1280年・弘安3年 庚辰(かのえたつ) 59歳
後宇多天皇
北条時宗
1月11日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事(正月三日の事)」
(定2-359・P1729、創新328・P1897、校2-388・P1844、全P1562、新P1446)
身延・南条時光
真蹟1紙断簡5字・京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺蔵
宝20 満下308
録外14-43 遺28-4 縮1928
*昭和定本「上野殿御返事」
創価学会新版「上野殿御返事(正月三日の事)」
全集「上野殿御返事(正月三日御書)」
*昭和定本・創価学会新版・全集「1月11日」
平成校定「1月3日」
*法華経の御宝前
十字(むしもち)六十枚・清酒(すみざけ)一筒(ひとつつ)・薯蕷(やまのいも)五十本・柑子(こうじ)二十・串柿(くしがき)一連送り給(た)び候ひ畢(おわ)んぬ。法華経の御宝前にかざ(飾)り進(まい)らせ候。
春の始めの三日、種々の物法華経の御宝前に捧げ候ひ畢んぬ。花は開いて果(このみ)となり、月は出でて必ずみ(満)ち、灯は油をさせば光を増し、草木は雨ふればさか(栄)う、人は善根をなせば必ずさか(栄)う。其の上元三(がんざん)の御志元一(がんいち)にも超へ、十字の餅(もちい)満月の如し。事々又々申すべく候。
1月11日
「百六箇抄(ひゃくろっかしょう)」を著し日興に相伝すと伝う
(創新・伝承類457・P2198、校3相伝書4・P2073、全P854、新P1685)
*平成校定「具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄)(血脈抄)」
日俊本・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日山本・千葉県安房郡鋸南町吉浜 保田妙本寺蔵
日辰本・静岡県富士郡芝川町西山 富士山本門寺
< 系年 >
平成校定「弘安3年1月11日或は弘安5年10月11日」
1月27日
書を秋元太郎に報ず
「秋元御書」
(定2-360・P1729、創新170・P1457、校2-389・P1845、全P1071、新P1447)
身延・秋元太郎兵衛
創価学会新版・秋元太郎
※日興写三行断片・静岡県三島市泉町 本覚寺蔵
「日興写本は同寺所蔵・真蹟三行断片の『合戦在眼前御書』(定1-155・P839、校1-154・P879)に貼り合わされている。」
坂井法曄氏の論考「日興写本をめぐる諸問題について」(興風21号P244)
日朝本
録内21-15 遺28-5 縮1929
*昭和定本「秋元御書(筒御器抄)」
創価学会新版「秋元御書」
*身延山の庵室は大雪積もり庵室内まで「雪を米と積む」如く。八寒地獄のようである。訪れる人はなく、「弟子等にも捨てられて候いつる」如しとの記述。
此の山の為体(ていたらく)日本国の中には七道あり。
七道の内に東海道十五箇国、其の内に甲州飯野・御牧(みまき)・三箇郷の内、波木井と申す。此の郷の内、戌亥(いぬい)の方に入りて二十余里の深山あり。北は身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は天子山なり。板を四枚つい立てたるが如し。此の外を回りて四つの河あり。北より南へ富士河、西より東へ早河、此は後なり。前に西より東へ波木井河の中に一つの滝あり。身延河と名づけたり。
中天竺の鷲峰(じゅほう)山を此処に移せるか、将又(はたまた)漢土の天台山の来たれるかと覚ゆ。此の四山四河の中に、手の広さ程の平らかなる処あり。
爰(ここ)に庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ、秋は果を拾ひて命を支へ候ひつる程に、去年十一月より雪降り積り、改年の正月今に絶ゆる事なし。
庵室は七尺、雪は一丈。四壁は氷を壁とし、軒のつらゝは道場荘厳の瓔珞(ようらく)の玉に似たり。内には雪を米と積む。
本より人も来たらぬ上、雪深くして道塞がり、問ふ人もなき処なれば、現在に八寒地獄の業を身につぐ(償)のへり。生きながら仏には成らずして、又寒苦鳥と申す鳥にも相似たり。
頭は剃る事なければうづら(鶉)の如し。衣は氷にとぢられて鴛鴦(おし)の羽を氷の結べるが如し。かゝる処へは古(いにし)へ眤(むつ)びし人も問(とぶ)らはず、弟子等にも捨てられて候ひつるに、是の御器(ごき)を給(た)びて雪を盛りて飯と観じ、水を飲んでこんず(漿)と思ふ。志のゆく所思ひ遣(や)らせ給へ。又々申すべく候。
1月27日
書を大田乗明に報ず
「慈覚大師事(じかくだいしじ)」
(定2-361・P1741、創新158・P1377、校2-390・P1856、全P1019、新P1454)
身延・大田入道
創価学会新版・大田乗明
真蹟13紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
日朝本 平16
録内23-26 遺28-16 縮1940
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*法門の事は秋元太郎への書簡に
鵞眼(ががん)三貫・絹袈裟一帖給(た)び了(おわ)んぬ。法門の事は秋元太郎兵衛尉殿御返事に少々注して候。御覧有るべく候。
なによりも受け難き人身、値ひ難き仏法に値ひて候に、五尺の身に一尺の面(かお)あり。其の面の中に三寸の眼(まなこ)二つあり。一歳より六十に及んで多くの物を見る中に、悦ばしき事は法華最第一の経文なり。あさましき事は、慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈して云はく・・・
*伝教、義真、円澄そして慈覚
天台座主を見候へば、伝教大師はさてをきまいらせ候ひぬ。第一義真・第二円澄、此の両人は法華経を正とし、真言を傍(ぼう)とせり。第三の座主慈覚大師は真言を正とし、法華経を傍とせり。其の已後(いご)代々の座主は相論にて思ひ定むる事無し。
⇒最澄より二代の義真、三代の円澄までは法華経が正で真言が傍であった。それが三代の慈覚になると主客が転倒してしまう。
*明雲大僧正座主
第五十五並びに第五十七の二代は明雲(みょううん)大僧正座主なり。此の座主は安元(あんげん)三年五月日、院勘を蒙りて伊豆国え配流、山僧大津にて奪ひ取る。後、治承(じしょう)三年十一月に座主となりて源右将軍頼朝を調伏(じょうぶく)せし程に、寿永(じゅえい)二年十一月十九日義仲に打たれさせ給ふ。此の人生けると死ぬと二度大難に値(あ)へり。生の難は仏法の定例(じょうれい)、聖賢の御繁盛の花なり。死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人の招くわざわいなり。所謂大慢ばら(婆羅)門・須利(しゅり)等なり。
⇒天台座主55代、57代を務めた明雲は平清盛出家の戒師であったものの、末寺と加賀の国・国司との争いの責任を負い、伊豆の国に配流される。しかし、比叡山大衆が奪還し、その後の政変により再び座主となる。木曽義仲との法住寺合戦では座主自ら戦うも義仲勢に斬殺され、義仲は明雲の首を西洞院川に放り投げてしまう。
このような「死の後の恥辱」というものについて、日蓮は「悪人・愚人・誹謗正法の人の招くわざわい」とする。
*天台宗・諸仏の大怨敵、御讐敵
粗(ほぼ)此を勘へたるに、明雲より一向に真言の座主となりて後、今に三十余代一百余年が間、一向真言座主にて法華経の所領を奪へるなり。しかれば此等の人々は釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵、梵釈・日月・四天・天照太神・正八幡大菩薩の御讐敵(しゅうてき)なりと見えて候ぞ。我が弟子等此の旨を存じて法門を案じ給ふべし。
⇒このような明雲以降の天台座主は真言の座主となったのであり、彼らは「釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵」であり「梵釈・日月・四天・天照太神・正八幡大菩薩の御讐敵」であると痛烈に批判する。
1月
曼荼羅(74)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰正月 □
*授与
日仏
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之内 未曾有 大漫□□□
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王
*寸法
44.3×30.6㎝ 1紙
*備考
・日仏尼の事歴、図顕の縁起について記載のある書。
「本化別頭仏祖統紀」(八巻初丁)
「本化高祖年譜」(三十四丁)
「高祖年譜攷異」(中巻五十四丁)
これらは後代の書物であり、上代における「日仏尼」と日蓮の関係を知れる資料はあるのだろうか。
*所蔵
山梨県南アルプス市上市之瀬 妙了寺
⇒弘安3年以降は1紙、且つ略相貌ともいうべき曼荼羅が増えてくる。
これについて「日蓮は新参の門下はもとより、長年の弟子に対しても大事の法門をみだりに説示することはなかった。曼荼羅についても然りであり、略相貌ともいうべき曼荼羅を多く認めたのも、日蓮の『奥義は秘す』との思想の現れである。『我が心に叶う弟子、一人にのみ一切を付属しよう』との、後の唯授一人血脈相承へと具体化していく、この時期の深慮の程が、これら略相貌の曼荼羅に示されているのである」との説がある。
しかしながら、これは後に作られた門流の主義・主張を思考の基軸に据えての発想であり、上代に遡っての解釈論により、現在の自説を補強しようとしているもの、といえるのではないか。
門流意識を排除して客観的に分析すれば、
・日蓮の健康状態、体調不良による体力的負担の増加
・一方では、法縁、地縁、血縁による各地での弘法の拡大に伴う曼荼羅を請う門下の増加
・持仏堂を持ちえない、曼荼羅奉掲の場が狭隘となる階層の増加
これらの理由により、1紙曼荼羅、略曼荼羅の増加となったのではないだろうか。特に書状執筆の分量と併せ考える時、日蓮の体力的負担は相当なものがあったと思う。
2月1日
曼荼羅(71)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰二月一日
*授与
俗日頼(四條頼基)授与之
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之 間一閻浮提之 内 未曾有大 漫荼羅 也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因天王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
87.3×46.4㎝ 3枚継ぎ
*備考
・曼荼羅(72)とともに、四條金吾頼基夫妻に授与されたもの。
*所蔵
大阪府堺市堺区材木町東 妙国寺
⇒建治2年7月15日の「四条金吾釈迦仏供養事」(真蹟曽存・真蹟1紙断簡)には、
「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。開眼の事、普賢経に云はく『此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり』等云云。又云はく『此の方等経は是諸仏の眼なり諸仏是に因って五眼を具することを得たまへり』云云。~されば画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。」
「此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ。優塡(うでん)大王の木像と影顕(ようけん)王の木像と一分もたがうべからず。梵帝・日月・四天等必定して影の身に随ふが如く貴辺をばまぼらせ給ふべし。」
と記して、四条金吾による釈迦仏造立の意義、画像・木像の仏の開眼について教示している。
続いて弘安2年2月2日の「日眼女造立釈迦仏供養事」(真蹟存)では、
「御守り書きてまいらせ候。三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女。御供養の御布施、前に二貫今一貫云云。」と、金吾夫人への守り曼荼羅授与、夫人の釈迦仏造立を讃嘆している。
これらを総合すると、夫妻で釈迦仏像二体、曼荼羅二体、お守り一体となる。
2月21日
朝廷 諸寺に異国降伏の祈祷を命ず(高野春秋)
2月
書を新池殿に報ず
「新池御書」
(定3続編37・P2118、創新400・P2062、校2-428・P1958、全P1439、新P1456)
身延・新池殿
宝18 満上168 真蹟なし
録外4-8 受6-9 縮続1
< 系年 >
昭和定本・創価学会新版・全集「弘安3年2月」
平成校定「弘安3年12月」
*法華経の行者供養の功徳
思し食すべし、法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば、悪道に行くべからず。何に況んや、十度・二十度、乃至五年・十年・一期生(ごしょう)の間供養せる功徳をば、仏の智慧にても知りがたし。此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽くして供養せる功徳に百千万億勝(すぐ)れたりと仏は説かせ給ひて候。
*法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふ
此の経にあ(値)ひ奉りぬれば悦び身に余り、左右の眼に涙浮かびて釈尊の御恩報じ尽くしがたし。かやうに此の山まで度々の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。弥(いよいよ)はげ(励)ませ給ふべし、懈(おこた)ることなかれ。
*信心の歩みを運ぶべし
皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬へば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め候べき。何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。
*釈尊は・・・父なり、主なり、師なり
釈尊は一切の諸仏・一切の諸神・人天大会・一切衆生の父なり、主なり、師なり。此の釈尊を殺したらんに、争(いか)でか諸天善神等うれしく思し食すべき。今此の国の一切の諸人は皆釈尊の御敵なり。在家の俗男俗女等よりも邪智心の法師ばらは殊(こと)の外の御敵なり。
智慧に於ても正智あり邪智あり。智慧ありとも其の邪義には随ふべからず。貴僧高僧には依るべからず。賎しき者なりとも、此の経の謂(いわ)れを知りたらんものをば生身(しょうじん)の如来のごとくに礼拝供養すべし。是経文なり。
*日蓮・仏の御使ひ
今までは正しく仏の御使ひ出世して此の経を弘めず、国主もあなが(強)ちに御敵にはならせ給はず、但いづれも貴しとのみ思ふ計りなり。今某(それがし)、仏の御使ひとして此の経を弘むるに依りて、上一人より下万民に至るまで皆謗法と成り畢んぬ。
*釈尊程の仏にやすやすと成り候
