1278年・建治4年(2月29日改元)・弘安元年 戊寅(つちのえとら) 57歳
後宇多天皇
北条時宗
1月1日
「御義口伝」 成立す
創価学会新版「御義口伝」(創新95・P984、全P708)
昭和定本「御義口伝」(定3講記P2597)
身延・六老僧(筆録・日興)
古写本・元亀本(上)、妙覚寺本(上)、妙徳寺本(下)
刊本・要法寺版、妙覚寺版
平成校定「就註法華経口伝(御義口伝)就註法華経御義口伝)」
(校3講義1・P2107、新P1719)
・古写本
上巻・静岡県富士宮市上条 大石寺本
下巻・元亀本 京都府京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町 要法寺
・刊本
承応本、妙覚寺本、日宗社版、平楽寺版
*日興筆なし
*昭和定本P2728
奥書云 紙数51枚
于時天文八年己亥五月十四日書写之訖於中村河内為興隆仏法弘通増進写之不審無極事多之但任本置之而己堅固可秘之處也努不可聊爾々々々々後讀之学侶八品所顕妙法蓮華経御回向憑之者也
本化沙門 日経 花押
自日経相伝持主 日語 花押
[編者云]本書ハ清水梁山師校訂平楽寺版ニヨル
1月中旬
駿河国岩本実相寺衆・四十九院衆、日蓮法華一門に対し怨嫉、謗言、迫害の動き顕る
(実相寺御書・全P1452)
1月16日
書を豊前房に報ず
「実相寺御書」
(定2-271・P1433、創新346・P1932、校2-285・P1468、全P1452、新P1195)
身延・豊前公
創価学会新版・豊前房(ぶぜんぼう)
日興本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
日朝本 宝10 満上223
録外4-1 遺24-36 縮1692
*平成校定「実相寺御書(報実相寺豊前房書)」
*昭和定本
末尾(四十~是也)121字-日興本+「四十九院申状」(本満寺本)
*創価学会新版・平成校定
当書の末尾(四十九院等のこと~)を分離して創価学会新版「四十九院御書」、平成校定「四十九院等事」とする。
*釈迦・多宝・十方の諸仏の常儀
先に実を以て権を破し、権執を絶して実に入るは、釈迦・多宝・十方の諸仏の常儀(じょうぎ)なり。
創価学会新版「四十九院御書」
平成校定「四十九院等事」
(創新392・P2039、校2-286・P1470 満下256 録外4-2・16-40 遺24-27 縮1693 全P1453 新P1196)
*今日蓮之を糺明せり
四十九院等の事。彼の別当等は無智の者たる間日蓮に向かって之を恐る。小田一房等怨(あだ)を為すか。弥(いよいよ)彼等が邪法滅すべき先兆(せんちょう)なり。根露(あらわ)るれば枝枯(か)れ、源竭(つ)くれば流れ尽くると云へる本文虚(むな)しからざるか。弘法・慈覚・智証三大師の法華経誹謗の大科、四百余年の間隠せる根露れ枝枯るゝなり。今日蓮之を糺明せり。
⇒四十九院等の別当は日蓮を怖れる。
1月25日
書を四条金吾に報ず
「四条金吾御書」
(定2-273・P1436、創新212・P1598、校2-287・P1471、全P1175、新P1197)
身延・四条金吾
泰芸日意真蹟対照本・京都府京都市左京区東大路二条下ル北門前町 妙伝寺
日朝本 平29 真蹟なし
録内39-31 遺24-28 縮1694
*昭和定本「四条金吾殿御書」
創価学会新版「四条金吾御書」
平成校定「四条金吾殿御書(四条金吾御書)」
全集「四条金吾御書(九思一言事)」
*四条金吾の晴れ姿
其の上円教房の来たりて候ひしが申し候は、えま(江馬)の四郎殿の御出仕に、御とものさぶら(侍)ひ二十四五、其の中にしう(主)はさてをきたてまつりぬ。ぬし(主)のせい(身長)といひ、かを(顔)・たましひ(魂)・むま(馬)・下人までも、中務のさえもん(左衛門)のじゃう(尉)第一なり。あは(天晴)れをとこ(男)やをとこやと、かまくら(鎌倉)わらはべ(童)はつじぢ(辻路)にて申しあひて候ひしとかたり候。
*金吾に細心の身辺警戒を促す
これにつけてもあまりにあやしく候。孔子は九思一言、周公旦(しゅうこうたん)は浴する時は三度にぎり、食する時は三度はかせ給ふ。古(いにしえ)の賢人なり、今の人のかゞみなり。されば今度はことに身をつゝしませ給ふべし。よる(夜)はいかなる事ありとも、一人そと(外)へ出でさせ給ふべからず。
たとひ上(かみ)の御めし有りとも、まづ下人をごそ(御所)へつかわして、なひなひ(内々)一定(いちじょう)をきゝさだめて、はらまき(腹巻)をきて、はちまき(鉢巻)し、先後左右に人をたてゝ出仕し、御所のかたわらに心よせのやかたか、又我がやかたかに、ぬぎをきてまいらせ給ふべし。
家へかへらんには、さき(前)に人を入れて、と(戸)のわき・はし(橋)のした・むまや(厩)のしり・たかどの一切くらきところをみせて入るべし。
せうまう(焼亡)には、我が家よりも人の家よりもあれ、たから(財)ををしみて、あわてゝ火をけすところへ、つっとよるべからず。まして走り出づる事なかれ。
出仕より主の御ともして御かへりの時は、みかど(御門)より馬よりをりて、いとまのさしあうよし、はうぐわん(判官)に申していそぎかへるべし。
上(かみ)のをゝせなりとも、よ(夜)に入りて御ともして御所にひさしかるべからず。かへらむには、第一心にふかきえうじん(用心)あるべし。こゝをばかならずかたきのうかゞうところなり。
人のさけたば(酒賜)んと申すとも、あやしみて、あるひは言をいだし、あるひは用ひることなかれ。
また御をとど(舎弟)どもには常はふびん(不便)のよしあるべし。つねにゆぜに(湯銭)ざうり(草履)のあたい(価)なんど心あるべし。もしやの事のあらむには、かたきはゆるさじ。我がためにいのち(命)をうしなはんずる者ぞかしとをぼして、とが(失)ありとも、せうせうの失(とが)をばしらぬやうにてあるべし。
又女るひはいかなる失ありとも、一向に御けうくん(教訓)までもあるべからず。ましていさか(争)うことなかれ。
涅槃経に云はく「罪極めて重しと雖も女人に及ぼさず」等云云、文の心はいかなる失ありとも女のとがををこなはざれ。此賢人なり、此仏弟子なりと申す文なり。
2月13日
書を松野六郎左衛門に報ず
「松野殿御返事(三界無安[さんがいむあん]の事)」
(定2-274・P1441、創新377・P1997、校2-289・P1476、全P1388、新P1200)
身延・松野
創価学会新版・松野六郎左衛門(まつののろくろうざえもん)
真蹟断簡 10字1行・大阪府豊能郡(とよのぐん)能勢町(のせちょう)地黄 清普寺蔵
28字3行・京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町 本能寺蔵
宝8 満下119
録外9-1 遺24-31 縮1699
*昭和定本「松野殿御返事」
創価学会新版「松野殿御返事(三界無安の事)」
*法華経・十羅刹も知ろし食し候らん
種々の物送り給び候ひ畢(おわ)んぬ。山中のすまゐ(住居)思ひ遣(や)らせ給ふて、雪の中ふみ分けて御訪(おんとぶら)ひ候事、御志(おんこころざし)定めて法華経・十羅刹も知(し)ろし食(め)し候らん。
*人命のはかなさ
さては涅槃経に云はく「人命の停(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日存すと雖も明日保ち難し」文。
摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀羅(せんだら)の羊を駈(か)って屠家(とか)に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。
法華経に云はく「三界は安きこと無し、猶(なお)火宅の如し。衆苦充満して甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし」等云云。
此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。然りと雖も須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那も道心を発(お)こさず、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ(飾)らんがために、いとまを入れ衣を重(かさ)ねんとはげ(励)む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、塵(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと(跡)もみへずなるべき身を養はんとて多くの財をたくは(貯)ふ。此のことはりは事ふ(古)り候ひぬ。但し当世の体こそ哀れに候へ。
*飢饉と疫病の惨状
日本国数年の間、打ち続きけかち(飢渇)ゆきゝて衣食(えじき)たへ、畜るひ(類)をば食ひつくし、結句人をくらふ者出来して、或は死人・或は小児・或は病人等の肉を裂き取りて、魚鹿等に加へて売りしかば人是を買ひくへり。此の国存の外に大悪鬼となれり。又去年の春より今年の二月中旬まで疫病国に充満す。十家に五家・百家に五十家、皆や(病)み死し、或は身はやまねども心は大苦に値(あ)へり。やむ者よりも怖し。たまたま生き残りたれども、或は影の如くそ(添)ゐし子もなく、眼(まなこ)の如く面(かお)をならべし夫妻もなく、天地の如く憑(たの)みし父母もおはせず、生きても何かせん。心あらん人々争(いか)でか世を厭(いと)はざらん。三界無安とは仏説き給ひて候へども法に過ぎて見え候。
*法華経の行者
然るに予は凡夫にて候へども、かゝるべき事を仏兼ねて説きを(置)かせ給ひて候を、国主に申しきかせ進(まい)らせ候ひぬ。其れにつけて御用(おんもち)ひは無くして弥(いよいよ)怨をなせしかば力及ばず、此の国既に謗法と成りぬ。法華経の敵(かたき)に成り候へば三世十方の仏神の敵と成れり。御心にも推(すい)せさせ給ひ候へ。日蓮何なる大科有りとも法華経の行者なるべし。
2月23日
書を三沢殿に報ず
「三沢抄」
(定2-275・P1443、創新385・P2010、校2-290・P1479、全P1487、新P1202)
身延・三沢小次郎
創価学会新版・三沢殿
真蹟影写本18紙完・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺蔵
日興本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
日朝本 平18
録内19-20 遺24-34 縮1702
※坂井法曄氏の論考「日興写本をめぐる諸問題について」(興風21号P236)
「大石寺所蔵『法華取要抄』について従来は日興写本とされていたが、その筆跡から日澄写本と推定される。『三沢抄』の日興写本についても、大石寺蔵『法華取要抄』と同筆であり日澄写本と考えられる。」
*全集「三沢抄(佐前佐後抄)」
*第七の大難は天子魔
仏法をばがく(学)すれども、或は我が心のを(愚)ろかなるにより、或はたとい智慧はかしこきやう(様)なれども師によりて我が心のま(曲)がるをしらず。仏教をなを(直)しくなら(習)いう(得)る事かた(難)し。たとひ明師並びに実経に値ひ奉りて正法をへたる人なれども、生死をいで仏にならむとする時には、かならず影の身にそうがごとく、雨に雲のあるがごとく、三障四魔と申して七の大事出現す。設ひからくして六はすぐれども、第七にやぶられぬれば仏になる事かたし。其の六は且(しばら)くをく。第七の大難は天子魔と申す物なり。
*まこと(真)の聖人
聖人は未萌(みぼう)を知ると申して三世の中に未来の事を知るをまこと(真)の聖人とは申すなり。而るに日蓮は聖人にあらざれども、日本国の今の代にあたりて此の国亡々たるべき事をかねて知りて候ひしに、此こそ仏のと(説)かせ給ひて候「況滅度後」の経文に当たりて候へ。此を申しいだすならば、仏の指(さ)させ給ひて候未来の法華経の行者なり。
*佐前佐後
又法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ。此の国の国主、我をもたもつべくば真言師等にも召し合はせ給はずらん。爾(そ)の時まことの大事をば申すべし。
弟子等にもなひ(内)なひ(内)申すならばひろう(披露)してかれらし(知)りなんず。さらばよもあ(合)わじとをも(思)ひて各々にも申さゞりしなり。
*内々申す法門
而るに去ぬる文永八年九月十二日の夜、たつの口にて頸をはねられんとせし時よりのち、ふびん(不憫)なり。我につきたりし者どもに、まことの事をい(言)わざりけるとをも(思)て、さどの国より弟子どもに内々申す法門あり。此は仏より後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給ひて、口より外には出だし給はず。其の故は仏制して云はく、我が滅後末法に入らずば此の大法いうべからずとありしゆへなり。
日蓮は其の御使ひにはあらざれども其の時刻にあたる上、存外に此の法門をさとりぬれば、聖人の出でさせ給ふまでま(先)づ序分にあらあら申すなり。
*但此の大法のみ一閻浮提に流布すべし
而るに此の法門出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光、巧匠(たくみ)の後に拙(つたな)きを知るなるべし。此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて、但(ただ)此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候。各々はかゝる法門にちぎり有る人なればたの(頼)もしとをぼすべし。
2月25日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事(水火二信抄[すいかにしんしょう])」
(定2-276・P1450、創新314・P1871、校2-291・P1486、全P1544、新P1206)
身延・南条七郎次郎
創価学会新版・南条時光
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日朝本 宝12 満下102
録外5-24 受2-16 遺24-41 縮1709
*平成校定「日道本 大石寺蔵」
*昭和定本「上野殿御返事」
創価学会新版「上野殿御返事(水火二信抄)」
平成校定「上野殿御返事(蹲鴟[いものかしら]御消息)」
全集「上野殿御返事(水火二信抄)」
*釈迦仏・多宝仏・十羅刹女いかでかまぼらせ給はざるべき
此の大王(阿育大王)の過去をたづぬれば、仏の在世に徳勝童子・無勝童子とて二人のをさな(幼)き人あり。土の餅を仏に供養し給ひて、一百年の内に大王と生まれたり。仏はいみじしといゑども、法華経にたい(対)しまいらせ候へば、蛍火と日月との勝劣、天と地との高下なり。仏を供養してかゝる功徳あり。いわうや法華経をや。土のもちゐをまいらせてかゝる不思議あり。いわうやすゞ(種種)のくだ(果)物をや。かれはけかち(飢渇)ならず、いまはう(飢)へたる国なり。此をもってをも(思)ふに、釈迦仏・多宝仏・十羅刹女いかでかまぼ(守)らせ給はざるべき。
2月28日
