1279年・弘安2年 己卯(つちのとう) 58歳

後宇多天皇

 

北条時宗

 

13

書を南条時光に報ず

「上野殿御返事(藍よりも青き事)

(2-325P1621、創新323P1886、校2-345P1718、全P1554、新P1349)

身延・南条時光

 

< 真蹟4紙断簡 >

127字初3行・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺蔵

281字初7行・広島県広島市中区十日市町 妙頂寺蔵

272字終6行・大阪府 某家蔵

4919行・京都府京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町 本法寺蔵

日朝本 宝13 平30 満下106

録外8-2 遺26-15 縮1825

 

*昭和定本「上野殿御返事」

創価学会新版「上野殿御返事(藍よりも青き事)

全集「上野殿御返事(雪中供養御書)

 

*疫病、飢饉

この両三年は日本国の内に大疫起こりて人半分げん()じて候上、去年(こぞ)の七月より大なるけかち(飢渇)にて、さといち(里市)のむへん(無縁)のものと山中の僧等は命(いのち)存しがたし。

 

*身延山の困窮生活

其の上日蓮は法華経誹謗(ひぼう)の国に生まれて威音王仏(いおんのうぶつ)の末法の不軽菩薩のごとし。はた又歓喜増益仏の末の覚徳比丘の如し。王もにく()み民もあだ()む。衣もうす()く食もとぼ()し。布衣(ぬのこ)はにしき()の如し。くさ()のは()はかんろ(甘露)とをも()う。其の上去年(こぞ)の十一月より雪つもりて山里路たえぬ。年返れども鳥の声ならではをとづ()るゝ人なし。友にあらずばたれ()か問ふべきと心ぼそ()くて過(すご)し候処に、元三(がんざん)の内に十字(むしもち)九十枚、満月の如し。心中もあき()らかに、生死のやみ()もは()れぬべし。

 

 

18

書を日弁に報ず

「越後公御房御返事(えちごこうのごぼうごへんじ)

(4-437P2874、創新348P1935、校2-346P1719、新P1350)

身延・越後公

創価学会新版・日弁

 

真蹟211行完(17行、第24)・福井県敦賀市元町 本妙寺蔵

 

*小の三災

大餅(おおもちい)五枚・薯蕷(やまのいも) 一本太也(ふときなり)・鵄(いものかしら)一俵。

(こぞ)今年の饉(きんかつ)・瘴癘(しょうれい)・刀兵(とうびょう)と申し、宛(あたか)も小の三災の代の如し。山中に送り給び候事志の至りか。

 

 

 

121

書を松野尼に報ず

「松野尼御前御返事(まつののあまごぜんごへんじ)

(2-272P1436、創新381P2006、校2-347P1720、全P1396、新P1351)

身延・松野尼

 

真蹟1紙断簡(138行、外に日付自署花押宛名)・石川県金沢市寺町 本因寺蔵

縮続150

*平成校定「第1311行」

 

< 系年 >

昭和定本「建治4121()

創価学会新版「弘安2年または同3年の121

平成校定「弘安2121日」

 

*身延山・訪れる人もいない

日本国の人にはにく()まれ候ひぬ。みち()()みわ()くる人も候はぬに、をもいよらせ給ひての御心ざし石の中の火のごとし、火の中の蓮のごとし。ありがたく候。ありがたく候。

 

 

 

1

興津左衛門三郎時業 日興書写「法華経」一部を請く(富要9-巻首)

 

 

1

日興  「上野殿御返事」正月3日状に加筆

 

 

 

22

書を日眼女に報ず

「日眼女造立釈迦仏供養事(にちげんにょぞうりゅうしゃかぶつくようじ)

(2-327P1623、創新216P1609、校2-348P1721、全P1187、新P1351)

身延・四条金吾女房

創価学会新版・日眼女

 

真蹟・身延山久遠寺曽存(意・遠録等)

日朝本 平13

録内28-20 遺26-20 縮1830

 

*昭和定本「日眼女釈迦仏供養事」

創価学会新版・全集「日眼女造立釈迦仏供養事」

平成校定「日眼女釈迦仏供養事(日眼女造立釈迦仏供養事)

 

*木像造立と本地垂迹

御守り書きてまいらせ候。三界の主(あるじ)教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女(にちげんにょ)。御供養の御布施、前(さき)に二貫今一貫云云。

法華経の寿量品に云はく「或は己身を説き或は他身を説く」等云云。

東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏、上行菩薩等、文殊師利・舎利弗等、大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因(しゃくだいかんにん)王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星、阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国々の主とある人何れか教主釈尊ならざる。

天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり。例せば釈尊は天の一月、諸仏菩薩等は万水に浮ぶる影なり。

釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり。

譬へば頭をふ()ればかみ()ゆるぐ、心はたら()けば身うごく、大風吹けば草木しづ()かならず、大地うごけば大海さは()がし。

教主釈尊をうごかし奉ればゆるがぬ草木やあるべき、さわがぬ水やあるべき。

 

釈迦仏を造り奉れば

今教主釈尊を造立し奉れば下女が太子をうめるが如し。国王尚此の女を敬ひ給ふ。何に況んや大臣已下をや。大梵天王・釈提桓因王・日月等此の女人を守り給ふ。況んや大小の神祇をや。

昔優(うでん)大王、釈迦仏を造立し奉りしかば、大梵天王・日月等、木像を礼しに参り給ひしかば、木像説いて云はく「我を供養せんよりは優大王を供養すべし」等云云。

影堅王の画像の釈尊を書き奉りしも又々是くの如し。

法華経に云はく「若し人仏の為の故に諸の形像(ぎょうぞう)を建立す。是くの如き諸人等皆已(すで)に仏道を成じき」云云。

文の心は一切の女人釈迦仏を造り奉れば、現在には日々月々の大小の難を払ひ、後生には必ず仏になるべしと申す文なり。

中略

今日眼女は今生の祈りのやう()なれども、教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし。二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとを()ぼしめすべし。

 

 

 

228

書を池上宗長に報ず

「孝子御書」

(24-328P1626P3018、創価学会新版181P1499、校2-349P1724、全P1100、新P1353)

身延・兵衛志

創価学会新版・池上宗長

 

< 真蹟4紙断簡 >

3809行・島根県大田市(おおだし)温泉津町(ゆのつまち)温泉津口 恵珖寺蔵

253行・京都府京都市左京区仁王門通川端東入大菊町 頂妙寺蔵

433字末3行、第56行・福井県敦賀市元町 本妙寺蔵

12 満下383

録外5-28 遺26-19 縮1829

 

*平成校定「孝子御書(与兵衛志書)

*日付

昭和定本・創価学会新版・平成校定「228日」

全集「221日」

 

法華経・十羅刹も御納受あるべし

案にたが()ふ事なく親父より度々の御かんだう(勘当)をかうほ()らせ給ひしかども、兄弟ともに浄蔵・浄眼の後身か、将又(はたまた)薬王・薬上の御計らひかのゆへに、ついに事ゆへなく親父の御かんき(勘気)をゆり()させ給ひて、前(さき)に立てまいらせし御孝養、心にまか()せさせ給ひぬるは、あに孝子にあらずや。定めて天よりも悦びをあたへ、法華経・十羅刹も御納受あるべし。

 

 

 

2

曼荼羅(59)を図顕する

*顕示年月日

弘安二年太才己卯二月 日

*授与

妙心授与之

*讃文

仏滅度後二千二百 二十余年之 間一閻浮提 之内未曾 有大漫 荼羅也

有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 持国天王 増長天王 広目天王 毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪王 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 龍王 鬼子母神 十羅刹女 阿舎世王

*寸法

88.8×48.5㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

千葉県市川市中山 浄光院

 

 

 

2

曼荼羅(60)を図顕する

*顕示年月日

弘安二年太才己卯二月 日

*授与

釈子日目授与之

*讃文

仏滅度後二千二 百三十余年之 間一閻浮提 之内 未曾有 大漫荼羅也

有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分

讃者積福於安明 謗者開罪於無間

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 愛染明王 不動明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 龍王 龍王女 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大皇

*先聖添書

削損シアリ

*寸法

94.9×52.7㎝ 3枚継ぎ

 

*備考

・大広目天王右側の日興添書を削損してある。「王」字の点の中に「日興」の二字が残存。

・日興 の「本尊分与帳」に以下の記述あり

一、新田郷公日目者、日興第一弟子也 仍所申与如件

・当曼荼羅より再び提婆達多の列座が始まる。

・「龍王女」の配列は当曼荼羅(60)のみで他には見ない。

(富要8222)

*所蔵

三重県桑名市伝馬町 寿量寺

 

⇒此の曼荼羅は「不動明王・愛染明王」が通例の逆になっている。

 

*桑名市教育委員会 宗祖日蓮聖人御本尊

 

 

2

曼荼羅を図顕する

*「日亨本尊鑑」(P46) 第23 弘安二年二月日御本尊 底本(16)

「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P194)

*模写

*顕示年月日

弘安二年太才己卯二月 日

*授与

優婆塞日戴

*讃文

仏滅後二千二百三 十余年之間 一閻浮提之内 未曽有 大漫荼羅也

有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無迦葉尊者 南無舎利弗尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 帝釈天王 持国天王 毘楼博叉天王 毘楼勒叉天王 毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 正八幡宮 転輪聖王 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍天皇

*寸法

68.2×40.2㎝ 絹

*所蔵

身延山久遠寺曽存

 

⇒弘安年間で「正八幡宮」とあるのは当曼荼羅のみ。

他に「迦葉」「舎利弗」が左右相反している、四天王が梵漢両称を混用する場合に「大」が付されていない、「阿闍天皇」とあるのも当曼荼羅のみ。

 

 

 

36

嵯峨清涼寺 大念仏会を執行

 

 

321

佐渡国・阿仏房 寂91(千日尼御返事・全P1320)

 

 

 

326

書を松野殿後家尼に報ず

「松野殿後家尼御前御返事(まつのどののごけあまごぜんごへんじ)

(2-329P1627、創新379P2000、校2-350P1725、全P1390、新P1354)

身延・松野殿後家尼

 

日朝本 満下166 真蹟なし

録内34-39 遺26-23 縮1834

*全集「松野殿後家尼御前御返事(盲亀浮木抄)

 

日蓮一人ばかり

但日蓮一人ばかり日本国に始めて是を唱へまいらする事、去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間、昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱ふる事は一人なり。

念仏申す人は千万なり。予は無縁の者なり。念仏の方人(かたうど)は有縁なり、高貴なり。然れども師子の声には一切の獣(けもの)声を失ふ。虎の影には犬恐る。日天東に出でぬれば、万星の光は跡形もなし。法華経のなき所にこそ弥陀念仏はいみじかりしかども、南無妙法蓮華経の声出来しては、師子と犬と、日輪と星との光くらべのごとし。

譬へば鷹(たか)と雉(きじ)とのひとしからざるがごとし。故に四衆とりどりにそねみ、上下同じくにくむ。讒人(ざんにん)国に充満して奸人(かんじん)土に多し。故に劣を取りて勝をにくむ。譬へば犬は勝れたり師子をば劣れり、星をば勝れ日輪をば劣るとそし()るが如し。

然る間邪見の悪名世上に流布し、やゝ()もすれば讒訴し、或は罵詈(めり)せられ、或は刀杖の難をかふ()る。或は度々流罪にあたる。五の巻の経文にすこしもたがはず。さればなむだ()左右の眼にうかび、悦び一身にあまれり。