此の経の信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言(ことば)を用ひず、法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ。仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然(てんねん)と三十二相八十種好を備ふるなり。如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。
*有解無信、有信無解
有解無信(うげむしん)とて法門をば解(さと)りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解(うしんむげ)とて解(げ)はなくとも信心あるものは成仏すべし。皆此の経の意なり、私の言にはあらず。されば二の巻には「信を以て入ることを得、己が智分に非ず」とて、智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり。己が智慧にて仏にならずと説き給へり。
*解悟の智識を仏と敬ふべし
舎利弗だにも智慧にては仏にならず。況んや我等衆生少分の法門を心得たりとも、信心なくば仏にならんことおぼつかなし。末代の衆生は法門を少分をこゝろえ(心得)、僧をあな(侮)づり、法をいるがせにして悪道にお(堕)つべしと説き給へり。法をこゝろえ(心得)たるしるしには、僧を敬ひ、法をあが(崇)め、仏を供養すべし。今は仏ましまさず、解悟(げご)の智識を仏と敬ふべし、争でか徳分なからんや。後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是正しく経文なり。
*日蓮・日に一度天の日に影をうつす者にて候
是等の法門を能く能く明らめて、一部八巻廿八品を頭にいたゞき懈(おこた)らず行なひ給へ。又某を恋しくおはせん時は日々に日を拝ませ給へ、某は日に一度天の日に影をうつす者にて候。此の僧によませまひらせて聴聞あるべし。此の僧を解悟の智識と憑(たの)み給ひてつねに法門御たづ(訊)ね候べし。聞かずんば争でか迷闇の雲を払はん。足なくして争でか千里の道を行かんや。返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし。事々面の次(つ)いでを期(ご)し候間委細には申し述べず候。
2月
曼荼羅(72)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰二月 日
*授与
日眼女(四條頼基妻)授与之
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之間 未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大日天王 大月天王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
46.1×30.0㎝ 1紙
*所蔵
東京都文京区向丘 長元寺
2月
曼荼羅(73)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰二月彼岸第六番
*授与
藤原清正授与之
*讃文
仏滅度後二千 二百三十余年 之間一閻浮提 之内未曾 有大漫荼羅 也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
90.0×53.6㎝ 3枚継ぎ
*所蔵
京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺
⇒「二月彼岸第六番」春の彼岸に入って六番目に図顕されたものか。日蓮真蹟御書には彼岸会に関する言及はなく、この曼荼羅により確認できるのでは。
2月
曼荼羅 (75)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰二月 日
*授与
「俗□□」
*讃文
仏滅度後二千二百二十 余年之間一閻浮提之内 未曾有大[漫] 荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
51.2×31.8㎝ 1紙
*備考
・右下隅に授与書を存するも、其の半ばを截落されて、解読は困難。
*所蔵
千葉県市川市真間 弘法寺
2月
曼荼羅(76)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰二月 日
*授与
優婆塞日安
*讃文
仏滅度後二千二 百二十余年之 間一閻浮提 之内未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*日興添書
富士下方熱原六郎吉守者 依為日興弟子所申立如件
*寸法
63.6×41.2㎝ 2枚継ぎ
*備考
・日興の「弟子分本尊目録」
一、富士下方熱原六郎吉守者、下野房弟子也。仍日興申与之。
*所蔵
京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺
⇒優婆塞日安=熱原六郎吉守は弘安2年11月「曼荼羅(68-1)」と合わせて、二回の曼荼羅授与となる。
2月
曼荼羅(77)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰二月 日
*授与
俗吉清
*讃文
仏滅度後二千二百 二十余年之間 一閻浮提内 未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍大王
*寸法
53.9×34.0㎝ 1紙
*所蔵
静岡県浜松市東区天龍川町 妙恩寺
2月
曼荼羅を図顕する
*「日亨本尊鑑」(P56) 第28 弘安三年二月御本尊 底本(第19)
「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P252)
*模写
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰三月 日
*授与
童男 福満
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之 間一閻浮提 之内未曽 有大漫 荼羅 也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹大菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
86.4×54.5㎝ 3枚継ぎ
*所蔵
身延山久遠寺曽存
⇒「童男 福満」とは誰だろうか。
日乾、日遠、日奠の各霊宝目録には「弘安三年太才庚辰二月 日」と記される。
本妙日臨全集所載の模写も「二月 日」と記される。「三月 日」は日亨の写誤か。
また、日臨の模写は讃文の「三十余年」が「二十余年」と記されている。
2月
曼荼羅を図顕する
*(富要8―178)
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰二月 日
*寸法
不詳
*日興の加筆あるも明らかならず
*所蔵
茨城県・某家蔵
3月3日
書を日住禅門に報ず
「日住禅門御返事」
(定2-362・P1743、校2-391・P1858、新P1462)
身延・日住禅門に報ず
宝11 満下208 真蹟なし
録外2-28 遺28-18 縮1943
*回向
委細に示し給ひ候条是非無く候。仍(よ)って祖父妙厳聖霊(みょうごんしょうりょう)の御志ねんご(懇)ろに回向いたすべく候。経文に「是人於仏道決定無有疑(ぜにんのぶつどうけつじょうむうぎ)」と。此の文をひま(暇)なく御唱へあるべく候。日月は地となり、地は天となるとも、此の経の行者の三悪道に落つる事あるべからず。
3月8日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事(孝不孝の事)」
(定2-363・P1744、創新329・P1898、校2-392・P1859、全P1563、新P1463)
身延、南条時光
宝13 満上105 真蹟なし
録外8-5 縮28-18 遺1943
*昭和定本「上野殿御返事」
創価学会新版「上野殿御返事(孝不孝の事)」
全集「上野殿御返事(孝不孝御書)」
*御仏に供しまいらせて
故上野殿御忌日の僧膳料(そうぜんりょう)米一たはら(俵)、たしかに給(た)び候ひ畢んぬ。御仏(みほとけ)に供(く)しまいらせて、自我偈一巻よみまいらせ候べし。
3月
曼荼羅(78)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰三月 日
*授与
日□授与之
*讃文
仏滅度後二千 二百二十余年之 間一閻浮提之 内未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
53.6×32.1㎝ 1紙
*備考
・授与書の「日」字の次下が剪除されている。
*所蔵
静岡県三島市玉沢 妙法華寺
3月
曼荼羅(79)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰三月 日
*授与
沙弥妙識
*讃文
仏滅度後二千二百二十余年 之間一閻浮提之内未曾 有大漫 荼 羅 也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
56.1×36.4㎝ 1紙
*備考
・当曼荼羅より、首題の「経」字が第四期の書体となる。
*所蔵
静岡県湖西市鷲津 本興寺
3月
曼荼羅(80)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰三月 日
*授与
日安女
*讃文
仏滅度後二千二百二十 余年之間一閻浮提 之内未曾 有大 漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
53.9×34.2㎝ 1紙
*所蔵
千葉県千葉市中央区長洲 随喜文庫
⇒日安女=弘安2年11月、弘安3年2月の計二回、曼荼羅を授与された優婆塞日安の妻ではないか。
3月
曼荼羅(81)を図顕する
*通称
臨滅度時御本尊
*顕示年月日
弘安三年太才(たいさい)庚辰(かのえたつ)三月 □
*讃文
仏滅度後二千二百 二十余年之間一閻 浮提之内 未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天大王 大月天王 明星天子 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
161.5×102.7㎝ 10枚継ぎ
*備考
・日蓮は入滅の時に臨み、床頭に漫荼羅を奉懸したとの記述がある書。
西山日代「宰相阿闍梨御返事」(宗全旧刊・興門集P234)
「当家宗旨名目」 (下巻二十九丁)
「立像等事」 (「本尊論資料」第一編P115)
「元祖化導記」 (下巻四十二丁)
・その臨滅度時の漫荼羅が即ち、当曼荼羅であることを記述した書。
「本化別頭仏祖統紀」 (六巻二十六丁)
「高祖年譜攷異」 (下巻五十三丁)
・「本化別頭仏祖統紀」が文永十一年四月の図顕としているのは失考。
・「集成」10
*所蔵
神奈川県鎌倉市大町 比企谷妙本寺
*フリー百科事典Wikipedia
*身延の草庵で安置された臨滅度時本尊
⇒紙背に「日朗(花押)」と小さく署名されていることが近年確認されており(「日蓮」中尾堯氏 2001年 吉川弘文館)、現在の所蔵寺院が比企谷妙本寺であることからも、曼荼羅(81)は日朗の門流で継承されてきたことが窺える。
3月
曼荼羅 (82)を図顕する
*通称
紫宸殿御本尊か
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰三月 日
*讃文
仏滅度後二千二百二十 余年之間一閻浮提 之内未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
95.5×50.5㎝(「御本尊集」では不詳) 3枚継ぎ
*備考
・右下隅の授与書を截落した形跡あり。
・「御本尊寫眞鑑」巻之一に収載してある弘安三年三月「沙弥日載授与之本尊」は、当曼荼羅を模写したものか。
*(富要8―178)
*所蔵
⇒「御本尊集」では「通称・記載なし」「宝蔵・不明」としているも、紫宸殿御本尊であれば大石寺となる。
この頃か
日蓮 熱原法難関係者に曼荼羅を図顕して授与する
白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事(弟子分本尊目録)より
(永仁六年戊戌) 日興記之、正本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
一、富士下方熱原新福地神主者、下野房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方三郎太郎者、下野房弟子也。日興仍申与之。
一、富士下方江美弥次郎者、越後房弟子也。日興仍申与之。
一、富士下方市庭寺太郎太夫入道者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺太郎太夫入道子息弥太郎者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺太郎太夫入道舎弟弟又次郎者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺弥四郎入道者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺田中弥三郎者、越後房弟子也。仍日興申与之。
4月10日
書を富木常忍に報ず
「富城入道殿御返事」
(定2-364・P1746、創新144・P1343、校2-394・P1862、新P1465)
身延・富城入道
創価学会新版・富木常忍
真蹟2紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
*創価学会新版「富城入道殿御返事(十羅刹守護の事)」
< 系年 >
昭和定本・創価学会新版「弘安3年4月10日」
*法華経に挙げ申し候ひ了んぬ
鵞目(がもく)一結(ゆ)ひ給(た)び候ひ了(おわ)んぬ。御志は法華経に挙げ申し候ひ了んぬ。定めて十羅刹御身を守護すること疑ひ無く候はんか。
4月10日
曼荼羅(83)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰卯月十日
*授与
尼日実授与之
*讃文
仏滅度後二千二百二十 余年之間一閻浮提 之内未曾有 大漫荼 羅 也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
104.3×54.2㎝ 3枚継ぎ
*所蔵
神奈川県鎌倉市大町 比企谷妙本寺
4月13日
曼荼羅(91)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰卯月十三日
*授与
盲目乗蓮授与之
*讃文
仏滅度後二千二百 二十余年之間 一閻浮提之内 未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
60.0×37.9㎝ 1紙
*備考
・稲田海素氏は、日興の「雑録」断片(宗全・興尊全集P144)に拠り、「盲目乗蓮」を然阿良忠の弟子行敏に擬している。
