「1300年に民部日向が造立した板本尊は、本門戒壇の大御本尊が身延山に存在していた証明になる」との主張について

 

日蓮滅後19年、日興の身延離山から11年の正安(しょうあん)2(1300)12月、日蓮一弟子の一人、民部日向は板本尊を造立し身延山に安置します。

 

 

身延山文書
「身延山久遠寺諸堂等建立記」

一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すが、下添え書きは、第三祖向師の筆也。下添え書きに云く、正安二年庚子(かのえね)十二月 日、右、日蓮幽霊・成仏得道・乃至法界衆生平等利益の為に敬ってこれを造立す (日蓮宗宗学全書22-56)

 

 

昭和5110月、立正大学・宮崎英修氏が「大石寺・板曼荼羅についてーその価値と成立」と題する論考を著しました。それに対して日蓮正宗は昭和52年の「蓮華10月別冊号」に、「宮崎英修氏の妄説誹謗を破す」との論考を掲載し反論しました。

 

特に民部日向が板本尊を造立した動機については、次のように主張しています。

 

 

以下、引用・・・・


身延山久遠寺には本堂の御本尊がないわけであります。では日向はどうしたかと申しますと、彼は大聖人の御本尊を写して、板本尊を造っております。

 

それは「身延山文書」に
身延山久遠寺諸堂等建立記

一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すが、下添え書きは、第三祖向師の筆也。下添え書きに云く、正安二年庚子(かのえね)十二月 日、右、日蓮幽霊・成仏得道・乃至法界衆生平等利盛の為に敬ってこれを造立す」

と書いてあります。

 

我々正宗の者から見れば、真に不思議なことは、大聖人が成仏していないと思っているのであります。日向造立の板本尊は、即ち日蓮幽霊成仏のためだと書いてあります。
幽霊とは、中有に迷っている霊魂のことであります。中有とは成仏しない、地獄にもいかない、中間のことで、この中にある霊魂を幽霊というのであります。これが大聖人の正しき弟子の教えでありましょうか。真に笑止の至りであります。

 

正安二年(1300)は、日興上人身延離山から十一年の後であります。更に、その後十三年も日向は身延に在住しております。

 

そして、この板御本尊は身延の本堂の本尊としておったことは、この板本尊造立の正安二年より五十一年も後の観応(かんのう)二年、辛卯(かのとう)の年に

「身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔板本尊  金箔 造営修造結縁」

(日蓮宗宗学全書1-446)と、中山三代・日祐の「一期所修善根記録」に書き残してあります。


これをもって身延の御影堂の大聖人のお厨子の中に、日向造立の板本尊が安置してあったことは明らかであります。
 

宮崎氏は、板本尊は我が日有上人がはじめて彫刻したと、臆面もなく述べているが、日有上人より百五十年以上も前に、自分の派祖日向が板本尊を造立していることを知らないとはまことに迂闊千万であります。


一尊四士の釈尊像を中心とする日向が、板本尊を造立したということは、その前に戒壇の大御本尊が存在していたという正しい証明であります。この日向造立の板本尊は、今は富士に気がねしてか本堂にまつらず、倉庫の中に隠匿しているのであります。


・・・・以上、引用

 

それでは、日蓮正宗の主張に対して簡潔に指摘してまいりましょう。

 

 

1 日蓮正宗説は信仰的確信を前提にした推測の域であり、存在証拠のないものを存在していたように印象付けている

 

民部日向の板本尊は

1300年・正安二年に民部日向が造立に関わったことは「身延山久遠寺諸堂等建立記」から確認され、板本尊の添え書きは民部日向のものであることも日蓮宗内外の共通認識となっています。

 

大石寺の戒壇板本尊は

⇒日蓮正宗という日蓮系の一宗派内では、「弘安二年十月十二日に日蓮大聖人が御図顕した本門戒壇の大御本尊であり出世の本懐である」と意義付けられています。

しかし、これは宗派内での信仰上の約束事にすぎません。

しかも、この板本尊造立に「日蓮が関わったという直接の証拠」はどこにもありません。

 