 

*釈迦仏の御身に入らせ給ひ候か

こゝに衣は身をかくしがたく、食は命をさゝ()へがたし。例せば蘇武(そぶ)が胡国にありしに、雪を食として命をたもつ。伯夷(はくい)は首陽山(しゅようざん)にすみし、蕨(わらび)をを()りて身をたすく。父母にあらざれば誰か問ふべき。三宝の御助けにあらずんばいかでか一日片時も持つべき。

未だ見参にも入らず候人の、かやう(斯様)に度々御をと()づれのはん()べるはいかなる事にや、あやしくこそ候へ。

法華経の第四の巻には、釈迦仏凡夫の身にい()りかはらせ給ひて、法華経の行者をば供養すべきよしを説かれて候。釈迦仏の御身に入らせ給ひ候か、又過去の善根のもよ()をしか。

 

 

 

3月以降

書を著す

「故阿仏房讃歎御書(こあぶつぼうさんだんごしょ)

(4断簡222P2933、創新267P1747、校2-351P1730、新P1358)

創価学会新版 阿仏房の縁者

 

真蹟1紙断簡

411行・新潟県三条市西本成寺 本成寺蔵

定・断簡222=創新「故阿仏房讃歎御書」=校「故阿仏房讃歎御書」

 

*本文

「方便現涅槃 而実不滅度」とと()かれて八月十五夜の満月の雲にかくれて□るがごとくいまだ滅し給はず候なれ。人こそ雲□られてみまいらせず候とも、月は仏眼(ぶつげん)・仏耳(ぶつに)をもつてきこしめし御ら□らむ。其の上、故阿仏房は「一心欲見仏」の者なり。あに臨終の時、釈迦仏を見まいらせ□む。其の上

 

 

 

48

熱原百姓信徒・四郎男 駿河国三日市場浅間神社分社にて行智(滝泉寺院主代)等に傷害を受く(P853)

 

*「滝泉寺申状」より

下方の政所代(まんどころだい)に勧めて、去ぬる四月御神事の最中に、法華経信心の行人四郎男を刃傷せしめ~

 

 

 

48

曼荼羅(61)を図顕する

*顕示年月日

弘安二年太才己卯四月八日

*授与

日向法師授与之

*讃文

仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮提之 内未曾有大漫 荼羅也

若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号

讃者積福於安明 謗者開罪於無間

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無薬王菩薩 南無弥勒菩薩 南無舎利弗尊者等 南無迦葉尊者等 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多

*寸法

89.4×47.6㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

千葉県茂原市茂原 藻原寺

 

 

 

48

曼荼羅(62)を図顕する

*顕示年月日

弘安二年太才己卯四月八日

*授与

優婆塞日田授[与之]

*讃文

仏滅度後二千二百三十 余年之間 一閻浮提之内 未曾有 大漫荼 羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

97.3×51.5㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

静岡県三島市玉沢 妙法華寺

 

 

 

48

曼荼羅を図顕する

*「日亨本尊鑑」(P48P196)

*模写

*顕示年月日

弘安二年太才己卯四月八日

*授与

沙弥法蓮授与之

*讃文

仏滅度後二千二百 三十余年之間一閻 浮提之内未曽有 大漫荼羅也

*相貌

略されている

*寸法

不詳 3枚継ぎ

*所蔵

千葉県市川市中山 法華経寺曽存

 

 

 

410

書を著すと伝う

「大黒天神御書」

(3続編35P2115)

身延

真蹟なし

録外21-41 縮二続76

*平成校定は偽書として不収録

 

 

 

420

書を南条時光に報ず

「上野殿御返事(刀杖難の事)

(2-330P1632、創新324P1888、校2-352P1731、全P1555、新P1358)

身延・南条時光

 

日朝本 満上366 真蹟なし

録外5-2 遺26-28 縮1839

 

*本満寺本「上野殿御消息」

昭和定本「上野殿御返事」

創価学会新版「上野殿御返事(刀杖難の事)

平成校定「上野殿御返事(杖木書)

全集「上野殿御返事(刀杖難事)

 

日蓮一人

(そもそも)日蓮種々の大難の中には、竜の口の頸の座と東条の難にはすぎず。其の故は諸難の中には命をすつる程の大難はなきなり。或はの()り、せ()め、或は処をおわれ、無実を云ひつけられ、或は面(おもて)をう()たれしなどは物のかずならず。されば色心の二法よりをこりてそし()られたる者は、日本国の中には日蓮一人なり。

ただし、ありとも法華経の故にはあらじ。さてもさてもわすれざる事は、せうぼう(少輔房)が法華経の第五の巻を取りて日蓮がつら()をうちし事は、三毒よりをこる処のちゃうちゃく(打擲)なり。

 

*次に勧持品に八十万億那由他の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり。誰か出でて日本国・唐土・天竺三国にして、仏の滅後によみたる人やある。又我よみたりとなのるべき人なし。又あるべしとも覚へず。

 

*日蓮仏果をえ()むに争(いか)でかせうばう(少輔房)が恩をす()つべきや。何に況んや法華経の御恩の杖をや。かくの如く思ひつづけ候へば感涙を()さへがたし。

 

日蓮生まれし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし。此の法華経の題目を弘めんと思ふばかりなり。

 

 

 

423

書を四条金吾に報ず

「陰徳陽報御書」

(2-331P1638、創新217P1612、校2-353P1736、全P1178、新P1362)

身延・四条金吾

 

真蹟2紙断簡(1114行、第1210行日付等)・京都府京都市上京区寺之内通新町西入ル妙顕寺前町 妙顕寺蔵

縮続147

*平成校定「四条金吾殿御返事(不孝御書)( 陰徳陽報御書)

 

< 系年 >

昭和定本「弘安2423日四條金吾へ()

*「創価学会新版」「対照録」「真蹟集成」「平成校定」は「不孝御書」(P1595)と「陰徳陽報御書」を同一御書として合体させる。

 

此の法門の一門

又此の法門の一門いかなる本意なき事ありとも、みず、きかず、いわずしてむつばせ給へ。大人にいのりなしまいらせ候べし。上に申す事は私の事にはあらず。外典三千、内典五千の肝心の心をぬきてかきて候

 

 

 

4

曼荼羅(63)を図顕する

*顕示年月日

弘安二年太才己卯四月 日

*授与

比丘日弁授与之

*讃文

仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮提之 内未曾有大漫荼 羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無薬王菩薩 南無弥勒菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

100.0×53.0㎝ 3枚継ぎ

 

*備考

・日興 「本尊分与帳」(宗全旧刊・興尊全集P112)

一、富士下方市庭寺越後房者。日興弟子也。仍所申与如件。但弘安年中背白蓮了。

*所蔵

千葉県香取郡多古町南中 ()妙興寺

 

 

 

4

*「日亨本尊鑑」(P50) 第25 弘安二年四月日御本尊 底本(17)

「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P192)

*模写

*顕示年月日

弘安二年太才己卯四月 日

*讃文

仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之内 未曽有大 曼荼 羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩等 南無舎利弗尊者等 南無迦葉尊者等 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王等 大月天王等 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世王

*寸法

62.7×35.5㎝ 2枚継ぎ

*所蔵

身延山久遠寺曽存

 

⇒大「漫」荼羅を大「曼」荼羅としているのは日亨の誤写か

 

 

 

52

書を新池殿に報ず

新池殿御消息」

(2-332P1639、創新399P2056、校2-354P1738、全P1435、新P1363)

身延・新池殿

 

日朝本 平1729 真蹟なし

録内36-8 遺26-33 縮1844

*全集新池殿御消息(法華経随自意事)

 

*一乗妙法蓮華経の御宝前

八木(はちぼく)三石(こく)送り給()び候。今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて、南無妙法蓮華経と只一遍唱へまいらせ候ひ畢んぬ。。いとをし(最愛)みの御子(みこ)を、霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり。

 

法華経供養の功徳

(そもそも)因果のことはりは華(はな)と果(このみ)との如し。千里の野の枯れたる草に、蛍火の如くなる火を一つ付けぬれば、須臾(しゅゆ)に一草二草十百千万草につき、わたりても()ゆれば十町二十町の草木一時にやけつきぬ。竜は一渧(てい)の水を手に入れて天に昇りぬれば三千世界に雨をふらし候。小善なれども法華経に供養しまいらせ給ひぬれば功徳此くの如し。

 

法華経の行者を供養せん功徳は

辟支仏(びゃくしぶつ)を供養する功徳すら此くの如し。況んや法華経の行者を供養せん功徳は、無量無辺の仏を供養し進(まい)らする功徳にも勝れて候なり。

 

*現在の主師親たる釈迦仏

(余の人々は)現在の主師親たる釈迦仏を閣きて、他人たる阿弥陀仏の十万億の他国へにげ行くべきよしをねがはせ給ひ候。阿弥陀仏は親ならず、主ならず、師ならず。

 

主師親の釈尊

これをあらあら経文に任せてかたり申せば、日本国の男女四十九億九万四千八百二十八人ましますが、某(それがし)一人を不思議なる者に思ひて、余の四十九億九万四千八百二十七人は皆敵と成りて、主師親の釈尊をもち()ひぬだに不思議なるに、かへりて或はの()り、或はう()ち、或は処を追ひ、或は讒言(ざんげん)して流罪し死罪に行なはるれば、貧(ひん)なる者は富()めるをへつら()ひ、賎しき者は貴きを仰ぎ、無勢は多勢にしたがう事なれば、適(たまたま)法華経を信ずる様なる人々も、世間をはばか()り人を恐れて、多分は地獄へ堕つる事不便(ふびん)なり。

 

現在の父たる釈迦仏

然るに今の人々は高きも賎しきも、現在の父たる釈迦仏をばかろ()しめて、他人の縁なき阿弥陀を重んじ奉るは是不孝の失(とが)にあらずや、是謗法の人にあらずやと申せば、日本国の人一同に怨ませ給ふなり。其れもことはりなり。ま()がれる木はすなを(素直)なる縄をにくみ、いつは()れる者はたゞしき政(まつ)りごとをば心にあはず思ふなり。

 

釈迦仏は御手を引き

其の上遠江国(とおとうみのくに)より甲州波木井の郷身延山へは道三百余里に及べり。宿々のいぶせさ、嶺に昇れば日月をいただき、谷へ下れば穴へ入るかと覚ゆ。河の水は矢を射るが如く早し。大石ながれて人馬むかひ難し。船あやうくして紙を水にひた()せるが如し。男は山がつ、女は山母(やまうば)の如し。道は縄の如くほそく、木は草の如くしげし。かゝる所へ尋ね入らせ給ひて候事、何なる宿習なるらん。釈迦仏は御手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に随ひ、日月は眼となりかはらせ給ひて入らせ給ひけるにや。ありがたしありがたし。

 

身苦しく

事多しと申せども此の程風おこりて身苦しく候間留め候ひ畢んぬ。

 

 

 

54

書を窪尼に報ず

「窪尼御前御返事(くぼのあまごぜんごへんじ) (孝養善根の事)

(2-333P1645、創新367P1974、校2-355P1744、全P1481、新P1367)

身延・窪尼

 