行敏トハ者乗蓮也、乗蓮ハ者念アミダガ弟子也。忍性トハ者極楽寺良観房也。文永八年太才辛未良観房訴状、雑掌行敏也。
・「当家宗旨名目」(下巻十一丁)
了性トハ河田谷ノ眞尊上人ノ事也、思念トハ念阿弥ノ事也。(乃至)乗蓮房ヲ念阿弥トモ行敏トモ云也。
*所蔵
京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺
⇒「日蓮宗宗学全書2巻P144」で、「編者云」「富士西山本門寺所蔵『園城寺申状』と題する興尊正筆雑録中に此文あり、史実の考証を資くるものあれば暫く茲に収む」とある。
⇒日興上人の「諸宗要文」(日興上人全集を発刊した興風談所がつけた名称・日興上人全集P46)
行敏者乗蓮也。乗蓮者念阿ミタ(弥陀)カ弟子也。忍性者極楽寺良観房也。
文永八年 太歳辛未 良観房訴状 雑掌行敏也。
( 以下、「行敏の訴状」「良観の添状」の記述。 )
⇒「盲目乗蓮」は、1271年・文永8年の日蓮と極楽寺良観の祈雨の勝負に始まり、竜の口、佐渡へと至る一連の法難の中で、鎌倉の諸宗の高僧達に担がれて日蓮に問答を挑み、続いて「日蓮一門のあらぬ罪をでっちあげて」幕府に訴えた念阿弥陀仏の弟子・行敏その人か。
4月19日
書を河合殿に報ず
「河合殿御返事(かわいどのごへんじ)」
(定4-441・P3022、創新357・P1952、校2-395・P1863、新P1465)
身延・河合殿
真蹟1紙13行・東京都 某氏蔵
(平成校定・大石寺蔵)
*昭和定本「かわいどの御返事」
創価学会新版「河合殿御返事」
*本文
人にたまたまあわせ給ふならば、む(向)かいくさき事なりとも向かはせ給ふべし。ゑまれぬ事なりともえませ給へ。かまへてかまへて、この御をんかほらせ給ひて、近くは百日、とを(遠)くは三ねん(年)つゝがなくば、みうちはしづまり候べし。それより内になに事もあるならば、きたらぬ果報なりけりと、人のわらわんはづかしさよ。かしく。
⇒熱原の法難余波を受ける河合家へ「百日、三年と堪え忍んでいけば御内も静まっていくであろう」と励ます。河合家は日興の母の実家であり、一族には滝泉寺を追放された日禅がいる。
4月
曼荼羅(84)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰卯月 日
*授与
削損シアリ
*讃文
仏滅度後二千二百二 十余年之間 一閻浮提之内 未曾有 大漫荼 羅 也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
59.1×40.6㎝ 1紙
*備考
・右下隅の授与書を削損した形跡あり。
*所蔵
京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺
4月
曼荼羅(85)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰卯月 日
*授与
俗□
*讃文
仏滅度後二千二百 二十余年之間 一閻浮提之内 未曾有大 漫荼 羅 也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
60.9×38.2㎝ 1紙
*備考
右下隅の授与書は表具の際に截落した模様であり解読は難しい。
*所蔵
長崎県大村市古町 本経寺
4月
曼荼羅(86)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰卯月 日
*授与
日妙[之]
*讃文
仏滅度後二千二百二十 余年之間未曾 有大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因天王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多
*寸法
59.4×40.4㎝ 1紙
*所蔵
滋賀県近江八幡市馬淵町 妙感寺
4月
曼荼羅(87)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰卯月 日
*授与
削損シアリ
*讃文
仏滅度後二千二 百二十余年之間 一閻浮提之内 未曾有大漫 荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多
*寸法
61.8×40.9㎝ 1紙
*備考
・右下隅の授与書を削損した形跡あり。
・当曼荼羅はもと本阿弥家に伝来するもの。
・昭和10年、某家より身延山に奉納される。
*所蔵
山梨県南巨摩郡身延町身延 身延山久遠寺
4月
曼荼羅(88)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰卯月 日
*授与
優婆塞藤原広宗 授与之
*讃文
仏滅度後二千 二百二十余年之 間一閻浮提之 内未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
60.9×40.0㎝ 1紙
*所蔵
京都府京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町 本法寺
4月
曼荼羅(89)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰卯月 日
*授与
尼日厳 授与之
*讃文
仏滅度後二千二百 二十余年之間 一閻浮提之内 未曾有大 漫荼羅 也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅大王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
93.9×51.5㎝ 3枚継ぎ
*備考
・「本化別頭仏祖統紀」(二十五巻初丁)は、日厳尼を以て「駿州富士郡高橋入道ノ妻也」とするも、尼崎本興寺藏「建治二年二月の曼荼羅(32)」に存する日興の添書に依れば、「高橋六郎兵衛入道ノ後家持妙尼」とあり、「統紀」の説は首肯できない。
・「高祖年譜攷異」(下巻三十九丁)も同じく「統紀」の所説を不審とする。
*所蔵
京都府京都市上京区寺之内通新町西入ル妙顕寺前町 妙顕寺
4月
曼荼羅を図顕する
*(富要8―178)
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰卯月 日
*他、不詳
*所蔵
茨城県古河市新和田 富久成寺
5月3日
書を窪尼に報ず
「窪尼御前御返事(くぼのあまごぜんごへんじ)(虚御教書[そらみぎょうしょ]の事)」
(定2-288・P1502、創新371・P1978、校2-396・P1864、全P1478、新P1466)
身延・窪尼御前
創価学会新版・窪尼
真蹟4紙断簡・千葉県安房郡鋸南町吉浜 保田妙本寺蔵
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日朝本 宝8
録外5-16 遺24-56 縮1726
*昭和定本「窪尼御前御返事」
創価学会新版「窪尼御前御返事(虚御教書の事)」
平成校定「窪尼御前御返事(三物書)(与持妙尼書)」
全集「窪尼御前御返事(虚御教書事)」
< 系年 >
昭和定本・全集「弘安元年5月3日」
創価学会新版「弘安期」
平成校定「弘安3年5月3日」
⇒高橋六郎兵衛の妻=妙心尼=窪尼=持妙尼・日興の叔母
*夏の身延山
粽(ちまき)五把(わ)・笋(たかんな)十本・千日(さけ)ひとつゝ(筒)給(た)び了(おわ)んぬ。いつもの事に候へども、ながあめ(長雨)ふりてなつ(夏)の日ながし。山はふかく、みち(路)しげければ、ふ(踏)みわ(分)くる人も候はぬに、ほとゝぎすにつけての御ひとこへ(一声)ありがたしありがたし。
*あつわら(熱原)の事
さてはあつわら(熱原)の事、こんど(今度)をもってをぼしめせ。さきもそら(虚)事なり。かう(守)のとの(殿)は人のいゐしにつけて、くはしくもたづ(訊)ねずして此の御房をなが(流)しける事あさましとをぼして、ゆるさせ給ひてののちは、させるとが(科)もなくては、いかんが又あだ(怨)せらるべき。すへ(末)の人々の法華経を心にはあだめども、うへ(上)にそし(誹)らばいかんがとをもひて、事にかづけて人をあだむほどに、かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ。これはそらみげうそ(虚御教書)と申す事はみ(見)ぬさきよりすい(推)して候。さど(佐渡)の国にてもそらみげうそ(虚御教書)を三度までつくりて候ひしぞ。
*経(法華経)は
日蓮はいやしけれども、経は梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のま(守)ぼらせ給ふ御経なれば、法華経のかたをあだむ人々は剣をのみ、火を手ににぎるなるべし。
⇒文中「あつわらの事」とあり、これは熱原法難のことに触れていると思われる。当書は弘安3年の書となるか。
5月4日
書を窪尼に報ず
「妙心尼御前御返事(妙の字功徳の事)」
(定2-365・P1747、創新365・P1971、校2-262・P1357、全P1483、新P1119)
身延・妙心尼
創価学会新版・窪尼(くぼのあま)
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
宝12 満下125
録外5-26 遺28-21 縮1946
*昭和定本「妙心尼御前御返事(妙字御消息)」
創価学会新版「妙心尼御前御返事(妙の字功徳の事)」
< 系年 >
昭和定本・全集「弘安3年5月4日」
創価学会新版「建治2年または同3年の5月4日」
平成校定「建治3年5月4日」
⇒高橋六郎兵衛の妻=妙心尼=窪尼=持妙尼・日興の叔母
*妙の文字は~釈迦如来
又妙の文字は花のこのみとなるがごとく、半月の満月となるがごとく、変じて仏とならせ給ふ文字なり。
されば経に云はく「能く此の経を持つは則ち仏身を持つなり」と。
天台大師の云はく「一々文々是真仏なり」等云云。
妙の文字(もんじ)は三十二相八十種好円備(えんび)せさせ給ふ釈迦如来にておはしますを、我等が眼つたなくして文字とはみまいらせ候なり。
譬へば、はちす(蓮)の子(み)の池の中に生(お)ひて候がやうに候。はちすの候を、としよりて候人は眼くらくしてみず。よる(夜)はかげ(影)の候を、やみ(暗)にみざるがごとし。されども此の妙の字は仏にておはし候なり。又、此の妙の文字は月なり、日なり、星なり、かゞみなり、衣なり、食なり、花なり、大地なり、大海なり。一切の功徳を合はせて妙の文字とならせ給ふ。又は如意宝珠のたまなり。かくのごとくしらせ給ふべし。くはしくは又々申すべし。
5月8日
曼荼羅(92)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰五月八日
*授与
沙門日華授与 之
*讃文
仏滅度後二千二百二十余年 之間一閻浮提之内 未曾有大漫 荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*日興添書
大本門寺重宝也
甲斐国蓮華寺住僧寂日房者 依為日興第一弟子 所申与之如件
*寸法
95.1×58.8㎝ 3枚継ぎ
*備考
・日興の「弟子分本尊目録」
一、甲斐国蓮華寺住僧寂日房者、依為日興第一弟子 所申与如件。
*(富要8―223)
(興師加筆)甲斐の国蓮華寺住僧寂日房は日興第一の弟子たるに依って之を与へ申す所件の如し、大本門寺の重宝なり
*所蔵
京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町 本能寺
5月8日
曼荼羅(93)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰五月八日
*授与
削損
*讃文
仏滅度後二千二百二十 余年之間一閻浮 提之内未曾 有大漫 荼羅 也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天大王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
99.1×54.2㎝ 3枚継ぎ
*備考
・右下隅の授与書を削損した形跡あり。
*所蔵
静岡県沼津市下河原 妙海寺
*「日蓮宗新聞」より 2003.12.10
日蓮聖人ご真筆曼荼羅本尊から指紋
大きな発見につながる可能
静岡県沼津市の妙海寺(笹津海道住職)で格護されている弘安三年五月の日蓮聖人曼荼羅本尊から聖人御自身のものとみられる指紋が見つかった。これは今年の三月から進められていた修復調査で明らかになったもので、中尾堯・立正大学名誉教授が確認。聖人の実像を肌で感じることのできる大きな発見につながる可能性が高い。
(本紙九月二十日号「ご真蹟に触れる」に一部既報)
指紋が見つかった曼荼羅本尊は、日蓮聖人六十歳の弘安三年(一二八〇)五月八日に顕示されたもので、大きさは丈九九㌢×幅五四㌢。指紋は向かって左下の「大増長天王」(図①)と中央下の花押の部分(図②)に合わせて約十ヵ所みられ、遠目では気づかないが、近寄って目をこらして見るといくつかの指跡を見ることができる。
中尾教授によると、日蓮聖人が曼荼羅本尊を揮毫される際、「大増長天王」の部分は四天王の中でも最後に書かれ、墨の乾かないうちに署名と花押に移る。その時〝天〟と〝王〟の付近に左手を添えられ、偶然にも指紋が残ったと推測される。
また料紙の表面には、滑りのよいように木槌でたたいて紙の目を緻密に加工する「打ち紙」の技法が施され耐水性に優れているため、墨跡が乾きにくかったことも影響しているとみられる。
さらに花押部分の指跡に関しては、ちょうど同じ日に揮毫された日華上人授与の曼荼羅本尊(法華宗本門流本山・京都本能寺蔵)の存在も関係しているという。すなわち日蓮聖人は本能寺蔵の曼荼羅本尊を先に揮毫されたために、二幅目(妙海寺の曼荼羅本尊)を書き上げ、最後に筆をおろした時には、その労力の大きさから思わずフラッと料紙に両手を付かれたという想像も成り立つとしている。
中尾教授は「文字中に残された指紋からは、日蓮聖人が渾身の力を込めて曼荼羅本尊を揮毫されていた尊いお姿が伺われ、聖人の実像を身近に感じることのできる数少ない例となるのではないか」と語っている。
5月9日
曼荼羅を図顕する
*(富要8―P178)
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰五月九日
*授与
比丘日禅授与之
*讃文
仏滅度後二千二百二十 余年之間一閻浮提 之内未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
不詳
*「富要」8巻上記ページより
弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す
(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(また同御加筆御花押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)
本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり 法道院(現在は大石寺)
*所蔵
静岡県富士宮市上条 大石寺
*「法華仏教研究」25号 川﨑弘志氏の論考「日禅に授与された漫荼羅本尊の来歴について」