これでどうして、「日向板本尊が大石寺戒壇板本尊を模倣して造立した」といえるのでしょうか。戒壇板本尊には客観的な「日蓮直造」との証拠がないのですから、主張の前提が存在していないのです。

 

それなのに「大石寺の戒壇板本尊は日蓮直造で出世の本懐」を前提に、「確信しきっている」だけで、「日向の板本尊は戒壇板本尊の真似をしたのだ」と言っているのですから、論理が破綻しております。このような論法が一般論として、第三者に通用するでしょうか・・・

 

 

2 客観的に考えてみよう

 

A1300年作成と誰もが認めています。

 

B1279年の作成とBの関係者は言いますが、それ以外の方々はB1279年作成であると認めていません。

 

・「B1279年の作成でありBの方が先なんだ。Bが有ったからAは真似をしたんだ」との主張がBの関係者よりなされました。

 

・このような場合は、「そこまで主張されるのなら、Bが1279年に作成されたものであるとの証拠はどこにあるのですか」と指摘されるのが当然です。

 

このような道理を無視することは、常識論から著しく逸脱しているというべきでしょう。なんとも気の毒な思考回路、発想であり、かつ思い込みほど恐ろしいものはないといえます。

 

「日蓮正宗こそ富士の清流700年、日蓮大聖人以来の唯授一人金口嫡々血脈相承を現代に伝える唯一絶対無二の正しい信仰」等の信仰的確信が前提にあれども、主張の客観的な証拠、証明はどこにもないことを知るべきでしょう。

 

もう一度繰り返しておきましょう。

 

「えっ、民部日向の板本尊造立は、大石寺にある戒壇板本尊に習って造立されたと?

では、その戒壇板本尊が日蓮直造という証拠があるのですか?

例えば、ある日蓮系寺院が

『うちの板御本尊こそ身延山久遠寺に有ったものなのだ。

その証拠は?だと。

見なさい。

民部日向が板本尊を造立して、身延山久遠寺に安置しているではないか。

我が寺の板御本尊こそ、日興の身延離山の時に持ち出された日蓮大聖人出世の本懐なのだ。

大石寺の板本尊より、うちの板本尊の方が先である』

といったところで、その板本尊自体の真偽も明らかでないのならば、それはひとり言というものでしょう。それこそ、そのお寺の信者がそう信じていれば、いいだけの話になります。

大石寺、日蓮正宗の主張は、この「ある日蓮系寺院と同轍です」ということになります。

 

 

民部日向が板本尊を造立した理由 1

「富士一跡門徒存知事」から読み解けること

 

一つには、民部日向が板本尊を造立するであろうことは「富士一跡門徒存知事」からも理解できます。

 

日蓮入滅後、程なくして、茂原・日向、真間・日頂、岡宮・日春等の門下は、日蓮真筆本尊を形木=板に刻んでおります。これは即ち、本尊を板に刻みかたちとして顕すという行為であり、日向が板本尊を造立し「日蓮幽霊板本尊」が身延に有ったからとして、なんら不思議ではないと考えられます。

 

「富士一跡門徒存知事」 

一、御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賎する由・諸方に其の聞え有り、所謂日向・日頂・日春等なり。日興の弟子分に於ては在家・出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり。

 

「御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与」の解釈ですが、「彫み」「授与」した、とあるところから印刷のための形木=版木というよりも、日蓮真蹟本尊をもとに板に彫刻、即ち彫刻本尊=板本尊を造り授与したと読み解けるのではないでしょうか。さらに、日興側としては「日向・日頂・日春は本尊を不信の輩に授与した」と批判していますが、日向等からすれば檀越に授与したということでしょうから、板本尊を関係する有縁の寺院に安置してもおかしくないことは、容易に推察できるわけです。

 

 