書を富木常忍に報ず
「始聞仏乗義(しもんぶつじょうぎ)」
(定2-277・P1452、創新138・P1325、校2-292・P1488、全P982、新P1207)
身延・富木常忍
真蹟9紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
日興本・京都府京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町 要法寺蔵
信伝本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
日朝本 平15
録内14-59 録外5-8 遺24-42 縮1711
*日常目録「就類種相待種法門事」
*昭和定本「始聞仏乗義(就類種相待種法門事)」
創価学会新版「始聞仏乗義」
平成校定「始聞仏乗義(就類相待抄)」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
書を著す
「弘安改元事」
(定2-278・P1454、校2-296・P1517)
身延
真蹟1紙断簡(3行)・静岡県富士郡芝川町西山 富士山本門寺蔵
*昭和定本「弘安元年」
*本文
弘安元年 太歳戌寅(たいさい つちのえとら)、建治四年二月二十九日改元。疫病の故か。
「立正安国論広本」を再治す
「立正安国論(広本)」
(定2-279・P1455、校2-295・P1493)
身延
真蹟24紙完・京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺蔵
遺6-48 縮347
< 系年 >
昭和定本「建治・弘安の交(門)或は文応元年(縮)」
平成校定「建治・弘安の交」
3月16日
曼荼羅(47)を図顕する
*通称
病即消滅御本尊
*顕示年月日
弘安元年太才戊寅三月十六日
*讃文
此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病
得聞是経 病即消滅 不老不死
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行無辺行菩薩 南無浄行安立行菩薩 南無天台大師 南無伝教大師
*添書
(中山)日親 花押
*寸法
66.1×43.4㎝ 1紙
*備考
・当曼荼羅より首題の「経」字が第三期に入る。
・これより以降、分身諸仏の列座はなくなる。
・東京堀之内妙法寺所藏「正中山法華経寺御霊宝目録」(「遠沽亨師臨写御本尊鑑」P196)では、法華経寺に「病即消滅之曼荼羅」と称する三枚継「弘安元年太才戊寅三月十六日の曼荼羅」を格護したことを記録するも、法宣院現藏の当曼荼羅(47)は一紙であり、その同異は判断し難い。
*所蔵
千葉県市川市中山 法宣院
⇒日等臨写本に同じ臨写の曼荼羅あり。寺尾英智氏「日蓮聖人真蹟の形態と伝来」P73~75
曼荼羅(28)(29)(38)(39)(40)と同じく、由来明示の図顕讃文なし、形態の簡略化、讃文の意からすると「守護曼荼羅・守り本尊」と区分することも可能か。
3月16日
曼荼羅を図顕する
*「日蓮宗新聞」(H7.12.20)「ご真蹟に触れる」(中尾尭氏)より
*讃文、授与
不詳
*寸法
65.6×43.2 ㎝ 1紙
*所蔵
千葉県市川市中山 法華経寺
3月19日
門弟等に「法華経」の講義を始むと伝う「御講聞書」(御講聞書・全P804)
3月21日
日蓮に公場対決の使者並びに書状が到来(諸人御返事・定P1479、同・全P1284)
3月21日
書を著して公場対決を期す
「諸人御返事」
(定2-280・P1479、創新255・P1717、校2-297・P1517、全P1284、新P1211)
身延・門下一同
真蹟3紙完・千葉県松戸市平賀 本土寺蔵
宝12 満上259
録外5-29 遺24-45 縮1714
*平成校定「諸人御返事(報門人書)」
*日本国一同に日蓮が弟子檀那となり・・・・
三月十九日の和風(つかい)並びに飛鳥(ふみ)、同じく二十一日戌(いぬ)の時到来す。日蓮一生の間の祈請(きしょう)並びに所願忽(たちま)ちに成就せしむるか。将又(はたまた)五五百歳の仏記宛(あたか)も符契(ふけい)の如し。所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那となり、我が弟子等、出家は主上・上皇の師となり、在家は左右の臣下に列ならん。将又(はたまた)一閻浮提皆此の法門を仰がん。幸甚(こうじん)幸甚。
千葉県教育委員会 諸人御返事
3月
石河新兵衛入道の女子 寂と伝う
3月
日興・日持等 「四十九院申状」を作成し幕府に上る
「四十九院申状」(創新80・P877、全P848)
創価学会新版・全集「弘安元年3月」
*駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧(ぐそう)・釈日興(しゃくのにっこう)等、謹んで申す。
寺務・二位律師厳誉(ごんよ)の為に日興並に日持・承賢・賢秀等所学の法華宗を以て外道大邪教と称し往古の住坊並に田畠を奪い取り寺内を追い出さしむる謂(いわ)れ無き子細の事。
中略
早く厳誉律師と召し合わせられ真偽を糺されんと欲す。
且(かつ)去(い)ぬる文応年中師匠日蓮聖人仏法の廃(すた)れたるを見未来の災(わざわい)を鑒(かんが)み諸経の文を勘(かんが)え、一巻の書を造る[立正安国論と号す]、異国の来難(らいなん)果(はた)して以て符合し畢(おわ)んぬ未萠(みぼう)を知るを聖(しょう)と謂(い)う可(べ)きか、
⇒日興・日持・承賢・賢秀等、「四十九院申状」を以て公所に訴える
4月1日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事(末法要法の事)」
(定2-282・P1490、創新315・P1872、校2-299・P1526、全P1545、新P1217)
身延・南条七郎次郎
創価学会新版・南条時光
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
録内32-20 遺24-46 縮1714
*昭和定本「上野殿御返事(法要書)」
創価学会新版「上野殿御返事(末法要法の事)」
全集「上野殿御返事(末法要法御書)」
*余経も法華経もせんなし
又日蓮が弟子等の中に、なかなか法門し(知)りたりげに候人々はあ(悪)しく候げに候。南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心、人の中の神(たましい)のごとし。此れにものをならぶれば、きさき(后)のならべて二王をおとこ(夫)とし、乃至きさきの大臣已下(いげ)になひなひ(内々)とつ(嫁)ぐがごとし。わざわひ(禍)のみなもと(源)なり。正法・像法には此の法門をひろめず、余経を失はじがためなり。今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候もわたくし(私)の計らひにはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計らひなり。此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆゝしきひが(僻)事なり。日出でぬればとぼしび(灯)せん(詮)なし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児(みどりご)に乳より外のものをやしなうべきか。良薬に又薬を加へぬる事なし。
4月5日
日澄 「竜三問答記〔頼基陳状〕」(未再治本)を書写(日興上人全集P148)
4月11日
書を檀越某に報ず
「檀越某御返事(だんおつぼうごへんじ)」
(定2-283・P1493、創新256・P1718、校2-300・P1529、全P1294、新P1219)
身延 四条金吾
真蹟4紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
宝12 満上261・満下261
録外5-30 遺24-48 縮1718
*本満寺本・上「檀越某御返事=四条金吾殿御消息」
昭和定本「檀越某御返事(四条金吾御返事)」
創価学会新版「檀越某御返事」
平成校定「檀越某御返事(四条金吾殿御返事)」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*三度目の流罪の噂が
御文うけ給はり候ひ了(おわ)んぬ。
日蓮流罪して先々(さきざき)にわざわいども重なりて候に、又なにと申す事か候べきとはをも(思)へども、人のそん(損)ぜんとし候には不可思議の事の候へば、さが(前兆)候はんずらむ。もしその義候わば用ひて候はんには百千万億倍のさいわい(幸)なり。今度ぞ三度になり候。法華経もよも日蓮をばゆるき行者とわをぼせじ。釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌千界の御利生、今度みは(見果)て候はん。あわれあわれさる事の候へかし。雪山童子の跡ををひ、不軽菩薩の身になり候はん。いたづらにやくびゃう(疫病)にやをか(侵)され候はんずらむ。を(老)いじ(死)にゝや死に候はんずらむ。あらあさましあさまし。願くは法華経のゆへに国主にあだまれて、今度生死をはなれ候はゞや。天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかい、今度心み候ばや。
4月14日
書を南条時光に報ず
「南条殿御返事(芋薑[いもはじかみ]供養の事)」
(定4-439・P3021、創新316・P1875、校2-302・P1532、新P1221)
身延・南条時光
真蹟1紙11行完(門下代筆 自署花押真蹟)・宮城県栗原市一迫柳ノ目字高畑 妙教寺蔵
*昭和定本「南条殿御返事」
創価学会新版「南条殿御返事(芋薑[いもはじかみ]供養の事)」
⇒ 本文、日付、宛所は日興の筆か
*本文
いも(芋)はじかみ(薑・ショウガ科の多年草)、悦んで給び候い了わんぬ。いまをはじめぬ事に候へば、とかく申すにをよばず候。をりふし、そうそうなる事候いし間、委細の御返事に及ばざるの由候ところに候。恐々謹言。
4月21日
曼荼羅(48)を図顕する
*顕示年月日
弘安元年太才戊寅四月廿一日
*授与
優婆塞日専
*讃文
仏滅後二千二百 三十余年之 間一閻浮提之 内未曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 龍王 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
68.8×44.9㎝ 2枚継ぎ
*備考
・当曼荼羅以降、四天王の東・北二天は漢名「大持国天王・大毘沙門天王」、南・西二天は梵名「大毘楼博叉天王・大毘楼勒叉天王」を用いる。
・漢名のみを用いるのは、弘安二年十月の曼荼羅(67)以降となる。
*所蔵
京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町 立本寺
4月23日
書を大田乗明に報ず
「太田左衛門尉御返事(おおたさえもんのじょうごへんじ)」
(定2-285・P1495、創新155・P1371、校2-303・P1533、全P1014、新P1221)
身延・大田左衞門尉
創価学会新版・大田乗明
日朝本 宝10 真蹟なし
録外12-19 受6-33 遺24-49 縮1719
*全集「太田左衛門尉御返事(方便寿量肝心事)」
*日蓮「身心に苦労多く出来」
抑(そもそも)専ら御状に云はく、某(それがし)今年は五十七に罷(まか)り成(な)り候へば大厄の年かと覚へ候。なにやらんして正月の下旬の比より卯月の此(こ)の比(ごろ)に至り候まで身心に苦労多く出来候。本より人身を受くる者は必ず身心に諸病相続して五体に苦労あるべしと申しながら、更(ことさら)に云云。
*三世次第して一切の苦果を感ずるなり
此の事最第一の歎き事なり。十二因縁と申す法門あり。意は我等が身は諸苦を以て体となす。されば先世に業を造る故に諸苦を受け、先世の集煩悩(じゅうぼんのう)が諸苦を招き集め候。過去の二因現在の五果、現在の三因未来の両果とて、三世次第して一切の苦果を感ずるなり。
*四悉檀
指して引き申すべき経文にはあらざれども、予が法門は四悉檀(ししつだん)を心に懸けて申すなれば、強(あなが)ちに成仏の理に違はざれば、且(しばら)く世間普通の義を用ゆべきか。
然るに法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり。
されば経に云はく「此の経は則ち為(こ)れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即消滅して不老不死ならん」等云云。
又云はく「現世は安穏にして後生には善処ならん」等云云。
又云はく「諸余の怨敵皆悉く摧滅(さいめつ)せん」等云云。
取り分け奉る御守りの方便品・寿量品、同じくは一部書きて進(まい)らせ度(た)く候へども、当時は去り難き隙ども入る事候へば略して二品奉り候。相構へ相構へて御身を離さず重ねつゝみて御所持あるべき者なり。
*方便品
此の方便品と申すは迹門の肝心なり。此の品には仏、十如実相の法門を説きて十界の衆生の成仏を明かし給へば、舎利弗等は此を聞きて無明の惑を断じ真因の位に叶ふのみならず、未来華光如来と成りて、成仏の覚月(かくげつ)を離垢(りく)世界の暁の空に詠(えい)ぜり。十界の衆生の成仏の始めは是なり。
*寿量品
次に寿量品と申すは本門の肝心なり。又此の品は一部の肝心、一代の聖教の肝心のみならず、三世の諸仏の説法の儀式の大要なり。教主釈尊、寿量品の一念三千の法門を証得し給ふ事は三世の諸仏と内証等しきが故なり。但し此の法門は釈尊一仏の已証のみに非ず、諸仏も亦然(しか)なり。我等衆生の無始已来六道生死の浪に沈没せしが、今教主釈尊の所説の法華経に値ひ奉る事は、乃往(むかし)過去に此の寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり。有り難き法門なり。
*久遠実成の一念三千の法門
正しく久遠実成の一念三千の法門は、前四味並びに法華経の迹門十四品まで秘めさせ給ひてありしが、本門正宗に至りて寿量品に説き顕はし給へり。此の一念三千の宝珠をば妙法五字の金剛不壊の袋に入れて、末代貧窮(びんぐ)の我等衆生の為に残し置かせ給ひしなり。正法・像法に出でさせ給ひし論師・人師の中に此の大事を知らず。唯竜樹・天親こそ心の底に知らせ給ひしかども色にも出ださせ給はず。天台大師は玄・文・止観に秘せんと思(おぼ)し召(め)ししかども、末代の為にや止観十章第七正観の章に至りて粗(ほぼ)書かせ給ひたりしかども、薄葉(うすよう)に釈を設けてさて止み給ひぬ。但理観の一分を示して事の三千をば斟酌(しんしゃく)し給ふ。彼の天台大師は迹化の衆なり。此の日蓮は本化の一分なれば盛んに本門の事の分を弘むべし。
*教主釈尊の御子
然るに是くの如き大事の義理の籠(こも)らせ給ふ御経を書きて進(まい)らせ候へば、弥(いよいよ)信を取らせ給ふべし。
勧発品に云はく「当に起ちて遠く迎へて当に仏を敬ふが如くすべし」等云云。