⇒当曼荼羅は「本門戒壇之御本尊」との関連が指摘されており、「日禅授与本尊」とも通称されている。
5月18日
曼荼羅を図顕する
*「日亨本尊鑑」(P58) 第29 弘安三年五月十八日御本尊 底本(第20)
「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P264)
*模写
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰五月十八日
*授与
沙門日命授与之
*讃文
仏滅度後二千二百三十 余年之間 一閻浮提之内 未曽有 大漫荼 羅也
若悩乱者 頭破七分 有供養者 福過十号 讃者積福於安明 謗者開罪於無間
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王 大迦楼羅王
*寸法
116.5×60.6㎝
*所蔵
身延山久遠寺曽存
⇒弘安3年5月に讃文中「三十余年」とあるのは異例。座配に「大迦楼羅王」を列するのはこの一幅のみ。
5月26日
書を富木常忍に報ず
「諸経と法華経と難易の事」
(定2-367・P1750、創新145・P1344、校2-398・P1867、全P991、新P1467)
身延・富木常忍
真蹟10紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
信伝本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
日朝本 平18
録内17-34 遺28-23 縮1948
*昭和定本「諸経与法華経難易事」
創価学会新版「諸経と法華経と難易の事」
平成校定「諸経与法華経難易事(報富木氏書)」
全集「諸経と法華経と難易の事(難信難解法門)」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*仏法は体、世間は影
而(しか)るをいかにやしけん、弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に、此の義すでに日本国に隠没(おんもつ)して四百余年なり。珠(たま)をもって石にかへ、栴檀(せんだん)を凡木(ぼんぼく)にうれり。仏法やうやく顚倒(てんどう)しければ世間も又濁乱(じょくらん)せり。仏法は体のごとし、世間はかげ(影)のごとし。体曲がれば影なゝめなり。幸ひなるは我が一門、仏意(ぶっち)に随って自然に薩般若海(さばにゃかい)に流入す。苦しきは世間の学者、随他意を信じて苦海に沈まん。
5月26日
曼荼羅を図顕する
*(富要8―178)
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰五月二十六日
*授与
沙門民部日向授与之
*寸法
88.5×48.0㎝
*所蔵
静岡県富士宮市上条 大石寺
5月28日
「法華経」講義終えると伝う
「御講聞書(日向記)・おんこうききがき」
(定3講記・P2541、創新96・P1120、校3講義2・P2243、全P807、新P1816)
身延・(筆録)日向
大永本・京都府京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町 要法寺蔵
新曾本・埼玉戸田市新曽 妙顕寺蔵
日向筆なし
*弘安元年戊寅三月十九日より連々の御講、同三年五月二十八日至る、仍(よ)って之を記し畢(おわ)んぬ。
5月29日
書を新田信綱夫妻に報ず
「新田殿御書(にいだどのごしょ)」
(定2-368・P1752、創新260・P1725、校2-399・P1870、全P1452、新P1470)
身延・新田四郎信綱、その妻
創価学会新版・新田信綱夫妻
真蹟1紙11行完・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
平成校定「大石寺曽存」
縮続142
< 系年 >
昭和定本「弘安3年5月29日新田四郎へ(堀日亨)」
*仏は釈迦仏・経は法華経・行者は法華経の行者=三事既に相応せり
使ひの御志限り無き者か。経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似(あいに)たり。三事既に相応せり。檀那の一願(いちがん)必ず成就せんか。
5月18日
書を妙一尼に報ず
「妙一尼御前御返事」
(定2-366・P1749、創新245・P1697、校2-397・P1866、全P1255、新P1467)
身延・妙一尼
満下241 真蹟なし
受1-27 録外25-7 遺28-22 縮1948
*全集「妙一尼御前御返事(信心本義事)」
*昭和定本「弘安3年5月18日」
創価学会新版「弘安3年5月」
*法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ・・・
夫(それ)信心と申すは別にはこれなく候。妻のをとこ(夫)をおしむが如く、をとこ(夫)の妻に命をす(捨)つるが如く、親の子をす(捨)てざるが如く、子の母にはな(離)れざるが如くに、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて、南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり。
6月15日
南条七郎次郎(時光)・七郎五郎兄弟 身延に参詣(上野殿御返事・全P1564、上野殿御書・P1567)
6月24日
延暦寺衆徒 園城寺北院を焼く(一代要記、続史愚抄)
6月27日
書を窪尼に報ず
「窪尼御前御返事(阿那律[あなりつ]の事)」
(定2-369・P1753、創新369・P1976、校2-400・P1871、全P1485、新P1470)
身延・窪尼(くぼのあま)
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
宝8 満上233
録外5-13 遺28-25 縮1951
*本満寺本「窪尼御前御返事=阿那律事」
昭和定本「窪尼御前御返事」
創価学会新版「窪尼御前御返事(阿那律の事)」
平成校定「窪尼御前御返事(阿那律事)(与持妙尼書)」
全集「窪尼御前御返事(阿那律事)」
⇒高橋六郎兵衛の妻=妙心尼=窪尼=持妙尼・日興の叔母
*法華経に供養しまいらせ給ふ
仏の御弟子の中にあなりち(阿那律)と申せし人は、こくぼん(斛飯)王の御子、いえ(家)にたから(宝)をみ(満)てゝおはしき。のち(後)に仏の御でし(弟子)となりては、天眼第一のあなりち(阿那律)とて、三千大千世界を御覧ありし人、法華経の座にては普明如来(ふみょうにょらい)とならせ給ふ。そのさき(前)のよ(世)の事をたづぬれば、ひえ(稗)のはん(飯)を辟支仏(びゃくしぶつ)と申す仏の弟子にくやう(供養)せしゆへなり。
いまの比丘尼(びくに)は、あわ(粟)のわさごめ(早稲米)山中にをくりて法華経にくやう(供養)しまいらせ給ふ。いかでか仏にならせ給はざるべき。
6月
曼荼羅(94)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰六月 日
*授与
俗日円 授与之
*讃文
仏滅度後二千二百 二十余年之間 一閻浮 提之内 未曾有 大漫 荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
46.1×30.3㎝ 1紙
*所蔵
福井県小浜市小浜酒井 長源寺
6月
曼荼羅(95)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰六月 日
*授与
俗藤原国貞 法名日十授与之
*讃文
仏滅度後二千二百二十 余年之間一閻 浮提 之内 未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
65.8×40.0㎝ 2枚継ぎ
*所蔵
京都府京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町 本法寺
6月
曼荼羅(96)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰六月 日
*授与
俗日肝授与之
*讃文
仏滅度後二千二百二 十余年之間 一閻浮提之 内未曾 有大 漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
60.3×38.5㎝ 1紙
*所蔵
愛知県海部郡甚目寺町中萱津南宿 実成寺
7月1日
佐渡国・遠藤藤九郎守綱 再度身延に参詣(千日尼御返事・全P1322)
7月2日
書を大田殿女房に報ず
「大田殿女房御返事(おおたどののにょうぼうごへんじ) (即身成仏抄)」
(定2-370・P1754、創新159・P1380、校2-401・P1872、全P1005、新P1471)
身延・大田殿女房
真蹟21紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
日朝本 満上219 平29
録内38-26 遺19-17 縮1271
*本満寺本「大田殿女房御返事=即身成仏抄」
昭和定本「大田殿女房御返事(即身成仏事)」
創価学会新版・平成校定・全集「大田殿女房御返事(即身成仏抄)」
< 系年 >
昭和定本「弘安3年7月2日(山)或は建治元年(縮)」
創価学会新版・平成校定「弘安3年7月2日」
全集「建治元年7月2日」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*即身成仏は法華経に限る
しかれども釈迦・多宝・十方(じっぽう)の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限るとをぼしめされて候ぞ。我が弟子等は此の事ををも(思)ひ出にせさせ給へ。
*即身成仏の明文
即身成仏の手本たる法華経をば指(さ)しをいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て、剰へ唯の一字をを(置)かるゝ条、天下第一の僻見(びゃっけん)なり。此(これ)偏(ひとえ)に修羅根性(しゅらこんじょう)の法門なり。天台智者大師の文句の九に、寿量品の心を釈して云はく「仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之を秘して伝へず」とかゝれて候。此こそ即身成仏の明文にては候へ。
7月2日
書を千日尼に報ず
「千日尼御返事」
(定2-371・P1759、創新268・P1748、校2-402・P1877、全P1318、新P1474)
身延・千日尼
真蹟23紙完・新潟県佐渡市阿仏坊 妙宣寺蔵
日朝本
録内31-24 遺28-26 縮1952
*昭和定本「千日尼御返事(阿仏房書)」
創価学会新版「千日尼御返事」
平成校定「千日尼御返事(阿仏房抄)」
全集「千日尼御返事(孝子財御書)」
*法華経の御宝前
鵞目(がもく)一貫五百文・のり(海苔)・わかめ・ほしい(干飯)、しなじなの物給(た)び候ひ了(おわ)んぬ。法華経の御宝前に申し上げて候。
*釈迦如来の一代聖教を残りなく読む
法華経に云はく「若し法を聞く者有らば一(ひとり)として成仏せざること無し」云云。文字は十字にて候へども法華経を一句よみまいらせ候へども、釈迦如来の一代聖教をのこ(残)りなく読むにて候なるぞ。故に妙楽大師云はく「若し法華を弘むるには凡(およ)そ一義を消するも皆一代を混(こん)じて其の始末を窮(きわ)めよ」等云云。
*無一不成仏
此より外の阿含(あごん)経・方等(ほうどう)経・般若(はんにゃ)経等は五千・七千余巻なり。此等の経々は見ずきかず候へども、但法華経の一字一句よみ候へば、彼々の経々を一字もを(落)とさずよむにて候なるぞ。
譬(たと)へば月氏・日本と申すは二字、二字に五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国(ぞくさんこく)の大地・大山・草木・人畜等をさまれるがごとし。譬へば鏡はわづかに一寸・二寸・三寸・四寸・五寸と候へども、一尺・五尺の人をもうかべ、一丈・二丈・十丈・百丈の大山をもうつ(映)すがごとし。
されば此の経文をよみて見候へば、此の経をき(聞)く人は一人もか(欠)けず仏になると申す文なり。
中略
法華経に値(あ)はずばなにかせん。大悪もなげ(歎)く事なかれ、一乗を修行せば提婆が跡をもつぎなん。此等は皆無一不成仏の経文のむなしからざるゆへぞかし。
*多宝仏の宝塔の内に
されば故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑ふとも、法華経の明鏡をもって其の影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東む(向)きにをはすと日蓮は見まいらせて候。
*寂光の浄土に
若し此の事そらごと(虚事)にて候わば、日蓮がひがめにては候はず、釈迦如来の「世尊法久後(せそんほうくご)、要当説真実(ようとうせつしんじつ)」の御舌と、多宝仏の「妙法華経、皆是真実(かいぜしんじつ)」の舌相(ぜっそう)と、四百万億那由他(まんのくなゆた)の国土にあさ(麻)のごとく、いね(稲)のごとく、星のごとく、竹のごとくぞくぞく(簇簇)とすきもなく列なりゐてをはしましゝ諸仏如来の、一仏もか(欠)け給はず広長舌を大梵王宮(だいぼんのうぐう)に指し付けてをはせし御舌どもの、くぢら(鯨)の死にてくさ(腐)れたるがごとく、いやし(鰯)のよりあつ(集)まりてくさ(腐)れたるがごとく、皆一時にく(朽)ちくさ(腐)れて、十方世界の諸仏如来大妄語の罪にを(堕)とされて、寂光の浄土の金(こん)るり(瑠璃)の大地、はたとわ(割)れて、提婆がごとく無間大城にかぱと入り、法蓮香比丘尼(ほうれんこうびくに)がごとく身より大妄語の猛火ぱといでて、実報(じっぽう)華王(けおう)の花のその(園)一時に灰(かい)じん(燼)の地となるべし。いかでかさる事は候べき。
故阿仏房一人を寂光の浄土に入れ給はずば諸仏は大苦に堕ち給ふべし。たゞをいて物を見よ物を見よ。仏のまこと・そら事は此にて見奉るべし。
*藤九郎守綱・法華経の行者、甲州波木井身延山・法華経の道場
而るに故阿仏聖霊は日本国北海の島のいびす(夷)のみ(身)なりしかども、後生ををそれて出家して後生を願ひしが、流人日蓮に値(あ)ひて法華経を持ち、去年の春仏になりぬ。尸陀(しだ)山の野干(やかん)は仏法に値ひて、生をいとい死を願ひて帝釈と生まれたり。阿仏上人は濁世の身を厭(いと)ひて仏になり給ひぬ。其の子藤九郎守綱(とうくろうもりつな)は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて、去年は七月二日、父の舎利(しゃり)を頸(くび)に懸け、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登りて法華経の道場に此をおさめ、今年は又七月一日身延山に登りて慈父のはか(墓)を拝見す。
子にすぎたる財なし、子にすぎたる財なし。
*既に法門日本国にひろまりて候
追申
絹の染め袈裟一つまいらせ候。豊後房(ぶんごぼう)に申さるべし。既に法門日本国にひろまりて候。北陸道をば豊後房なびくべきに学生(がくしょう)ならでは叶ふべからず。九月十五日已前にいそぎいそぎまいるべし。