民部日向が板本尊を造立した理由 2

各地での日蓮法華衆の確立、寺院経営の態勢が整う、寺院の荘厳化

 

次に二つ目の答えの導入部として、「日蓮は曼荼羅本尊を紙本墨書で顕すことが多かったのは何故か?」というところから考えてみましょう。現存日蓮図顕本尊に「これこそ日蓮が顕した板本尊だ!」と明確な証拠のあるものは一つもなく、一部の絹本を除いて紙本墨書の曼荼羅本尊ばかりなのです。

 

日蓮は1260年・文応元年716日の「立正安国論」による国主諌暁以来、数々の身命に及ぶ大難に見舞われました。

 

1260年・文応元年827日、松葉ケ谷草庵の襲撃。

1261年・弘長元年512日、伊豆配流。

1264年・文永元年1111日、安房東条の松原にて地頭・東条景信らによる襲撃。

1271年・文永8912日、文永8年の法難・竜口での首の座、続く佐渡配流。

 

このような大難の連続では、日蓮自身が一箇所に定住されることは少なかったでしょうし、

「堂宇に安置されたら移動が容易ではない板本尊」

「襲われた時の持ち出しが困難で襲撃者に不敬されやすい板本尊」

「携帯・持ち運びに不便な板本尊」

は採用したくてもできないことでしょう。

 

「襲撃等、事が起きた時はすぐに取り出せる紙の本尊」

「携帯・持ち運びに容易な紙の本尊」

を採用されたのも、日蓮自身が他宗徒、怨嫉者に襲撃されることがいつでも起こり得る激烈な妙法弘通を断行していた故、また門下・弟子檀越による「不惜身命」「死身弘法」「身軽法重」の妙法流布が日常的に行なわれていた故であり、必要に迫られた故ではなかったでしょうか。

 

日蓮在世は権力者、他宗徒の怨嫉・逆縁の迫害が絶えず吹き荒れており、日蓮一門として中心となる一寺院を構え、常住の本尊を安置して、弟子檀越が日常的に参詣する、という状況、環境はとても望めず、晩年の身延山でその緒に就いたくらいでしょうか。故に常住が前提となる「板本尊の造立」はなされなかった、と考えられるのです。

 

日蓮図顕の本尊が「紙本墨書の曼荼羅」のみで「板本尊」が造立されなかったのは、今日の言葉で言えば「日蓮の危機管理意識の顕れ」であり、念頭には「有事即応」が絶えずあったことによるものでもあるのでしょう。

 

このような「不惜身命の法の流布が常時であった」・・・そのような日蓮の闘争・意識は、「種種御振舞御書」では、門下への烈烈たる訴えとなって記述されています。

 

各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひ・めこををもひ所領をかへりみること・なかれ、無量劫より・このかた・をやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし、法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり。
仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし、わづかの小島のぬしらがをどさんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ、

 

しかしながら、日蓮入滅から18年後、身延山に「民部阿闍梨日向による板本尊」が造立され、「富士一跡門徒存知事」にあるように「日向・日頂・日春が御筆の本尊を形木に刻み」、後には房総、下総等各地で「板本尊造立」が見られるようになります。

 

この理由は、「権力との緊張感は維持されながらも一定の距離感ができ一弟子六人、正確には日向、日朗、日昭、日興、更には中山の各門流の態勢が確立され、寺院を機軸とした布教、僧侶の修学研鑽、修行が活発化し、寺院に集う信徒の講がつくられて寺院経営も緒(しょ)に就き、近辺、各地の弟子・檀越の参詣が行なわれ、法要も営まれるようになってきた。更に伽藍等寺域の整備が進み、安定した寺院経営が始まり堂宇に恒常的に本尊を安置する願望、必要が生まれてきたため。それは寺院を荘厳するものでもある。檀家もその邸宅・持仏堂などに、常に本尊を安置できる環境下になってきたため」であると考えます。

 