安楽行品に云はく「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す。乃至天の諸の童子以て給使を為さん」等云云。
譬喩品に云はく「其の中の衆生は悉く是吾が子なり」等云云。
法華経の持者は教主釈尊の御子なれば、争(いか)でか梵天・帝釈・日月・衆星も昼夜朝暮に守らせ給はざるべきや。厄の年災難を払はん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな。
4月
書を浄顕房・義浄房に与う
「華果成就御書(けかじょうじゅごしょ)」
(定2-286・P1500、創新103・P1210、校2-304・P1538、全P900、新P1225)
身延・浄顕房、義浄房
日朝本 真蹟なし
録外25-30 遺24-54 縮1724
*平成校定「華果成就御書(与義浄二子書)」
*日蓮は草木の如く、師匠は大地の如し
其の後なに事もうちたへ申し承らず候。さては建治の比(ころ)、故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を、山高き森にてよませ給ひて候よし悦び入って候。たとへば根ふかきときんば枝葉かれず、源に水あれば流れかはかず。火はたきゞか(欠)くればた(絶)へぬ。草木は大地なくして生長する事あるべからず。日蓮法華経の行者となって、善悪につけて日蓮房日蓮房とうたはるゝ此の御恩、さながら故師匠道善房の故にあらずや。日蓮は草木の如く、師匠は大地の如し。
*よき弟子、あしき弟子
日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべし。あらたうと(貴)たうと(貴)。よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり、あしき弟子をたくは(蓄)ひぬれば師弟地獄にを(堕)つといへり。師弟相違せばなに事も成すべからず。委(くわ)しくは又々申すべく候。常にかた(語)りあ(合)わせて、出離生死して同心に霊山浄土にてうなづきかた(語)り給へ。経に云はく「衆に三毒あることを示し、又邪見の相を現ず。我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」云云。前々申せし如く御心得あるべく候。
5月1日
書を妙法尼(松野殿の縁者)に報ず
「妙法尼御返事」
(定2-287・P1501、創新378・P1999、校2-305・P1539、全P1390、新P1226)
身延・妙法尼
創価学会新版・妙法尼(松野殿の縁者)
日朝本 宝8 真蹟なし
録外9-4 遺24-55 縮1725
*昭和定本「松野殿御返事」
創価学会新版「妙法尼御返事」
平成校定「妙法尼御返事(松野殿御返事)」
*仏・法華経にまいらせ給へる
干飯(ほしいい)一斗(いっと)・古酒一筒・ちまき(角粽)・あうざし(青麨)・たかんな(筍)方々の物送り給びて候。草にさける花、木の皮を香として仏に奉る人、霊鷲山に参らざるはなし。況(いわ)んや民のほね(骨)をくだける白米、人の血をしぼれるが如くなるふるざけ(古酒)を、仏・法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道疑ふべしや。
5月2日
日興 「四信五品抄」を書写(日興上人全集P148)
5月12日
園城寺 金堂供養して勅会に准じ、延暦寺衆徒入京して妨害(続史愚抄)
5月15日
延暦寺衆徒 園城寺長吏・隆弁の鹿谷坊を焼く(続史愚抄)
5月18日
興福寺 観音像を造立し疫病祈願を修す(続史愚抄)
5月22日
書を著す
「霖雨御書(りんうごしょ)」
(定2-289・P1504、創新294・P1821、校2-306・P1540、全P1285、新P1227)
身延
創価学会新版・覚性房
真蹟1紙(半切)12行外日付等完・京都府京都市左京区岩倉幡枝町 妙満寺蔵
縮続189
*平成校定「真蹟1紙(半切)15行完」
*昭和定本「霖雨(ながきあめ)御書」
創価学会新版「霖雨御書(りんうごしょ)」
*本文
山中のながきあめ(霖雨)、つれづれ申すばかり候はず。えんどう(豌豆)かしこ(畏)まりて給び候ひ了んぬ。ことによろこぶよし、覚性房申しあげさせ給ひ候へ。恐々
5月24日
書を南条時光の妻に報ず
「南条殿女房御返事(なんじょうどののにょうぼうごへんじ)」
(定2-290・P1504、創新317・P1876、校2-307・P1541、全P1547、新P1227)
身延・南条七郎次郎女房
創価学会新版・南条時光の妻
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日朝本 宝9・12 満上234・254
録外14-42 受5-20 遺24-57 縮1728
*平成校定「南条殿女房御返事(八木書)」
*法華経供養の功徳
八木(はちぼく)二俵送り給び候ひ了(おわ)んぬ。度々(たびたび)の御志申し尽くし難く候。夫(それ)水は寒積れば氷となる。雪は年累(かさ)なって水精(すいしょう)となる。悪積れば地獄となる。善積れば仏となる。女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる。法華経供養の功徳かさならば、あに竜女があとをつがざらん。山といひ、河といひ、馬といひ、下人といひ、かたがたかんなん(艱難)のところに、度々の御志申すばかりなし。御所労の人の臨終正念・霊山浄土疑ひなかるべし。
5月26日
22社司を召して疫病の祈願を修す(園太暦)
5月頃
書を池上宗長に報ず
「兵衛志殿御返事」
(定2-291・P1505、創新180・P1497、校2-308・P1542、新P1228)
身延・兵衛志
創価学会新版・池上宗長
真蹟7紙完(但し第8紙日付等欠且つ所々磨滅)・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺蔵
縮二続119
*創価学会新版「兵衛志殿御返事(一族末代栄えの事)」
< 系年 >
昭和定本「弘安元年5月頃」
創価学会新版「弘安元年」
*やせやまい(痩病)
ゑもんのたいう(右衛門大夫)は法華経を信じて仏になるとも、をや(親)は法華経の行者なる子をかんだう(勘当)して地獄に墮つべし。との(殿)はあに(兄)とをや(親)とをそん(損)ずる人になりて、提婆達多がやう(様)にをはすべかりしが、末代なれども、かしこ(賢)き上、欲なき身と生まれて三人ともに仏になり給ひ、ちゝかた(父方)、はゝかた(母方)のるい(類)をもすく(救)い給ふ人となり候ぬ。又との(殿)ゝ御子息等もすへ(末)の代はさか(栄)うべしとをぼしめせ。
此の事は一代聖教をも引きて百千まい(枚)にか(書)くとも、つ(尽)くべしとはをもわねども、やせやまい(痩病)と申し、身もくる(苦)しく候へば、事々申さず。
あわれあわれ、いつかげざん(見参)に入て申し候はん。又むかいまいらせ候ひぬれば、あまりのうれ(嬉)しさに、かた(語)られ候はず候へばあらあら申す。よろづは心にすい(推)しはか(量)らせ給へ。女房の御事同じくよろこぶと申させ給へ。
5月~6月
日蓮の花押が梵字のバン字からボロン字へと変化する(日興門流上代事典)
⇒以下、梵字説に対する考察
「法華仏教研究」33号 西山明仁氏の論考「日蓮花押の母字の考察」
「法華仏教研究」33号 村上東俊氏の論考「日蓮聖人の前期花押の特徴と母字に関する考察」
・日蓮の花押は、僧名日蓮の蓮字をもとに一体字で作成したものである。
・前期は蓮字の楷書体を、後期は蓮字の草書体をもとにして作成したものである。
(趣意)
「法華仏教研究」34号 川﨑弘志氏の論考「日蓮花押母字の「妙」字説の検証」
・日蓮の花押の母字は「蓮」字ではなく「妙」字であると考える(趣意)として詳細に検証されている。
6月3日
日蓮 5~6月にかけて不食気、病下痢の症状で苦しむ
(定291兵衛志殿御返事・定P1507、定296兵衛志殿御返事・P1525、阿仏房御返事・全P1317)
6月3日
書を阿仏房に報ず
「阿仏房御返事」
(定2-292・P1508、創新264・P1734、校2-309・P1544、全P1317、新P1229)
身延・阿仏房
宝12 満上354 真蹟なし
録外20-18 遺23-1 縮1591
*本満寺本「阿仏房御返事=阿仏房御書」
< 系年 >
昭和定本「弘安元年6月3日(宮)或は建治3年(縮)」
創価学会新版・平成校定「弘安元年6月3日」
全集「建治3年6月3日」
*御状の旨委細承り候ひ畢んぬ。
大覚世尊説きて曰く「生老病死」「生住異滅」等云云。既に生を受けて齢(よわい)六旬(じゅん)に及ぶ、老又疑ひ無し。只残る所は病死の二句なるのみ。然るに正月より今月六月一日に至り連々此の病息(や)むこと無し。死ぬる事疑ひ無き者か。経に云はく「生滅滅已(しょうめつめっち)、寂滅為楽(じゃくめついらく)」云云。今は毒身を棄(す)て後に金身(こんじん)を受くれば豈(あに)歎(なげ)くべけんや。
6月8日
宗性(そうしょう、東大寺別当) 寂77歳
6月22日
尾張次郎兵衛 卒(妙法比丘尼御返事・全P1406)
6月25日
書を日女に報ず
「日女御前御返事(嘱累品等大意[ぞくるいほんとうたいい]の事)」
(定2、4-293・P1508、P3045、創新406・P2090、校2-310・P1545、全P1245、新P1230)
身延・日女御前
創価学会新版・日女
< 真蹟6紙断片 >
83字6行・福井県小浜市小浜酒井 長源寺蔵
第13紙29字2行、1字・新潟県佐渡市松ヶ崎 本行寺蔵
第15紙36字2行・千葉県千葉市緑区土気町 本寿寺蔵
18字2行・静岡県富士市岩本 実相寺蔵
29字2行・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺蔵
14字1行・京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺蔵
76字7行・京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町 本能寺蔵
宝4 満上64
録外15-2 受4-11 遺24-58 縮1728
*本満寺本「日女御前御返事=品々供養事」
昭和定本「日女御前御返事(品々供養事)」
創価学会新版「日女御前御返事(嘱累品等大意の事)」
平成校定「日女御前御返事(日女品々供養事)(死活抄)」
全集「日女御前御返事(嘱累品等大意)」
*去年今年の大疫病
今日本国の去年今年の大疫病は何とか心うべき。此を答ふべき様は一には善鬼なり。梵王・帝釈・日月・四天の許されありて法華経の怨を食す。二には悪鬼が第六天の魔王のすゝめによりて法華経を修行する人を食す。善鬼が法華経の怨を食らふことは、官兵の朝敵を罰するがごとし。悪鬼が法華経の行者を食らふは、強盗夜討等が官兵を殺すがごとし。
*法華経の行者には値ひがたし
黄河(こうが)は千年に一度す(澄)むといへり。聖人は千年に一度出づるなり。仏は無量劫に一度出世し給ふ。彼には値ふといへども法華経には値ひがたし。設(たと)ひ法華経に値ひ奉るとも、末代の凡夫法華経の行者には値ひがたし。何(いかん)ぞなれば末代の法華経の行者は、法華経を説かざる華厳・阿含・方等・般若・大日経等の千二百余尊よりも、末代に法華経を説く行者は勝れて候なるを、妙楽大師釈して云く「供養すること有らん者は福十号に過ぎ、若し悩乱する者は頭(こうべ)七分に破れん」云云。
*聖人をあだめば総罰一国にわたる
今日本国の者去年今年の疫病と、去ぬる正嘉の疫病とは人王始まりて九十余代に並びなき疫病なり。聖人の国にあるをあだむゆへと見えたり。師子を吼(ほ)ゆる犬は膓(はらわた)切れ、日月をのむ修羅は頭の破れ候なるはこれなり。
日本国の一切衆生すでに三分が二はや(病)みぬ。又半分は死しぬ。今一分は身はや(病)まざれども心はや(病)みぬ。又頭も顕(けん)にも冥(みょう)にも破(われ)ぬらん。
罰に四あり。総罰・別罰・冥罰・顕罰なり。聖人をあだめば総罰一国にわたる。又四天下、又六欲・四禅にわたる。賢人をあだめば但敵人等なり。今日本国の疫病は総罰なり。定んで聖人の国にあるをあだむか。山は玉をいだけば草木か(枯)れず。国に聖人あれば其の国やぶれず。山の草木のか(枯)れぬは玉のある故とも愚者はしらず。国のやぶるゝは聖人をあだむ故とも愚人は弁へざるか。
*釈迦・多宝・十方の諸仏は御らん(覧)あり
かゝる法華経を末代の女人、二十八品を品々ごとに供養せばやとおぼしめす、但事にはあらず。宝塔品の御時は多宝如来・釈迦如来・十方の諸仏・一切の菩薩あつまらせ給ひぬ。此の宝塔品はいづれのところにか只今ましますらんとかんが(考)へ候へば、日女御前の御胸の間、八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候。
中略
日女御前の御身の内心に宝塔品まします。凡夫は見ずといへども、釈迦・多宝・十方の諸仏は御らん(覧)あり。日蓮又此をすい(推)す。あらたう(貴)としたう(貴)とし。
*釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせ給ふなり
日蓮つ(詰)めて云く、代に大禍(だいか)なくば古(いにしえ)にすぎたる疫病・飢饉・大兵乱はいかに。召(めし)も決せずして法華経の行者を二度まで大科に行ひしはいかに、不便(ふびん)不便。而るに女人の御身として法華経の御命をつがせ給ふは、釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせ給ふなり。此の功徳をもてる人一閻浮提の内にあるべしや。
6月26日
書を富木常忍に報ず
「治病大小権実違目(じびょうだいしょうごんじついもく)」
(定2-294・P1517、創新139・P1329、校2-311・P1554、全P995、新P1235)
身延・富木入道
創価学会新版・富木常忍
真蹟13紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
日朝本 平27 延山録外1・3
録内28-26 遺30-45 縮2098
*平成校定「日時本・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵」
*昭和定本「富木入道殿御返事(治病大小権実違目)」
「富木入道殿御返事 上書1行(真蹟)+治病大小権実違目(富木常師筆蹟)」
創価学会新版「治病大小権実違目」
平成校定「治病大小権実違目(富木入道殿御返事)」
全集「治病大小権実違目(治病抄)」
< 系年 >
昭和定本「弘安元年6月26日(境)或は弘安5年(縮)」
創価学会新版「弘安元年6月26日」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*疫病弥興盛
御消息に云はく、凡そ疫病(えきびょう)弥(いよいよ)興盛(こうじょう)等云云。
*本迹の相違