真蹟断簡323行・山梨県南アルプス市上市之瀬 妙了寺

日興本完(要検討)静岡県富士宮市上条 大石寺

日朝本 宝8 満下192

録外2-40 受2-22 遺26-39 縮1850

 

*本満寺本「窪尼御前御返事=持妙尼御書」

昭和定本「窪尼御前御返事」

創価学会新版「窪尼御前御返事 (孝養善根の事)

平成校定「窪尼御前御返事(報持妙尼書)

全集「窪尼御前御返事(孝養善根事)

⇒高橋六郎兵衛の妻=妙心尼=窪尼=持妙尼・日興の叔母

 

 

 

513

書を著す

一大事御書」

(2-334P1646、創新437P2157、校2-356P1745、全P1599、新P1368)

身延

 

真蹟1紙断簡5行外日付等・東京都墨田区向島 常泉寺曽存

 

< 系年 >

和定本「弘安2513()

創価学会新版・系年なし

 

*本文

あながちに申させ給へ。日蓮が身のうへの一大事なり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 

 

517

書を富木常忍に報ず

四菩薩造立抄」

(2-335P1647、創新141P1338、校2-357P1746、全P987、新P1368)

身延・富木常忍

 

5 満上20 真蹟なし

録外15-33 受1-7 遺26-42 縮1854

*本満寺本「四菩薩造立抄=四菩薩可造立事」

 

*四菩薩造立

一、御状に云はく、本門久成(くじょう)の教主釈尊を造り奉り、脇士(きょうじ)には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼ねて聴聞仕り候ひき。然れば聴聞の如くんば何れの時かと云云。

(それ)仏、世を去らせ給ひて二千余年に成りぬ。其の間月氏・漢土・日本国・一閻浮提の内に仏法の流布する事、僧は稲麻(とうま)のごとく法は竹葦(ちくい)の如し。然るにいまだ本門の教主釈尊並びに本化の菩薩を造り奉りたる寺は一処も無し。三朝の間に未だ聞かず。日本国に数万の寺々を建立せし人々も、本門の教主・脇士を造るべき事を知らず。

中略

かたがた不審なりし間、法華経の文を拝見し奉りしかば其の旨(むね)顕然なり。末法闘諍(とうじょう)堅固(けんご)の時にいたらずんば造るべからざる旨分明(ふんみょう)なり。正像に出世せし論師人師の造らざりしは、仏の禁(いまし)めを重んずる故なり。若し正法・像法の中に久成の教主釈尊並びに脇士を造るならば、夜中に日輪出で日中に月輪の出でたるが如くなるべし。末法に入って始めの五百年に、上行菩薩の出でさせ給ひて造り給ふべき故に、正法・像法の四依の論師人師は言にも出ださせ給はず。竜樹・天親こそ知らせ給ひたりしかども、口より外へ出ださせ給はず。天台智者大師も知らせ給ひたりしかども、迹化の菩薩の一分なれば一端は仰せ出ださせ給ひたりしかども、其の実義をば宣べ出ださせ給はず。

中略

今末法に入ぬれば尤(もっと)も仏の金言の如きんば、造るべき時なれば本仏本脇士造り奉るべき時なり。当時は其の時に相当たれば、地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん。先づ其の程に四菩薩を建立し奉るべし。尤も今は然るべき時なりと云云。されば天台大師は「後五百歳遠く妙道に沾(うるお)はん」とした()ひ、伝教大師は「正像稍(やや)過ぎ已()はって末法太(はなは)だ近きに有り。法華一乗の機、今正(まさ)しく是其の時なり」と恋ひさせ給ふ。

 

*一閻浮提第一の富める者

日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり。是(これ)時の然らしむる故なりと思へば喜び身にあまり、感涙押さへ難く、教主釈尊の御恩報じ奉り難し。恐らくは付法蔵の人々も日蓮には果報は劣らせ給ひたり。天台智者大師・伝教大師等も及び給ふべからず。最も四菩薩を建立すべき時なり云云。

 

*四菩薩を造立すべき証文

問うて云はく、四菩薩を造立すべき証文之(これ)有りや。答へて云はく、涌出品に云はく「四導師有り。一をば上行と名づけ、二をば無辺行と名づけ、三をば浄行と名づけ、四をば安立行と名づく」等云云。問うて云はく、後五百歳に限るといへる経文之(これ)有りや。答へて云はく、薬王品に云はく「我が滅度の後、後五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云。

 

*迹門

一、御状に云はく、太田方の人々、一向に迹門に得道あるべからずと申され候由、其の聞こえ候と。

是は以ての外の謬(あやま)りなり。御得意(こころえ)候へ。本迹二門の浅深・勝劣・与奪・傍正は時と機とに依るべし。

中略

今の時は正には本門、傍には迹門なり。迹門無得道と云ひて、迹門を捨てゝ一向本門に心を入れさせ給ふ人々は、いまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ、以ての外の僻見(びゃっけん)なり。

 

*日蓮が如くにし候へ

私ならざる法門を僻案せん人は、偏(ひとえ)に天魔波旬(はじゅん)の其の身に入り替はりて、人をして自身ともに無間大城に墜つべきにて候。つたなしつたなし。此の法門は年来(としごろ)貴辺に申し含めたる様に人々にも披露あるべき者なり。総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ。さだにも候はゞ、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし。其れさへ尚人々の御心中は量りがたし。

 

 

 

523

書を著す

「定・断簡277=校・耆多王(あぎたおう)御書」

(4断簡277P2963、校2-358P1750)

身延・波木井実長か

 

真蹟18行・神奈川県川崎市麻生区高石 匡真寺(きょうしんじ)

*平成校定「真蹟断簡2紙」

 

*本文

まいらせて候。月氏国には阿耆多王(あぎたおう)と申せし悪王候ひき。仏を請ひ奉りて供養しまいらせ候はざりし□大王と生まれたり。此れは大麦なり。なんぞ仏のたねとならざらむと、かしこまり申すよし、申し上げさせ給へし、申し上げさせ給へし。恐々謹言。

 

 

 

5

書を著すと伝う

「出家功徳御書」

(3続編36P2116、校2-359P1750、全P1251、新P1371)

身延

 

真蹟なし

録外23-22 遺28-2 縮1926

*平成校定「出家功徳御書(一四句偈功徳書)

 

 

 

62

日寂 武蔵国橋場(鐘ケ淵)に長昌寺を創建と伝う(寺誌)

 

 

 

620

書を松野殿女房に報ず

松野殿女房御返事(まつのどののにょうぼうごへんじ)(月中[げっちゅう]の兎[うさぎ]の事)

(24-336P1651P3018、創新380P2004、校2-360P1753、全P1394、新P1373)

身延・松野殿女房

 

真蹟断簡131行・福井県敦賀市元町 本勝寺蔵

日朝本 宝8 満下16

録外9-8 受7-3 遺26-46 縮1858

 

*昭和定本松野殿女房御返事」

創価学会新版「松野殿女房御返事(月中の兎の事)

平成校定松野殿女房御返事(送供書)

 

*身延山・霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず

此の身延の沢と申す処は、甲斐国の飯井野(いいの)・御牧(みまき)・波木井の三箇郷の内、波木井の郷の戌亥(いぬい)の隅にあたりて候。北には身延の岳(たけ)天をいたゞき、南には鷹取が岳雲につゞき、東には天子の岳日とたけをな()じ。西には又峨々(がが)として大山つゞきて、しらねの岳にわたれり。猿(ましら)のなく音(こえ)天に響き、蝉のさゑづり地にみてり。天竺の霊山此処(ここ)に来たれり、唐土の天台山親(まのあた)りこゝに見る。我が身は釈迦仏にあらず、天台大師にてはなけれども、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず。

 

*命いかでかつぐべきやらん

但し有待(うだい)の依身(えしん)なれば、著()ざれば風身にしみ、食()らはざれば命持ちがたし。灯に油をつがず、火に薪を加へざるが如し。命いかでかつぐべきやらん。命続()ぎがたく、つぐべき力絶へては、或は一日乃至五日、既に法華経読誦の音も絶へぬべし、止観のまどの前には草しげりなん。

 

*釈迦仏は霊山より御手をのべて・・・

かくの如く候に、いかにして思ひ寄らせ給ひぬらん。兎は経行の者を供養せしかば、天帝(てんたい)哀れみをなして月の中にを()かせ給ひぬ。今天を仰ぎ見るに月の中に兎あり。されば女人の御身として、かゝる濁世末代に、法華経を供養しましませば、梵王も天眼を以て御覧じ、帝釈は掌を合はせてをがませ給ひ、地神は御足をいたゞきて喜び、釈迦仏は霊山より御手をのべて御頂(おんいただき)をなでさせ給ふらん。

 

 

 

6

無学祖元(むがくそげん)・鏡堂覚円(きょうどうかくえん) 北条時宗の招きで宋より来朝(元亨釈書)

 

 

 

6

曼荼羅(64)を図顕する

*顕示年月日

弘安二年太才己卯六月 日

*授与

比丘尼日符

*讃文

仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之内 未曾有 大漫荼 羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無舎利弗尊者等 南無迦葉尊者等 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

 94.9×53.3㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

千葉県市川市中山 法宣院

 

 

 

6

曼荼羅を図顕する

*「日亨本尊鑑」(P53P195) 第26 弘安二六月日御本尊 底本(32)

*模写

*顕示年月日

弘安二六月 日

*相貌

略されている

*寸法

不詳 2枚継ぎ

*所蔵

千葉県市川市中山 法華経寺曽存

 

 

 

6

曼荼羅を図顕する

*日等臨写本・「日蓮聖人真蹟の形態と伝来」(寺尾英智氏 P56P8285)

「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P254)

*臨写

*顕示年月日

弘安二年太才己卯六月 日

*授与

釈子日家授与之

⇒釈子日家=日保とともに小湊誕生寺、興津妙覚寺を開いた寂日房日家のことか

*讃文

仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮提 之内未曽有 大漫荼 羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無薬王菩薩 南無弥勒菩薩 南無舎利弗尊者等 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 大明星天王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

104.5×57.0㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

千葉県市川市中山 法華経寺曽存

 

 

 

 

72

遠藤藤九郎守綱 父阿仏房の遺骨を身延に葬る(千日尼御返事・全P1322)

 

 

 

713

書を治部房の祖母に報ず

「盂蘭盆御書(うらぼんごしょ)

(2-374P1770、創新387P2022、校2-361P1754、全P1427、新P1374)

身延・治部房(じぶぼう)の祖母

 

真蹟17紙完・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺

21

録外15-41 受3-20 遺23-3 縮1594

 

< 系年 >

昭和定本「弘安3713()或は建治3()

創価学会新版「弘安元年または同2年の713日」

平成校定「弘安2713日」

全集「建治372日」

 

皆初住・妙覚の仏となりぬ

目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外(ぞんがい)に仏となり給ふ。乃至代々の子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生三悪道をはなるゝのみならず、皆初住・妙覚の仏となりぬ。故に法華経の第三に云はく「願はくは此の功徳を以て普(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。

 

あを()ぐところは釈迦仏

されば此等をもって思ふに、貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり。此の僧は無戒なり無智なり。二百五十戒一戒も持つことなし。三千の威儀一つも持たず。智慧は牛馬にるい()し、威儀は猿猴(えんこう)にに()て候へども、あを()ぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり。例せば蛇の珠(たま)をにぎり、竜の舎利を戴けるがごとし。

 