「板本尊」の造立は一つの門流と中心寺院、それを囲む日蓮法華衆が確立されてきた明証ともいえるでしょうか。

 

「本門戒壇の大御本尊が日蓮の時代に造立され、日興身延在山時までは安置されていたのを拝見し、民部阿闍梨日向は模倣して板本尊造立を行い、以降、その影響が各地に及んだ」との日蓮正宗関係者の説は「夢物語」であり、それを真顔で語る信者の皆さんは「夢物語の語り部」ともいえるでしょう。

 

 

何度も繰り返しますが、日蓮正宗の主張の前提として「本門戒壇の大御本尊が弘安二年十月十二日に図顕された」ということが、客観的に証明されなければなりません。それが出来て初めて、冒頭の主張を言い出せるというものです。

 

そもそも、11年間、身延山本堂の本尊は空だったのか?

 

さて、ここで今一度、日蓮正宗の主張を要約すると、

「何故、日向が板本尊を造立したのか?日興が身延を離山し、戒壇板本尊が身延山久遠寺の本堂から無くなった為、日向が代わりに板本尊を造立したのだ。日向の板本尊の存在が戒壇板本尊実在の証明である」ということになるでしょう。

 

しかし、何かおかしいと思いませんか。

 

「11年間、身延山久遠寺の本堂は空っぽだったのか?」ということです。

 

日興が身延を離山したのは、1289年・正応2年の春のことです。そして、民部日向の板本尊造立は下添書きに、「正安二年(1300年・身延山離山11)庚子十二月 日、右、日蓮幽霊・成仏得道・乃至法界衆生平等利盛の為に敬ってこれを造立す」と有るように、1300年・正安212月に作られています。この間、11年もの開きがあります。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 

身延山の本堂に「日蓮大聖人出世の本懐たる弘安二年十月十二日図顕の本門戒壇の大御本尊」が奉安されていたものの、日興が離山時にそれを移動してしまい、民部日向が代わりを造立しようとしたならば、何故11年も後のことなのでしょうか。

 

通常では、考えられないことです。

 

一口で11年といいますが、

 

1290年・正応3年 1年目

1291年・正応4年 2年目

1292年・正応5年 3年目

1293年・永仁元年 4年目

1294年・永仁2年 5年目

1295年・永仁3年 6年目

1296年・永仁4年 7年目

1297年・永仁5年 8年目

1298年・永仁6年 9年目

1299年・正安元年 10年目

1300年.正安2年 11年目

 

縦に並べてみただけでも、相当な年月が経過しています。

 

板本尊一枚で11年間の時間を要するということは有り得ません。また本堂の本尊が空のままだったということも考えられないでしょう。この時間、時の経過を見ただけで、日蓮正宗説のおかしさが感ぜられよう、というものです。

 

「日蓮大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊」という板本尊が身延に実在していれば、日向は1289年春の早い段階で板本尊を造立したことでしょう。

「しまった!日興に『日蓮聖人出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊』を持ち去られた。本堂の本尊がないのはまずい。急いで作らねば」と考えて。

 

日蓮正宗の理屈によれば、日興が去った後の身延山久遠寺は「本尊の無い空本堂」なのであり、それでは身延山として対内外的に大変な波紋を起こすでしょうから、すぐに代わりの本尊を作製するのが当然です。ところが実際は、日興の身延離山11年後に日向は板本尊を造立しているのです。

この長い年月の経過という史実そのものが、日蓮正宗説の不審点を、浮かび上がらせているといえます。

 

では、日興が身延を去った後に、身延の本尊として何が安置されたのかといえば、その答えは釈迦如来像となります。

 

「富士一跡門徒存知の事」に、「甲斐の国波木井郷身延山の麓に聖人の御廟あり、而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭南部六道入道[法名日円]は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所九箇年の間帰依し奉る滅後其の年月義絶する条条の事。

釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。 」とあるように日興の姿なき身延山では、本尊として釈迦如来像が造られました。「本尊と為し奉るべし」との記述ですから、どの堂宇の本尊かといえば、それは身延山の寺の中心たる本堂の本尊であったことが推察できます。

 

ここまで確認してきたことから分かるように、1289年・正応2年春の日興の身延離山後に、身延山の本尊として釈迦如来像が造立されました。

 

「日興が戒壇板本尊を持ち去ったので日向が板本尊を造った」のではなく、造られ安置されたのは「釈迦如来像」なのです。日向の板本尊は11年も後のことになります。

 

日蓮正宗の主張には、かなりのムリがあるというべきでしょう。

 

 

板本尊に関する記録

 

ここで板本尊に関する記録を整理してみましょう。

 

 

1289年・正応2(滅後8)春 日興の身延離山

 

 

1296年・永仁四年(滅後15)62日 民部日向は本尊書写

「永仁四年大歳丙申六月二日 □坊日□授□」日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成NO22

 

 

1300年・正安二年(滅後19)12月 日向板本尊を造立 日蓮宗宗学全書22-56

「一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すが、下添え書きは、第三祖向師(日向)の筆なり。下添え書きに云く、正安二年庚子(かのえね)十二月 日、右、日蓮幽霊・成仏得道・乃至法界衆生平等利益の為に敬ってこれを造立す」

 

 

1331年、日禅は大石寺日禅ガ坊(南之坊)で寂。

 

 

1333年、日興、日目寂。

 

 

1335年 日郷は大石寺蓮蔵坊退出の後、安房吉浜に法華堂(妙本寺)を創建。

万年救護本尊も移されます。

 

 

1338年、南条時光五男・時綱は「大石寺東方=東坊地」を日郷へ譲り、係争が始まります。

 

 

1340年、日尊は京都・上行院の日目本尊を模刻

 

 

1342年、「大石寺御影」が大石寺・蓮藏坊より保田妙本寺に遷されます。        

 

 

1344年、日尊は会津の日印を付弟として、日興の本尊と日蓮御影を授与。

 

 

1351年・正平六年・観応二年、身延山久遠寺御影堂に板本尊の記録。

中山三代日祐著「一期所修善根記録」日蓮宗宗学全書1-446

「一、観応二年~身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔板本尊 金箔 造営修造結縁」

 

 

1354年、保田妙本寺では日賢が板本尊を造立します。

 

 

1357年、日興より「北国の大導師」とされた阿仏日満が日蓮御影を造立。

 

 

1370年、中山(法華経寺)日祐は板本尊を造立。

 ※多古町デジタルアーカイブ「多古町史」 五 多古妙光寺の成立と一円法華

 

 

1374年・文中三年・応安七年 中山三代日祐「一期所修善根記録」を記す

 

 

1388年、6世日時は、石寺御影堂に御影像を造立。

 

 

1404年、日時は「大石記」にて「日代譲り状」を引用しました。

 

 

1405年、6世日時は小泉久遠寺・日周に対し「大石寺御影」の返還を求めます。

 

 

1412年、栃木・平井の信行寺に紫宸殿御本尊を模刻した板本尊が造立されます。

 

 

1419年、保田妙本寺では板本尊を彫刻。

 

 

1420年、福島県いわき黒須野・妙法寺にて板本尊(紫宸殿御本尊の模刻)造立。

 

 

1400年代中頃(1455年頃から1459年頃か)、大石寺での、阿闍梨号を冠する高僧による悪行事件。

 

 

1500年前後、桑名・寿量寺に「釈子日目授与本尊」伝来。

 

 

1522年、12世日鎮により小御影堂が建立されます。

 

 

1539年、伯耆国米子城主・吉川治部少輔元長のもとに、日禅授与本尊が伝来しています

 

 

1561年、保田妙本寺14世日我の「観心本尊抄抜書」(富要 4-170 )戒壇板本尊の記述。

 

