1277年・建治3年 丁丑(ひのとうし) 56歳
後宇多天皇
北条時宗
1月3日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事」
(定4-444・P3046、校2-254・P1332)
身延・南条時光
真蹟1紙8行・山梨県南巨摩郡身延町身延 身延山久遠寺蔵
花押磨滅
文中の「建治三年」は他筆
*給ふ事父母の子ををもうがごとし。まことに法華経の御志み(見)へて候。くは(委)しくは釈迦仏に申し上げ候い了(おわん)ぬ。恐々謹言。
1月23日
書を西山入道に報ず
「法華経二十重勝諸教義」
(定2-237・P1287、校2-282・P1462、新P1190)
身延・西山
日朝本 宝5 満下217 真蹟なし
録外22-24 遺24-1 縮1606
*平成校定「法華経二十重勝諸教義(法華一経二十重大事)」「建治3年」
1月
道宝 東寺長者に補任される(東寺補任・続史愚抄)
道宝 大神宮に敵国降伏を祈る(同)
2月13日
書を著す
「現世無間御書(げんぜむけんごしょ)」
(定2-239・P1292、創新432・P2152、校2-288・P1475、全P1302、新P1199)
身延
真蹟2紙断簡(第16紙14行、第17紙10行)・京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町 本能寺蔵
縮続158
< 系年 >
昭和定本「建治3年2月13日(鈴)」
創価学会新版・系年なし
平成校定「建治4年2月13日」
*日蓮がかたうど(方人)をして・・・
或はくびをきり、或はなが(流)さればとと(説)かれて、此の法門を涅槃経・守護経等の、法華経の流通の御経にときつがせ給ひて候は、此の国をば梵王・帝釈に仏をほ(仰)せつけて他国よりせめさせ給ふべしとと(説)かれて候。
されば此の国は法華経の大怨敵なれば現世に無間地獄の大苦すこし心みさせ給ふか。教主釈尊の日蓮がかたうど(方人)をしてつみし(知)らせ給ふにや。よもさるならば天照大神・正八幡等は此の国のかたうど(方人)にはなり給はじ。日蓮房のかたき(敵)なり。すゝみてなら(懲)わかし候はんとぞはやり候らむ。いの(祈)らばいよいよあ(悪)しかりなん、あしかりなん。
2月15日
曼荼羅(42)を図顕する
*顕示年月日
建治三年太才丁丑二月十五日
*讃文
仏滅後二千二百二十余 年之間 一閻浮提之内 未曾有大漫荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無十方分身諸仏 南無善徳如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 持国天王 増長天王 広目天王 毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天王 天照太神 正八幡宮 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 龍王 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
88.2×45.5㎝ 3枚継ぎ
*所蔵
静岡県湖西市鷲津 本興寺
2月
日目 身延にて五戒口決伝授を書写と伝う
*「家中抄」(富要5―184)
日目伝
同く三年二月には五戒口決伝受書写したまふ日目の御自筆伊豆実成寺に之れ有り
⇒筆者は伊豆実成寺の霊宝風入れに立ち会ったが、「五戒口決伝受」はあったのか?