7月2日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事(神主等庇護[かんぬしとうひご]の事)」
(定2-372・P1766、創新330・P1900、校2-403・P1885、全P1564、新P1479)
身延・南条時光
真蹟第1、2、3紙及追書1行断簡・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日興本・大石寺蔵
宝13 満上107
録外8-3 受2-16 遺28-33 縮1960
*昭和定本「上野殿御返事」
創価学会新版「上野殿御返事(神主等庇護の事)」
全集「上野殿御返事(熱原外護事)」
*熱原の神主
去ぬる六月十五日のげざん(見参)悦び入って候。さてはかうぬし(神主)等が事、いまゝでかゝ(抱)へをかせ給ひて候事ありがたくをぼへ候。
中略
を(置)かせ給ひてあ(悪)しかりぬべきやうにて候わば、しばらくかうぬし等をばこれへとをほ(仰)せ候べし。めこ(妻子)なんどはそれに候ともよも御たづねは候はじ。事のしづまるまでそれにを(置)かせ給ひて候わば、よろしく候ひなんとをぼへ候。
⇒熱原の神主をかくまってくれた礼を述べ、状況が悪ければ「これへ=身延山」へ寄こすように言われる。妻子についての詮索などはないであろう、と。
*法華経をたのみまいらせて
(世間が蒙古の影に怯えているのに対し) 我等は法華経をたのみまいらせて候へば、あさ(浅)きふち(淵)に魚のす(住)むが、天くも(曇)りて雨のふらんとするを、魚のよろこ(喜)ぶがごとし。しばらくの苦こそ候とも、ついにはたの(楽)しかるべし。国王の一人の太子のごとし、いかでか位につかざらんとおぼ(思)しめ(召)し候へ。
7月14日
書を妙一女に報ず
「妙一女御返事(みょういちにょごへんじ) (即身成仏法門)」
(定2-375・P1777、創新411・P2124、校2-405・P1889、全P1255、新P1484)
身延・妙一尼
創価学会新版・妙一女(みょういちにょ)
日朝本 平23 真蹟なし
録内21-30 遺28-36 縮1964
*昭和定本「妙一女御返事」
創価学会新版・全集「妙一女御返事(即身成仏法門)」
平成校定「妙一女御返事(真言法華即身成仏抄)」
*正しき文を出だせ
弘法大師の大日経を法華経・華厳経に勝れたりと申す証文ありや。法華経には華厳経・大日経等を下す文(もん)分明(ふんみょう)なり。所謂已今当(いこんとう)等なり。弘法尊しと雖も釈迦・多宝・十方分身の諸仏に背く。大科(たいか)免れ難し。事を権門(けんもん)に寄せて日蓮ををど(脅)さんより但正しき文を出だせ。汝等は人をかたうど(方人)とせり。日蓮は日月・帝釈・梵王をかたうど(方人)とせん。日月天眼(てんげん)を開いて御覧あるべし。
*日蓮への迫害=釈迦・多宝・十方の諸仏の頸を切ろうとするがごとし
日蓮が二度の流罪、結句は頸(くび)に及びしは、釈迦・多宝・十方の諸仏の御頸を切らんとする人ぞかし。日月は一人にてをはせども、四天下の一切衆生の眼なり、命なり。日月は仏法をなめて威光勢力を増し給ふと見へて候。仏法のあぢ(味)わいをたが(違)うる人は日月の御力をうばう人、一切衆生の敵なり。いかに日月は光を放ちて、彼等が頂をてらし、寿命と衣食とをあたへて、やしなひ給ふぞ。
8月1日
書を著すと伝う
「当体蓮華抄」
(定3続編39・P2129、校3真偽未決書12・P2869)
身延・最蓮房
日朝本 満上353 真蹟なし
録外23-2 縮続70
*平成校定「当体蓮華抄(最蓮房書)」
8月14日
書を内房女房に報ず
「内房女房御返事(うつぶさのにょうぼうごへんじ)」
(定2-376・P1784、創新389・P2030、校2-406・P1896、全P1420、新P1489)
身延・内房女房
宝19 満下320 真蹟なし
録外10-8 受7-13 遺28-43 縮1971
*平成校定「内房女房御返事(報中臣某女書)」
全集「内房女房御返事(白馬白鳥御書)」
*亡き父の百箇日に
内房(うつぶさ)よりの御消息に云はく、八月九日、父にてさふら(候)ひし人の百箇日に相当たりてさふら(候)ふ。御布施料に十貫まいらせ候、乃至あなかしこ、あなかしこ。御願文の状に云はく「読誦し奉る妙法蓮華経一部、読誦し奉る方便寿量品三十巻、読誦し奉る自我偈三百巻、唱へ奉る妙法蓮華経の題名五万返」云云。同状に云はく「伏して惟(おもんみ)れば先考(せんこう)の幽霊生存の時、弟子遥かに千里の山河を陵(しの)ぎ、親(まのあた)り妙法の題名を受け、然る後三十日を経ずして永く一生の終はりを告ぐ」等云云。又云はく「嗚呼(ああ)閻浮の露庭に白骨仮りに塵土(じんど)と成るとも、霊山の界上に亡魂定んで覚蕊(かくずい)を開かん」と。又云はく「弘安三年女弟子大中臣(おおなかとみ)氏敬白す」等云云。
*一部八巻二十八品の功徳を五字の内に収める
是皆名に徳を顕はせば、今妙法蓮華経と申し候は一部八巻二十八品の功徳を五字の内に収め候。譬へば如意宝珠の玉に万(よろず)の宝を収めたるが如し。一塵に三千を尽くす法門是なり。
*南無とは
南無と申す字は敬ふ心なり、随ふ心なり。故に阿難尊者は一切経の如是の二字の上に南無等云云。南岳大師云はく「南無妙法蓮華経」云云。天台大師云はく「稽首(けいしゅ)妙法蓮華経」云云。伝教大師云はく、稽首等云云。
*悪変じて善、石を玉となす、凡夫を仏となす
妙法蓮華経の徳あらあら申し開くべし。毒薬変じて薬となる。妙法蓮華経の五字は悪変じて善となる。玉泉(ぎょくせん)と申す泉は石を玉となす。此の五字は凡夫を仏となす。されば過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり。石変じて玉と成るが如し。孝養の至極と申し候なり。
8月26日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事 (日若御前誕生[ひわかごぜんたんじょう]の事)」
(定2-377・P1791、創新331・P1902、校2-407・P1903、全P1566、新P1494)
身延・南条時光
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
宝13 満下366
録外10-27 遺29-1 縮1978
*本満寺本「上野殿御返事=子財之事」
昭和定本「上野殿御返事(子財書)」
創価学会新版「上野殿御返事 (日若御前誕生の事)」
全集「上野殿御返事」(日若御前誕生事)
*女子(おなご)は門をひら(開)く、男子は家をつ(継)ぐ。日本国を知ても子なくば誰にかつ(継)がすべき。財を大千にみて(満)ても子なくば誰にかゆづ(譲)るべき。されば外典三千余巻には子ある人を長者といふ。内典五千余巻には子なき人を貧人といふ。女子一人男子一人、たとへば天には日月のごとし、地には東西にかたどれり。鳥の二のはね(羽)、車の二のわ(輪)なり。さればこの男子をば日若御前と申させ給へ。くはしく(委)は又又申すべし。
8月
南条時光長男・日若 生る(上野殿御返事・全P1566)
8月
定清 東寺長者に補任される(東寺補任・続史愚抄)
8月
曼荼羅(97)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰八月 日
*授与
俗日重 授与之
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之 内未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
53.9×34.2㎝ 1紙
*備考
・当曼荼羅以降の讃文はすべて「三十余年」を用いる。
*所蔵
静岡県沼津市岡宮 光長寺
9月3日
曼荼羅(98)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰九月三日
*授与
俗日目 授与之
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提 之内未曾 有大 漫荼羅 也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*添書
富士上方上野弥三郎重満与之 日興
正和元年出家三郎左近入道也
*寸法
47.0×31.5㎝ 1紙
*備考
・左下隅の添書は日興の筆蹟と見えるも、損傷しているために確認は難しい。
・日興 「弟子分本尊目録」
一、富士上野弥三郎重光者、日興弟子也。仍申与之。上野殿ノ家人也。
*(富要8―223)
*所蔵
京都府京都市上京区寺之内通大宮東入ル妙蓮寺前町 妙蓮寺
9月5日
南条七郎五郎(時光弟) 寂16歳(上野殿御書・定P1793・全P1572)
9月6日
書を南条時光に報ず
「上野殿御書(七郎五郎死去の事)」
(定2-379・P1793、創新332・P1903、校2-409・P1905、全P1567、新P1496)
身延・南条時光および母尼
創価学会新版・南条時光
真蹟3紙完・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
宝13 満上318
録外8-30 遺29-2 縮1980
*昭和定本「上野殿後家尼御前御書」
創価学会新版「上野殿御書(七郎五郎死去の事)」
平成校定「上野殿御返事(上野殿後家尼御前御書)(弔書)」
全集「上野殿御書(弔慰御書)」
*南条七郎五郎の死去を悼む
南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生まれて死するなら(習)いとは、智者も愚者も上下一同に知りて候へば、始めてなげ(嘆)くべしをどろ(驚)くべしとわをぼ(覚)へぬよし、我も存じ人にもをし(教)へ候へども、時にあ(当)たりてゆめ(夢)かまぼろし(幻)か、いまだわきま(弁)へがたく候。まして母のいかんがなげ(嘆)かれ候らむ。
*釈迦仏・法華経に身を入れて候ひしかば
追申。此の六月十五日に見奉り候ひしに、あはれ肝ある者かな、男なり男なりと見候ひ
しに、又見候はざらん事こそかなしくは候へ。さは候へども釈迦仏・法華経に身を入れて候ひしかば臨終目出たく候ひけり。心は父君と一所に霊山浄土に参りて、手をとり頭を合はせてこそ悦ばれ候らめ。あはれなり、あはれなり。
9月8日
曼荼羅(99)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰九月八日
*授与
優婆夷源日教授与之
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之内 未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
46.1×30.9㎝ 1紙
*備考
・当曼荼羅は、現在、神奈川県横浜市港南区日野町の唱導寺にて格護。
*所蔵
神奈川県横浜市中区 某家
9月
書を南条時光に報ず
「南条殿御返事(七郎五郎追善の事)」
(定2-380・P1794、創新333・P1904、校2-412・P1908、全P1566、新P1498)
身延・南条時光および母尼
創価学会新版・南条時光
真蹟1紙断簡10行・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
縮続142
< 系年 >
昭和定本「弘安3年9月(鈴)」
*昭和定本「南条殿御返事」
創価学会新版「南条殿御返事(七郎五郎追善の事)」
全集「南条殿御返事(五郎殿悲報事)」
*本文
はくまい(白米)ひとふくろ(一袋)、いも(芋)一だ(駄)給(た)び了(おわ)んぬ。
抑(そも)そも故なんでう(南条)の七らう(郎)ごらう(五郎)どの(殿)の事、いままで(今迄)はゆめ(夢)かゆめ(夢)か、まぼろし(幻)かまぼろ(幻)しかとうたが(疑)いて、そらごと(虚事)とのみをも(思)ひて候へば、この御ふみ(文)にもあそばされて候。さてはまこと(真)かまこと(真)かと、はじめ(始)てうたが(疑)いい(出)でき(来)たり候。
9月11日
天王寺屋浄本 卒(本化別頭仏祖統記・本化高祖年譜)
9月19日
書を光日尼に報ず
「光日尼御返事」
(定2-381・P1795、創新110・P1264、校2-410・P1906、全P934、新P1497)
身延・光日尼
真蹟1紙断簡(第2紙12行)・静岡県富士宮市小泉 久遠寺蔵
縮続160
< 系年 >
昭和定本「弘安3年9月19日(鈴)」
創価学会新版「弘安3年9月19日」
*本文
なきな(名)をなが(流)させ給ふにや。三つのつな(綱)は今生(こんじょう)に切れぬ。五つのさわ(障)りはすで(既)には(晴)れぬらんむ。心の月くも(曇)りなく、身のあか(垢)き(消)へは(果)てぬ。即身の仏なり。たうと(尊)し、たうと(尊)し。くはしく申すべく候(そうら)へども、あまりふみ(文)をゝ(多)くか(書)き候ときにか(書)きたりて候ぞ。恐々謹言。
9月20日
書を大尼御前に報ず
「大尼御前御返事」
(定2-382・P1795、創新106・P1224、校2-411・P1907、全P908、新P1497)
身延・大尼御前
真蹟1紙断簡(第22紙16行)・京都府京都市左京区仁王門通川端東入大菊町 頂妙寺蔵
縮続148
< 系年 >
昭和定本「弘安3年9月20日(鈴)」
創価学会新版「弘安3年9月20日」
*本文
ごくそつ(獄卒)・えんま(閻魔)王の長(たけ)は十丁ばかり、面(おもて)はす(朱)をさ(差)し、眼は日月(にちがつ)のごとく、歯はまんぐわ(馬鍬・まぐわ、牛馬にひかせて田畑をかきならすくわ)のね(子)のやうに、くぶし(拳)は大石のごとく、大地は舟を海にう(浮)かべたるやうにうご(動)き、声はらい(雷)のごとく、はたはたとな(鳴)りわたらむには、よも南無妙法蓮華経とはをほせ候はじ。
日蓮が弟子にてはおはせず。よくよく内(うち)をしたた(認)めてをほ(仰)せをかほ(被)り候はん。なづき(頭脳)をわ(破)り、み(身)をせ(責)めていの(祈)りてみ候はん。たださき(先)のいの(祈)りとをぼ(思)しめせ。これより後は、のち(後)の事をよくよく御かた(固)め候へ。恐々謹言。
9月24日
筑前国筥崎宮 焼失
9月
日興 日澄母尼に日蓮曼荼羅(京都妙覚寺蔵)を申し与う(日興門流上代事典P656)
⇒御本尊集No55、顕示年月日不明、京都妙覚寺所蔵
・日興添書 「可為本門寺 重宝也 因幡国富城寂仙房日澄母尼 弘[安]三年九月申与之」
・日澄母尼=富木常忍の後妻であり、日頂、日澄兄弟の母
10月5日
書を妙一女に報ず
「妙一女御返事(みょういちにょごへんじ) (事理成仏抄[じりじょうぶつしょう])」
(定2-383・P1796、創新412・P2131、校2-413・P1908、全P1260、新P1498)
身延・妙一女
宝11 真蹟なし
録外18-26 受5-30 遺29-3 縮1981
*昭和定本「妙一女御返事」
創価学会新版・全集「妙一女御返事(事理成仏抄)」
平成校定「妙一女御返事(法華即身成仏抄)」
*二十七年の間、法門の所詮=即身成仏
其の上即身成仏と申す法門は、世流布の学者は皆一大事とたしなみ申す事にて候ぞ。就中(なかんずく)予が門弟は万事をさ(差)しを(置)きて此の一事に心を留むべきなり。建長五年より今弘安三年に至るまで二十七年の間、在々処々にして申し宣(の)べたる法門繁多なりといへども、所詮は只此の一途なり。
*本有無作の三身如来