*孫を法華経の行者となして導かれ

あわれいみじき御たから()はもたせ給ひてをはします女人かな。彼の竜女は珠をさゝげて仏となり給ふ。此の女人は孫を法華経の行者となしてみちびかれさせ給ふべし。

 

仏前にさゝげて申し上げ

(しらげごめ)一俵・やいごめ(焼米)・うり・なすび等、仏前にさゝげて申し上げ候ひ了んぬ。

 

 

 

727

書を大田乗明に報ず

乗明上人御返事」

(2-337P1652、創新157P1377、校2-362P1761、新P1378)

身延・乗明上人

創価学会新版・大田乗明

 

真蹟13行完・大阪府大阪市中央区谷町 長久寺蔵

*平成校定「真蹟16行完」

*創価学会新版乗明上人御返事(福過十号の事)

 

*本文

乗明上人、一石を山中に送る。福を得ること十号の功徳に過ぎん。恐々謹言。

 

 

 

729

幕府 元国使者を博多で斬る(師守記)

 

 

 

7

曼荼羅を図顕する

*「日亨本尊鑑」(P54) 第27 弘安二年七月日御本尊 底本(18)

「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P204)

*顕示年月日

弘安二年太才己卯七月 日

*授与

沙門日春授与之

*讃文

仏滅度後二千二百 三十余年之 間一閻浮提 之内未曽有 大漫荼羅也 

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者等 南無迦葉尊者等 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因天王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 大明星天王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

115.7×53.6㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

身延山久遠寺曽存

 

⇒弘安四年太才辛巳四月五日の曼荼羅(105)には「僧日春授与之」とある

 

 

 

7

曼荼羅(65)を図顕する

*顕示年月日

弘安二年太才己卯七月 日

*授与

沙門日法授与之

*讃文

仏滅度後二千二百三十余年之 間一閻浮提之内未曾有 大漫荼羅也
若於一劫中 常懐不善心 作色而罵仏 獲無量重罪

其有読誦持 是法花経者 須臾加悪言 其罪復過彼
有人求仏道 而於一劫中 合掌在我前 以無数偈讃

由是読仏故 得無量功徳 歎美持経者 其福復過彼

( 法華経・法師品第十 )
若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号
讃者積福於安明 謗者開罪於無間

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 大明星天王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

104.5×54.5㎝ 3枚継ぎ

 

*備考

・不動・愛染二明王を表す梵字の起筆の部分が、「弘安二年四月八日の曼荼羅(62)」から変貌を示し、当曼荼羅に到りその頭部が完全な宝珠型となる。以降は弘安五年に及ぶ。

*所蔵

静岡県沼津市岡宮 光長寺

 

 

 

88

書を南条時光に報ず

「上野殿御返事(山中[さんちゅう]に財[たから]の事)

(2-338P1653、創新325P1892、校2-364P1763、全P1559、新P1379)

身延・南条時光

 

日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵

17

録内35-38 遺26-48 縮1860

 

*昭和定本「上野殿御返事」

創価学会新版「上野殿御返事(山中に財の事)

平成校定「上野殿御返事(報南条氏書)

全集「上野殿御返事(財御書)

 

法華経にまいらせ

鵞目(がもく)一貫・しお一たわら・蹲鴟(いものかしら)一俵・はじ()かみ少々、使者をもて送り給()び了んぬ。

中略

漢土(もろこし)に銅山と申す山あり。彼の山よりいでて候ぜに()なれば、一文も千文もみな三千里の海をわたりて来たるものなり。万人皆たま()とおもへり。此を法華経にまいらせさせ給ふ。

釈まなん(摩男)と申せし人のたな()心には石変じて珠となる。金(こん)ぞく()王は沙(いさご)を金(こがね)となせり。

法華経は草木を仏となし給ふ。いわうや心あらん人をや。法華経は焼種(しょうしゅ)の二乗を仏となし給ふ。いわうや生種(しょうしゅ)の人をや。法華経は一闡提を仏となし給ふ。いわうや信ずるものをや。事々つくしがたく候。又々申すべし。

 

 

 

817

書を曽谷道宗に報ず

「曽谷殿御返事(輪陀王の事)

(2-339P1654、創新167P1439、校2-365P1764、全P1059、新P1380)

身延・曾谷入道(曾谷の道宗)

創価学会新版・曽谷道宗(そやどうそう)

 

日朝本 平31 真蹟なし

録内37-17 遺27-1 縮1862

 

*昭和定本「曾谷殿御返事」

創価学会新版「曽谷殿御返事(輪陀王の事)

平成校定「曾谷殿御返事(五味主抄)(焼米書)

全集「曾谷殿御返事(輪陀王御書)

 

< 系年 >

昭和定本・創価学会新版・全集「弘安2817日」

平成校定「弘安2811日」

弘安元年817日、山上弘道氏の論考「四條金吾領地回復を伝える諸遺文の系年再考」(興風23P619)

 

*定慧力荘厳を日月として

法華経は何なる故ぞ諸経に勝れて一切衆生の為に用ゆる事なるぞと申すに、譬へば草木は大地を母とし、虚空を父とし、甘雨を食(じき)とし、風を魂とし、日月をめのと(乳母)として生長し、華さき菓(このみ)なるが如く、一切衆生は実相を大地とし、無相を虚空とし、一乗を甘雨とし、已今当第一の言(ことば)を大風とし、定慧力荘厳(じょうえりきしょうごん)を日月として妙覚の功徳を生長し、大慈大悲の華さ()かせ、安楽仏果の菓(このみ)なって一切衆生を養ひ給ふ。

 

*天台宗

欽明より桓武にいたるまで二十余代、二百六十余年が間、仏を大王とし、神を臣として世ををさ()め給ひしに、仏教はすぐれ神はをと()りたりしかども、未だよ()をさ()まる事なし。

いかなる事にやとうたが()はりし程に、桓武の御宇(ぎょう)に伝教大師と申す聖人出来して勘(かんが)へて云はく、神はまけ仏はかたせ給ひぬ。仏は大王、神は臣か()なれば、上下あひついで、れいぎ(礼儀)たゞ()しければ、国中をさ()まるべしとをも()ふに、国のしづ()かならざる事ふしん(不審)なるゆへに一切経をかんがへて候へば、道理にて候ひけるぞ。仏教にをほ()きなるとが()ありけり。

一切経の中に法華経と申す大王をはします。ついで華厳経・大品経・深密経・阿含経等はあるいは臣の位、あるいはさぶらい()のくらい()、あるいはたみ()の位なりけるを、或は般若経は法華経にはすぐれたり・三論宗、或は深密経は法華経にすぐれたり・法相宗、或は華厳経は法華経にすぐれたり・華厳宗、或は律宗は諸宗の母なりなんど申して、一人として法華経の行者なし。

世間に法華経を読誦するは還ってをこ(烏滸)づきうしな()うなり。之に依って天もいかり、守護の善神も力よは()し云云。所謂「法華経をほ()むといえども還って法華の心をころ()す」等云云。

南都七大寺・十五大寺、日本国中の諸寺諸山の諸僧等、此のことばをき()ゝてをほ()きにいか()り、天竺の大天・漢土の道士、我が国に出来せり。所謂最澄と申す小法師是なり。せん()ずる所は行きあはむずる処にて、かしら()をわ()れ、かた()をき()れを()とせ、う()て、の()れと申せしかども、桓武天皇と申す賢王たづ()ねあきらめて、六宗はひが()事なりけりとて初めてひへい(比叡)山をこんりう(建立)して、天台法華宗とさだめをかせ、円頓の戒を建立し給ふのみならず、七大寺・十五大寺の六宗の上に法華宗をそ()へを()かる。

せん()ずる所、六宗を法華経の方便となされしなり。れいせば神の仏にまけて門(かど)まぼ()りとなりしがごとし。日本国も又々かくのごとし。法華最第一の経文初めて此の国に顕はれ給ひ「能竊為一人(のうせっちいちにん)、説法華経」の如来の使ひ初めて此の国に入り給ひぬ。桓武・平城(へいぜい)・嵯峨(さが)の三代二十余年が間は日本一州皆法華経の行者なり。

 

*壊劫の時「大の三災」火災・水災・風災

減劫の時「小の三災」飢渇・疫病・合戦

今は又法華経の行者出来せり。日本国の人々癡(おろ)かの上にいか()りををこす。邪法をあい()し、正法をにくむ、三毒がうじゃう(強盛)なり。日本国いかでか安穏なるべき。壊劫(えこう)の時は大の三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり。又減劫(げんこう)の時は小の三災をこる、ゆはゆる(所謂)飢渇(けかち)・疫病・合戦なり。飢渇は大貪(だいとん)よりをこり、やくびゃう(疫病)はぐち(愚癡)よりをこり、合戦は瞋恚(しんに)よりをこる。今日本国の人々四十九億九万四千八百二十八人の男女、人々ことなれども同じく一つの三毒なり。所謂南無妙法蓮華経を境(きょう)としてを()これる三毒なれば、人ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にの()り、せ()め、流し、うしな()うなり。是即ち小の三災の序なり。

 

しかるに日蓮が一るい()、いかなる過去の宿じう()にや、法華経の題目のだんな(檀那)となり給ふらん。

 

*今年一百余人の人を山中にやしなひて

(そもそも)貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目(がもく)其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ。此ら()は末代悪世には一えんぶだい(閻浮提)第一の仏事にてこそ候へ。いくそばくか過去の聖霊もうれしくをぼ()すらん。釈尊は孝養の人を世尊となづけ給へり。貴辺あに世尊にあらずや。故大進阿闍梨の事なげかしく候へども、此又法華経の流布の出来すべきいんえん(因縁)にてや候らんとをぼしめすべし。事々命なが()らへば其の時申すべし。

 

 

 

818

曼荼羅を図顕する

(富要8177)

*顕示年月日

弘安二年太才己卯八月十八日

*授与

沙門祐盛日合授与之

*寸法

110.0×53.0

*所蔵

静岡県富士宮市上条 大石寺

 

 

 

820

北条時宗 無学祖元を建長寺住持とする

 

 

 

8

熱原百姓信徒・弥四郎男 行智、下方政所代等に殺害される(P853)

*「滝泉寺申状」より

去ぬる八月弥四郎男の頸を切らしむ~

 

 

 

915

書を四条金吾に報ず

「四条金吾殿御返事(源遠流長[げんおんりゅうちょう]の事)

(2-340P1665、創新218P1614、校2-368P1779、全P1180、新P1390)

身延・四条金吾

 

真蹟8紙断片・身延山久遠寺曽存(意・乾録等)

日朝本 平16

録内17-40 遺25-45 縮1789

 

*録内「四條金吾殿怨嫉大陣既破等事)

昭和定本「四条金吾殿御返事(怨嫉大陣既破事)

創価学会新版「四条金吾殿御返事(源遠流長の事)

全集「四条金吾殿御返事(源遠長流御書)

 

< 系年 >

昭和定本「弘安2915()或は弘安元年()

創価学会新版・平成校定「弘安2915日」

全集「弘安元年915日」

・「弘安元年915日」

山上弘道氏の論考「四條金吾領地回復を伝える諸遺文の系年再考」(興風23P621)

 

*法華経の御宝前

銭一貫文給びて、頼基(よりもと)がまいらせ候とて、法華経の御宝前に申し上げて候。定めて遠くは教主釈尊並びに多宝・十方の諸仏、近くは日月の宮殿にわたらせ給ふも御照覧候ひぬらん。