「観心本尊抄抜書」

久遠寺の板本尊、今大石寺にあり、大聖御存日の時の造立也~」

戒壇板本尊が世に出た初見、この時には日蓮直造と伝承されていたことがうかがわれる。

 

 

1573年、大石寺の14世に日主が就いて以降、日主の「日興跡条々事示書」で初めて、大石寺貫

主の手により戒壇板本尊の存在が記述されます。

 

富士四ヶ寺之中に三ヶ寺者()、遺状を以て相承成され候。是は惣附属分也。大石寺者御本尊を以て遺状成され候、是則別附属唯授の一人の意也。大聖より本門戒壇御本尊、興師より正応の御本尊は法躰御附属、末法日蓮・日興・日目血脈付嘱の全体色も替らず其の儘なり

(歴全1-459)

 

 

1573年~1591年・天正年間以降に、日禅授与本尊が北山本門寺へ伝来する。

 

 

1581年・天正9(滅後300年・大石寺貫主14世日主)317

西山衆徒と武田兵による、北山本門寺の重宝強奪事件。

 

 

1500年代後半から1600年代前半

身延山久遠寺貫主の板本尊  大白蓮華「堀上人に富士宗門史を聞く」

20世日重(にちじゅう) 元和9年(1623)寂、75

21世日乾(にちけん)  寛永12年(1635)寂、76

22世日遠(にちおん)  寛永19年(1642)寂、71

 

 

1608年・慶長13年 (滅後327年・大石寺貫主16世日就)1115

慶長法難・・・徳川家康より常楽院日経と浄土宗綽道との法論が命ぜられました。
しかし江戸城中での対論前夜、日経は暴漢に襲われ法論不能となり、幕府は法華宗を「負け」という、一方的な結果を押し付けました。

更に、日蓮宗諸寺院に「念仏無間の文証なきこと」の誓状を出させました。直後、身延の日遠は家康に抗議し、再法論を求めましたが、家康は激怒し、駿河安倍川で磔刑が命令されました。この時、家康の側室「お万の方」は法難と受けとめ、日遠と共に殉教しようとしました。家康は「お万の方」の決意にたじろぎ、日遠の形を取り消しました。

 

1617年・元和3(滅後336年・大石寺貫主15世日昌)424日 

京都要法寺24世日陽が大石寺にて、「日本第一の板御本尊」を拝観。

 

京都要法寺24世日陽の「祖師伝」への追加分

1560年・永禄3(滅後279)117日に、京都要法寺日辰によって著された「祖師伝」 を書写し、日陽が自伝を追加したもの。

 

釈の日陽・要法寺十八世~

(1617)四月廿四日・大石寺に着く、当住日昌上人は本来要法寺の住僧所化為るに依つて日賙性両師の下に同学累年の故恋志斜ならず、殊に要法寺に於て雲石両国宿坊の手筋の僧為るに依つて、御霊宝等残らず頂拝す、中にも日本第一の板御本尊、紫宸殿の大曼荼羅、病即消滅曼荼羅、其の外曼荼羅数幅~

 

 

1630年・寛永7年 (滅後349年・大石寺貫主16世日就)221

身池対論・・・江戸城内にて受派の身延・日乾と不受派の池上・日樹らとの対論が行なわれました。結果は事前に出来上がっており、幕府と身延は結託し、不受派6名を流罪に処します。

不受派の拠点・池上本門寺等は身延に与えられました。

 

1632年・寛永9年(滅後351年・大石寺貫主17世日精)1115

大石寺に現在の御影堂建立、建立された御影堂に「戒壇板本尊の安置」を確認。

 

・「富士年表」・・・敬台院殿日詔大石寺御影堂〔14間に13間〕を寄進(棟札・富要5322

 

・御影堂棟札・・・「寛永第九年壬申年霜月十五日造立之・・・本門戒壇本堂 日精在判」

 

・「家中抄・中」 日興が身に宛て給わる所等とは、是れ板御本尊の事なり、今に当山に之れ有り、御堂とは板御本尊まします故なり 

 