又法華経の即身成仏に二種あり。迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏なり。今本門の即身成仏は当位即妙(とういそくみょう)、本有不改(ほんぬふかい)と断ずるなれば、肉身を其のまゝ本有無作の三身如来と云へる是なり。此の法門は一代諸教の中に之無し。文句に云はく「諸教の中に於て之を秘して伝へず」等云云。
*教主釈尊御身に入り替はらせ給ふにや
然るにさばかりの上代の人々だにも即身成仏には取り煩(わずら)はせ給ひしに、女人の身として度々此くの如く法門を尋ねさせ給ふ事は偏(ひとえ)に只事にあらず、教主釈尊御身に入り替はらせ給ふにや。竜女が跡を継ぎ給ふか、又憍曇弥女(きょうどんみにょ)の二度来たれるか。知らず、御身は忽(たちま)ちに五障の雲晴れて、寂光の覚月(かくげつ)を詠(なが)め給ふべし。委細は又々申すべく候。
10月8日
書を四条金吾に報ず
「四条金吾殿御返事(法華行者住処[ほっけぎょうじゃじゅうしょ]の事)」
(定2-384・P1799、創新221・P1624、校2-414・P1912、全P1193、新P1501)
身延・四条金吾
日朝本 宝11 満下85 真蹟なし
録外2-5 受1-22 遺29-6 縮1985
*昭和定本「四条金吾殿御返事(殿岡事)」
創価学会新版「四条金吾殿御返事(法華行者住処の事)」
平成校定「四条金吾殿御返事(殿岡書)」
*盂蘭盆供の僧膳
殿岡より米送り給(た)び候。今年七月の盂蘭盆供の僧膳(そうぜん)にして候。自恣(じし)の僧・霊山の聴衆・仏陀・神明(しんめい)も納受随喜し給ふらん。尽きせぬ志、連々の御訪(とぶら)ひ、言(ことば)を以て尽しがたし。何となくとも殿の事は後生菩提疑ひなし。
*竜口・腹きらんとの気色
何事よりも文永八年の御勘気の時、既に相模の国竜口にて頸切られんとせし時にも、殿は馬の口に付きて足歩(かち)赤足(はだし)にて泣き悲しみ給ひ、事実(まこと)になれば腹きらんとの気色なりしをば、いつの世にか思ひ忘るべき。
*四条金吾の佐渡行
それのみならず、佐渡の島に放たれ、北海の雪の下に埋もれ、北山の嶺の山下風(やまおろし)に命助かるべしともをぼへず。年来(としごろ)の同朋にも捨てられ、故郷へ帰らん事は、大海の底のちびき(千引)の石の思ひして、さすがに凡夫なれば古郷の人々も恋しきに、在俗の宮仕へ隙なき身に、此の経を信ずる事こそ希有なるに、山河を陵(しの)ぎ蒼海(そうかい)を経て、遥かに尋ね来たり給ひし志、香城(こうじょう)に骨を砕き、雪嶺に身を投げし人々にも争(いか)でか劣り給ふべき。
*我が身に過ちあらじ
又、我が身はこれ程に浮び難かりしが、いかなりける事にてや、同じき十一年の春の比(ころ)、赦免せられて鎌倉に帰り上りけむ。倩(つらつら)事の情(こころ)を案ずるに、今は我が身に過(あやま)ちあらじ。或は命に及ばんとし、弘長には伊豆の国、文永には佐渡の島、諫暁再三に及べば留難重畳(ちょうじょう)せり。仏法中怨の誡責(かいしゃく)をも身にははや免(まぬが)れぬらん。
*山林に世を遁れ
然るに今山林に世を遁(のが)れ、道を進まんと思ひしに、人々の語(ことば)様々なりしかども、旁(かたがた)存ずる旨ありしに依りて、当国当山に入りて已に七年の春秋を送る。
*法華経の行者のところに仏・菩薩、諸天が
又、身の智分をば且く置きぬ。法華経の方人(かたうど)として難を忍び疵(きず)を蒙(こうむ)る事は漢土の天台大師にも越え、日域の伝教大師にも勝れたり。是は時の然らしむる故なり。我が身法華経の行者ならば、霊山の教主釈迦、宝浄世界の多宝如来、十方分身の諸仏、本化の大士、迹化の大菩薩、梵・釈・竜神・十羅刹女も、定めて此の砌(みぎり)におはしますらん。
*日蓮が起居する身延山は
水あれば魚すむ、林あれば鳥来る、蓬萊山(ほうらいさん)には玉多く、摩黎山(まりせん)には栴檀(せんだん)生ず。麗水(れいすい)の山には金あり。今此の所も此くの如し。仏菩薩の住み給ふ功徳聚(くどくじゅ)の砌(みぎり)なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生(こんじょう)一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし。
10月17日
円爾弁円(えんにべんねん・臨済宗聖一派[りんざいしゅうしょういちは]の派祖) 寂79歳(一般年表)
10月21日
書を刑部左衞門尉の妻に報ず
「刑部左衛門尉女房御返事(ぎょうぶのさえもんのじょうのにょうぼうごへんじ)」
(定2-386・P1803、創新401・P2070、校2-416・P1915、全P1397、新P1503)
身延・尾張刑部左衛門尉女房
創価学会新版・刑部左衛門尉の妻
日朝本 宝17 満下369 真蹟なし
録外4-20 受2-5 遺29-8 縮1987
*平成校定「刑部左衛門尉女房御返事(忠孝書)」
全集「刑部左衛門尉女房御返事(孝養御書)」
*忠孝・孝養
夫外典三千余巻には忠孝の二字を骨とし、内典五千余巻には孝養を眼とせり。不孝の者をば日月も光ををしみ、地神も瞋りをなすと見へて候。
*或経「仏と地神との問答」~不孝の者の住所は常に大地が揺れる
或経に云はく、六道の一切衆生仏前に参り集まりたりしに、仏、彼等が身の上の事を一々に問ひ給ひし中に、仏、地神に汝大地より重きものありやと問ひ給ひしかば、地神敬(つつし)んで申さく、大地より重き物候と申す。
仏の曰く、いかに地神偏頗(へんぱ)をば申すぞ、此の三千大千世界の建立は皆大地の上にそなわれり。所謂須弥山の高さは十六万八千由旬(ゆじゅん)、横は三百三十六万里なり、大海は縦横八万四千由旬なり、其の外の一切衆生・草木等は皆大地の上にそなわれり。此を持てるが大地より重き物有らんや、と問ひ給ひしかば、
地神答へて云はく、仏は知ろし食しながら人に知らせんとて問ひ給ふか。我地神となること二十九劫なり。其の間、大地を頂戴して候に頸も腰も痛むことなし。虚空を東西南北へ馳走(ちそう)するにも重きこと候はず。但不孝の者のすみ候所が身にあま(余)りて重く候なり。頸もいたく、腰もおれぬべく、膝もたゆく、足もひかれず、眼もくれ、魂もぬけべく候。あはれ此の人の住所の大地をばなげすてばやと思ふ心たびたび出来し候へば、不孝の者の住所は常に大地ゆ(揺)り候なり。
*父母に法華経を贈る
父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給ふべし。教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈り給ひて候。
*知識(ある人)に法門を求める
此の法門を知識に値はせ給ひて度々きかせ給ふべし。日本国に知る人すくなき法門にて候ぞ。
10月23日
書を著す
「大豆御書(だいずごしょ)」
(定2-387・P1809、創新289・P1818、校2-417・P1921、全P1210、新P1507)
身延
創価学会新版・波木井一族
真蹟1紙19行完・身延山久遠寺曽存
録外25-29 遺10-48 縮634
< 系年 >
昭和定本「弘安3年10月23日(鈴)或は文永7年(縮)」
創価学会新版「弘安期」
平成校定「弘安3年10月23日」
全集「文永7年10月23日」
*大豆一石(こく)かしこまって拝領し了(おわ)んぬ。法華経の御宝前に申し上げ候。
一渧(いったい)の水を大海になげぬれば三災にも失(う)せず、一華(げ)を五浄によせぬれば劫火(ごうか)にもしぼまず、一豆(ず)を法華経になげぬれば法界みな蓮(はちす)なり。恐惶謹言(きょうこうきんげん)。
10月24日
書を上野尼に報ず
「上野殿母御前御返事(うえのどののははごぜんごへんじ)(四十九日菩提の事)」
(定2、4-388・P1810、P3019、創新334・P1905、校2-418・P1922、全P1568、新P1507)
身延・南条時光母尼
創価学会新版・上野尼(うえののあま)
< 真蹟3紙断簡 >
第26紙14行・愛知県蒲郡市上本町 長存寺蔵
第28紙13行・静岡県富士宮市小泉 久遠寺蔵
第29紙9行・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
日朝本 宝13 満上265
録外8-20 受2-17 遺29-14 縮1993
*本満寺本「上野殿母尼御前御返事=上野殿母御前御返事」
昭和定本「上野殿母尼御前御返事(中陰書)」
創価学会新版「上野殿母御前御返事(四十九日菩提の事)」
平成校定「上野殿母尼御前御返事(上野殿母御前御返事)(中陰書)」
全集「上野殿母御前御返事(四十九日御書)」
*法華経一部・自我偈数度・題目百千返
南条故七郎五郎殿の四十九日御菩提(ぼだい)のために送り給ふ物の日記の事、鵞目(がもく)両ゆ(結)ひ・白米一駄(いちだ)・芋一駄・すりだうふ(摺豆腐)・こんにゃく・柿一籠(ひとこ)・ゆ(柚)五十等云云。御菩提の御ために法華経一部・自我偈数度・題目百千返唱へ奉り候ひ畢(おわ)んぬ。
*唯仏与仏
抑(そもそも)法華経と申す御経は一代聖教には似るべくもなき御経にて、而も唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)と説かれて、仏と仏とのみこそし(知)ろしめされて、等覚已下(いげ)乃至凡夫は叶はぬ事に候へ。されば竜樹菩薩の大論には、仏已下はたゞ信じて仏になるべしと見えて候。
法華経の第四法師品に云はく「薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経あり、而も此の経の中に於て、法華最も第一なり」等云云。
第五の巻に云はく「文殊師利、此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云。
第七の巻に云はく「此の法華経も亦復是くの如し。諸経の中に於て、最も為(こ)れ其の上なり」と。又云はく「最も為れ照明(しょうみょう)なり。最も為れ其の尊なり」等云云。此等の経文、私の義にあらず、仏の誠言にて候へば定めてよもあや(誤)まりは候はじ。
*子を亡くした母への激励
故七郎五郎殿は当世の日本国の人々にはに(似)させ給はず。をさ(幼)なき心なれども賢き父の跡をおひ、御年いまだはたち(二十)にも及ばぬ人が、南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひて仏にならせ給ひぬ。無一不成仏とは是なり。乞ひ願はくは悲母我が子を恋しく思(おぼ)し食(め)し給ひなば、南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひて、故南条殿・故五郎殿と一所に生まれんと願はせ給へ。一つ種は一つ種、別の種は別の種。同じ妙法蓮華経の種を心にはら(孕)ませ給ひなば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれさせ給ふべし。三人面(おもて)をならべさせ給はん時、御悦びいかゞうれ(嬉)しくおぼしめすべきや。
*此の経なき国には仏まします事なし
抑(そもそも)いかなれば三世十方の諸仏はあながちに此の法華経をば守らせ給ふと勘へて候へば、道理にて候ひけるぞ。法華経と申すは三世十方の諸仏の父母なり、めのと(乳母)なり、主にてましましけるぞや。かえる(蛙)と申す虫は母の音(こえ)を食とす。母の声を聞かざれば生長する事なし。からぐら(迦羅求羅)と申す虫は風を食とす。風吹かざれば生長せず。魚は水をたのみ、鳥は木をすみか(栖)とす。仏も亦かくの如く、法華経を命とし、食とし、すみか(栖)とし給ふなり。魚は水にすむ、仏は此の経にすみ給ふ。鳥は木にすむ、仏は此の経にすみ給ふ。月は水にやどる、仏は此の経にやどり給ふ。此の経なき国には仏まします事なしと御心得あるべく候。
*法華経を読む代には釈迦仏・十方の諸仏が出現
仏も又かくの如く、多宝仏と申す仏は此の経にあひ給はざれば御入滅、此の経をよむ代には出現し給ふ。釈迦仏・十方の諸仏も亦復かくの如し。かゝる不思議の徳まします経なれば此の経を持つ人をば、いかでか天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきとたのもしき事なり
10月
曼荼羅を図顕する
*「日亨本尊鑑」(P60) 第30 弘安三年十月日御本尊 底本(第21)
「日蓮聖人真蹟の世界・上」P248
*模写
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰十月 日
*授与
俗(僧か)日用
*讃文
仏滅度後二千二百三十 余年之間 一閻浮提之内 未曽有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者等 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王等 大龍王等 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
?×90.9 ㎝ 12枚継ぎ
*所蔵
身延山久遠寺曽存
11月3日
書を最蓮房に与えると伝う
「十八円満抄」
(定3続編40・P2137、創新281・P1794、校2-419・P1930、全P1362、新P1513)
身延・最蓮房
宝8 満上300 真蹟なし
録外18-33 受6-39 遺29-23 縮2002
*本満寺本「十八円満法門之事」
録外「十八円満法門抄」
*日蓮の己心に相承せる秘法=南無妙法蓮華経
問うて云はく、天真独朗の法、滅後に於て何れの時か流布せしむべきや。答へて云はく、像法に於て弘通すべきなり。
問うて云はく、末法に於ける流布の法の名目如何。答へて云はく、日蓮の己心に相承せる秘法を此の答へに顕はすべきなり。所謂南無妙法蓮華経是なり。
問うて云はく、証文如何。答へて云はく、神力品に云はく「爾(そ)の時仏上行等の菩薩に告げたまはく、要を以て之を言はゞ乃至宣示顕説す」云云。天台大師云はく「爾時仏告上行より下は第三結要付嘱なり」と。又云はく「経中の要説・要は四事に在り」と。「総じて一経を結するに唯四ならくのみ。其の枢柄(すうへい)を撮(と)って之を授与す」と。
*日蓮=上行菩薩の代官の一分なり
問うて云はく、今の文は上行菩薩等に授与するの文なり。汝何が故ぞ己心相承の秘法と云ふや。答へて云はく、上行菩薩の弘通し給ふべき秘法を日蓮先立ちて之を弘む。身に当たるの意に非ずや。上行菩薩の代官の一分なり。
*時国相応の仏法・智人
所詮末法に入って天真独朗の法門無益なり。助行には用ゆべきなり。正行には唯南無妙法蓮華経なり。伝教大師云はく「天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す」と。
今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時、日本国に弘通す。是豈(あに)時国相応の仏法に非ずや。末法に入って天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は、必ず無間大城に墜ちんこと疑ひ無し。貴辺年来の権宗を捨てゝ日蓮が弟子と成り給ふ。真実、時国相応の智人なり。
*我が如く正理を修行し給へ