法華経に又二経あり。所謂迹門と本門となり。本迹の相違は水火・天地の違目(いもく)なり。例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり。爾前と迹門とは相違ありといへども相似(そうじ)の辺も有りぬべし。所説に八教あり。爾前の円と迹門の円とは相似せり。爾前の仏と迹門の仏は劣応(れっとう)・勝応・報身・法身(ほっしん)異なれども始成の辺は同じぞかし。今本門と迹門とは教主すでに久始(くし)のかわりめ、百歳のをきな(翁)と一歳の幼子のごとし。弟子又水火なり。土の先後いうばかりなし。而るを本迹を混合すれば水火を弁(わきま)へざる者なり。
*何故に疫病に罹るのか
疑って云はく、汝が申すがごとくならば、此の国法華経の行者をあだむ故に、善神此の国を治罰する等ならば、諸人の疫病而るべし。何ぞ汝が弟子等又やみ死ぬるや。
答へて云はく、汝が不審最も其の謂(いわ)れ有るか。但し一方を知って一方を知らざるか。善と悪とは無始よりの左右の法なり。権教並びに諸宗の心は善悪(ぜんなく)は等覚に限る。若し爾(しか)らば等覚までは互ひに失有るべし。法華宗の心は一念三千、性悪(しょうあく)、性善(しょうぜん)は妙覚の位に猶備はれり。元品の法性は梵天・帝釈等と顕はれ、元品の無明は第六天の魔王と顕はれたり。
善神は悪人をあだむ、悪鬼は善人をあだむ。末法に入りぬれば自然に悪鬼は国中に充満せり。瓦石草木(がしゃくそうもく)の並び滋(しげ)きがごとし。善鬼は天下に少なし。聖賢まれなる故なり。此の疫病は念仏者・真言師・禅宗・律僧等よりも、日蓮が方にこそ多くや(病)み死ぬべきにて候か。いかにとして候やらむ。彼等よりもすくなくやみ、すくなく死に候は不思議にをぼ(覚)へ候。人のすくなき故か。又御信心の強盛なるか。
*災難
此の三十余年の三災七難等は一向に他事を雑(まじ)へず。日本一同に日蓮をあだみて、国々・郡々・郷々・村々・人ごとに上一人より下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚を起こせり。
見思未断(けんじみだん)の凡夫の元品の無明を起こす事此始めなり。神と仏と法華経にいのり奉らばいよいよ増長すべし。但し法華経の本門をば法華経の行者につけて除き奉る。結句は勝負を決せざらむ外は此の災難止み難かるべし。
*事と理
一念三千の観法に二あり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千なり。天地はるかに殊(こと)なりことなりと、御臨終の御時は御心へ(得)有るべく候。
6月26日
書を四条金吾に報ず
「中務左衛門尉殿御返事(なかつかさのさえもんのじょうどのごへんじ)」
(定2-295・P1523、創新213・P1602、校2-312・P1560、全P1178、新P1239)
身延・四条金吾
真蹟6紙完・京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町 立本寺蔵
(平成校定「真蹟5紙完」)
延山録外1
録外14-43 遺24-67 縮1738
*昭和定本「中務左衛門尉殿御返事(二病抄)」
創価学会新版「中務左衛門尉殿御返事」
平成校定「中務左衛門尉殿御返事(四条抄)(二病抄)」
全集「中務左衛門尉殿御返事(二病抄)」
*身の病、心の病
夫(それ)、人に二病あり。一には身の病。所謂(いわゆる)地大百一・水大百一・火大百一・風大百一、已上四百四病。此の病は治(持)水・流水(るすい)・耆婆(ぎば)・扁鵲(へんじゃく)等の方薬をもって此を治す。二は心の病。所謂三毒乃至八万四千の病なり。仏に有らざれば二天・三仙も治しがたし。何に況んや神農(しんのう)・黄帝(こうてい)の力及ぶべしや。
*教主釈尊の入りかわりまいらせて・・・
将又(はたまた)日蓮が下痢(くだりはら)去年十二月卅日事起こり、今年六月三日四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業(じょうごう)かと存ずる処に貴辺の良薬(ろうやく)を服してより已来、日々月々に減じて今百分の一となれり。
しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶(たす)け給ふか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給へるかと疑ひ候なり。
⇒日蓮は下痢が止まらず、弘安元年以降は入滅まで続いた。この時は門下(四条金吾)が処方して差し上げた薬で、体調が回復。金吾の真心に対して「釈尊が助けてくれたのであろうか」「地涌の菩薩が妙法蓮華経の良薬を授けてくれたのであろうか」と。
参考・鎌倉時代の平均寿命は、24歳とも、40歳とも。
6月26日
書を池上宗長に報ず
「兵衛志殿御返事(病平癒[やまいへいゆ]の事)」
(定2-296・P1525、創新177・P1491、校2-313・P1562、全P1097、新P1241)
身延・兵衛志
創価学会新版・池上宗長
真蹟1紙完・福井県越前市今宿町 妙勧寺
宝11 満上260
録外9-38 遺24-67 縮1737
*本満寺本「兵衛志殿御返事=兵衛志殿御消息」
創価学会新版「兵衛志殿御返事(病平癒の事)」
*法華経に申し上げまいらせ
みそおけ(味噌桶)ひとつ給び了んぬ。はらのけ(下痢)はさゑもん(左衛門)殿の御薬になを(治)りて候。又このみそをな(嘗)めていよいよ心ちなをり候ひぬ。あわれあわれ今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候へ。
⇒この時期の書簡には、体調不良に関する記述が多い。
6月27日
書を窪尼に報ず
「窪尼御前御返事(くぼのあまごぜんごへんじ)(信心の根深き事)」
(定2-297・P1525、創新366・P1973、校2-314・P1563、全P1479、新P1241)
身延・窪尼御前
創価学会新版・窪尼(くぼのあま)
日興本・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日朝本 宝8 満上246
録外5-14 遺24-69 縮1740
*昭和定本「窪尼御前御返事(与持妙尼書)」
創価学会新版「窪尼御前御返事(信心の根深き事)」
⇒高橋六郎兵衛の妻=妙心尼=窪尼=持妙尼・日興の叔母
6月
書を門下に報ず
「高橋殿御返事(米穀[べいこく]御書)」
(創新358・P1953、校2-315・P1564、全P1467、新P1242)
霊艮閣版日蓮聖人御遺文963(従諸法実相抄抄出) 真蹟なし
*創価学会新版・全集「高橋殿御返事(米穀御書)」
*釈迦仏・地涌の菩薩、御身に入りかはらせ給ふか
米穀(べいこく)も又々かくの如し、同じ米穀なれども謗法の者をやしな(養)うは仏種をた(断)つ命をついで弥々(いよいよ)強盛の敵人となる。又命をたすけて終(つい)に法華経を引き入るべき故か。又法華の行者をやしな(養)うは、慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし。一切衆生を利益するなればなり。故に仏舎利変じて米と成るとは是なるべし。かゝる今時分人をこれまでつか(遣)はし給ふ事うれしさ申すばかりなし。釈迦仏・地涌の菩薩、御身に入りかはらせ給ふか。
其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ。仏種は縁に従って起こる、是の故に一乗を説くなるべし。
7月3日
書を妙法尼に報ず
「妙法尼御前御返事(一句肝心の事)」
(定2-298・P1526、創新407・P2098、校2-316・P1565、全P1402、新P1242)
身延・妙法尼
宝9 満下204 真蹟なし
録外16-26 受2-2 遺25-1 縮1741
*昭和定本「妙法尼御前御返事(六難九易)」
創価学会新版「妙法尼御前御返事(一句肝心の事)」
平成校定「六難九易抄(妙法尼御前御返事)」
全集「妙法尼御前御返事(一句肝心事)」
*南無妙法蓮華経の題目の内には・・・
此の法華経には我等が身をば法身如来、我等が心をば報身如来、我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候。
南無妙法蓮華経と申すは是(これ)一句一偈にて候。然れども同じ一句の中にも肝心にて候。南無妙法蓮華経と唱ふる計りにて仏になるべしやと、此の御不審の所詮に候。一部の肝要、八軸の骨髄にて候。人の身の五尺六尺のたましひ(神)も一尺の面にあらはれ、一尺のかほのたましひも一寸の眼(まなこ)の内におさまり候。又日本と申す二つの文字に、六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賎・七珍・万宝一つもかくる事候はず収めて候。其のごとく南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字一字もも(漏)れずか(欠)けずおさめて候。されば経には題目たり、仏には眼たりと、楽天ものべられて候
7月5日
曼荼羅(50)を図顕する
*通称
若宮御本尊、竹内御本尊
*顕示年月日
弘安元年太才戊寅七月五日
*授与
沙門日門授与之
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之内 未曾有大漫 荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 龍王 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
94.9×53.0㎝ 3枚継ぎ
*備考
・当曼荼羅以降、図顕讃文の辞句が定型化するも、なお「二十余年」・「三十余年」を両用している。
*所蔵
京都府京都市左京区仁王門通川端東入大菊町 頂妙寺
7月5日
曼荼羅 (51)を図顕する
*通称
輪宝御本尊
*顕示年月日
弘安元年太才戊寅七月五日
*授与
削損シアリ
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之間一閻浮 之内未曾有大 漫荼羅 也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 龍王 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
120.6×64.5㎝3枚継ぎ
*備考
・年月下に授与書が存するも、削損した形跡あり。
・「輪宝御本尊」との名称
表装の裂地の紋様に由来したものであり、「鴛鴦御本尊」(56)も同例。
*所蔵
京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺
7月7日
書を南条平七郎に報ず
「種々物御消息(しゅじゅのものごしょうそく)」
(定2、4-299・P1529、P3045、創新318・P1877、校2-317・P1568、全P1547、新P1244)
身延
創価学会新版・南条平七郎(なんじょうへいしちろう)
< 真蹟断簡 >
24字2行・静岡県富士市岩本 実相寺蔵
第6紙6行貼合・神奈川県川崎市麻生区高石 匡真寺蔵
末尾1紙14行・東京都杉並区堀之内 妙法寺蔵
日興本・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日朝本 宝12 満下127
録外5-36 遺25-4 縮1744
*昭和定本「種種物御消息」
創価学会新版「種々物御消息」
平成校定「種々物御消息(種々供養書)(松野抄)」
*法華経にまいらせて
みなみな(平成校定・全集=しなじな)のもの(物)をく(送)り給びて法華経にまい(進)らせて候。
*日蓮が過去の父母か
かゝるふしぎ(不思議)の者をふびん(不便)とて御くやう(供養)候は、日蓮が過去の父母か、又先世の宿習(しゅくじゅう)か、おぼろげの事にはあらじ。其の上雨ふり、かぜ(風)ふき、人のせい(制)するにこそ心ざしはあらわれ候へ。
*身延は大雨が三ヶ月続き河川の氾濫、山崩れで交通遮断
此も又かくのごとし。たゞなる時だにも、するが(駿河)とかい(甲斐)とのさかい(境)は山たか(高)く、河はふか(深)く、石をゝ(多)く、みち(路)せば(狭)し。
いわうやたうじ(当時)はあめ(雨)はしの(篠)をたてゝ三月にをよび、かわ(河)はまさりて九十日、やま(山)くづ(崩)れ、みち(路)ふさ(塞)がり、人もかよはず、かつ(糧)てもた(絶)へて、いのち(命)かうにて候ひつるに、このすゞ(種種)の物たまわりて法華経の御こへ(声)をもつぎ、釈迦仏の御いのちをもたす(助)けまいらせさせ給ひぬる御功徳、たゞを(推)しはか(量)らせ給ふべし。くはしくは又々申すべし。
7月8日
書を南条時光に報ず
「時光御返事」
(定2-300・P1532、創新319・P1879、校2-318・P1571、全P1549、新P1246)
身延・南条時光
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日朝本 平18
録内32-8 遺25-6 縮1747
*昭和定本「時光殿御返事」
創価学会新版・全集「時光御返事」
*飢饉と疫病
今、日蓮は聖人にはあらざれども、法華経に名をたてり。国主ににく(憎)まれて我が身をせく上、弟子かよう(通行)人をも、或はの(罵)り、或はうち、或は所領をとり、或はところをおふ。かゝる国主の内にある人々なれば、たとひ心ざしあるらん人々もと(訪)ふ事なし。此の事事ふりぬ。なかにも今年は疫病と申し、飢渇(けかち)と申し、とひくる人々もすくなし。たとひや(病)まひなくとも飢えて死なん事うたがひなかるべきに、麦の御とぶ(訪)らひ金にもすぎ、珠にもこえたり。彼のりだがひえ(稗)は変じて金人となる。此の時光が麦、何ぞ変じて法華経の文字とならざらん。此の法華経の文字は釈迦仏となり給ひ、時光が故親父の左右の御羽となりて霊山浄土へとび給へ。かけり給へ。かへりて時光が身をおほ(覆)ひはぐくみ給へ。
⇒下記の「千日尼御前御返事」と同月の書。疫病、飲食物の欠乏により、身延を訪れる門下が少なくなっている。
7月14日
書を妙法尼に報ず
「妙法尼御前御返事(臨終一大事の事)」
(定2、4-301・P1535、P3018、創新408・P2101、校2-319・P1574、全P1404、新P1482)
身延・妙法尼
真蹟7紙断片
第1紙10行・東京都大田区池上 池上本門寺蔵
第2紙12字1行・千葉県千葉市中央区今井 福正寺蔵
第3紙13行余以下第7紙迄・池上本門寺蔵
日朝本
録内32-11 遺25-8 縮1749
*録内「妙法尼御前御書」
昭和定本「妙法尼御前御返事」
創価学会新版「妙法尼御前御返事(臨終一大事の事)」
全集「妙法尼御前御返事(臨終一大事)」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*我等が親父、大聖教主釈尊の金言
一代の聖教いづれもいづれも、をろ(愚)かなる事は候はず。皆我等が親父、大聖教主釈尊の金言なり。皆真実なり。皆実語なり。
其の中にをいて又小乗・大乗、顕教・密教、権大乗・実大乗あいわかれて候。仏説と申すは二天・三仙・外道・道士の経々にたいし候へば、此等は妄語(もうご)、仏説は実語(じつご)にて候。此の実語の中に妄語あり、実語あり、綺語(きご)も悪口(あっく)もあり。其の中に法華経は実語の中の実語なり。真実の中の真実なり。