記憶が確かではない。
2月
曼荼羅(41)を図顕する
*顕示年月日
建治三年太才丁丑二月 日
*讃文
仏滅後二千二百二十 余年之間一閻浮提 之内未曾有大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無十方分身諸仏 南無善徳如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 持国天王 増長天王 広目天王 毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 正八幡宮 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 龍王 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
89.1×47.0㎝ 3枚継ぎ
*備考
・当曼荼羅より首題の「経」字が第二期の書体に入る。
・第六天魔王の列座が始まる。
・首題の「経」字の書体について、山中喜八氏は「著しき年代的特徴を有し、四種類に分つことができる」とする。
文永8年10月9日の曼荼羅(1)より建治2年8月14日の曼荼羅(40)までは第一期の書体。
曼荼羅(41)より建治3年11月の曼荼羅(46)までは第二期の書体。
弘安元年3月16日の曼荼羅(47)より弘安3年3月の曼荼羅(78)までは第三期の書体。
曼荼羅(79)以降は全て第四期の書体。
但し、弘安元年8月中に図顕した曼荼羅(53)(54)の二幅は、特例として第四期の御書体を示すとする。
また、平賀本土寺所蔵、無記年の曼荼羅(8)、佐渡阿仏房妙宣寺所蔵、建治三年卯月の曼荼羅(44)は「第一期と第二期とを混合したような書体」ともする。
続いて「是等の特例を除けば、此の年代的相違は決定的であって、今後若し、聖筆の真偽を判じ、或は臨模・作為を弁別する場合は、第一に此の点を考察すべきであろう。」と強調する。
*所蔵
京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺
3月2日
書を池上宗長(兵衛志)妻に報ず
「兵衛志殿女房御書(ひょうえのさかんどののにょうぼうごしょ)」
(定2-240・P1293、創新172・P1482、校2-256・P1333、全P1094、新P1102)
身延・池上宗長(兵衛志)妻
宝21 真蹟なし
録外10-17 遺22-24 縮1536
*全集「兵衛志殿女房御書(儒童菩薩御書)」
*兵衛志宗長=池上兄弟の弟。兄は右衛門大夫宗仲
3月19日
書を波木井六郎次郎・次郎兵衛に報ず
「六郎次郎殿御返事」
(定2-241・P1294、創新285・P1814、校2-257・P1334、全P1464、新P1103)
身延・六郎次郎、次郎兵衛
創価学会新版・波木井六郎次郎(はきいろくろうじろう)・次郎兵衛(じろうひょうえ)
延山本 宝13 真蹟なし
録外10-27 遺22-25 縮1537
*昭和定本「六郎次郎殿御返事(報二檀越書)」
平成校定「六郎次郎殿御返事(報二檀越書)( 波木井抄)」
*釈迦仏定んで御悦び候らん
白米三斗油一筩(ひとつつ)給び畢んぬ。いまにはじめぬ御心ざし申しつくしがたく候。日蓮が悦び候のみならず、釈迦仏定んで御悦び候らん。「我則歓喜諸仏亦(やく)然」とは是なり。
3月20日
日蓮 三位房を富士加島に派遣(六郎次郎殿御返事・全P1464)
3月23日
富木常忍 日蓮に不審状を呈す(宗全1-180)
4月10日
書を富木常忍に報ず
「四信五品抄(ししんごほんしょう)」
(定2-242・P1294、創新12・P264、校2-259・P1346、全P338、新P1111)
身延・富木常忍
真蹟13紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
日興本・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日朝本 平15
録内16-63 遺22-26 縮1538
*他受用御書「四信五品抄 到建治三四 末代法華行者位並用心書也)」
昭和定本「四信五品抄(末代法華行者位並用心事)」
創価学会新版「四信五品抄」
*平成校定「建治3年4月初旬」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*南無妙法蓮華経と称する其の位
問ふ、汝が弟子一分の解(げ)無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。
答ふ、此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過(ちょうか)するのみに非ず、将又(はたまた)真言等の諸宗の元祖・畏(い)・厳(ごん)・恩(おん)・蔵(ぞう)・宣(せん)・摩(ま)・導(どう)等に勝出(しょうしゅつ)すること百千万億倍なり。