総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。所詮時々念々に南無妙法蓮華経と唱ふべし。上に挙ぐる所の法門は御存知たりと雖も書き進らせ候なり。十八円満等の法門能々案じ給ふべし。並びに当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門等、前々に書き進らせしが如し。委しくは修禅寺相伝日記の如し。天台宗の奥義之に過ぐべからざるか。一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出でず。敢(あ)へて忘失すること勿れ、敢て忘失すること勿れ。
11月12日
書を池上宗長に報ずと伝う
「兵衛志殿御返事(兄弟同心の事)」
(定3続編41・P2145、創新185・P1503、全P1108)
身延・兵衛志=池上宗長(弟)
縮続152 真蹟なし
*昭和定本「兵衛志殿御返事」
創価学会新版「兵衛志殿御返事(兄弟同心の事)」
全集「兵衛志殿御返事(兄弟同心御書)」
*平成校定は偽書として不収録
11月14日
鎌倉八幡宮 宝殿焼失(四条金吾許御文・定P1823、同・全P1196、諫暁八幡抄・定P1849)
11月15日
書を上野尼に報ず
「上野尼御前御返事(うえののあまごぜんごへんじ) (鳥竜遺竜[おりょういりょう]の事)」
(定2-415・P1890、創新335・P1912、校2-420・P1938、全P1580、新P1574)
身延・南条時光母尼
創価学会新版・上野尼(うえののあま)
真蹟1紙断簡(末尾44字7行)・京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町 本禅寺蔵
日朝本 宝13 満下312
録外8-33 遺30-27 縮2075
*昭和定本「上野尼御前御返事」
創価学会新版「上野尼御前御返事(鳥竜遺竜の事)」
全集「上野尼御前御返事(鳥竜遺竜事)」
*昭和定本「弘安4年11月15日」
創価学会新版・平成校定「弘安3年11月15日」
*南無妙法蓮華経と唱へまいらせ
麞牙(しらげごめ)一駄四斗定・あらひいも(洗芋)一俵送り給(た)びて南無妙法蓮華経と唱へまいらせ候ひ了んぬ。
妙法蓮華経と申すは蓮に譬へられて候。天上には摩訶曼陀羅華(まかまんだらけ)、人間には桜の花、此等はめでたき花なれども、此等の花をば法華経の譬へには仏取り給ふ事なし。一切の花の中に取り分けて此の花を法華経に譬へさせ給ふ事は其の故候なり。
11月29日
書を日厳尼に報ず
「日厳尼御前御返事(にちごんあまごぜんごへんじ)」
(定2-390・P1819、創新413・P2135、校2-421・P1942、全P1262、新P1519)
身延・日厳尼
宝8・11 満上256 真蹟なし
録外2-25 受5-19 遺29-30 縮2010
*法華経の御宝前
弘安三年十一月八日、尼日厳の立て申す立願(りゅうがん)の願書、並びに御布施の銭一貫文、又たふかたびら(太布帷子)一つ、法華経の御宝前並びに日月天に申し上げ候ひ畢んぬ。
11月
曼荼羅(100)を図顕する
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰十一月 日
*授与
比丘日法 授与之
*讃文
仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮提之 中未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王
*日興添書
紀伊国切目刑部左衛門入道相伝之
*寸法
59.1×39.4㎝ 1紙
*備考
・「富要旧刊・史料類聚P285」に依れば日興添書の次下に、更に「子息沙弥日然二譲二与ス之一ヲ」の文が存すると。しかし判読は困難である。
*(富要8―216)
*所蔵
新潟県佐渡市竹田 世尊寺
11月
曼荼羅(101)を図顕する
*通称
伝法御本尊
*顕示年月日
弘安三年太才庚辰十一月 日
*授与
釈子日昭伝 之
*讃文
仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮之内 未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者等 南無大迦葉尊者等 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王等 鬼子母神王 十羅刹女等 提婆達多 阿闍世大王
*寸法
197.6×108.8㎝ 12枚継ぎ
*備考
・授与書より「伝法御本尊」と称されている。「伝之」と認めるのは他に例がない。
・日昭の「譲与本尊聖教事」(文保元年十一月十六日記)中に次の一条あり。
(宗全旧刊・上聖部P11)
一、大漫荼羅弘安三年十一月御筆一鋪
*所蔵
静岡県三島市玉沢 妙法華寺
⇒「鬼子母神王」と認めるのはこの一幅のみであり、他に例はない。
12月8日
幕府 鎮西守護・御家人らを戒め、異国警護に備えさせる
12月13日
書を上野尼に報ず
「上野殿母御前御返事(うえのどののははごぜんごへんじ) (百箇日[ひゃっかにち]追善の事)」
(定2-391・P1820、P1870、P2977、創新336・P1916、校2-423・P1945、全P1573、新P1522)
身延・南条時光
創価学会新版・上野尼(うえののあま)
真蹟断簡4紙
第1紙11行、丁付け不明1紙14行(第1紙とは別時か)・京都府京都市上京区寺町通今出川上ル二丁目鶴山町 本満寺蔵
第6紙後半9行・京都府京都市上京区寺之内通大宮東入ル妙蓮寺前町 妙蓮寺蔵
第7紙11行・京都府京都市左京区東大路二条下ル北門前町 妙伝寺蔵
縮続153・155
*昭和定本「南条殿御返事」(定2-391・P1820の冒頭5行)
「断簡323」(定P2977)
「上野殿御書」(定2-406・P1870)
の三書を合わせて「南条殿御返事、弘安3年12月15日」(校2-423・P1945、全P1573)となる。
創価学会新版「上野殿母御前御返事 (百箇日追善の事)」
平成校定「南条殿御返事(上野殿御書)」
全集「南条殿御返事(百箇日御書)」
< 系年 >
昭和定本「弘安3年12月13日(鈴)」
創価学会新版「弘安3年12月中旬」
平成校定「弘安3年12月15日」
*昭和定本と全集は同文
12月13日
昭和定本「南条殿御返事」(定2-391・P1820)
創価学会新版「不妄語戒事(ふもうごかいじ)」(創新438・P2157)
*昭和定本「南条殿御返事」の五行目「凡夫にておわせし時」より「大梵天に」までを、創価学会新版は「不妄語戒事」とする。
*(阿修羅王〇)凡夫にてをはせし時、不妄語戒を持ちて、まなこ(眼)をぬ(抜)かれ、かわ(皮)をは(剥)がれ、しゝむら(肉叢)をやぶ(破)られ、血をす(吸)はれ、骨か(枯)れ、子を殺され、め(妻)をうば(奪)われ、なんどせしかども無量劫が間一度もそら(虚)事なくして其の功に依て仏とな(成)り給ひて候が、無一不成仏と申して南無妙法蓮華経と只一反申せる人・一人として仏にならざるはなしとと(説)かせ給ひて候。釈迦一仏の仰せなりとも疑ふべきにあらざるに、十方(じっぽう)の仏の御前にてなにのへんぱ(偏頗)にかそら(虚)事をばせさせ給(たも)ふべき。其の上釈迦仏と十方の仏と同時に舌を大梵天に。
12月16日
書を四条金吾に報ず
「四条金吾許御文(しじょうきんごもとおんふみ)」
(定2-392・P1821、創新222・P1626、校2-424・P1947、全P1195、新P1523)
身延・四条金吾
日朝本 平30 真蹟なし
録内16-57 遺29-30 縮2011
*昭和定本「四条金吾許御文(八幡抄)」
創価学会新版「四条金吾許御文」
平成校定「四条金吾許御文(八幡抄) (日眼女御書)」
*身延山
歳もかた(傾)ぶき候。又処は山中の風はげしく、庵室はかごの目の如し。うちしく物は草の葉、き(着)たる物はかみ(紙)ぎぬ(衣)、身のひ(冷)ゆる事は石の如し。食物は氷の如くに候へば、此の御小袖給び候ひて頓(やが)て身をあたゝまらんとをもへども、明年の一日とかゝれて候へば、迦葉尊者の鶏足山(けいそくせん)にこもりて、慈尊の出世五十六億七千万歳をま(待)たるゝもかくやひさ(久)しかるらん。
*八幡大菩薩の本地は釈迦仏
八幡大菩薩をば世間の智者・愚者、大体は阿弥陀仏の化身と申し候ぞ。其れもゆへなきにあらず。中古の義に或は八幡の御託宣とて阿弥陀仏と申しける事少々候。此はをの(各)をの(各)心の念仏者にて候故に、あかき石を金と思ひ、くひ(株)ぜをうさぎ(兎)と見るが如し。其れ実には釈迦仏にておはしまし候ぞ。
*弘安3年11月14日、鎌倉八幡宮焼失
かゝる不思議の候上、八幡大菩薩の御誓ひは月氏にては法華経を説いて正直捨方便となのらせ給ひ、日本国にしては正直の頂にやどらんと誓ひ給ふ。而るに去ぬる十一月十四日の子(ね)の時に、御宝殿をやいて天にのぼらせ給ひぬる故をかんがへ候に、此の神は正直の人の頂にやどらんと誓へるに、正直の人の頂の候はねば居処なき故に、栖(すみか)なくして天にのぼり給ひけるなり。
⇒一国を挙げて、法華経を捨て正法を誹謗する故に、善神は天上に昇るという「神天上法門」。
*日本国=釈迦如来の国、有縁の釈迦、親父釈迦仏
日本国の第一の不思議には、釈迦如来の国に生まれて此の仏をすてゝ一切衆生皆一同に阿弥陀仏につけり。有縁の釈迦をばすて奉り、無縁の阿弥陀仏をあをぎたてまつりぬ。其の上親父(しんぷ)釈迦仏の入滅の日をば阿弥陀仏につけ、又誕生の日をば薬師になしぬ。八幡大菩薩をば崇むるやうなれども、又本地を阿弥陀仏になしぬ。本地垂迹を捨つる上に、此の事を申す人をばかたきとする故に、力及ばせ給はずして此の神は天にのぼり給ひぬるか。但し月は影を水にうかぶる、濁れる水には栖むことなし。木の上草の葉なれども澄める露には移る事なれば、かならず国主ならずとも正直の人のかうべ(頭)にはやど(宿)り給ふなるべし。
然れば百王の頂にやどらんと誓ひ給ひしかども、人王八十一代安徳天皇・二代隠岐法皇・三代阿波・四代佐渡・五代東一条等の五人の国王の頂にはすみ給はず。諂曲(てんごく)の人の頂なる故なり。頼朝と義時とは臣下なれども其の頂にはやどり給ふ。正直なる故か。
*法華経の人々を釈迦仏は守る
此を以て思ふに、法華経の人々は正直の法につき給ふ故に釈迦仏猶是をまぼ(守)り給ふ。況(いわ)んや垂迹の八幡大菩薩争(いか)でか是をまぼり給はざるべき。
*法華経の行者に八幡大菩薩の守護
されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給ふとも、法華経の行者を見ては争でか其の影をばをしみ給ふべき。我が一門は深く此の心を信ぜさせ給ふべし。八幡大菩薩は此にわたらせ給ふなり。疑ひ給ふ事なかれ、疑ひ給ふ事なかれ。
12月18日
書を智妙房に報ず
「智妙房御返事」
(定2-393・P1826、創新253・P1714、校2-425・P1952、全P1286、新P1526)
身延・智妙房
真蹟7紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
遺29-35 縮2016
*全集「智妙房御返事(八幡天上由来)」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*法華経の御宝前
鵞目(がもく)一貫送り給びて法華経の御宝前に申し上げ候ひ了んぬ。
*右大将家(源頼朝)の廟所=法華堂、権大夫(北条義時)の墓、八幡大菩薩と若宮(八幡宮)が焼ける
なによりも故右大将家の御廟(ごびょう)と故権大夫殿の御墓とのやけて候由承りてなげき候へば、又八幡大菩薩並びに若宮のやけさせ給ふ事いかんが人のなげき候らむ。
*神天上法門
(日本国の人々は)大菩薩をもてなすやうなれども八幡の御かたきなり。知らずわさ(左)でもあるべきに、日蓮此の二十八年が間、今此三界(こんしさんがい)の文を引きて此の迷ひをしめせば、信ぜずばさてこそ有るべきに、い(射)つ、き(切)つ、ころ(殺)しつ、なが(流)しつ、を(逐)うゆへに、八幡大菩薩宅をやいてこそ天へはのぼり給ひぬらめ。日蓮がかん(勘)がへて候ひし立正安国論此なり。
*日蓮が一類を二十八年が間せめ候ひし報い
あは(哀)れ他国よりせ(攻)め来たりてたか(鷹)のきじ(雉)をとるやうに、ねこ(猫)のねずみ(鼠)をか(噛)むやうにせられん時、あま(尼)や女房どものあわて候はんずらむ。日蓮が一るい(類)を二十八年が間せめ候ひしむく(報)いに、或はい(射)ころ(殺)し、切りころ(殺)し、或はい(生)けど(捕)り、或は他方へわたされ、宗盛がなわ(縄)つきてさらされしやうに、すせんまん(数千万)の人々のなわつきて、せめられんふびんさよ。しかれども日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なれば、かくせめられんをば天も悦び、仏もゆるし給はじ。
12月27日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事(須達長者御書)」
(定2-394・P1828、創新337・P1918、校2-427・P1955、全P1574、新P1528)
身延・南条時光
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日朝本
録内32-17 遺29-37 縮2018
*昭和定本「上野殿御返事」
創価学会新版・全集「上野殿御返事(須達長者御書)」
*仏になる・身を惜しまぬ供養
仏にやすやすとなる事の候ぞ、をし(教)へまいらせ候はん。人のものををし(教)ふると申すは、車のおも(重)けれども油をぬ(塗)りてまわり、ふね(船)を水にう(浮)かべてゆきやすきやうにをし(教)へ候なり。
仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃(かんばつ)にかわ(渇)けるものに水をあた(与)へ、寒氷にこゞ(凍)へたるものに火をあた(与)ふるがごとし。又、二つなき物を人にあたへ、命のた(絶)ゆるに人のせ(施)にあふがごとし。
*南条時光=法華経の行者
貴辺はすでに法華経の行者に似させ給へる事、さるの人に似、もちゐ(餅)の月に似たるが如し。
*法華経に命をすつるゆへなり
あつはら(熱原)のものどものかくを(惜)しませ給へる事は、承平の将門(まさかど)、天喜の貞任(さだとう)のやうに此の国のものどもはおもひて候ぞ。これひとへに法華経に命をすつるゆへなり。またく主君にそむく人とは天御覧あらじ。
其の上わづかの小郷にをほくの公事(くじ)せめにあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣なし。
かゝる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食とも(乏)しかるらんとおもひやらせ給ひて、ぜに一貫をくらせ給へるは、貧女がめ(婦)おとこ(夫)二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたへ、りだが合子(ごうし)の中なりしひえ(稗)を辟支仏(びゃくしぶつ)にあたへたりしがごとし。たう(尊)とし、たうとし。
⇒時光が熱原法難時に人々をかくまったことは、法華経に命を捨てた故と誉められ、法難の余波がおさまらない困窮生活の中であっても、雪深い身延の日蓮を思い、供養を捧げる信仰を讃えられる。
12月28日
書を堀内殿に報ず
「堀内殿御返事」
(定2-324・P1620、創新414・P2136、校2-426・P1954、新P1528)
身延・波木井実長か
創価学会新版・堀内殿(ほりのうちどの)