 

聖人出現して候らん

今こそ仏の記しをき給ひし後五百歳、末法の初め、況滅度後の時に当たりて候へば、仏語むな()しからずば、一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん。

聖人の出づるしるしには、一閻浮提第一の合戦をこるべしと説かれて候に、すでに合戦も起こりて候に、すでに聖人や一閻浮提の内に出でさせ給ひて候らん。

きりん(麒麟)出でしかば孔子を聖人としる。鯉社(りしゃ)()って聖人出で給ふ事疑ひなし。仏には栴檀(せんだん)の木を()ひて聖人としる。老子は二五の文を蹈()んで聖人としる。

 

*末代の法華経の聖人・・・心を以て計らせ給ふべし

末代の法華経の聖人をば何を用ってかしるべき。経に云はく、能説此経・能持此経の人、則ち如来の使ひなり。八巻・一巻・一品・一偈の人、乃至題目を唱ふる人、如来の使ひなり。始中終す()てずして大難をとをす人、如来の使ひなり。日蓮が心は全く如来の使ひにはあら()ず、凡夫なる故なり。但し三類の大怨敵にあだ()まれて、二度の流難に値へば如来の御使ひに似たり。

心は三毒ふかく一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使ひに似たり。過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり。現在をとぶらうに加刀杖瓦石(かとうじょうがしゃく)にたが()う事なし。未来は当詣(とうけい)道場疑ひなからんか。これをやしな()はせ給ふ人々は豈(あに)同居浄土の人にあらずや。事多しと申せどもとゞめ候。心をも()て計らせ給ふべし。

 

*日蓮が死生をばまか()せまいらせて候。全く他のくすし(薬師)をば用ゐまじく候なり。

 

 

 

916

書を著す

「寂日房御書」

 (2-341P1669、創新113P1268、校2-369P1783、全P902、新P1393)

身延・寂日房日家

 

2-25 遺27-10 縮1872 真蹟なし

*平成校定「与日家書」

 

題目の行者

是まで御をとづれ(音信)かたじけなく候。

(それ)人身をう()くる事はまれなり。已(すで)にまれなる人身をうけたり。又あ()ひがた()きは仏法、是又あへり。同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる。結句題目の行者となれり。まことにまことに過去十万億の諸仏供養の者なり。

 

日本第一の法華経の行者・法華経・釈迦如来の御使ひ

日蓮は日本第一の法華経の行者なり。すでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり。八十万億那由他の菩薩は口には宣()べたれども修行したる人一人もなし。不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人なり。父母となり其の子となるも必ず宿習なり。若し日蓮が法華経・釈迦如来の御使ひならば父母あに其の故なからんや。例せば妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼の如し。釈迦・多宝の二仏、日蓮が父母と変じ給ふか。然らずんば八十万億の菩薩の生まれかわり給ふか。又上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹か。不思議に覚え候。

 

自解仏乗

日蓮となのる事自解仏乗(じげぶつじょう)とも云ひつべし。かやうに申せば利口げに聞こえたれども、道理のさすところさもやあらん。

経に云はく「日月の光明の能く諸の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く、斯()の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ。

「斯人行世間(しにんぎょうせけん)」の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさ()しいだ()して、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。日蓮等此の上行菩薩の御使ひとして、日本国の一切衆生に法華経をう()けたも()てと勧めしは是なり。此の山にしてもをこた()らず候なり。

今の経文の次下(つぎしも)に説いて云はく「我が滅度の後に於て応(まさ)に此の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑ひ有ること無けん」云云。

かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふか()しと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といはれぬる事不祥(ふしょう)なり。まぬか()れがた()き身なり。

 

釈迦仏・法華経は妻と親との如くましまし候ぞ

法華経は後生のはぢをかくす衣なり。経に云はく「裸者(らしゃ)の衣を得たるが如し」云云。

此の御本尊こそ冥途(めいど)のいしゃう(衣裳)なれ。よくよく信じ給ふべし。

をとこ()のはだ()へをかくさゞる女あるべしや。子のさむ()さをあわ()れまざるをや()あるべしや。釈迦仏・法華経はめ()とをや()との如くましまし候ぞ。日蓮をたすけ給ふ事、今生の恥をかくし給ふ人なり。後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし。昨日は人の上、今日は我が身の上なり。花さけばこのみ()なり、よめ()のしうとめ()になる事候ぞ。信心をこた()らずして南無妙法蓮華経と唱へ給ふべし。

 

 

 

920

書を日興に報ず

「伯耆殿御書」

(2-342P1671、校2-370P1785、新P1395)

身延・日興

 

日興本断簡・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵

縮二続121

 

*本文

「形像舎利並び余経典、唯法華経一部を置く」と申す釈と、「直ちに専ら此の経を持つ。則ち上供養」の釈をかまうべし。余経とは小乗経と申さば、「況んや彼の華厳 ○法を以て之を化するに[同じからず]。故に乃至不受余経一偈と云ふ」の釈を引け。

はわきどの(伯耆殿)

 

⇒日蓮は「伯耆殿御書」を、淡路房を使いとして富士の日興に送り、申状または陳状の書面作成を指示。

 

 

 

921

熱原法難

滝泉寺・行智らは下方政所と結託し、「熱原信徒20人が日秀等の扇動により苅田狼藉を働いた」として捕え、鎌倉へ送る。弥藤次入道に訴状を提出させる。

日興は淡路房に事件の報告を託し、鎌倉へ向かう。

 

*訴状「滝泉寺申状」より

訴状に云はく、今月二十一日数多(あまた)の人勢(にんぜい)を催し、弓箭(きゅうせん)を帯し、院主分の御坊内に打ち入り、下野房は乗馬相具(あいぐ)し、熱原の百姓紀次郎(きのじろう)男、点札(てんさつ)を立て作毛(さくもう)を苅り取って日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云。取意

 

*「法華仏教研究」31号 川﨑弘志氏の論考「熱原法難の三烈士名と処刑日に関する一考察」

 

 

 

921

大進房 落馬して悶死す(聖人御難事・全P1190)

 

 

 

926

書を日興等に報ず

「伯耆殿並諸人御書(ほうきどのならびにしょにんごしょ)

(4-438P2874、創新349P1936、校2-371P1786、新P1395)

身延・日興、諸人(日秀、日弁らか)

創価学会新版・日興等

 

真蹟1紙断簡(198)・和歌山県和歌山市坂田 天台宗・了法寺蔵

 

*昭和定本「伯耆殿並諸人御中」

創価学会新版「伯耆殿並諸人御書」

 

*文中の「弘安二年」は日興筆

*「定4断簡追加『その7』・P2942(東京都足立区・国土安穏寺蔵)の第33行は、上記と共に字体、内容から「伯耆殿並諸人御書」の一部と推定される。

*「定3断簡158P2527(京都府京都市左京区・頂妙寺蔵)の第712行も「伯耆殿並諸人御書」の一部か。

 

*本文

此の事はすでに梵天・帝釈・日月等に申し入れて候ぞ。あへてたが()えさせ給ふべからず。各々天の御はか()らいとをぼすべし。恐々謹言。

九月二十六日

日蓮 花押

伯耆殿並諸人御中

 

⇒日蓮は「伯耆殿並諸人御書」で、鎌倉の日興等の門下に事件の対応を指示。

 

 

 

928

この頃、「伯耆殿並諸人御書」が鎌倉着。日興・富木常忍が問注の準備をすすめる。

更に富木常忍の法論の様子、鎌倉の状況を身延の日蓮に報告。

 

 

 

9

曼荼羅(66)を図顕する

*顕示年月日

弘安二年太才己卯九月 日

*授与

日仰優婆塞授与之

*讃文

仏滅度後二千二百三十余年之間 一閻浮提之中未曾有 大漫荼羅也

今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子

而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護

( 法華経・譬喩品第三  )

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 

*寸法

不詳 1

 

*備考

・自署・花押部分が剪除されている。

*所蔵

和歌山県和歌山市吹上 蓮心寺

 

 

 

101

書を門下一同に報ず

「聖人御難事」

(2-343P1672、創新219P1618、校2-372P1786、全P1189、新P1396)

身延・門人等、四条金吾のもとへ

創価学会新版・門下一同

 

真蹟12紙完・千葉県市川市中山 法華経寺

日朝本 平12

録内22-30 遺27-13 縮1875

 

*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

聖人度々御難事

 

余は二十七年なり

去ぬる建長五年[太歳癸丑(みずのとうし)]四月二十八日に、安房国長狭郡(ながさのこおり)の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや()、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや(御厨)、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年[太歳己卯(つちのとう) ]なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。

 

*日蓮一人

而るに日蓮二十七年が間、弘長元年[辛酉(かのととり)]五月十二日には伊豆国へ流罪、文永元年[甲子(きのえね)]十一月十一日頭にきず()をかほ()り左の手を打ちを()らる。同じき文永八年[辛未(かのとひつじ)]九月十二日佐渡国へ配流、又頭の座に望む。其の外に弟子を殺され、切られ、追ひ出され、くわれう(過料)等かずをしらず。仏の大難には及ぶか勝れたるか其れは知らず。竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし。日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。

 

やくびゃう(疫病)は冥罰

罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰四つ候。日本国の大疫病と大けかち(飢渇)とどしう(同士討)ちと他国よりせめらるゝは総ばち()なり。やくびゃう(疫病)は冥罰なり。大田等は現罰なり、別ばち()なり。

 

*日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給ふ

故最明寺殿の日蓮をゆるしゝと此の殿の許しゝは、禍(とが)なかりけるを人のざんげん(讒言)と知りて許しゝなり。今はいかに人申すとも、聞きほどかずしては人のざんげん(讒言)は用ゐ給ふべからず。設(たと)ひ大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給ふゆへに、ばっ()しがたかるべしと存じ給ふべし。月々日々につよ()り給へ。すこしもたゆ()む心あらば魔たよりをうべし。

 

*あつわら(熱原)の愚癡の者ども

彼のあつわら(熱原)の愚癡の者どもい()ゐはげ()ましてを()とす事なかれ。彼等には、たゞ一えん()にをも()い切れ、よからんは不思議、わるからんは一定とをも()へ。ひだる()しとをも()わば餓鬼道ををし()へよ。さむ()しといわば八かん()地獄ををし()へよ。をそ()ろしゝといわばたか()にあへるきじ()、ねこ()にあへるねずみ()を他人とをも()う事なかれ。

 

 

 

101

書を富木常忍に報ず

「常忍抄」

(2-310P1588、創新140P1334、校2-329P1629、全P980、新P1283)

身延・富木常忍

 

真蹟10紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

信伝本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源

日朝本 平15

録内31-32 遺23-54 縮1647

 

*昭和定本「富木入道殿御返事(禀権出界[ほんごんしゅっかい])

創価学会新版「常忍抄」

平成校定「常忍抄(富木入道殿御返事)(禀権出界抄)

全集「常忍抄(第三法門抄)

 

< 系年 >

昭和定本「弘安元年101()或は建治3()

創価学会新版・平成校定「弘安元年101日」

全集「建治3101日」

 

*系年について

・山上弘道氏「日蓮大聖人の思想」(興風16P210)