請ふ、国中の諸人我が末弟等を軽んずること勿(なか)れ。進んで過去を尋ぬれば八十万億劫(のくこう)供養せし大菩薩なり。豈煕連一恒(あにきれんいちごう)の者に非ずや。退(しりぞ)いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備(そな)ふべし。天子の襁褓(むつき)に纏(まと)はれ大竜の始めて生ぜるが如し。蔑如(べつじょ)すること勿れ蔑如すること勿れ。
妙楽の云はく「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と。優陀延王(うだえんおう)は賓豆盧尊者(びんずるそんじゃ)を蔑如して七年の内に身を喪失(そうしつ)し、相州(そうしゅう)は日蓮を流罪して百日の内に兵乱に遇(あ)へり。
経に云はく「若し復(また)是の経典を受持する者を見て其の過悪(かあく)を出(い)ださん。若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人は現世に白癩(びゃくらい)の病を得ん。乃至諸悪重病あるべし」と。
又云はく「当に世々に眼なかるべし」等云云。
明心(みょうしん)と円智(えんち)とは現に白癩を得、道阿弥(どうあみ)は無眼の者と成りぬ、国中の疫病(やくびょう)は頭破七分なり。罰を以て徳を惟(おも)ふに我が門人等は福過十号疑ひ無き者なり。
4月12日
書を大田乗明に報ず
「乗明聖人御返事(金珠女[こんじゅにょ]の事)」
(定2-243・P1300、創新153・P1368、校2-260・P1352、全P1012、新P1116)
身延・大田乗明妙日
創価学会新版・大田乗明
真蹟4紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
日朝本 平16
録内38-25 録外18-32 遺22-35 縮1548
*昭和定本「乗明聖人御返事(金珠女書)」
創価学会新版「乗明聖人御返事(金珠女の事)」
平成校定「乗明聖人御返事(金珠女抄)」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*法華経に供養
今乗明法師妙日並びに妻女は銅銭二千枚を法華経に供養す。彼は仏なり此は経なり。経は師なり仏は弟子なり。涅槃経に云はく「諸仏の師とする所は所謂法なり。乃至是の故に諸仏恭敬供養す」と。
4月
曼荼羅(44)を図顕する
*顕示年月日
建治三年太才丁丑卯月 日
*讃文
仏滅後二千二百二十 余年之間一閻浮提 之内未曾有大 漫荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無十方分身諸仏 南無善徳如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 四輪王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 龍王 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
89.4×44.5㎝ 3枚継ぎ
*所蔵
新潟県佐渡市阿仏坊 妙宣寺
書を四条金吾に報ず
「四条金吾殿御返事(八風抄)」
(定2-245・P1301、創新206・P1564、校2-261・P1353、全P1150、新P1117)
身延・四条金吾
真蹟1紙(34字3行)断簡・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺蔵
真蹟1紙(27字3行)断簡・東京都大田区池上 池上本門寺蔵
真蹟・身延山久遠寺曽存(意、遠録等)
宝2 満下221
録外14-20 受1-6 遺22-31 縮1544
*本満寺本「四條金吾殿御返事=八風等真言破事」
昭和定本「四条金吾殿御返事(八風等真言破事)」
創価学会新版・全集「四条金吾殿御返事(八風抄)」
平成校定「四条金吾殿御返事(八風等真言破事) (八風抄)」
< 系年 >
昭和定本・全集「建治3年」
創価学会新版「建治2年または建治3年」
平成校定「建治3年4月」
山上弘道氏の論考「四條金吾領地回復を伝える諸遺文の系年再考」(興風23号P645)
「建治二年の末から建治三年の初頭あたりに系けるのが妥当と思われる」
*八風
賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり。をゝ心(むね)は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまぼ(守)らせ給ふなり。しかるをひり(非理)に主をうらみなんどし候へば、いかに申せども天まぼ(守)り給ふ事なし。
5月8日
興福寺衆徒 春日神木を揺がす(続史愚抄)
5月15日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事(梵天御計[ぼんたいおんはか]らいの事)」
