きく、これが後にいう「治承・寿永の乱」となり、平氏から源氏の世へと時代は大きく変わっていくことになります。
源頼政らの要請を拒否して窮地に追い込んだ延暦寺ではありましたが、強大な寺社勢力としての延暦寺の力は、源頼朝が覇を握って以降も衰えることはありませんでした。
佐々木定綱(ささきさだつな 康治元年・1142~元久2年・1205)は頼朝と共に戦い多くの戦功を上げ、近江・長門・石見・隠岐の守護に任じられていました。建久2年(1191)4月5日、佐々木庄で比叡山衆徒との間に年貢をめぐるトラブルが発生。両者の衝突の後、比叡山衆徒は強訴を起こし、頼朝はこれに屈伏して定綱を薩摩国へと配流しています(2年後には赦免される)。
「吾妻鏡」は建久5年(1194)7月28日条で、「定綱の事は山門の訴えなので『是非に能わず』=どうしようもないものだった」と記しています。ただし、頼朝が再興した鎌倉の鶴岡八幡宮寺では、別当職は三井寺・東寺系の人物が補任されており、比叡山系は坊舎の供僧職止まりでした。
寿永元年(1182)9月23日、鶴岡八幡宮寺拝殿で三井寺の円暁が頼朝より別当職を申し付けられ、寿永4年(1185)2月13日には平家追討の祈祷を行い、3月24日、平家は壇の浦で敗北して滅亡します。
以降の鶴岡別当も比叡山ではなく三井寺から迎えられ、続いては東寺出身者へと移ります。坊舎に視点を移して鶴岡八幡宮寺にあった25坊の初代供僧を見ますと、4坊の供僧が山門・比叡山となっています。他は寺門・三井寺が15坊、東寺は6坊でした。
(貫達人氏「鶴岡八幡宮寺」[1997有隣堂]の教示による。以下、貫・鶴岡と表記します)