「熱原法難に関連する記述が見られるので、弘安二年に系けられるのが妥当である。」

・山川智応氏「日蓮聖人研究」第二巻

「筆跡と花押が弘安二年十月一日の『聖人御難事』に似通っている」

・山中喜八氏「禀権出界抄の系年について」(大崎学報112)

「弘安二年と推定」「下総での常忍と了性房の問答だけではなく、熱原法難に関する指示も錯綜して書かれている」

 

*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

禀権出界抄

 

*日蓮が法門は第三の法門なり

 

法華経と爾前と引き向けて勝劣浅深を判ずるに、当分跨節(とうぶんかせつ)の事に三つの様有り。日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗(ほぼ)夢の如く一・二をば申せども、第三をば申さず候。第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了()へず。所詮末法の今に譲り与へしなり。五五百歳とは是なり。但し此の法門の御論談は余は承らず候。彼は広学多聞(たもん)の者なり。はゞか()りはゞかりみ()たみたと候ひしかば、此の方のま()けなんども申しつけられなばいかん(如何)がし候べき。但し彼の法師等が彼の釈を知り候はぬは、さてをき候ひぬ。六十巻にな()しなんど申すは天のせめなり。謗法の科(とが)の法華経の御使ひに値ひて顕はれ候なり。

 

 

103日頃

日興、富木常忍は「申し状」の原案執筆開始

 

 

109日頃

滝泉寺申状」原案が日蓮に送られる

 

 

1011日頃

日蓮 「滝泉寺大衆日秀日弁陳状案」 (滝泉寺申状)を著す

 

 

 

1012

日蓮 書を日興・日秀・日弁等に報ず

「伯耆殿等御返事(ほうきどのとうごへんじ)

(2-344P1676、創新350P1937、校2-373P1791、全P1456、新P1399)

身延・日興、日秀、日弁等

 

日興本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源

縮続199

 

*昭和定本「伯耆殿御返事」

創価学会新版・全集「伯耆殿等御返事」

平成校定「伯耆殿御返事(伯耆殿等御返事)

 

*本文

大体此の趣を以て書き上ぐべきか。但し熱原の百姓等安堵(あんど)せしめば、日秀等別に問注有るべからざるか。大進房・弥藤次入道等の狼藉(ろうぜき)の事に至っては、源(もと)行智の勧めに依りて殺害刃傷(にんじょう)する所なり。若し又起請文(きしょうもん)に及ぶべき事之を申さば全く書くべからず。其の故は、人に殺害刃傷せられたる上、重ねて起請文を書き失(とが)を守るは古今未曾有の沙汰なり。其の上、行智の所行書かしむる如くならば身を容()るゝ処なく行ふべきの罪方無きか。穴賢穴賢。此の旨を存じ、問注の時強々と之を申せ。定めて上聞(じょうぶん)に及ぶべきか。又行智証人を立て申さば、彼等の人々行智と同意して百姓等が田畠数十苅()り取る由(よし)之を申せ。若し又証文を出ださば謀書の由之を申せ。悉く証人の起請文を用ゆべからず。但現証の殺害刃傷のみ。若し其の義に背く者は日蓮の門家に非ず日蓮の門家に非ず。恐々謹言。

 

⇒日蓮が「滝泉寺申状」に筆を加え完成し、「伯耆殿等御返事」を添え鎌倉に発送。熱原農民信徒の身が安堵されたならば問注はしなくてもよいとし、問注を行う場合の注意を指導。

 

 

 

1012

本門戒壇用の板本尊を造立 (書顕)すと伝う

*本門戒壇御本尊、戒壇大御本尊

(富要1251)(8177)

*脇書

右為現當二世 造立 如件 本門戒旦之 願主弥四郎国重 法華講衆等 敬白 弘安二年十月十二日

⇒「現当二世の為に、本門戒壇の願主である弥四郎国重並びに法華講衆等が、弘安二年十月十二日に右板本尊を造立した」

 

 

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 大明星天王 天照大神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

144.0×65.0㎝ 楠板

*所蔵

静岡県富士宮市上条 大石寺

 

 

 

1012

和泉公日法 一体三寸の造初の御影を造立し日蓮印可すと伝う

*「家中抄」(富要5244)

日法伝

或る時日法御影を造り奉らんと欲す七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか浮木出来せり、此の木を以つて戒壇院の本尊を造立し次に大聖の御影を造ること已上三躰なり、其の一躰は纔に三寸なり(上行所伝抄の意なり)、大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是れなり、則ち身延の大堂に立て給へる御本尊是れなり、又師細工に長ずる故に大聖の御影一躰三寸に造立して是れを袖裏に入れ御前に出て言上して云はく願くは末代の聖人未聞不見の者の為に御影を写し奉らんと欲す免許に於ては不日に造立すべしと、聖人此の像を取り掌上に置き之れを視なはし笑を含みて許諾す

 

⇒どこから発生した「伝承」であろうか

 

 

 

10

滝泉寺大衆陳状を著す

「滝泉寺大衆陳状(りゅうせんじだいしゅちんじょう)

(2-345P1677、創新81P880、校2-374P1792、全P849、新P1400)

身延

 

真蹟11紙及び別紙2(但し第8紙~第10紙日興筆)・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

縮続200

 

*現在の装幀は巻子本、全11紙。

冒頭には端裏書二行を切断、反転させて貼り付けている。

端裏書二行と第1紙より第7紙まで日蓮筆、第8紙から第10紙七行までは異筆。

日蓮による添削の筆が随所に入れられている。

 

*異筆は上記「昭和定本」にあるように「日興筆」とされてきたが、菅原関道氏の論考「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」(興風16P77)での詳細な文字照合により、「富木常忍筆」と推定されている。

 

*昭和定本「滝泉寺申状(陳状草案)

創価学会新版「滝泉寺大衆陳状」

 

*日蓮=聖人、国宝

此の条は日弁等の本師日蓮聖人、去ぬる正嘉以来の大仏星・大地動等を観見し一切経を勘へて云はく、当時日本国の為体(ていたらく)、権小に執著し実経を失没(しつもつ)せるの故に、当(まさ)に前代未有の二難起こるべし。所謂(いわゆる)自界叛逆の難・他国侵逼の難なり。仍()って治国の故を思ひ、兼日(けんじつ)彼の大災難を対治せらるべきの由、去ぬる文応年中一巻の書を上表す、立正安国論と号す、勘へ申す所皆以て符合せり。既に金口(こんく)の未来記に同じ、宛(あたか)も声と響きとの如し。

外書(げしょ)に云はく「未萠(みぼう)を知るは聖人なり」と。

内典に云はく「智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る」云云。

之を以て之を思ふに、本師は豈(あに)聖人に非ずや。巧匠(こうしょう)内に在り、国宝外に求むべからず。

外書に云はく「隣国に聖人有るは敵国の憂ひなり」云云。

内経に云はく「国に聖人有れば天必ず守護す」云云。

外書に云はく「世必ず聖智の君有り、而して復(また)賢明の臣有り」云云。

此の本文を見るに、聖人国に在るは日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。諸竜を駈()り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人に在(ましま)さば、豈(あに)聖人を用ゐずして徒(いたずら)に他国の逼()めを憂へん。

 

*日蓮・法主聖人

法主聖人時を知り国を知り、法を知り機を知り、君の為民の為、神の為仏の為、災難を対治せらるべきの由(よし)勘へ申すと雖も御信用無きの上、剰(あまつさ)へ謗法の人等の讒言(ざんげん)に依って聖人頭に疵(きず)を負ひ、左手を打ち折らるゝの上、両度まで遠流の責めを蒙り、門弟等所々に射殺され、切り殺され、殺害・刃傷(にんじょう)・禁獄・流罪・打擲(ちょうちゃく)・擯出(ひんずい)・罵詈(めり)等の大難勝()げて計(かぞ)ふべからず。

(ここ)に因()って大日本国皆法華経の大怨敵と成り、万民悉く一闡提(いっせんだい)の人と為()るの故に、天神国を捨て、地神所(ところ)を辞し、天下静かならざるの由粗(ほぼ)伝承するの間、其の仁に非ずと雖も愚案を顧みず言上せしむる所なり。

外経に云はく「奸人(かんじん)(ちょう)に在れば賢者進まず」云云。

内経に云はく「法を壞(やぶ)る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり」云云。

 

 

 

1015

平左衛門尉は熱原農民の内、神四郎ら三人を「この日に」処刑か。

日蓮からの「滝泉寺大衆陳状(滝泉寺申状)」が届いたものの、提出できずに終わるか。

日興は顛末を日蓮に報告する。

 

 

 

1017

書を日興等に報ず

「聖人等御返事」

(2-346P1683、創新351P1938、校2-375P1798、全P1455、新P1405)

身延・日興、日秀、日弁

創価学会新版・日興等

 

日興本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源

縮続198

 

*昭和定本「変毒為薬御書」

創価学会新版・全集「聖人等御返事」

平成校定「聖人等御返事(変毒為薬御書)

 

*今月十五日酉時御文、同じき十七日酉時到来す。彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経と唱へ奉ると云云。偏に只事に非ず。定めて平金吾の身に十羅刹の入り易()はりて法華経の行者を試みたまふか。例せば雪山童子・尸毘王(しびおう)等の如し。将又(はたまた)悪鬼其の身に入る者か。釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等、五五百歳の法華経の行者を守護すべきの御誓ひは是なり。

大論に云はく「能く毒を変じて薬と為す」と。

天台云はく「毒を変じて薬と為す」云云。

妙の字虚(むな)しからずんば定めて須臾(しゅゆ)に賞罰有らんか。伯耆房等深く此の旨を存じて問注を遂ぐべし。平金吾に申すべき様は、去()ぬる文永の御勘気の時、乃(なんじ)聖人の仰せ忘れ給ふか。其の殃(わざわい)未だ畢(おわ)らざるに重ねて十羅刹の罰を招き取るかと、最後に申し付けよ。

 

⇒報告を受けた日蓮は「聖人等御返事」を日興、日弁らに発送し、問注を遂げるように指示。

 

 

 

1019

「聖人等御返事」が鎌倉に届く。

しかし、問注以前に残りの農民信徒17名は追放となり、平左衛門尉の一方的裁断で終了となる。

 

 

 

◇日興の記録

白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事

(永仁六年戊戌) 日興記之
正本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵

 

次在家人弟子分
一、富士下方熱原郷住人神四郎 兄。
一、富士下方同郷住人弥五郎 弟。
一、富士下方熱原(郷住人)□□□□□郎。
此三人者越後房下野房弟子二十人之内也。
弘安元年奉信始処依舎兄弥藤次入道訴被召上鎌倉、終仁被切頚畢、平左衛門入道沙汰也。子息飯沼判官十三歳ヒキメヲ以テ散散仁射天可申念仏之旨再三雖責之、二十人更以不申之聞、張本三人オ召禁天所令斬罪也。
枝葉十七人者雖令禁獄終仁放畢。
其後経十四年平入道判官父子、発謀反被誅畢。
父子コレタタ事ニアラズ、法華現罰ヲ蒙レリ。

 

1020

書を日朗、池上宗仲に与う

両人御中御書」

 (2-385P1802、創新182P1500、校2-376P1799、全P1101、新P1406)

身延・大国阿闍梨=日朗、大夫志=池上宗仲()

 

真蹟2紙完・京都府京都市上京区寺之内通新町西入ル妙顕寺前町 妙顕寺蔵

録外12-41 遺27-24 縮1888

 