(定2、4-246・P1305、P3015、P3043、創新311・P1864、校2-263・P1359、全P1537、新P1121)
身延・南条時光
真蹟6紙断片
第7紙41字初3行・東京都千代田区 某家蔵
14字1行・千葉県千葉市中央区長洲(ながず) 立正安国会蔵
79字6行・東京都渋谷区 某家蔵
第10紙184字14行・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
第12紙43字3行・京都府京都市左京区仁王門通東大路西入北門前町 寂光寺蔵
110字8行・静岡県富士宮市野中 大泉寺蔵
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日朝本 宝13 満上112
録外8-13 受1-29 遺22-36 縮1549
*昭和定本「上野殿御返事」
創価学会新版「上野殿御返事(梵天御計らいの事)」
全集「上野殿御返事(梵天御計事)」
*聖人出現
虎うそぶ(嘯)けば大風ふく、竜ぎん(吟)ずれば雲を(起)こる。野兎のうそぶき、驢馬(ろば)のいば(嘶)うるに風ふかず、雲をこる事なし。愚者が法華経をよみ、賢者が義を談ずる時は国もさわがず、事もをこらず。聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん時、一国もさわぎ、在世にすぎたる大難を(起)こるべしとみえて候。
*万民から敬われる智者であっても、釈迦仏、法華経から「提婆がごとし」と思われては後生が恐ろしい・・・・
今、日蓮は賢人にもあらず、まして聖人はおもひもよらず。天下第一の僻人にて候が、但経文計りにはあひて候やう(様)なれば、大難来たり候へば、父母のいきかへらせ給ひて候よりも、にく(憎)きものゝことにあ(遭)ふよりもうれしく候なり。愚者にて而も仏に聖人とおもはれまいらせて候はん事こそ、うれしき事にて候へ。
智者たる上、二百五十戒かた(堅)くたもちて、万民には諸天の帝釈をうやま(敬)ふよりもうやまはれて、釈迦仏、法華経に不思議なり提婆がごとしとおもはれまいらせなば、人目はよきやうなれども後生はおそろしおそろし。
*日本国一時に信ずる事あるべし
さるにては、殿は法華経の行者にに(似)させ給へりとうけ給はれば、もってのほかに人のした(親)しきも、うと(疎)きも、日蓮房を信じてはよもまど(惑)いなん、上の御気色(みけしき)もあしくなりなんと、かたうど(方人)なるやうにて御けうくむ(教訓)候なれば、賢人までも人のたばかりはをそろしき事なれば、一定法華経すて給ひなん。
なかなか色みへてありせばよかりなん。大魔のつきたる者どもは、一人をけうくん(教訓)しを(堕)としつれば、それをひ(引)っか(懸)けにして多くの人をせ(攻)めを(堕)とすなり。日蓮が弟子にせう(少輔)房と申し、のと(能登)房といゐ、なごえ(名越)の尼なんど申せし物どもは、よくふか(欲深)く、心をくびゃう(臆病)に、愚痴にして而も智者となのりしやつばら(奴原)なりしかば、事のをこりし時、たよ(便)りをえておほくの人をおとせしなり。殿もせめをとされさせ給ふならば、するが(駿河)にせうせう(少々)信ずるやうなる者も、又、信ぜんとおもふらん人々も、皆法華経をすつべし。
中略
たゞをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計らひとして、日本国一時に信ずる事あるべし。爾(そ)の時我も本より信じたり我も本より信じたりと申す人こそ、をゝ(多)くを(在)はせずらんめとおぼえ候。
⇒南条時光に対し、上からの権威、権力を笠にきての圧力が加えられ、信仰をやめさせようとする働きがあったことがうかがわれる。
6月8日
幕府 宋朝滅亡の報を太宰府より受ける
6月9日
三位公 鎌倉桑ヶ谷にて竜象房と問答(頼基陳状・定P1346、同・全P1153)
6月
因幡房日永に代って書を作り下山光基に報ず
「下山御消息(しもやまごしょうそく)」
(定2、4-247・P1312、P3016、P3043、創新13・P272、校2-267・P1383、全P343、新P1137)
身延・下山兵庫光基
創価学会新版・下山光基(しもやまみつもと)
真蹟断片42紙・千葉県鴨川市小湊 誕生寺他30箇所蔵
日法本・静岡県沼津市岡宮 光長寺蔵
日澄本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
日朝本 平20
録内26-12 遺22-41 縮1555
< 断片所在 >
44字3行・千葉県鴨川市小湊 誕生寺
29字2行、43字3行・静岡県沼津市岡宮 光長寺
108字8行・京都府京都市左京区東大路二条下ル北門前町 妙伝寺
13字1行・島根県大田市大森町 妙像寺
95字7行、32字2行・東京都大田区池上 池上本門寺
5字3行・静岡県浜名郡 某家
144字10行・京都府京都市上京区寺町通今出川上ル二丁目鶴山町 本満寺
