13 日蓮と平左衛門尉の対面、阿弥陀堂法印の祈雨
日蓮の御書にも、東密勢がいかに鎌倉に進出していたかをうかがえる記述があります。佐渡から鎌倉に戻った日蓮が平左衛門尉と対面した時のこと、また阿弥陀堂法印=加賀法印定清の祈雨について、御書での記述から確認してみましょう。
文永11年(1274)3月、日蓮は流刑地の佐渡より鎌倉に還り、4月8日に平左衛門尉をはじめ幕府高官達と対面しました。
その時の平左衛門尉は「さき(前)にはにるべくもなく威儀を和らげてただ(正)しくする」(種種御振舞御書)と、以前、草庵に逮捕に来た時とは異なり礼儀正しいもので、「或入道は念仏をとふ、或俗は真言をとふ、或人は禅をとふ、平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ」(同)ある入道は念仏を、ある人は真言を、ある人は禅について問い、平左衛門尉は爾前得道の有無を訊ねてきます。「一一に経文を引ひて申す。」(同)日蓮は経文を引用しながら一つ一つに返答。
「平の左衛門の尉は上の御使の様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申す。日蓮答て云く、今年は一定也」(同)
続いて、平左衛門尉は次なる蒙古襲来はいつかを問い、日蓮は「間違いなく今年である」と答えます。
「それにとつては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし。譬へば病の起りを知らざらん人の病を治せば弥よ病は倍増すべし。真言師だにも調伏するならば、弥よ此国軍(いくさ)にま(負)くべし。穴賢穴賢、真言師総じて当世の法師等をもて御祈り有るべからず」(同)
それは、日蓮が以前から立正安国論等で訴えてきたところを用いないが故であり、今の幕府は真言師らに異国調伏の祈祷をさせているが、病のよってきたる原因を知らない無知なる者が治療をしても、ますます病は倍増するようなものであるとして、真言師の調伏が続くならば、日本は蒙古との戦いに敗れるであろう、真言師らに祈祷をさせてはいけないのであると真言批判を展開します。
続けて承久の乱で東密・台密に祈祷させた朝廷側が敗れた先例を挙げ、今もまた同じことが起きようとしているとし、「是をもて思ふに、此御房たちだに御祈りあらば入道殿事にあひ給ひぬと覚え候」(同)と、この御房達に祈祷させるならば、入道殿に異変が起きるであろうと諌めています。
ここで気になるのが「此御房」で、真言師の祈祷が亡国を招くと幕府高官らに諌め続けてきて、同席している人物である「此御房」の祈祷で、やはり同席者である「入道殿」に災いが起きるとしている文脈からすれば「此御房」とは真言師であると理解できます。
「此御房」=真言師が祈ることによって、身に異変が起きるとされたのが「入道殿」で、その「入道殿」は前文にある「或入道は念仏をとふ」の「或入道」と同じだとすれば、真言師を連れてきた入道が念仏の義について日蓮に訊ねていることになり、それによって「此御房」=真言師とは後文に出てくる阿弥陀堂法印のことではないかと推測されます。(「入道殿」が誰であるかについては、山中講一郎氏は「日蓮自伝考」[2006 水声社]で金沢実時と推測されています)
以上の文永11年4月8日の記述から、
「日蓮と幕府高官達との面談に真言師が同席していた」
「幕府は真言師の祈祷に大いに依存していた」
ということが分かり、そのことは東密勢がいかに権力中枢に食い込んでいたかを示すものでもあるでしょう。
続いて4月10日、幕府は阿弥陀堂法印に祈雨の祈祷を命じます。
阿弥陀堂法印とは鎌倉の大蔵ヶ谷の勝長寿院に住した加賀法印定清のことで、「吾妻鑑」文治元年(1185)10月21日条には、「南御堂(勝長寿院)に本仏(丈六、皆金色の阿弥陀仏、仏師は成朝也)を渡し奉る」とあり、勝長寿院の本堂は阿弥陀堂にして本尊は阿弥陀如来でした。
定清は真言師でありながら阿弥陀信仰でもありましたので、覚鑁の新義真言宗の法脈にも連なっていたのではないでしょうか。定清の評判は高く、「弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台・華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり」(種種御振舞御書)とされ、「東寺第一の智人、をむろ(御室)等の御師」(同)と仰がれる人物でもありました。
「それに随ひて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず、雨しづかにて一日一夜ふりしかば、守殿(こうどの)御感のあまりに、金三十両、むま(馬)、やうやうの御ひ(引)きで(出)物ありときこふ。」(同)
11日には実際に雨が降り、北条時宗(建長3年・1251~弘安7年・1284)は喜び金三十両、馬等を与えています。鎌倉の人々は日蓮に対して、
「鎌倉中の上下万人、手をたたき口をすくめて、わら(笑)うやうは、日蓮ひが法門申して、すでに頚をきられんとせしが、とかう(左右)してゆりたらば、さではなくして念仏・禅をそしるのみならず。真言の密教なんどをもそしるゆへに、かかる法のしるし(験)めでたしとののしりしかば」(同)
と罵ったのですが、12日になると大風が吹き出します。
「いゐもあはせず大風吹き来たる。大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を、或は天に吹きのぼせ、或は地に吹きいれ、そらには大なる光物とび、地には棟梁みだれたり。人々をもふ(吹)きころ(殺)し、牛馬をゝ(多)くたふ(倒)れぬ。」
と強風が鎌倉に吹き荒れ、大変な被害をもたらします。
後年、日蓮は
「此の三人(善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵)の悪風は漢土日本の一切の真言師の大風なり。さにてあるやらん去ぬる文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂加賀法印東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり」(報恩抄)
鎌倉の強風を引用して真言の悪現証であると批判しています。
「幕府高官と日蓮の面談」に同席した真言師と阿弥陀堂法印に関する記述は、異国調伏をはじめ幕府の意を受けて祈祷を行う東密の僧が、幕府と一体化した存在になっていたことをうかがわせる史料だといえるでしょう。
このように幕府膝下の事実上の官僧として、天災地変、疫病、変事等が起きる度に各種の祈祷をした東密の僧や弟子とその関係者、法脈にある人物が清澄寺に進出すれば一定の勢力・存在となることも考えられるところで、結果としてそれを示すのが日蓮と同時代、それ以降の法鑁(日吽)、寂澄、亮守ら東密と目される人物の清澄寺での活動ではないでしょうか。
一つ疑問になるのが、東密僧進出の初期、清澄寺内で東密の修学者が一定の勢力を占めるようになる過程で、それまで清澄寺内でほぼ独占状態だったと思われる台密僧とのトラブル、問題は発生しなかったのか、ということです。彼ら台密僧は清澄寺の変わりゆくさまを、ただ黙して見ていたのでしょうか。
私としては、台密勢は清澄寺を訪れる東密僧の背後にある鎌倉幕府の存在というものを、多分に意識していたのではないかと考えています。次の項からしばらくは、山門(比叡山)・寺門(園城寺)・東密と幕府の関係を確認していきましょう。