*平成校定両人御中御書(与二子儲書)

 

< 系年 >

昭和定本「弘安31020()或は弘安2()

創価学会新版・平成校定・全集「弘安21020日」

「弘安元年1020日」山上弘道氏の論考「四條金吾領地回復を伝える諸遺文の系年再考」(興風23P625)

 

 

 

1023

書を四条金吾に報ず

「四条金吾殿御返事(法華経兵法の事)

(2-347P1684、創新220P1622、校2-377P1800、全P1192、新P1407)

身延・四条金吾

 

8 満上29 真蹟なし

録外13-16 受4-1 遺27-25 縮1889

 

*本満寺本「四條金吾殿御返事=剣形抄四條金吾賜」

録外「剣形抄」

昭和定本「四条金吾殿御返事(剣形書)

創価学会新版「四条金吾殿御返事(法華経兵法の事)

全集「四条金吾殿御返事(法華経兵法事)

 

強敵と取り合ひに

先度強敵とと()りあ()ひについて御文給ひき。委しく見まいらせ候。さてもさても敵人にねら()はれさせ給ひしか。前々の用心といひ、又けなげ(健気)といひ、又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給ふ。目出たし目出たし。

 

*摩利支天

(それ)運きはまりぬれば兵法もいらず。果報つきぬれば所従(しょじゅう)もしたがはず。所詮(しょせん)運ものこり、果報もひか()ゆる故なり。ことに法華経の行者をば諸天善神守護すべきよし、嘱累品にして誓状(せいじょう)をたて給ひ、一切の守護神・諸天の中にも我等が眼に見えて守護し給ふは日月天なり。争でか信をとらざるべき。ことにことに日天の前に摩利支天(まりしてん)まします。

 

日蓮は首題の五字を汝にさづく

日天、法華経の行者を守護し給はんに、所従の摩利支天尊すて給ふべしや。

序品の時「名月天子(みょうがってんじ)、普光天子(ふこうてんじ)、宝光天子(ほうこうてんじ)、四大天王、与其眷属万天子倶(よごけんぞくまんてんじく)」と列座し給ふ。

まりし(摩利支)天は万天子の内なるべし。もし内になくば地獄にこそおはしまさんずれ。今度の大事は此の天のまぼ()りに非ずや。彼の天は剣形を貴辺にあたへ、此(ここ)へ下りぬ。此の日蓮は首題の五字を汝にさづく。法華経受持のものを守護せん事疑ひあるべからず。まりし(摩利支)天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ給ふ。「臨兵闘者皆陳列在前(りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん)」の文も法華経より出でたり。「若説俗間経書治世語言資生業等皆順正法(にゃくせつぞっけんきょうしょじせごごんししょうごうとうかいじゅんしょうぼう)」とは是なり。これにつけてもいよいよ強盛に大信力をいだし給へ。我が運命つきて、諸天守護なしとうらむる事あるべからず。

 

 

 

1024

幕府の武士 鎮西下向のため上洛

 

 

 

10

書を著す

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄)

(2-348P1686、創新49P705、校2-378P1802、全P558、新P1408)

身延

 

日朝本 平11 真蹟なし

録内14-24 遺27-28 縮1892

 

*昭和定本「三世諸仏総勘文教相廃立」

創価学会新版・平成校定・全集「三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄)

 

*「法華仏教研究」13号 花野充道氏の論考「『総勘文抄』の研究()

*真撰説~「法華仏教研究」33号 川﨑弘志氏の論考「『三世諸仏総勘文教相廃立』の系年と対告衆について」

 

一乗の妙法

無分別の法とは一乗の妙法なり。善悪を簡ぶこと無く、草木樹林にも山河大地にも一微塵(みじん)の中にも互ひに各十法界の法を具足す。我が心の妙法蓮華経の一乗は、十方の浄土に周遍して欠くること無し。十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は、我が心の中に有って片時も離るゝこと無き三身即一の本覚の如来なり。是の外には法無し。此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し。故に無分別の法と云ふは是なり。

 

釈迦如来

釈迦如来五百塵点劫(じんてんごう)の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々(せせばんばん)に出世成道し、在々処々(ざいざいしょしょ)に八相作仏(はっそうさぶつ)し、王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲(もう)け衆生を誘引す。

其の後方便の諸の経教を捨てゝ正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕はして、其の中に四十二年の方便の諸経を丸(まろ)かし納()れて一仏乗と丸(がん)し、人一の法と名づく。一人の上の法なり。多人の綺(いろ)へざる正しき文書を造る慥(たし)かなる御判の印あり。

三世の諸仏の手継(てつ)ぎの文書を釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由他(まんのくなゆた)の国土の上の虚空の中に満ち塞(ふさ)がれる若干(そこばく)の菩薩達の頂(いただき)を摩()で尽くして、時を指して末法近来(このごろ)の我等衆生の為に慥かに此の由を説き聞かせて、仏の譲り状を以て末代の衆生に慥かに授与すべしと慇懃(おんごん)に三度まで同じ御語に説き給ひしかば、若干の菩薩達各(おのおの)数を尽くして躬()を曲げ頭を低()れ、三度まで同じ言に各我も劣らずと事請(ことう)けを申し給ひしかば、仏心安く思(おぼ)し食()して本覚の都に還りたまふ。三世の諸仏の説法の儀式作法には、只同じ御言に時を指したる末代の譲り状なれば、只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏すべき時なりと譲り状の面(おもて)に載()せたる手継の証文なり。

 

 

10

四条金吾 要撃さる(四条金吾殿御返事・全P1192)

 

 

 

10

日興 「与平左衛門入道奉行所」を著す(日興上人全集P359)

写本 日精筆 静岡県富士宮市上条 大石寺蔵

⇒「平左衛門入道=平左衛門尉頼綱」

 

 

 

10

曼荼羅(67)を図顕する

*通称

子安御本尊

*顕示年月日

弘安二年太才己卯十月 日

*授与

沙弥日徳授与之

*讃文

仏滅度後二千二百二十 余年之間一閻浮提之 内未曾有大漫荼 羅也

若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号

〔讃者積〕福〔於安明〕 〔謗者〕開罪〔於無間〕

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

91.2×49.1㎝ 3枚継ぎ

 

*備考

・当曼荼羅以降は、四天王をもっぱら漢名で表記し、「大」字を冠する。

*所蔵

埼玉県戸田市新曽 妙顕寺

 

 *戸田市情報ポータルサイト 日蓮上人墨跡及び日向記

 

 

116

南条時光に書を報ず

上野殿御返事(竜門御書)

(2-350P1707、創新326P1894、校2-379P1822、全P1560、新P1427)

身延・南条時光

 

真蹟5紙完・静岡県富士宮市上条 大石寺

日興本(要検討)・大石寺蔵

日朝本 平25

録内32-15 遺27-46 縮1914

 

*昭和定本「上野殿御返事(龍門書)

創価学会新版・全集「上野殿御返事(竜門御書)

 

*「近年、立正安国会架蔵の写真集により、京都本圀寺所蔵の『治部房御返事』が上野殿御返事』と日付、内容は全く同じ、署名花押のみが日蓮筆であったことが判明する。」

山上弘道氏の論考「日蓮大聖人の思想 六」(興風16P226)

 

*大願

願はくは我が弟子等、大願ををこせ。去年(こぞ)去々年(おととし)のやくびゃう(疫病)に死にし人々のかずにも入らず、又当時蒙古のせ()めにまぬ()かるべしともみへず。とにかくに死は一定なり。其の時のなげ()きはたうじ(当時)のごとし。をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ。つゆ()を大海にあつらへ、ちり()を大地にう()づむとをもへ。

 

*熱原

上野賢人殿御返事

此はあつわら(熱原)の事のありがたさに申す御返事なり。

⇒日蓮は南条時光を「上野賢人」と記し、熱原法難の功を賞す

 

 

 

118

江川日久 卒と伝う(墓銘・日蓮宗年表)

 

 

 

1125

書を富木常忍に報ず

富城殿御返事(長寿祈願の事)

(2-351P1710、創新142P1342、校2-380P1824、全P987、新P1428)

身延・富城入道

創価学会新版・富木常忍

 

真蹟1(本文5行及日付等、端書4)完・千葉県松戸市平賀 本土寺蔵

延山録外1

縮続147

 

*昭和定本「富城入道殿御返事」

創価学会新版「富城殿御返事(長寿祈願の事)

平成校定「富城入道殿御返事(富城殿御返事)

 

*本文

尼御前の御寿命長遠之由・天に申し候ぞ。其の故御物語候へ。

不断法華経 来年の三月の料分、銭三貫文・米二斗送り給候ひ了んぬ。

十一月二十五日 日蓮 花押

 

千葉県教育委員会 富城殿御返事

 

 

1125

日蓮 日秀・日弁を日頂に付けて下総・富木家に赴かしむ(富城殿女房尼御前御書・定P1710)

 

 

 

1125

書を富木尼に報ず

「富木殿女房尼御前御書」

(2-352P1710、創新143P1342、校2-381P1825、全P990、新P1429)

身延・富城殿女房尼

創価学会新版・富木尼

 

真蹟2紙完(1紙端書3行余 本文10行、第2紙本文8行 月日等)・千葉県鴨川市小湊 誕生寺蔵

満下242 延山録外1

録外25-8 遺27-48 縮1916

 

*昭和定本「富城殿女房尼御前御書」

創価学会新版「富木殿女房尼御前御書」

 

*法華経に祈り

はるかにみまいらせ候はねば、をぼつかなく候。たうじ(当時)とてもたのしき事は候はねども、むかしはことにわび()しく候ひし時より、やしなわれまいらせて候へば、ことにをん()をも()くをも(思い)ひまいらせ候。それについては、いのちはつるかめ(鶴亀)のごとく、さいわい(幸福)は月のまさり、しを()のみ()つがごとくとこそ、法華経にはいのりまいらせ候へ。

 

さてはえち()後房・しもつけ(下野)房と申す僧を、いよ(伊予)どのにつけて候ぞ。しばらくふびんにあたらせ給へと、とき殿には申させ給へ。

⇒日蓮は、富木常忍夫妻に越後房日弁、下野房日秀(共に熱原市庭寺の滝泉寺の僧)をかくまるように依頼。

 

*いよ(伊予)房は学生(がくしょう)になりて候ぞ。つねに法門きかせ給ひ候へ。

 

 

 

1125

書を池上宗長の妻に報ず

「兵衛志殿女房御返事(ひょうえのさかんどののにょうぼうごへんじ) (御子[みこ]どもの事)

(2-353P1711、創新183P1501、校2-382P1826、全P1108、新P1429)

身延・兵衛志(弟・池上宗長)女房

創価学会新版・池上宗長の妻

 

真蹟1紙完・京都府京都市 某家蔵

延山録外1

縮続81

 

*昭和定本「弘安21125()

創価学会新版「弘安21125日」

*創価学会新版「兵衛志殿女房御返事(御子どもの事)

 

 

*本文

 

兵衛志殿女房、絹片裏(きぬかたうら)()び候ひ了んぬ。此の御心は法華経の御宝前に申し上げて候。まことゝはをぼへ候はねども、此の御房たちの申し候は、御子どもは多し。よ()にせけん(世間)かつかつとをはすると申し候こそなげかしく候へども、さりともとをぼしめし候へ。恐々謹言。

 

 

 