真言宗と華厳宗と三論と法相と倶舎(くしゃ)・成実と律宗と念仏宗と禅宗等は実語の中の妄語より立て出(い)だせる宗々なり。法華宗は此等の宗々にはに(似)るべくもなき実語なり。法華経の実語なるのみならず、一代妄語の経々すら法華経の大海に入りぬれば、法華経の御力にせめられて実語となり候。いわうや法華経の題目をや。
白粉(おしろい)の力は漆(うるし)を変じて雪のごとく白くなす。須弥山に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至(ないし)過去遠々劫(かこおんのんごう)の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。
*最後臨終の妙法
しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり。かゝる人の縁の夫妻にならせ給へば、又女人成仏も疑ひなかるべし。
7月16日
曼荼羅を図顕する
*日等臨写本・「日蓮聖人真蹟の形態と伝来」(寺尾英智氏 P56、P76~81)
*臨写
*通称
同日三幅曼荼羅
*顕示年月日
弘安元年太才戊寅七月十六日
*讃文
仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮提 之内未曽有大漫 荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊等 南無迦葉等 不動明王 愛染明王 大梵天王 大因陀羅王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
129.5×72.6㎝ 3枚継ぎ
*所蔵
千葉県市川市中山 法華経寺
⇒日等が臨写した「同日三幅曼荼羅」は、三つの曼荼羅の内、どの曼荼羅であったかは不明。
7月16日
曼荼羅を図顕する
*「日亮目録」
=法華経寺95世日亮時代の「正中山本妙法華経寺御霊宝目録鑑」
1825年・文政8年6月良日付け
寺尾英智氏「日蓮聖人真蹟の形態と伝来」(P56、P76~81)
*目録により存在確認
*通称
同日三幅曼荼羅
*所蔵
千葉県市川市中山 法華経寺曽存
*他、不詳
7月16日
曼荼羅を図顕する
*「日亮目録」
寺尾英智氏「日蓮聖人真蹟の形態と伝来」(P56、P76~81)
*目録により存在確認
*通称
同日三幅曼荼羅
*授与
経女
*所蔵
千葉県市川市中山 法華経寺曽存
7月24日
建長寺・蘭渓道隆 寂66歳(元亨釈書)
7月27日
阿仏房 身延山に三度目の参詣(千日尼御前御返事・全P1314)
7月28日
書を千日尼に報ず
「千日尼御前御返事(真実報恩経の事)」
(定2-302・P1538、創新265・P1735、校2-320・P1577、全P1309、新P1248)
身延・千日尼
真蹟24紙完・新潟県佐渡市阿仏坊 妙宣寺蔵
日朝本
録内20-4 遺25-11 縮1753
*昭和定本「千日尼御前御返事」
創価学会新版「千日尼御前御返事(真実報恩経の事)」
平成校定「千日尼御前御返事(佐渡阿仏房書)」
全集「千日尼御前御返事(真実報恩経事)」
*佐渡市 日蓮聖人筆書状
*法華経の行者に値ひぬれば
此の経文は一切経に勝れたり。地走る者の王たり、師子王のごとし。空飛ぶ者の王たり、鷲のごとし。南無阿弥陀仏経等はきじ(雉)のごとし、兎のごとし。鷲につかまれては涙をながし、師子にせめられては腹わたをたつ。念仏者・律僧・禅僧・真言師等又かくのごとし。法華経の行者に値(あ)ひぬれば、いろを失ひ魂をけすなり。
*ゆへに此の疫病出現せり
今、日本国の仏法も又かくのごとし。色かわれる謀反なり。法華経は大王なり、大日経・観無量寿経・真言宗・浄土宗・禅宗・律僧等は彼々の小経によて法華経の大怨敵となりぬ。而るを日本の一切の女人等我が心のをろ(愚)かなるをば知らずして、我をたすくる日蓮をかたきとをもひ、大怨敵たる念仏者・禅・律・真言師等を善知識とあやまてり。たすけんとする日蓮かへりて大怨敵とをもわるゝゆえに、女人こぞりて国主に讒言(ざんげん)して伊豆国へながせし上、又佐渡国へながされぬ。
ここに日蓮願して云はく、日蓮は全く誤りなし。設ひ僻事(ひがごと)なりとも日本国の一切の女人を扶(たす)けんと願せる志はすてがたかるべし。何かに況んや法華経のまゝに申す。而るを一切の女人等信ぜずばさてこそ有るべきに、かへりて日蓮をう(打)たする。日蓮が僻事か、釈迦・多宝・十方の諸仏・菩薩・二乗・梵・釈・四天等いかに計らひ給ふぞ。日蓮が僻事ならば其の義を示し給へ。ことには日月天は眼前の境界なり。又仏前にしてきかせ給へる上、法華経の行者をあだまんものをば頭破七分等と誓はせ給ひて候へばいかんが候べきと、日蓮強盛にせめまいらせ候ゆへに天此の国を罰する。ゆへに此の疫病出現せり。
他国より此の国を天をほ(仰)せつけて責めらるべきに、両方の人あまた死すべきに、天の御計ひとしてまづ民を滅して人の手足を切るがごとくして、大事の合戦なくして、此の国の王臣等をせめかたぶけて、法華経の御敵を滅して正法を弘通せんとなり。
*阿仏房は、三度、身延山へ
去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間此の山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし。
釈迦如来は、我が薩埵(さった)王子たりし時、うへたる虎に身をか(飼)いし功徳、尸毘王(しびおう)とありし時、鳩のために身をかへし功徳をば、我が末の代かくのごとく法華経を信ぜん人にゆづらむとこそ、多宝・十方の仏の御前にては申させ給ひしか。
*阿仏房の登山について~「法華仏教研究」19号
川﨑弘志氏の論考「日蓮聖人の生涯と遺文の考察(二)」より
第一回 建治元年6月
第二回 建治3年4月
第三回 弘安元年7月
*建治3年(1277年)から弘安元年(1278年)にかけての「疫病」は、相当深刻なものがあった。
抑(そもそも)、去々・去・今年のありさまは、いかにかならせ給ひぬらむとをぼつか(覚束)なさに法華経にねんごろに申し候ひつれども、いまだいぶかし(不審)く候ひつるに、七月廿七日の申(さる)の時に阿仏房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう(国府)入道殿はいかにと、まづといて候ひつれば、いまだや(病)まず、こう入道殿は同道にて候ひつるが、わせ(早稲)はすでにちかづきぬ、こ(子)わなし、いかんがせんとてかへられ候ひつるとかた(語)り候ひし時こそ、盲目の者の眼のあきたる、死し給へる父母の閻魔宮(えんまぐう)より御をとづれの夢の内に有るを、ゆめ(夢)にて悦ぶがごとし。あわ(哀)れあわれふしぎ(不思議)なる事かな。此もかまくら(鎌倉)も此の方の者は此の病にて死ぬる人はすくなく候。
⇒意訳
去年、今年の(疫病の)有り様では「これではどうなってしまうのか」と心配して、法華経にねんごろに祈念していました。それでも皆さんの状況が心配でいたところ、7月27日の午後4時頃に、阿仏房が身延山に来られ、お会いし「尼御前はどうされていますか。国府入道殿はどうされていますか」と、まずは聞いてみると「(千日尼)は疫病には罹っていません。国府入道は共に身延を目指したのですが、『早稲の収穫期が近づいた。子供はいないし、いかにしようか』と、考えた上で身延行きを断念し、佐渡へ帰りました」と、皆さんの無事を聞いたときに、盲目の人の眼が見えたような、亡くなった父母が閻魔王のもとから戻ってきたような、夢の中にいることを、夢の中で喜ぶような思いでありました。本当に、本当に不思議なことです。ここ身延山でも、鎌倉でも、日蓮が一門はこの疫病で死ぬ人は少ないのです。
図録を著す
「下方他方旧住菩薩事」
(定3図録18・P2323、校3図録18・P2437、新P639)
真蹟4紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
遺13-62 縮892
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*「法華仏教研究」34号 川﨑弘志氏の論考「日蓮御書の系年と真偽の研究(一)」
「下方他方旧住菩薩事」の系年は、弘安元年7月に富木常忍が身延に登山した折と考えている。(趣意)
7月
曼荼羅(49)を図顕する
*顕示年月日
弘安元年太才戊寅七月 日
*讃文
此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病
得聞是経 病即消滅 不老不死
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大日天王 大月天王 天照太神 八幡大菩薩 天台大師 伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
33.0×23.9㎝ 1紙
*備考
・曼荼羅(49)以降、花押の変貌が見られる。
・現存真蹟遺文では、弘安元年6月25日の「日女品々供養」より、花押の変化が窺える。
・曼荼羅(49)以降、天照太神・八幡大菩薩の二神の位置が、首題の「経」字の両側又は下方に配列され、この処を定位置として座の変動がない。
*所蔵
静岡県富士市岩本 実相寺
⇒曼荼羅 (28) (29) (38) (39) (40) (47)と同じく、由来明示の図顕讃文なし、形態の簡略化、讃文の意からすると「守護曼荼羅・守り本尊」と区分することも可能か。
8月11日
書を北条弥源太に報ず
「弥源太入道殿御消息」
(定2-303・P1548、創新248・P1702、校2-321・P1587、全P1229、新P1255)
身延・弥源太入道
創価学会新版・北条弥源太
日朝本 宝9 満上132 真蹟なし
録外9-29 遺25-21 縮1763
*全集「弥源太入道殿御消息(建長寺道隆事)」
8月14日
曼荼羅を図顕する
*「日亨本尊鑑」(P44) 第22 弘安元年八月十四日御本尊 底本(第30)
*模写
*顕示年月日
弘安元年太才戊寅八月十四日
*授与
優婆塞妙一授与之
*相貌
大半以上が略されている
*記録
堀之内妙法寺蔵 宗祖本尊録 所謂本尊鏡広本末尾に「正中山法華経寺御霊宝目録」に「五十七才延山筆 妙一授与之曼荼羅 三枚継 弘安元年太才戊寅八月十四日 優婆塞妙一授与之 一幅」
*讃文
仏(滅後二千二百)三十(余年之間一閻浮提之内)未曽有之(大曼荼羅也)
*寸法
不詳 3枚継ぎ
*所蔵
千葉県市川市中山 法華経寺曽存
8月
曼荼羅(53)を図顕する
*顕示年月日
弘安元年太才戊寅八月 日
*授与
日頂上人授与之
*讃文
仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮提之 内未曾有大 漫荼羅也
有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分
謗者開罪於無間 讃者積福於安明
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無大迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天親菩薩 南無天台智者大師 南無章安大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 阿闍世大王
*日興添書
因幡国富城五郎入道息伊与阿闍梨日頂 舎弟 寂仙房付嘱之
*寸法
94.5×52.4㎝ 3枚継ぎ
*備考
・曼荼羅(53)と次の曼荼羅(54)は、特例として首題の「経」字が第四期の書体を示す。
・「天台智者大師」との特称があり、先師に「章安大師」を加えている。
・曼荼羅(53)より、再び阿闍世大王が列座する。
・寂照日乾「身延山久遠寺御霊宝記録」大曼荼羅の部の記述
一、文永十一年甲戌十一月 日
此廿八字非聖筆
但可為大本門寺重宝也
因幡国富城五郎入道日常息寂仙房申与之
この曼荼羅は明治八年の火災に焼亡するも、遠沾日亨の臨写本が現存しており、「御本尊鑑」(P12)に収載されている。
日乾の云う「聖筆に非ざる廿八字」は、他の類例からして日興の添書と推せられるが、であれば、日興は寂仙房日澄に対し、「文永十一年十一月日の曼荼羅」「弘安元年八月の曼荼羅(53)」の二幅を授与していることになる。
・師・日蓮に「一人の弟子に二幅の曼荼羅授与」の先例があり、日興もこれを模したものか。
日昭に対しては「建治二年卯月の曼荼羅(37)」「弘安三年十一月の曼荼羅(101)」を授与している。
日向に対しても「建治二年卯月の曼荼羅(35)」「弘安二年四月の曼荼羅(61)」を授与している。
*所蔵
静岡県静岡市清水区村松 海長寺
⇒「天台智者大師」と特称するのは曼荼羅(53)と次の曼荼羅(54)の二幅となる。
先師に「章安大師」を加えるのは、建治元年12月の「日亨本尊鑑(P28)第14・中山十一枚継御本尊」と次の曼荼羅(54)の計三幅となる。
8月
曼荼羅(54)を図顕する
*顕示年月日
弘安元年太才戊寅八月 日
*授与
削損
*讃文
仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮提之 内未曾有大 漫荼羅也
有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分
謗者開罪於無間 讃者積福於安明
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者等 南無迦葉尊者等 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天親菩薩 南無天台智者大師 南無章安大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 阿闍世大王
*寸法
95.5×53.0㎝ 3枚継ぎ
*備考
・右下隅の授与書を削損した形跡あり。
・「集成」11
*所蔵
京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町 本能寺
9月6日
書を妙法尼に報ず
「妙法比丘尼御返事(みょうほうびくにごへんじ)」
(定2-305・P1551、創新409・P2104、校2-322・P1589、全P1406、新P1256)
身延・妙法尼
日朝本 平17 真蹟なし
録内13-29 遺25-25 縮1768
*録内「妙法比丘尼御消息」
全集「妙法比丘尼御返事(亡夫追悼御書)」
⇒妙法比丘尼の詳細は不明。駿河国岡宮に住んでいたとも。
*仏御入滅ありては既に二千二百二十七年なり
而(しか)るに日蓮は南閻浮提日本国と申す国の者なり。此の国は仏の世に出でさせ給ひし国よりは東に当たりて二十万余里の外、遥かなる海中の小島なり。而るに仏御入滅ありては既に二千二百二十七年なり。月氏漢土の人の此の国の人々を見候へば、此の国の人の伊豆の大島・奥州の東のえぞ(蝦夷)なんどを見るやうにこそ候らめ。
*釈迦仏は主なり、師なり、親なり
さる程に此の国存じの外に釈迦仏・法華経の御敵人(おんかたき)となりぬ。