76字5行、28字2行、182字15行、69字5行・京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺
71字5行・静岡県湖西市鷲津 本興寺
15字1行・千葉県千葉市若葉区野呂町 妙興寺
147字9行・滋賀県湖南市三雲 妙孝寺
31字2行・東京都豊島区 某家
112字8行・大阪府大阪市中央区谷町 久本寺
14字1行・福井県小浜市小浜竜田 本境寺
「小浜若狭のデジタル文化財」日蓮上人真蹟2点
169字12行・大阪府堺市 某家
115字8行・東京都足立区梅田 善立寺
41字3行・京都府 某家
76字6行・大阪府大阪市中央区中寺 妙徳寺
92字7行、44字3行・京都府京都市左京区岩倉幡枝町 妙満寺
60字4行・山梨県南巨摩郡身延町身延 身延山久遠寺
43字3行・大阪府東大阪市菱屋西 宝樹寺
17字1行・愛知県名古屋市熱田区白鳥 本遠寺
142字10行・東京都足立区島根 国土安穏寺
6字・静岡県浜松市天竜区 某家
30字2行・長野県長野市松代町御安 蓮乗寺
16字1行・山梨県南巨摩郡増穂町小室 妙法寺
38字3行・東京都墨田区吾妻橋 妙縁寺
7字、6字、5字・大阪府大阪市北区末広町 成正寺
4行、62字4行、47字3行、115字9行・千葉県佐倉市岩富 長福寺
44字3行・山梨県甲府市伊勢 遠光寺
7行・千葉県木更津市富士見 城就寺
27字2行・千葉県香取郡多古町南中 (峯)妙興寺
*日澄本「法華本門下山抄」
*平成校定「下山御消息(与兵庫光基)(顕本抄)(下山抄)」
*(法華経)一部を読み奉らんとはげみ
親父の代官といひ、私と申し、此の四五年が間は退転無く例時には阿弥陀経を読み奉り候ひしが、去年の春の末夏の始めより、阿弥陀経を止めて一向に法華経の内、自我偈を読誦し候。又同じくば一部を読み奉らんとはげみ候。これ又偏(ひとえ)に現当の御祈禱のためなり。
*身延山での法門聴聞
但し阿弥陀経念仏を止めて候事は、これ日比(ひごろ)日本国に聞こへさせ給ふ日蓮聖人去ぬる文永十一年の夏の比、同じき甲州飯野(いいの)御牧(みまき)の内、波木井の郷の内身延の嶺と申す深山に御隠居せさせ給ひ候へば、さるべき人々御法門承るべき由候へども、御制止ありて入れられず。おぼろげの強縁(ごうえん)ならではかなひがたく候ひしに、ある人見参(げんざん)の候と申し候ひしかば、信じまいらせ候はんれう(料)には参り候はず、ものゝ様をも見候はんがために閑所(かんしょ)より忍びて参り、御庵室の後にかくれ、人々の御不審に付きてあらあら御法門とかせ給ひ候ひき。法華経と大日経・華厳・般若・深密(じんみつ)・楞伽(りょうが)・阿弥陀経等の経々の勝劣浅深等を先として説き給ひしを承り候へば、法華経と阿弥陀経の勝劣は一重(いちじゅう)二重のみならず、天地雲泥に候ひけり。
*上行菩薩等の御出現の時刻に相当たれり
世尊、眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に、法華経の半分迹門十四品を譲り給ふ。これは又地涌の大菩薩、末法の初めに出現せさせ給ひて、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふべき先序の為なり。所謂迹門弘通の衆は南岳・天台・妙楽・伝教等是なり。
今の時は世すでに末法のはじめなり。釈尊の記文、多宝・十方の諸仏の証明に依って、五百塵点劫より一向に本門寿量の肝心を修行し習ひ給へる上行菩薩等の御出現の時刻に相当たれり。例せば寅の時閻浮に日出で、午の時大海の潮減ず。盲人は見ずとも眼あらん人は疑ふべからず。而るに余愚眼を以てこれを見るに先相すでにあらはれたるか。
*極楽寺良観
爰(ここ)に両火房(りょうかぼう)と申す法師あり。身には三衣(さんね)を皮の如くはなつ事なし。一鉢(いっぱち)は両眼をまぼるが如し。二百五十戒を堅く持ち三千の威儀をとゝのへたり。世間の無智の道俗、国主よりはじめて万民にいたるまで、地蔵尊者の伽羅陀山(からだせん)より出現せるか、迦葉尊者の霊山より下来するかと疑ふ。
余法華経の第五の巻の勧持品を拝見し奉りて、末代に入りて法華経の大怨敵に三類有るべし、其の第三の強敵は此の者かと見了んぬ。便宜あらば国敵を責めて彼が大慢を倒して、仏法の威験あらわさんと思ふ処に~
*釈尊=賢父、明師、聖主
抑釈尊は我等がためには賢父たる上、明師なり聖主なり。一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て、未来悪世を鑑み給ひて記し置き給へる記文に云はく「我涅槃の後、無量百歳」云云。仏滅後二千年已後と見へぬ。又「四道の聖人悉く復涅槃せん」云云。付法蔵の二十四人を指すか。「正法滅後」等云云。像末の世と聞こえたり。
*日蓮=父母、師匠、主君の御使ひ
余は日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母なり、二には師匠なり、三には主君の御使ひなり。経に云はく「即ち如来の使なり」と。又云はく「眼目なり」と。又云はく「日月なり」と。章安大師の云はく「彼が為に悪を除くは則ち是彼が親なり」等云云。