・細井日達  昭和47年1月号  「大白蓮華」

「身延の日興上人御在住の時の十間四面の堂には・・・戒壇の大御本尊を安置してあったことは明らかであります。その大御本尊を日興上人が大石寺の本堂に安置され、大聖人生身の御影は御影堂に安置せられましたが、その後、本山の陵夷により本堂御影堂が一堂となり、戒壇の大御本尊は御影とともに安置されてあったようであります。しかしその後、御宝蔵が大きく造立せられてから、大御本尊は御宝蔵にお移し申し、御影堂には日精上人の板本尊が安置せられたと思われます」

 

 

1662年・寛文二年(滅後381年・大石寺貫主20世日典) 17世日精

日精の「家中抄」に「日禅伝・日興高祖の本尊を申し請ひ日禅に授与す此本尊今重須に在り伯耆曼茶羅と号する是なり」との記述。

 

 

同年、「家中抄」日妙伝

北山本門寺の「法華本門寺根源」棟札を批判する中で

 

次に本門寺根源の事、日蓮一大事の本尊有る処、寺中の根源なり若し爾らば、板本尊の在す処、本門寺の根源なり、若し重須に此の御筆有るが故にと云はば二ケの相承今他寺に在り彼の寺を指して本門寺と云はんや、愚案の至極、道を論ずるに足らず。(富要5-220)

と記述しています。

 

「本門寺根源というならば、日蓮一大事の本尊が有る所は、寺の中の根源です。ならば、板本尊の存在する所こそ、本門寺の根源である。もし、重須に日蓮の真筆があるから法華本門寺根源というならば、二箇相承書は今は他の寺に有り、かの寺を指して本門寺というのか、愚かな考えであり、論じるまでもない。」

 

大石寺こそ、「日蓮一大事」の板本尊が有る故に「本門寺の根源」としています。この時点で既に、大石寺では戒壇板本尊を「特別扱い」していることが認識できます。

 

三堂本尊も記述しています。

 

三堂本尊とは板本尊、生御影、垂迹堂本尊と云ふ事か、若し爾らば板本尊とは日興、日目已来相続して而も大石寺に有るなり、垂迹堂の本尊は是れ日目御相伝にして今房州妙本寺に在り天王鎮守の神ひと云ふは是なり(日濃の代に至つて井上河内の守に取らる)。

 

 

日精の言う板本尊とは戒壇板本尊のことで、この頃には「日興、日目已来相続して而も大石寺に有る」との伝承が定着していたのでしょう。

「垂迹堂の本尊」とは日目が相伝した「天王鎮守の神ひ」というそうで、保田妙本寺に有ったものの日濃の代に質入してしまい、井上河内の守に渡ってしまったようです。

これにつき、同じ家中抄の日目伝では、 

日目上人正慶二癸酉十一月の初めに富士を御立あつて奏聞の為に御上洛なり、若し帝都に於て御尋もやあらんとて大聖人の御自筆本尊十八幅、其の中万年救護の本尊並に日目授与の本尊時光授与の本尊天王鎮守の神ひ等あり、御伴には日尊日郷二人召し行かれ、

(富要 5-191 )

 

亦天王鎮守の神と申すは祖師御相伝の秘書当家代々の秘書なり、日興日目相続して房州妙本寺に之れ有るなり  (富要5-184)

としています。

 

 

1682年・天和2(滅後401年・大石寺貫主23世日啓)

1113日より「日目350年忌の説法」22代日俊 

大石寺にて (歴代法主全書3-103)

 

日目上人三百五十年忌報謝の為に之を談ずるもの也、大石寺~

十四日~

此の三大秘法は何者ぞや、本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや~此の如く蓮祖御出世の本体三大秘法の御座す寺なる故に~

 

 

大石寺貫主22世日俊が戒壇板本尊は日蓮出世の本懐と明言。

 

 

2024.4.29