其の故は「今此の三界は皆是(これ)我が有なり。其の中の衆生は悉(ことごと)く是(これ)吾が子なり。而も今此の処は諸(もろもろ)の患難(げんなん)多し。唯我一人のみ能く救護(くご)を為す」と説いて、此の日本国の一切衆生のためには釈迦仏は主なり、師なり、親なり。
天神七代・地神五代・人王九十代の神と王とすら猶釈迦仏の所従なり。何(いか)に況んや其の神と王との眷属等をや。
今日本国の大地・山河・大海・草木等は皆釈尊の御財(みたから)ぞかし。全く一分も薬師仏・阿弥陀仏等の他仏の物にはあらず。
又日本国の天神・地神・九十余代の国主並びに万民牛馬、生きとし生ける生(しょう)ある者は皆教主釈尊の一子なり。
又日本国の天神・地神・諸王・万民等の天地・水火・父母・主君・男女・妻子・黒白等を弁(わきま)へ給ふは皆教主釈尊御教の師なり。全く薬師・阿弥陀等の御教にはあらず。
されば此の仏は我等がためには大地よりも厚く、虚空よりも広く、天よりも高き御恩まします仏ぞかし。かゝる仏なれば王臣万民倶(とも)に人ごとに父母よりも重んじ、神よりもあが(崇)め奉るべし。かくだにも候はゞ何なる大科有りとも天も守護してよもすて給はじ、地もいかり給ふべからず。
*身延山
今又此の山に五箇年あり。
北は身延山と申して天にはしだて(橋立)、南はたかとり(鷹取)と申して鶏足(けいそく)山の如し。西はなゝいたがれ(七面山)と申して鉄門に似たり。東は天子がたけ(岳)と申して富士の御山にたい(対)したり、四つの山は屏風(びょうぶ)の如し。
北に大河あり、早河と名づく、早き事箭(や)をい(射)るが如し。南に河あり、波木井河と名づく、大石を木の葉の如く流す。東には富士河、北より南へ流れたり、せん(千)のほこ(鉾)をつくが如し。
内に滝あり、身延の滝と申す、白布(はくふ)を天(そら)より引くが如し。
此の内に狭小(いささか)の地あり、日蓮が庵室なり。深山なれば昼も日を見奉らず、夜も月を詠(なが)むる事なし。
峰にははかう(巴峡)の猿かまびすしく、谷には波の下(くだ)る音鼓(つづみ)を打つがごとし。地にはし(敷)かざれども大石多く、山には瓦礫(がりゃく)より外には物なし。
国主はにくみ給ふ。万民はとぶらはず。冬は雪道を塞ぎ、夏は草を(生)ひしげり、鹿の遠音(とおね)うらめしく、蝉の鳴く声かまびすし。訪ふ人なければ命もつぎがたし。
9月9日
書を池上宗長に報ず
「兵衛志殿御書(親父入信の事)」
(定2、4-260・P1387、P3044、創新178・P1492、校2-323・P1609、全P1095、新P1270)
身延・兵衛志(兵衛志宗長=池上兄弟の弟)
創価学会新版・池上宗長
真蹟断簡 54字5行・東京都大田区池上 池上本門寺蔵
16字2行・北海道札幌市豊平区月寒東一条 光徳寺蔵
日興本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
宝11 満上24
録外9-38 遺23-45 縮1637
※坂井法曄氏の論考「日興写本をめぐる諸問題について」(興風21号P236)
「大石寺所蔵『法華取要抄』について従来は日興写本とされていたが、その筆跡から日澄写本と推定される。『兵衛志殿御書』の日興写本についても、大石寺蔵『法華取要抄』と同筆であり日澄写本と考えられる。」
*昭和定本「兵衛志殿御書」
創価学会新版「兵衛志殿御書(親父入信の事)」
全集「兵衛志殿御書(親父入信御書)」
< 系年 >
昭和定本「建治3年9月9日」
創価学会新版・平成校定「弘安元年9月9日」
*兄弟の御力にて・・・父は法華経受持
良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすか(賺)し、わどのばら(和殿原)二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、二つのわ(輪)の車をたすけ二つの足の人をにな(担)へるが如く、二つの羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給ひぬる御計らひ、偏に貴辺の御身にあり。
*大聖人
又真実の経の御ことはり(理)を、代末になりて仏法あながちにみだれば大聖人世に出づべしと見へて候。喩へば松のしも(霜)の後(のち)に木の王と見へ、菊は草の後に仙草と見へて候。代のおさまれるには賢人見えず。代の乱れたるにこそ聖人・愚人は顕はれ候へ。あはれ平左衛門殿・さがみ殿の日蓮をだに用ひられて候ひしかば、すぎにし蒙古国の朝使(つかい)のくび(頸)はよも切らせまいらせ候はじ。く(悔)やしくおはすならん。
*日蓮・教主釈尊の御使ひ
今度は又此の調伏三度なり。今我が弟子等死したらん人々は仏眼をもて是を見給ふらん。命つれなくて生きたらん眼(まなこ)に見よ。国主等は他国に責めわたされ、調伏の人々は或は狂死、或は他国或は山林にかく(隠)るべし。教主釈尊の御使ひを二度までこうぢ(街路)をわたし、弟子等をろう(牢)に入れ、或は殺し或は害し、或は所国をお(逐)ひし故に、其の科(とが)必ず国々万民の身に一々にかゝ(罹)るべし。或は又白癩(びゃくらい)・黒癩(こくらい)・諸悪重病の人々おほ(多)かるべし。我が弟子等此の由を存ぜさせ給へ。恐々謹言。
*此の文は別しては兵衛志殿へ、総じては我が一門の人々御覧有るべし。他人に聞かせ給ふな。
9月19日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事(塩一駄供養の事)」
(定2-306・P1571、創新320・P1881、校2-324・P1612、全P1551、新P1271)
身延・南条時光
延徳年間(1489年~1492年)古写本・京都府京都市上京区寺之内通大宮東入ル妙蓮寺前町 妙蓮寺蔵
日朝本
録内32-23 遺25-49 縮1793
*昭和定本「上野殿御返事」
創価学会新版「上野殿御返事(塩一駄供養の事)」
平成校定「上野殿御返事(塩一駄書)」
全集「上野殿御返事(塩一駄御書)」
*身延山は、夏は大雨で洪水、交通遮断、食材等が不足に
今年は正月より日々に雨ふり、ことに七月より大雨ひま(暇)なし。
このところは山中なる上、南は波木井河、北は早河、東は富士河、西は深山なれば、長雨・大雨、時々日々につゞく間、山さ(裂)けて谷をうづ(埋)み、石ながれて道をふせ(防)ぐ。河たけ(猛)くして舟わたらず。富人なくして五穀とも(乏)し。商人なくして人あつ(集)まる事なし。
七月なんどはしほ(塩)一升をぜに(銭)百、しほ五合を麦一斗にか(換)へ候ひしが、今はぜんたい(全体)しほ(塩)なし。何を以てかか(換)うべき。みそ(味噌)もた(絶)えぬ。小児のち(乳)をしの(慕)ぶがごとし。
*法華経と釈迦仏とにゆづりまいらせ
かゝるところにこのしほを一駄給びて候。御志、大地よりもあつく虚空よりもひろし。予が言は力及ぶべからず。たゞ法華経と釈迦仏とにゆづ(譲)りまいらせ候。事多しと申せども紙上にはつ(尽)くしがたし。
9月27日
日興 「始聞仏乗義」を書写(日興上人全集P149)
9月
書を浄顕房に与う
「本尊問答抄」
(定2-307・P1573、創新14・P302、校2-327・P1615、全P365、新P1274)
身延・浄顕房
日興本「法華本尊問答抄」(後半三分の一欠損)・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
日源本完「法華本門本尊問答抄」・静岡県富士市岩本 実相寺蔵
伝日興本・茨城県古河市新和田 富久成寺蔵
日常目録「本尊問答抄」
日朝本
録内9-16 遺25-50 縮1794
*「法華仏教研究」2号 三浦和浩氏の論考「『本尊問答抄』に関する一考察 日蓮遺文全体における位置づけとその意義」
*「法華仏教研究」5号 村田征昭氏の論考「『本尊問答抄』をめぐって」
*「法華仏教研究」12号 宮田幸一氏の論考「『本尊問答抄』について(上)」、13号(中)、14号(下)
9月24日
書を大田乗明の妻に報ず
「大田殿女房御返事(おおたどののにょうぼうごへんじ)」
(定2-308・P1587、創新156・P1376、校2-325・P1613、全P1018、新P1272)
身延・大田入道女房
創価学会新版・大田乗明の妻
日朝本 平16 真蹟なし
録内34-1 遺26-1 縮1809
*昭和定本「大田殿女房御返事」
創価学会新版「大田殿女房御返事(金色王[こんじきおう]の事)
*此の供養によりて現生には福人となり
八木一石(こめいっこく)付けたり十合。
者(ていれば)大旱魃の代(よ)に、かは(渇)ける物に水をほどこ(施)しては、大竜王と生まれて雨をふらして人天をやしな(養)ふ。飢えたる代に、食をほどこせる人は国王と生まれて其の国ゆた(豊)かなり。過去の世に金色(こんじき)王と申す大王ましましき。其の国をば波羅奈(はらない)国と申す。十二年が間、旱魃ゆきて人民う(飢)え死ぬる事おびたゞ(夥)し。宅中には死人充満し、道路には骸骨充満せり。其の時、大王一切衆生をあは(哀)れみて、多くの蔵を開きて財を施し給ひて、蔵の中の財つ(尽)きて唯一日の供御(くご)のみのこ(残)りて候ひしに、衆僧をあつめて供養をなし、王と后と僧と万民と皆う(飢)え死なんとせし程に、天より飲食(おんじき)雨のごとくふりて大国一時に富貴せりと金色王経にとかれて候。此も又かくのごとし。此の供養によりて現生には福人となり、後生には霊山浄土へまいらせ給ふべし。
9月
書を著す
「十月分時料(ときりょう)御書」
(定2-309・P1588、校2-328・P1629)
身延
真蹟1紙(第1紙7行)・京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町 立本寺蔵
*昭和定本「弘安元年9月(鈴)」
*時料(ときりょう)・四季折々の用に使うように供する金銭や品物。
*本文
十月分時料三貫、大口一、三貫五十云云。
摩訶摩耶経に云く 六百年馬鳴出づ、七百年龍樹出づ。付法蔵経に云く 第十一馬鳴・第十三龍樹等云云。
10月21日
書を波木井一族に報ず
「初穂御書(はつおごしょ)」
(定2-311・P1592、創新290・P1819、校2-415・P1914、全P1599、新P1502)
身延・波木井実長か
創価学会新版・波木井(はきい)一族
真蹟末尾1紙14行断・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
縮続143
< 系年 >
昭和定本「弘安元年10月21日(鈴)」
創価学会新版「弘安期」
平成校定「弘安3年10月21日」
*本文
石(こく)給(た)びて御はつを(初穂)たるよし。法華経の御宝前へ申し上げて候。かしこまり申すよし、げざん(見参)に入らさせ給ひ候へ。恐々
10月
書を四条金吾に報ず
「四条金吾殿御返事(所領加増の事)」
(定2-312・P1592、創新214・P1604、校2-330・P1633、全P1183、新P1286)
身延・四条金吾
日朝本 平22 真蹟なし
録内17-51 遺26-2 縮1810
*録内「所領給由並文永八年九月十二日御供申事」
昭和定本「四条金吾殿御返事(所領書)」
創価学会新版「四条金吾殿御返事(所領加増の事)」
< 系年 >
・昭和定本・創価学会新版「弘安元年10月」
・弘安元年4・5月頃
山上弘道氏の論考「四條金吾領地回復を伝える諸遺文の系年再考」(興風23号P615)
*仏になり給へ
兄弟にもすてられ、同れい(僚)にもあだ(仇)まれ、きうだち(公達)にもそば(窄)められ、日本国の人にもにく(憎)まれ給ひつれども、去ぬる文永八年の九月十二日の子丑(ねうし)の時、日蓮が御勘気をかほ(被)りし時、馬の口にとりつきて鎌倉を出でて、さがみ(相模)のえち(依智)に御とも(供)ありしが、一閻浮提第一の法華経の御かたうど(方人)にて有りしかば、梵天・帝釈もすてかねさせ給へるか。仏にならせ給はん事もかくのごとし。いかなる大科ありとも、法華経をそむ(背)かせ給はず候ひし御ともの御ほうこう(奉公)にて仏にならせ給ふべし。例せば有徳国王の覚徳比丘の命にか(代)はりて釈迦仏とならせ給ひしがごとし。法華経はいの(祈)りとはなり候ひけるぞ。あなかしこあなかしこ。いよいよ道心堅固にして今度仏になり給へ。
書を著す
「不孝御書」
(定2-313・P1595)
身延 四条氏へ
真蹟1紙断簡(第10紙14行)・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺蔵
< 系年 >
昭和定本「弘安元年」
*本書末尾は弘安2年4月23日「陰徳陽報御書」(定2-331・P1638 真蹟断簡)に接続している。
*「創価学会新版」「対照録」「真蹟集成」「平成校定」は、「不孝御書」(定P1595)と「陰徳陽報御書」を同一御書として合体させる。
(創新217・P1612、校2-353・P1736、全P1178、新P1362)
閏10月12日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事(三災の事)」
(定2-314・P1596、創新321・P1882、校2-331・P1636、全P1552、新P1288)
身延・南条時光
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
宝13 満上120
録外8-10 遺26-5 縮1813
*昭和定本「上野殿御返事」
創価学会新版「上野殿御返事(三災の事)」
平成校定「上野殿御返事(柑子書)」
全集「上野殿御返事(三災御書)」
< 日付 >
昭和定本「弘安元年閏10月13日」
創価学会新版・平成校定「弘安元年閏10月12日」
*疫病、飢饉・一人ものこるべしともみへず候ひき
去今年(こぞことし)は大えき(疫)此の国にをこりて、人の死ぬる事大風に木のたう(倒)れ、大雪に草のお(折)るゝがごとし。一人ものこるべしともみへず候ひき。
しかれども又今年の寒温時(とき)にしたがひて、五穀は田畠にみ(満)ち草木はやさん(野山)にお(生)ひふさがりて尭舜(ぎょうしゅん)の代のごとく、成劫のはじめかとみへて候ひしほどに、八月・九月の大雨大風に日本一同に熟(みの)らず、ゆ(生)きてのこれる万民冬をすごしがたし。去ぬる寛喜・正嘉にもこえ、来たらん三災にもおとらざるか。
自界叛逆して盗賊国に充満し、他界きそいて合戦に心をつひやす。民の心不孝にして父母を見る事他人のごとく、僧尼は邪見にして狗犬(くけん)と猿猴(えんこう)とのあ(会)へるがごとし。
慈悲なければ天も此の国をまぼらず、邪見なれば三宝にもすてられたり。又疫病(やくびょう)もしばらくはや(止)みてみえしかども、鬼神かへり入るかのゆへに、北国も東国も西国も南国も、一同にや(病)みなげ(嘆)くよしきこへ候。
*法華経の行者を養う
かゝるよ(世)にいかなる宿善にか、法華経の行者をやしな(養)わせ給ふ事、ありがたく候ありがたく候。事々見参(げんざん)の時申すべし。
閏10月19日
書を千日尼に報ず
「千日尼御前御返事(雷門鼓御書[らいもんのつづみごしょ])」
(定2-315・P1597、創新266・P1744、校2-332・P1637、全P1315、新P1289)