1130

書を中興入道夫妻に報ず

「中興入道消息(なかおきのにゅうどうしょうそく)

(2-354P1712、創新273P1766、校2-383P1827、全P1331、新P1430)

身延・中興入道女房

創価学会新版・中興入道夫妻

 

日朝本 平25 真蹟なし

録内18-15 遺27-49 縮1917

 

*昭和定本「中興入道御消息」

創価学会新版・全集「中興入道消息」

平成校定「中興入道御消息(中興入道妻書)(中興抄)

 

*妙法蓮華経の御宝前

鵞目(がもく)一貫文送り給()び候ひ了んぬ。妙法蓮華経の御宝前に申し上げ候ひ了んぬ

 

二十七年が間、退転なく申しつより候

去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間、退転なく申しつより候事、月のみ()つるがごとく、しほ()のさすがごとく、はじめは日蓮只一人唱へ候ひしほどに、見る人、値ふ人、聞く人耳をふさぎ、眼をいか()らかし、口をひそめ、手をにぎり、は()をか()み、父母・兄弟・師匠・ぜんう(善友)もかたき()となる。後には所の地頭・領家かたきとなる。後には一国さはぎ、後には万人をどろくほどに、或は人の口まねをして南無妙法蓮華経ととな()へ、或は悪口のためにとな()へ、或は信ずるに似て唱へ、或はそし()るに似て唱へなんどする程に、すでに日本国十分が一分は一向南無妙法蓮華経、のこりの九分は或は両方、或はうたがひ、或は一向念仏者なる者は、父母のかたき、主君のかたき、宿世のかたきのやうにのゝし()る。村主・郷主・国主等は謀叛の者のごとくあだまれたり。

 

日蓮は日本国には第一の忠の者なり

たゞし日蓮は日本国には第一の忠の者なり。肩をならぶる人は先代にもあるべからず、後代にもあるべしとも覚えず。其の故は去ぬる正嘉年中の大地震、文永元年の大長星の時、内外の智人其の故をうらな()ひしかども、なに()のゆへ()、いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮一切経蔵に入りて勘(かんが)へたるに、真言・禅宗・念仏・律等の権小(ごんしょう)の人々をもつて法華経をかろ()しめたてまつる故に、梵天・帝釈の御とが()めにて、西なる国に仰せ付けて、日本国をせ()むべしとかんが()へて、故最明寺入道殿にまいらせ候ひき。此の事を諸道の者をこ()ずきわら()ひし程に、九箇年すぎて去ぬる文永五年に、大蒙古国より日本国ををそ()うべきよし牒状(ちょうじょう)わたりぬ。此の事のあ()ふ故に、念仏者・真言師等あだ()みて失はんとせしなり。

 

釈迦・多宝・十方の諸仏・諸神の守護

法華経のかたきたる真言師・禅宗・律僧・持斎・念仏者等が申す事を御用ひありて、日蓮をあだ()み給ふゆへに、日蓮はいや()しけれども、所持の法華経を釈迦・多宝・十方の諸仏・梵天・帝釈・日月・四天・竜神・天照太神・八幡大菩薩、人の眼をお()しむがごとく、諸天の帝釈をうやま()うがごとく、母の子を愛するがごとく、まぼ()りおも()んじ給ふゆへに、法華経の行者をあだ()む人を罰し給ふ事、父母のかたきよりも、朝敵よりも重く大科に行なひ給ふなり。

 

 

 

11

曼荼羅(68-1)を図顕する

*顕示年月日

弘安二年太才己卯十一月 日

*授与

優婆塞日安授与之

*讃文

仏滅度後二千二 百二十余年之間 一閻浮提之内 未曾有大漫 荼羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

78.5×46.1㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

静岡県沼津市下河原 妙海寺

 

優婆塞日安とは「富士下方熱原六郎吉守」(弟子分本尊目録)のことでは。優婆塞日安は弘安32月にも曼荼羅(76)を授与されている。

 

 

 

11

曼荼羅(68-2)を図顕する

*顕示年月日

弘安二年太才己卯十一月 日

*讃文

仏滅度後二千二 百二十余年之間 一閻浮提之内未 曾有大漫荼 羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女

*寸法

59.8×40.8㎝ 2枚継ぎ

*「集成」12

*所蔵

神奈川県小田原市城山 浄永寺

 

 

 

11

曼荼羅(69)を図顕する

*顕示年月日

弘安二年太才己卯十一月 日

*授与

沙門日永授与之

*讃文

仏滅度後二千二百 二十余年之間 一閻浮提之内 未曾有大漫荼 羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多

*寸法

68.8×45.2㎝ 2枚継ぎ

 

*備考

・日興の「弟子分本尊目録」

一、甲斐国下山因幡房者、日興弟子也。仍所申与如件。但今背了。

*所蔵

京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町 立本寺

 

 

 

11

曼荼羅(70)を図顕する

*通称

四天王画像御本尊

*顕示年月日

弘安二年太才己卯十一月 日

*授与

優婆塞日久

*讃文

仏滅度後二千二百二十 余年之間一閻浮提 之内未曾有 大漫荼 羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女

*寸法

45.1×30.0㎝ 1

 

*備考

・当曼荼羅は、久しく伊豆韮山・江川家に伝来。明治の初年に故有り、京都の村上家に移る。その後、随喜文庫=立正安国会に護持されることとなる。

・上方に瓔珞と毘沙門・持国の二天、下方に華台と広目・増長の二天が、極彩色で描かれる。此の書像の部分はいずれも絹であり、曼荼羅図顕の後に之を加えたものと考えられる。

*所蔵

千葉県千葉市中央区長洲 随喜文庫 

 

 

 

11

曼荼羅を図顕する

(富要 8177)

*顕示年月日

弘安二年太才庚辰十一月 日

*授与

俗日増授与之

*日興添書

□□九郎次郎時□日興 可為本門寺重宝也

*寸法

49.0×41.1

*所蔵

静岡県富士宮市上条 大石寺

 

 

 

123

書を池上宗仲に報ず

右衛門太夫殿御返事(えもんのたいふどのごへんじ)

(2-355P1719、創新184P1502、校2-384P1834、全P1102、新P1435)

身延・右衛門太夫=池上宗仲()

 

満上35 真蹟なし

録外25-5 受3-5 遺28-1 縮1925

 

*平成校定「右衛門太夫殿御返事(報宗仲書)

全集「右衛門太夫殿御返事(斯人行世間事)

 

上行菩薩御出現あって

当今は末法の始めの五百年に当たりて候。かゝる時刻に上行菩薩御出現あつて、南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづ()け給ふべきよし経文分明(ふんみょう)なり。又流罪死罪に行なはるべきよし明らかなり。日蓮は上行菩薩の御使ひにも似たり、此の法門を弘むる故に。

神力品に云はく「日月の光明の能()く諸の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云。

此の経文に斯人行世間(しにんぎょうせけん)の五(いつつ)の文字の中の人の文字をば誰とか思(おぼ)し食()す、上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり。

経に云はく「我が滅度の後に於て応(まさ)に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」云云。

貴辺も上行菩薩の化儀をたす()くる人なるべし。

 

 

 

1227

書を窪尼に報ず

窪尼御前御返事(くぼのあまごぜんごへんじ)(一字供養功徳無尽の事)

(2-356P1720、創新368P1975、校2-385P1835、全P1483、新P1436)

身延・窪尼

 

日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵

日朝本 満下271 満上235(一四句偈功徳事)

録外5-35 遺28-2 縮1926

 

*昭和定本「窪尼御前御返事」

創価学会新版「窪尼御前御返事(一字供養功徳無尽の事)

平成校定「窪尼御前御返事(十字御消息)

⇒高橋六郎兵衛の妻=妙心尼=窪尼=持妙尼・日興の叔母

 

*法華経の一字供養の功徳

十字(むしもち)五十まい、くしがき(串柿)一れん()、あめをけ(飴桶)一つ送り給()び了んぬ。

御心ざしさきざきか()きつくして、ふで()もつ(禿)び、ゆび()もたゝぬ。三千大千世界に七日ふる雨のかず()はかず()へつ()くしてん、十方世界の大地のちり()は知る人もありなん、法華経の一字供養の功徳は知りがたしとこそ、仏はとかせ給ひて候へ。此をもて御心へあるべし。

 

 

 

1227

書を南条時光に報ず

「上野殿御返事(適時弘法[ちゃくじぐほう]の事)

(2-357P1721、創新327P1896、校2-386P1836、全P1561、新P1436)

身延・南条時光

 

真蹟4紙完・静岡県富士宮市上条 大石寺

日興本(要検討)・大石寺蔵

日朝本 宝13 満下104

録外25-31 遺27-27 縮1891

 

*昭和定本「上野殿御返事」

創価学会新版「上野殿御返事(適時弘法の事)

全集「上野殿御返事(適時弘法書)

 

*釈迦仏・法華経定めて御計らい給はん。

白米一だ()をくり給()び了んぬ。

中略

念仏と禅と真言と律とを信ずる代()に値()ひて法華経をひろむれば、王臣万民ににく()まれて、結句は山中に候へば、天いかんが計らはせ給ふらむ。五尺のゆき()()りて本よりもかよ()わぬ山道ふさ()がり、と()いくる人もなし。衣もうす()くてかん()ふせ()ぎがた()し。食た()へて命すでにを()はりなんとす。

かゝるきざみ()にいのち()さまたげの御とぶ()らい、か()つはよろこ()びかつはなげ()かし。一度にをも()い切ってう()へし()なんとあん()じ切って候ひつるに、わづかのともしび(灯火)にあぶら()を入れそへられたるがごとし。

あわれあわれたうと()くめでたき御心かな。釈迦仏法華経定めて御計らひ候はんか。

 

 

 

1227

前権大納言・藤原為氏 亀山上皇の院宣により「続拾遺和歌集」20巻を撰進す(増鏡)

 

 

 

12

曼荼羅を図顕する

*授与

日行

 

*平成1611月、中尾堯氏、寺尾英智氏により、真蹟とされる。

妙本寺宝蔵に7幅納められている内の一つ、縦491センチ、横31・1センチの楮紙に描かれた掛け軸状の曼荼羅。弘安212月に図顕され、鎌倉市内の大巧寺を経て、妙本寺に伝来したもの。

 

*寸法

49.1×31.1㎝ 1

*所蔵

神奈川県鎌倉市大町 比企谷妙本寺

 

 

 

この年

 

三位房日行 寂(四菩薩造立抄・定P1650、同・全P989)

 

 

武蔵国浅草寺座主・寂海 改宗し日寂の号を賜わると伝う(長昌寺寺誌)

 

 

日蓮 日興に「文永1112月書顕の本尊(通称・万年救護本尊)」を授与すと伝う

*「家中抄」(富要5154)

日興

又弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり、日興より又日目に付属して今房州に在り、此西山に移り、うる故今は西山に在るなり

 

 

【 系年、弘安2年と推定される書 】

 

書を著す

「本門戒体抄」

(2-358P1722、校2-387P1837、新P1437)

身延

日朝本 平25 真蹟なし

録内30-16 遺27-18 縮1881

 

 

図録を著す

「一代五時鶏図」

(3図録24P2384、校3図録31P2513、新P1443)

身延

真蹟8紙完・京都府京都市上京区寺町通今出川上ル二丁目鶴山町 本満寺

< 系年 >

昭和定本「弘安元年或は2()

 

 

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