真蹟1紙完・滋賀県近江八幡市宮内町 瑞龍寺蔵
録外25-29 遺26-2 縮1810
*昭和定本「十字御書(与堀内某書)」
創価学会新版「堀内殿御返事」
平成校定「ほりの内殿御返事(十字御書)」
< 系年 >
昭和定本「弘安元年12月21日」
創価学会新版「弘安3年12月28日」
平成校定「弘安3年12月21日」
*本文
十字(むしもち)三十、法華経の御宝前につみまいらせ候ひぬ。又すみ二へい(俵)給び候ひ了んぬ。恐々謹言。
12月
伊豆国仁田土佐房 殺害(日興門流上代事典P264)
⇒白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事
(永仁六年戊戌) 日興記之
正本 本門寺根源蔵
一、伊豆国仁田土佐房者、日興弟子也。仍所申与如件。但依心性房調時弘安三年十二月頃為長為兒被殺害了。
12月
書を著す
「諫暁八幡抄」
(定2-395・P1831、創新50・P730、校2-429・P1968、全P576、新P1530)
身延
大石寺本 真蹟第16紙~第47紙の32紙・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
身延山本 第1紙以下第29紙(但し所々断欠)・身延山久遠寺曽存(乾録等)
日朝本 平28
録内27-1 受3-32 遺29-39 縮2021
*鎌倉八幡宮消失について
・法華経の行者をあだむ国主・国人等を、対治を加へずして守護する失に依りて、梵釈等のためには八幡等は罰せられ給ひぬるか。此の事は一大事なり。秘すべし秘すべし。
・今八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して天火に焼かれ給ひぬるか。
⇒12月16日「四条金吾許御文」、12月18日「智妙房御返事」では「神天上法門」を示して善神たる八幡大菩薩を守っているのに対し、本抄では、八幡大菩薩は法華経の行者に害を加える国主等を対治せず、逆に守護するゆえに罰せられ、結果、鎌倉八幡宮が消失したとされる。
*日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ
今日蓮は去ぬる建長五年葵丑(みずのとうし)四月廿八日より、今弘安三年大歳庚辰(かのえたつ)十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。
中略
只不軽のごとく大難には値ふとも、流布せん事疑ひなかるべきに、真言・禅・念仏者等の讒奏(ざんそう)に依りて無智の国主留難(るなん)をなす。此を対治すべき氏神八幡大菩薩、彼等の大科を治せざるゆへに、日蓮の氏神を諌暁するは道理に背くべしや。
尼倶律陀長者(にくりだちょうじゃ)が樹神をいさむるに異ならず。
蘇悉地(そしっじ)経に云はく「本尊を治罰すること鬼魅(きみ)を治するが如し」等云云。文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために、数年が間法を修行するに成就せざれば、本尊を或はしば(縛)り或は打ちなんどせよととかれて候。
⇒28年もの間、妙法蓮華経流布一筋の日蓮。
不軽菩薩の如く大難の連続であったが、妙法の広宣流布は必定。法華経の行者に難を加える諸宗の僧・国主等を退治すべき八幡大菩薩が、その働きを成さない故に、八幡を諫暁することが、どうして道理に背くことがあろうか。
続いて、蘇悉地経(真言の経典)を引用し、経文・法華経のままに広宣流布を祈り修行を続けても、それが成就しないのならば、本尊を呵責しなければならない、と。
*八幡大菩薩の本地は釈尊であり、法華経の行者守護の働きをなす
正直に二あり。一には世間の正直、王と申すは天・人・地の三を串(つらぬ)くを王と名づく。天・人・地の三は横なり。た(立)つてん(点)は縦なり。王と申すは黄帝(こうてい)、中央の名なり。天の主・人の主・地の主を王と申す。隠岐の法皇は名は国王、身は妄語の人、横人なり。権の大夫殿は名は臣下、身は大王、不妄語の人、八幡大菩薩の願ひ給ふ頂なり。二には出世の正直と申すは爾前七宗等の経論釈は妄語、法華経天台宗は正直の経釈なり。本地は不妄語の経の釈迦仏、迹には不妄語の八幡大菩薩なり。八葉は八幡、中台は教主釈尊なり。
四月八日寅の日に生まれ、八十年を経て二月十五日申の日に隠れさせ給ふ。豈(あに)教主の日本国に生まれ給ふに有らずや。
大隅(おおすみ)の正八幡宮の石の文に云はく「昔は霊鷲山に在って妙法華経を説き、今は正宮の中に在って大菩薩と示現す」等云云。
法華経に云はく「今此三界」等云云。又「常在霊鷲山」等云云。
遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり。近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子なり。今日本国の一切衆生は八幡を恃み奉るやうにもてなし、釈迦仏をすて奉るは、影をうやまって体をあなづる、子に向いて親をのるがごとし。本地は釈迦如来にして、月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説き給ひ、垂迹は日本国に生まれては正直の頂にすみ給ふ。諸の権化の人々の本地は法華経の一実相なれども、垂迹の門は無量なり。
⇒最終段階に至って、垂迹・八幡大菩薩と本地・釈尊が正直の頂にすんで、法華経の行者を守護することが述べられる。
世間の正直~北条義時の如く臣下であっても、不妄語の人には八幡大菩薩が宿り守護をする。
出世間の正直~本地たる教主釈尊が正直捨方便の法華経を説かれる。そして、その垂迹は八幡大菩薩となって日本国に出現し、正直の経・法華経を持つ行者の頂にすみ守護する。
更に、無量の権化は法華経から垂迹していることを示される。
*日蓮一人の苦
涅槃経に云はく「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云。日蓮が云はく、一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なりと申すべし。
*法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし
今の八幡大菩薩は本地は月氏の不妄語の法華経を、迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂にやどらむと云云。若し爾(しか)らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし。
法華経の第五に云はく「諸天、昼夜に常に法の為の故に、而も之を衛護す」文。経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべしと見えたり。
⇒日本国の八幡大菩薩は法華経を正直の経として、賢人・法華経の行者の頂に宿る。八幡大菩薩は宝殿を焼いて天に昇ったが、法華経の行者が日本国にいるならば、その住所にすむであろう。経文の如くであるならば、妙法口唱の人を諸天善神が昼夜に守護するのである。
*日本の仏法、月氏へかへる
天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。
⇒対告者
「大石寺本奥書には日道が『建武第三丙子(1336年)六月六日奉読誦畢 日道 花押』と記している。当時の日道は下之坊に住していたと考えられる。日蓮から南条時光への書簡の多さ、文面から窺われる関係の深さ、そして『諌暁八幡抄』真蹟が下之坊・日道の手に届く状態にあったことから推考すれば、当書は南条時光に宛てられた可能性が高いのではないか。」(趣意)
山上弘道氏の論考「日蓮大聖人の思想 六」(興風16号P249)
*「四条金吾許抄」「日眼女御書」の名称も伝えられることから書状とされる場合もあるが、内容から著作と考えられている。
寺尾英智氏の論考「日蓮遺文諌暁八幡抄の曽存真蹟」(「日蓮とその教団」P44、1999 吉川弘文館)
この年
沙弥道正 文永6年日蓮親書の「立正安国論」を遠藤左衛門入道より相承す(中書・日蓮宗年表)
【 系年、弘安3年と推定される書・曼荼羅本尊 】
書を池上宗仲に報ず
「大夫志殿御返事(たいふのさかんどのごへんじ) (付法蔵列記の事)」
(定2、4-396・P1850、P3019、創新186・P1504、校-422・P1943、全P1103、新P1520)
身延・大夫志=池上宗仲(兄)
真蹟5紙断簡
28字3行・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺蔵
34字4行・神奈川県鎌倉市大町 比企谷妙本寺蔵
11字1行・埼玉県戸田市新曽 妙顕寺蔵
10字1行・静岡県静岡市葵区沓谷 (貞松・みまつ)蓮永寺蔵
16字2行(1字欠損)・東京都豊島区西巣鴨 本妙寺蔵
宝11 満下167
録外9-33 遺29-59 縮2041
*平成校定「弘安3年12月初旬」
*本満寺本「大夫志殿御書」
昭和定本「大夫志殿御返事」
創価学会新版「大夫志殿御返事(付法蔵列記の事)」
平成校定「大夫志殿御返事(与宗仲書)」
全集「大夫志殿御返事(付法蔵列記)」
*仏の御使ひは二十四人なり
滅後の一日より正像末二千二百余年が間、仏の御使ひは二十四人なり。
所謂第一は大迦葉(だいかしょう)、
第二は阿難、
第三は末田地、
第四は商那和修(しょうなわしゅう)、
第五は毱多(きくた)、
第六は提多迦(だいたか)、
第七は弥遮迦(みしゃか)、
第八は仏駄難提(ぶっだなんだい)、
第九は仏駄密多(ぶっだみった)、
第十は脇比丘(きょうびく)、
第十一は富那奢(ふなしゃ)、
第十二は馬鳴(めみょう)、
第十三は毘羅(びら)、
第十四は竜樹(りゅうじゅ)、
第十五は提婆、
第十六は羅睺(らご)、
第十七は僧佉難提(そうぎゃなんだい)
第十八は僧佉耶奢(そうぎゃやしゃ)、
第十九は鳩摩羅駄(くまらだ)、
第二十は闍夜那(じゃやな)、
第二十一は盤駄(ばんだ)、
第二十二は摩奴羅(まぬら)、
第二十三は鶴勒夜奢(かくろくやしゃ)、
第二十四は師子(しし)尊者なり。
此の二十四人は金口の記す所の付法蔵経に載せたり。但し小乗・権大乗経の御使ひなり、いまだ法華経の御使ひにはあらず。
*法華経の行者供養の功徳
三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく。百億の須弥山・四洲等を小千と云ひ、小千の千を中千と云ひ、中千の千を大千と申す。
此の三千大千世界を一つにして四百万億那由他(なゆた)の国の六道の衆生を八十年やしなひ、法華経より外の已今当の一切経を一々の衆生に読誦せさせて、三明六通(さんみょうろくつう)の阿羅漢、辟支仏(びゃくしぶつ)・等覚の菩薩となせる一人の檀那と、世間・出世の財(たから)を一分も施さぬ人の法華経計(ばか)りを一字一句一偈(いちげ)持つ人と相対して功徳を論ずるに、法華経の行者の功徳勝れたる事百千万億倍なり。天台大師此に勝れたる事五倍なり。かゝる人を供養すれば福を須弥山につ(積)み給ふなりと、伝教大師ことはらせ給ひて候。
書を王日に報ず
「王日殿御返事(おうにちどのごへんじ)」
(定2-397・P1853、創新254・P1716、校2-431・P1991、全P1263、新P1545)
身延・王日女
創価学会新版・王日
真蹟断簡3行・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺蔵
宝6
録外5-12 受1-27 遺30-1 縮2044
*平成校定「王日殿御返事(王日女殿御返事)」
全集「王日女殿御返事」
*本文
弁(べん)の房の便宜(びんぎ)に三百文、今度二百文給び了んぬ。
仏は真に尊くして物によらず。昔の得勝童子は沙(いさご)の餅(もちい)を仏に供養し奉りて、阿育大王と生まれて一閻浮提の主たりき。貧女の我がかしら(頭)をお(剃)ろして油と成せしが、須弥山を吹きぬきし風も此の火をけ(消)さず。されば此の二三の鵞目(がもく)は、日本国を知る人の国を寄せ、七宝の塔を忉利天(とうりてん)にくみあげたらんにもすぐ(勝)るべし。
法華経の一字は大地の如し、万物を出生す。一字は大海の如し、衆流を納む。一字は日月の如し、四天下をてらす。此の一字返じて月となる、月変じて仏となる、稲は変じて苗となる、苗は変じて草となる、草変じて米となる、米変じて人となる、人変じて仏となる、女人変じて妙の一字となる、妙の一字変じて台上の釈迦仏となるべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、恐々謹言。
⇒当書によれば、王日女は日昭の身延行に際して日蓮への御供養を託した女性だが、その伝詳は不明。本文冒頭「弁房の便宜に」とあることから、弁阿闍梨・日昭の母若しくはその関係の女性であったか。
書を富木家に報ず
「法衣書(ほうえしょ)」
(定2-398・P1854、創新146・P1347、校2-432・P1992、全P1296、新P1546)
身延
創価学会新版・富木家
真蹟4紙完(但し日付署名等欠)・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
続下8 遺30-2 縮2045
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*食を有情に施すものは・・・
抑(そもそも)食は命をつぎ、衣は身をかくす。食を有情に施すものは長寿の報をまねき、人の食を奪ふものは短命の報をうく。衣を人にほどこさぬ者は世々所生に裸形(らぎょう)の報をかん(感)ず。
*日蓮=食衣乏しき身
日蓮は無戒の比丘、邪見の者なり。故に天これをにく(憎)ませ給ひて食衣とも(乏)しき身にて候。しかりといえども法華経を口に誦し、ときどき(時々)これをと(説)く。譬へば大蛇(おろち)の珠を含み、いらん(伊蘭)よりせんだん(栴檀)を生ずるがごとし。いらん(伊蘭)をす(捨)てゝせんだん(栴檀)まいらせ候。蛇形をかくして珠を授けたてまつる。
書を松野後家尼に報ず
「松野後家尼御前御消息」
(定3続編38・P2128)
身延・松野後家尼
本満寺本 真蹟なし
録外9-7 縮二続14
< 系年 >
昭和定本「弘安3年(鈴)」
*平成校定は偽書として不収録
図録を著す
「一代五時鶏図」
(定3図録25・P2388、創新85・P914、校3図録32・P2518、新P1547)
真蹟7紙完・京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺蔵
満下385
< 系年 >
昭和定本「弘安3年頃(鈴)」
*通称
今此三界御本尊
*讃文
今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子
而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護
*相貌
首題 自署花押
*寸法
29.7×32.7㎝ 1紙
*所蔵
京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺
⇒系年は弘安3年か
曼荼羅(28)(29)(38)(39)(40)(47)(49)と同じく、由来明示の図顕讃文なし、形態の簡略化、讃文の意からすると「守護曼荼羅・守り本尊」と区分することも可能では。