身延・阿仏房尼
創価学会新版・千日尼
日朝本 平30 真蹟なし
録内19-61 遺26-6 縮1814
*昭和定本「千日尼御前御返事」
創価学会新版・全集「千日尼御前御返事(雷門鼓御書)」
平成校定「千日尼御前御返事(青鳧[せいふ]書)」
*十方の仏・三世の仏
青鳧(せいふ)一貫文・干飯(ほしいい)一斗・種々の物給び候ひ了(おわ)んぬ。
仏に土の餅を供養せし徳勝童子は阿育大王と生まれたり。仏に漿(こんず)をまひらせし老女は辟支仏(びゃくしぶつ)と生まれたり。法華経は十方三世の諸仏の御師なり。
十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳(むうとく)仏・南方栴檀徳(せんだんとく)仏・西南方宝施(ほうせ)仏・西方無量明(むりょうみょう)仏・西北方華徳(けとく)仏・北方相徳(そうとく)仏・東北方三乗行(さんじょうぎょう)仏・上方広衆徳(こうしゅとく)仏・下方明徳(みょうとく)仏なり。
三世の仏と申すは過去荘厳劫(しょうごんこう)の千仏・現在賢劫(けんごう)の千仏・未来星宿劫の千仏、乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列なり給へる一切の諸仏、尽十方世界の微塵(みじん)数の菩薩等も、皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり。故に法華経の結経たる普賢経に云はく「仏三種の身は方等(ほうどう)より生ず」等云云。方等とは月氏の語(ことば)、漢土には大乗と翻(ほん)ず。大乗と申すは法華経の名なり。
*臨終のとき
人は臨終の時、地獄に墮つる者は黒色となる上、其の身重き事千引(ちびき)の石(いわ)の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し。
*釈迦仏のをはします霊山会上に参りあひ候
佐渡の国より此の国までは山海を隔てゝ千里に及び候に、女人の御身として法華経を志しましますによりて、年々に夫を御使ひとして御訪(とぶら)ひあり。定めて法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏、其の御心をし(知)ろしめすらん。譬へば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾(しゅゆ)に影浮かび、雷門の鼓(つづみ)は千万里遠けれども打てば須臾に聞こゆ。御身は佐渡の国にをは(御座)せども心は此の国に来たれり。仏に成る道も此くの如し。我等は穢土(えど)に候へども心は霊山に住むべし。御面(かお)を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ。いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひ(参)りあひ候はん。
閏10月19日
曼荼羅(56)を図顕する
*顕示年月日
弘安元年太才戊寅後十月十九日
*通称
鴛鳶(えんおう)御本尊
*讃文
仏滅度後二千二百 二十余年之間 一閻浮提之内 未曾有大 漫荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 不動明王 愛染明王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
50.3×31.5㎝ 1紙
*所蔵
京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺
閏10月22日
書を四条金吾に報ず
「四条金吾殿御返事(石虎[せっこ]将軍御書) 」
(定2-316・P1600、創新215・P1607、校2-333・P1640、全P1185、新P1291)
身延・四条金吾
満下171 真蹟なし
録外2-2・23-17 遺26-8 縮1817
*録外「四條金吾殿御返事=必仮心固神守則強御書」
昭和定本「四条金吾殿御返事(必仮心固神守則強書)」
創価学会新版・全集「四条金吾殿御返事(石虎将軍御書)」
*日蓮の命が助かったのは・・・釈迦仏の貴辺の身に入り替はらせ給ひて御たすけ候か
而るに日蓮は他人にことなる上、山林の栖(すみか)、就中今年は疫癘(えきれい)飢渇(けかち)に春夏は過越(すご)し、秋冬は又前にも過ぎたり。又身に当たりて所労大事になりて候ひつるを、かたがたの御薬と申し、小袖、彼のしなじな(品々)の御治法にやうや(漸)う験(しるし)候ひて、今所労平癒(へいゆ)し本よりもいさぎよ(潔)くなりて候。
弥勒菩薩の瑜伽(ゆが)論、竜樹菩薩の大論を見候へば、定業の者は薬変じて毒となる。法華経は毒変じて薬となると見えて候。日蓮不肖の身に法華経を弘めんとし候へば、天魔競ひて食をうば(奪)はんとするかと思ひて歎かず候ひつるに、今度の命たすかり候は、偏(ひとえ)に釈迦仏の貴辺の身に入り替はらせ給ひて御たすけ候か。是はさてをきぬ。
*四条金吾に警戒を促す
返す返す今度の道はあまりにおぼつかなく候ひつるなり。敵と申す者はわす(忘)れさせてねら(狙)ふものなり。是より後に若しやの御旅には御馬をおしませ給ふべからず。よき馬にの(乗)らせ給へ。又供の者どもせん(詮)にあひぬべからんもの、又どうまろ(胴丸)もちあげぬべからん御馬にのり給ふべし。
摩訶止観第八に云はく、弘決第八に云はく「必ず心の固きに仮(よ)って神の守り則ち強し」云云。神の護ると申すも人の心つよきによ(依)るとみえて候。法華経はよ(善)きつるぎ(剣)なれども、つかう人によりて物をきり候か。
11月1日
書を九郎太郎(南条殿の縁者)に報ず
「九郎太郎殿御返事(題目仏種の事)」
(定2-317・P1602、創新322・P1884、校2-334・P1643、全P1553、新P1292)
身延・九郎太郎
創価学会新版・九郎太郎(南条殿の縁者)
真蹟 第1紙端書3行本文12行、第2紙17行(第3紙以下欠)・山梨県南巨摩郡身延町身延 身延山久遠寺蔵
日朝本 宝9 満下108・271
録外9-26 続中8 遺26-11 縮1819
*昭和定本「九郎太郎殿御返事」
創価学会新版「九郎太郎殿御返事(題目仏種の事)」
平成校定「九郎太郎殿御返事(報南条九郎太郎書)」
全集「九郎太郎殿御返事(題目仏種御書)」
*仏になる種
仏御入滅ありては二千二百二十余年なり。代すへ(末)になりて智人次第にかくれて、山のくだれるごとく、くさのひき(低)ゝににたり。念仏を申し、かい(戒)をたも(持)ちなんどする人はをゝ(多)けれども、法華経をたの(恃)む人はすくなし。星は多けれども大海をてらさず。草は多けれども大内の柱とはならず。念仏は多けれども仏と成る道にはあらず。戒は持てども浄土へまひ(参)る種とは成らず。但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ。
11月21日
曼荼羅(57)を図顕する
*顕示年月日
弘安元年太才戊寅十一月廿一日
*授与
優婆塞藤太夫日長
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之内 未曾有大 漫荼 羅也
若於一劫中 常懐不善心 作色而罵仏 獲無量重罪
其有読誦持 是法花経者 須臾加悪言 其罪復過彼
有人求仏道 而於一劫中 合掌在我前 以無数偈讃
由是讃仏故 得無量功徳 歎美持経者 其福復過彼
( 法華経・法師品第十 )
有供養者 福過十号
若悩乱者 頭破七分
讃者積福於安明 謗者開罪於無間
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 帝釈天王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大多門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 龍王 鬼子母神 十羅刹女 阿闍世王
*寸法
234.9×124.9㎝ 大小28枚継ぎ
*備考
・伝承
「当御本尊は、古く甲州南津留郡小立村妙法寺に護持せられたもので、同村の渡辺藤太夫に授与したまうところ」と伝う。
・幅尺の大小では、現存真蹟曼荼羅中、当曼荼羅が第一となる。
玉沢の「伝法曼荼羅(101)」が第二、平賀の「二十枚継曼荼羅(18)」が第三となる。
・岡宮光長寺藏、弘安2年7月「沙門日法授与の曼荼羅(65)」の讃文は当曼荼羅と全同である。
*所蔵
静岡県沼津市岡宮 光長寺
⇒大きな持仏堂を擁する在地の有力者が入信。そこが地域の弟子檀越等、大人数が集う法華伝道の道場となり、このような大型の曼荼羅が授与されたものか。このような曼荼羅は日蓮一門の教線拡大を示している。
11月29日
書を池上宗長に報ず
「兵衛志殿御返事(深山厳冬の事)」
(定2-318・P1604、創新179・P1494、校2-335・P1645、全P1098、新P1294)
身延・兵衛志
創価学会新版・池上宗長
< 真蹟6紙断片 >
第3紙12行・滋賀県大津市札の辻 本長寺蔵
第4紙後半6行・京都府京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町 本法寺蔵
第5紙12行・兵庫県伊丹市伊丹 本泉寺蔵
第6紙前半6行・京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町 本禅寺蔵
第8紙14行、第9紙11行・京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町 立本寺蔵
宝12 満下252
録外14-46 遺26-12 縮1822
*昭和定本「兵衛志殿御返事」
創価学会新版「兵衛志殿御返事(深山厳冬の事)」
全集「兵衛志殿御返事(厳冬深山御書)」
*財を三宝に供養し給ふ
銭六貫文の内一貫、次郎よりの分、白厚綿(あつわた)の小袖一領、四季にわたりて財を三宝に供養し給ふ。いづれもいづれも功徳にならざるはなし。
*厳冬の身延山~大雪・食少なく・火もたけず凍りつくような極寒
其の上今年は子細候。ふゆ(冬)と申すふゆ、いづれのふゆかさむ(寒)からざる。なつ(夏)と申すなつ、又いづれのなつかあつ(暑)からざる。
たゞし今年は余国はいかんが候らめ、このはきゐ(波木井)は法にすぎてかん(寒)じ候。ふる(古)きをきな(翁)どもにと(問)ひ候へば、八十・九十・一百になる者の物語り候は、すべていにしへ(古)これほどさむ(寒)き事候はず。
此のあんじち(庵室)より四方の外十丁・二十丁は人かよう事候はねばしり候はず。きんぺん(近辺)一丁二丁のほどは、ゆき一丈・二丈・五尺等なり。このうるう(閏)十月卅日ゆき(雪)すこしふりて候ひしが、やがてき(消)へ候ひぬ。
この月の十一日たつ(辰)の時より十四日まで大雪下(ふ)りて候ひしに、両三日へだてゝすこし雨ふりて、ゆきかた(堅)くなる事金剛のごとし。いまにき(消)ゆる事なし。ひるもよるもさむ(寒)くつめ(冷)たく候事、法にすぎて候。さけ(酒)はこを(凍)りて石のごとし。あぶら(油)は金ににたり。
なべ(鍋)・かま(釜)に小水あればこを(凍)りてわ(割)れ、かん(寒)いよいよかさなり候へば、きもの(着物)うす(薄)く食とも(乏)しくして、さしいづ(出)るものもなし。
坊ははんさく(半作)にて、かぜゆき(風雪)たまらず、しきもの(敷物)はなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。ふるきあか(垢)づきなんどして候こそで一つなんどきたるものは、其の身のいろ紅蓮・大紅蓮のごとし。
こへ(声)ははゝ(破々)大ばゞ(婆々)地獄にことならず。手足かん(寒)じてき(切)れさ(裂)け人死ぬことかぎりなし。俗のひげをみればやうらく(瓔珞)をかけたり、僧のはなをみればすゞ(鈴)をつらぬきかけて候。
かゝるふしぎ候はず候に、去年の十二月の卅日よりはらのけ(下痢)の候ひしが、春夏や(止)むことなし。あき(秋)すぎて十月のころ大事になりて候ひしが、すこしく平癒(へいゆ)つかまつりて候へども、やゝもすればを(起)こり候に、兄弟二人のふたつの小袖わた(綿)四十両をきて候が、なつ(夏)のかたびら(帷子)のやうにかろ(軽)く候ぞ。
ましてわたうすく、たゞぬのもの(布物)ばかりのものをも(思)ひやらせ給へ。此の二つのこそで(小袖)なくば今年はこゞ(凍)へじ(死)に候ひなん。
⇒この年は又格別な寒さの身延山。そのような時、池上兄弟の供養された衣服に包まれて、これが無ければ「今年はこごへしに候なん」とまで言われる。
6月の四条金吾への書状では、やや体調が上向いたことを記されたものの、10月には「はらのけ」下り腹が厳しくなり、11月に小康状態となったことが窺われる。
*狭い草庵に「給仕の弟子の親類」といっては多くの人が押し掛けてきて煩わしい
人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかにせ(塞)き候へども、これにある人々のあに(兄)とて出来し、舎弟(しゃてい)とてさしいで、しきゐ(敷居)候ひぬれば、かゝはやさにいか(如何)にとも申しへず。心にはしづ(静)かにあじち(庵室)むすびて、小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じ候に、かゝるわづらわ(煩)しき事候はず。又とし(年)あけ候わばいづくへもに(逃)げんと存じ候ぞ。かゝるわづらわしき事候はず。又々申すべく候。
11月
松野六郎左衛門入道 寂(上野尼御前御返事・全P1580)
書を著す
「食物三徳御書」
(定2-319・P1607、創新436・P2156、校2-339・P1686、全P1598、新P1321)
身延
< 真蹟4紙断簡 >
第1紙4行・京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下ル二丁目下河原町 住本寺蔵
第2紙11行、第3紙10行、第4紙5行・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
縮続122
< 系年 >
昭和定本「弘安元年(表)」
創価学会新版・系年なし
*定4断簡283・P2966
「系年・弘安、4行、大石寺蔵、正編319『食物三徳御書』(定P1607)の上に連文」
*釈迦如来の気
一切経と申すは紙の上に文字をのせたり。譬へば虚空に星月のつらなり、大地に草木の生ぜるがごとし。この文字は釈迦如来の気にも候なり。気と申すは生気なり。この生気に二あり。一には九界
書を著す
「大学殿の事」
(定2-322・P1619、創新442・P2160、校2-342・P1690、新P1324)
身延・大学氏へ
真蹟1紙断簡(第19紙15行)・石川県羽咋市竜谷町ヨ 妙成寺蔵
*昭和定本「大学三郎御書」
創価学会新版「大学殿の事」
平成校定「大学殿事(大学三郎御書)」
*この御書は「大尼御前御返事」の一分と思われる。断簡197(昭和定本P2539)と共に一本化が必要。(「日蓮自伝考」P215 )
⇒「大学殿の事」はそれ自体で味わいのある書簡であり、一本化の必要はないと思う。
*いのりなんどの仰せ
いのりなんどの仰せかうほ(蒙)るべしとをぼへ候はざりつるに、をほ(仰)せた(給)びて候事のかたじけなさ。かつはし(師)なり、かつは弟子なり、かつはだんな(檀那)なり。御ためにはくび(頸)もき(切)られ、遠流にもなり候へ。かわる事ならばいかでかかわらざるべき。されども此の事は叶ふまじきにて候ぞ。大がく(学)と申す人は、ふつうの人にはに(似)ず、日蓮が御かんき(勘気)の時身をすてかたうど(方人)して候ひし人なり。此の仰せは城(じょう)殿の御計らひなり。城殿と大がく殿は知音(ちいん)にてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御てか(手書)き、城介(じょうのすけ)殿は御て(手)をこの(好)まるゝ人なり。
12月1日
書を出雲尼に報ず
「出雲尼御前御書(いずもあまごぜんごしょ)」
(定4-440・P3021、創新112・P1268)
身延・出雲尼
真蹟1紙断簡(第5紙9行)・神奈川県川崎市麻生区高石 匡真寺蔵
*本文
をば逆縁とおぼしめすべし。道の間いかんが候けん、をぼつかなし、をぼつかなし。いそぎ御返事うけ給ふべし。心の内をはれ候ばや。恐々謹言。
12月23日
北条時宗 宋に書を送り碩徳の僧を招来
図録を著す
「秀句十勝抄」
(定3図録23・P2359、校2-343・P1691、新P1324)
身延
真蹟63紙3巻完(但し第3紙欠)・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
日朝本 平9
録内24-1 遺11-42 縮704
*平成校定「秀句十勝抄(十勝抄)(称玄抄)」
*昭和定本「弘安元年(表)或は文永8年(縮)」
曼荼羅(52)を図顕する
*顕示年月日
削損シアリ
*授与
比丘日賢授与之
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之内未曾 有大漫荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 阿闍世王
*寸法
126.1×66.1㎝ 3枚継ぎ
*備考
・授与書上の年月日を削損した形跡あり。
・「集成」10
*所蔵
佐賀県小城市(おぎし)三日月町織島 勝妙寺
⇒筆跡では「弘安元年七月頃」の図顕か
*小城市 日蓮曼荼羅本尊
曼荼羅(55)を図顕する
*顕示年月日
不明
*讃文
仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之内 未曾有大 漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗等 南無迦葉等 不動明王 愛染明王 大梵天王 大釈提桓因王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*日興添書
可為本門寺 重宝也
因幡国富城寂仙房日澄母尼 弘[安]三年九月申与之
*寸法
58.2×40.6㎝ 2枚継ぎ
*(富要 8-222 )
(興師添書)因幡の国富城寂仙房日澄の母尼に弘安三年九月之を与へ申す、本門寺の重宝た
るべきなり
*所蔵
京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺
⇒筆跡では「弘安元年九月頃」の図顕か
曼荼羅(58)を図顕する
*顕示年月日
不明
*讃文
仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮提之内 未曾有大漫荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 帝釈天王 大持国天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
83.6×40.3㎝ 絹本
*所蔵
京都府京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町 要法寺蔵
⇒筆跡では「弘安元年」の図顕か
この年
前年に引き続き疫病流行(上野殿御返事・全P1552)
京都・建仁寺 焼失(一代要記)
日興(あるいは日澄) 「法華本門取要抄」を書写(日興上人全集P147)
実相寺日源 日蓮に帰依すと伝う(日興門流上代事典P372)
四条金吾 江馬入道より勘気を解かる(四条金吾御書・全P1175)
治部房日位(承賢か) 日持・日興を介して日蓮の室に入ると伝う(富士日興上人詳伝P68、全P849)
熱原農民信徒 入信(富要9-258)
【 系年、建治4年・弘安元年と推定される書 】
書を松野殿女房に報ず
「松野殿女房御返事(まつのどののにょうぼうごへんじ)(澄心仏住[ちょうしんぶつじゅう]の事)」
(定2-378・P1792、創新382・P2006、校2-408・P1904、全P1395、新P1495)
身延・松野殿女房
宝8 真蹟なし
録外13-7 遺29-1 縮1979
*昭和定本「松野殿女房御返事」
創価学会新版「松野殿女房御返事(澄心仏住の事)」
全集「松野殿女房御返事(仏身懐胎抄)」
*昭和定本「弘安3年9月1日」
創価学会新版「建治・弘安期」
*釈迦仏の月宿らせ給ふ
白米一斗・芋一駄・梨子(なし)一籠・茗荷(みょうが)・はじかみ・枝大豆・ゑびね(山葵)、旁(かたがた)の物給び候ひぬ。濁れる水には月住まず。枯れたる木には鳥なし。心なき女人の身には仏住み給はず。法華経を持つ女人は澄める水の如し。釈迦仏の月宿らせ給ふ。
*心を宿として釈迦仏懐まれ給ふ
譬へば女人の懐(はら)み始めたるには、吾が身には覚(おぼ)えねども、月漸(ようや)く重なり、日も屢(しばしば)過ぐれば、初めにはさかと疑ひ、後には一定と思ふ。心ある女人はをのこ(男子)ゞをんな(女子)をも知るなり。
法華経の法門も亦(また)かくの如し。南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐(はら)まれ給ふ。始めはし(知)らねども、漸く月重なれば心の仏夢に見え、悦ばしき心漸く出来し候べし。
*前生の功力、釈迦仏の護り給ふ
法華経は、初めは信ずる様なれども後遂ぐる事かたし。譬へば水の風にうごき、花の色の露に移るが如し。何として今までは持(たも)たせ給ふぞ。是偏に前生の功力の上、釈迦仏の護り給ふか。たのもしゝ、たのもしゝ。委(くわ)しくは甲斐殿申すべし。
書を松野殿夫妻に報ず
「浄蔵浄眼御消息(じょうぞうじょうげんごしょうそく)」
(定2-373・P1768、創新383・P2007、校2-404・P1887、全P1396、新P1480)
身延・松野殿、女房
創価学会新版・松野殿夫妻
宝6 真蹟なし
録外13-4 遺28-34 縮1962
*録外「浄蔵浄眼御書」
平成校定「浄蔵浄眼御消息(黄米御書)(松野氏書)」
*昭和定本「弘安3年7月7日」
創価学会新版「建治・弘安期」
*釈迦仏等の仏が法華経の文字を敬う様は
楽徳(らくとく)と名付けゝる長者に身を入れて我が身も妻も子も、夜も昼も責め遣(つか)はれける者が、余りに責められ堪へがたさに、隠れて他国に行きて其の国の大王に宮仕(みやづか)へける程に、きりもの(権者)に成りて関白と成りぬ。後に其の国を力として我が本の主の国を打ち取りぬ。其の時、本の主、此の関白を見て大いに怖れ、前(さき)に悪しく当たりぬるを悔ひかへして宮仕へ、様々の財(たから)を引きける。前に負けぬる物の事は思ひもよらず、今は只命のいきん事をはげむ。
法華経も又斯くの如く、法華経は東方の薬師仏の主、南方西方北方上下の一切の仏の主なり。釈迦仏等の仏の法華経の文字を敬ひ給ふことは、民の王を恐れ、星の月を敬ふが如し。
*釈迦仏の入り替はらせ給へるか
然るに何なる事にやをはすらん、皆人の憎み候日蓮を不便(ふびん)とおぼして、かく遥々(はるばる)と山中へ種々の物送りたび候事、一度二度ならず。たゞごとにあらず、偏へに釈迦仏の入り替はらせ給へるか。又をくれさせ給ひける御君達(きんだち)の御仏にならせ給ひて、父母を導かんために御心に入り替はらせ給へるか。
*月の中には
又若しやの事候はゞ、くらき闇に月の出づるが如く、妙法蓮華経の五字、月と露はれさせ給ふべし。其の月の中には釈迦仏・十方の諸仏、乃至前に立たせ給ひし御子息の露(あら)はれさせ給ふべしと思し召せ。委(くわ)しくは又々申すべし。
書を著す
「衆生身心御書(しゅじょうしんしんごしょ)」
(定2-321・P1610、創新393・P2040、校2-298・P1518、全P1590、新P1212)
身延
真蹟27紙(末尾欠)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
縮続133
*昭和定本「随自意御書」
創価学会新版「衆生身心御書」
平成校定・全集「衆生身心御書(随自意御書)」
*創価学会新版「建治期」
平成校定「弘安元年・春」
*山中の法華経へ
設ひこう(功)をいたせども、まことならぬ事を供養すれば、大悪とはなれども善とならず。設ひ心をろ(愚)かにすこ(少)しきの物なれども、まことの人に供養すればこう(功)大なり。何に況んや心ざしありてまことの法を供養せん人々をや。其の上当世は世みだれて民の力よわ(弱)し。いとまなき時なれども心ざしのゆくところ、山中の法華経へまうそう(孟宗)がたかん(笋)なををく(送)らせ給ふ。福田によきたね(種)を下させ給ふか。なみだ(涙)もとゞまらず。
書を著す
「閻浮提中御書(えんぶだいちゅうごしょ)」
(定2-320・P1608、創新394・P2047、校2-340・P1687、全P1589、新P1322)
身延
真蹟7紙断片(第11紙~17紙)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
縮続127
*昭和定本「師子王御書」
創価学会新版・全集「閻浮提中御書」
平成校定「閻浮提中御書(師子王御書)」
*昭和定本は末尾の「度々あだをなし」(P1610)の次「美食を・・・」から「第17紙14行」分を「事理供養御書・定2-230」末尾(定P1263)に接続する。
定P1608「但し堀日亨の説により、末尾の一説『美食』以下を事理供養御書の『命なり』以下に移す」
創価学会新版・平成校定は行わず。
*昭和定本・創価学会新版「弘安元年」
*此皆法華経の御力なり。
日蓮は凡夫なり。天眼なければ一紙をもみとを(見透)すことなし。宿命(しゅくみょう)なければ三世を知ることなし。而れども此の経文のごとく日蓮は肉眼なれども天眼・宿命□□□□日本国七百余歳の仏眼の流布せしやう、八宗十宗の邪正、漢土・月氏の論師・人師の勝劣、八万十二の仏経の旨趣をあらあら(粗々)すいち(推知)し□、我が朝の亡国となるべき事、先に此をかんがへて宛(あたか)も符契のごとし。此(これ)皆法華経の御力なり。而るを国主は讒臣(ざんしん)等が凶言ををさ(収)めてあだをなせしかば、凡夫なれば道理なりとをもいて退する心なかりしかども、度々あだをな□。
*教主釈尊の御すゝめ、過去宿習の御催し
美食ををさ(収)めぬ人なれば力をよ(及)ばず山林にまじ(交)わり候ひぬ。されども凡夫なればかん(寒)も忍びがたく、熱をもふせぎがたし。食とも(乏)し。麦□目が万里の一飡(そん)忍びがたく、思子孔が十旬の九飯堪(た)ゆべきにあらず。読経の音(こえ)も絶えぬべし。観心の心をろ(疎)そかなり。しかるにたまたまの御とぶら(訪)いたゞ事にはあらず。教主釈尊の御すゝめか、将又(はたまた)過去宿習の御催(おんもよお)しか、方々(かたがた)紙上尽し難し。
書を著す
「白米一俵御書(はくまいいっぴょうごしょ)」
(定2-230・P1261、創新397・P2052、校2-430・P1988、全P1596、新P1544)
身延
真蹟10紙・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
縮続125
*昭和定本「事理供養御書」
創価学会新版「白米一俵御書」
平成校定「白米一俵御書(事理供養御書) 真蹟9紙」
全集「白米一俵御書」
< 系年 >
昭和定本「建治2年」
創価学会新版「弘安期」
平成校定「弘安3年」
*「法華仏教研究」27号 川﨑弘志氏の論考「『事理供養御書』の考察」
*命を仏にまいらせて仏に
一切のかみ(神)仏をうやま(敬)いたてまつる始めの句には、南無と申す文字をを(置)き候なり。南無と申すはいかなる事ぞと申すに、南無と申すは天竺のことばにて候。漢土・日本には帰命と申す。帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。我が身には分に随ひて妻子・眷属・所領・金銀等もてる人々もあり、また財なき人々もあり。財あるも財なきも命と申す財にすぎて候財は候はず。さればいにしへ(古)の聖人賢人と申すは、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。
*凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候
たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細(いさい)にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに(何)事ぞとたづ(尋)ね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。
これは薬王のひぢ(肘)をや(焼)き、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをと(劣)らぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供やう(養)、凡夫のためには理くやう(供養)、止観の第七の観心の檀はら(波羅)蜜と申す法門なり。まことのみち(道)は世間の事法にて候。
図録を著す
「五行御書」
(定4図録新加35・P2918、創新94・P982、校3図録21・P2445、全P693、新P802)
真蹟4紙・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
*昭和定本「五行事」
創価学会新版「五行御書」
*昭和定本「建治・弘安の交」
平成校定「文永」
書を著す
「根露枝枯御書(こんろしこごしょ)」
(定3続編54・P2219、創新435・P2155、校2-341・P1689、全P1299、新P1323)
延山録外2 真蹟なし
縮続99
*昭和定本「弘安元年(表)」
*大法流布の時
念仏宗・禅宗と真言とは其の根本謬誤(みょうご)を本とし、誑惑を源とせり。其の根源顕はれなば、設(たと)ひ日蓮はいや(卑)しくとも、天のはからひ大法流布の時来たるならば、彼の悪法やぶれて此の真実の法立つ事疑ひなかるべし。
図録を著す
「五眼六識等事」
(定4図録新加36・P2921、校3図録20・P2442、新P799)
真蹟2紙・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
*平成校定「六識事」
< 系年 >
昭和定本「弘安初」
平成校定「文永」