*我等と釈迦仏とは同じ程の仏なり
心は四十余年の中の観経(かんぎょう)・阿弥陀経・悲華経(ひけきょう)等に、法蔵比丘等の諸菩薩四十八願等を発(お)こして、凡夫を九品の浄土へ来迎(らいごう)せんと説く事は、且く法華経已前のやすめ言(ことば)なり。実には彼々の経々の文の如く十方西方への来迎はあるべからず。実とおもふことなかれ。釈迦仏の今説き給ふが如し。
実には釈迦・多宝・十方の諸仏、寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出だし給ふ広長舌なり。我等と釈迦仏とは同じ程の仏なり。釈迦仏は天月の如し、我等は水中の影の月なり。釈迦仏の本土は実には裟婆世界なり。天月動き給はずば我等もうつるべからず。此の土に居住して法華経の行者を守護せん事、臣下が主上を仰ぎ奉らんが如く、父母の一子を愛するが如くならんと出だし給ふ舌なり。
*教主釈尊より大事なる行者
真(まこと)の天のせめにてだにもあるならば、たとひ鉄囲山(てっちせん)を日本国に引き回らし、須弥山を蓋(おお)ひとして、十方世界の四天王を集めて、波際に立ち並べてふせがするとも、法華経の敵となり、教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が頭(こうべ)を打ち、十巻共に引き散らして散々に踏みたりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ。日本守護の天照太神・正八幡等もいかでかかゝる国をばたすけ給ふべき。いそぎいそぎ治罰を加へて、自らの科を脱がれんとこそはげみ給ふらめ。をそく科に行なふ間、日本国の諸神ども四天大王にいましめられてやあるらん。知り難き事なり。
6月18日
書を池上宗長に報ず
「兵衛志殿(ひょうえのさかんどの)御返事(題目一返の事)」
(定2-248・P1345、創新173・P1483、校2-265・P1366、全P1104、新P1126)
身延・兵衛志(兵衛志宗長=池上兄弟の弟)
創価学会新版・池上宗長
真蹟1紙完・京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺蔵
満上260
遺30-10 縮2056
*昭和定本「兵衛志殿御返事」
創価学会新版「兵衛志殿御返事(題目一返の事)」
< 系年 >
昭和定本「建治3年6月18日(鈴)或は弘安4年」
創価学会新版「建治3年6月18日」
6月23日
四条金吾 江馬入道より勘気を蒙る(頼基陳状・定P1346、同・全P1153)
6月25日
四条金吾に代わりて「陳状」を著す
「頼基陳状(よりもとちんじょう)」
(定2-249・P1346、創新207・P1568、校2-266・P1367、全P1153、新P1126)
身延・四條中務尉頼基請文
再治本写本・未再治本写本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
日朝本 平賀30
録内29-1 遺23-9 縮1601
*再治本写本「竜三問答記」
同奥書
「正和五年閏十月廿日 駿河国富士上方重須談所ニシテ以再治本書写之 白蓮七十一才」
*未再治本写本「竜象問答抄」
同奥書
「龍象問答抄 弘安元年四月五日 是本者未再治本□不可為本云云」
*菅原関道氏の論考「重須本門寺所蔵の頼基陳状再写本について」(興風15号P141)
「昭和定本」「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」「日興上人全集」等は再治本写本、未再治本写本共に日興筆としているが、筆跡を照合すると再治本写本は日興筆、未再治本写本は日澄筆である(趣意)とする。
*「法華仏教研究」32号 竹内敬雅氏の論考「『頼基陳状』の二種の写本の考察」
*昭和定本「頼基陳状(三位房龍象房問答記)(龍象問答抄)」
創価学会新版「頼基陳状」
平成校定「頼基陳状(三位房竜象房問答記)( 竜三問答記)(竜象問答抄)」
< 系年 >
・昭和定本・創価学会新版「建治3年6月25日」
・山上弘道氏の論考「四條金吾領地回復を伝える諸遺文の系年再考」(興風23号P601)
「本陳状の送り状たる『四條金吾殿御返事』が建治3年7月状であるから、本陳状も建治3年7月とすべき」
*日蓮聖人は~上行菩薩の垂迹
又仰せ下さるゝ状に云はく、極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉ると。
此の条難かむ(勘)の次第に覚え候。其の故は、日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使ひ、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御坐候聖人を、頸をはねらるべき由の申し状を書きて、殺罪に申し行なはれ候ひしが、いかゞ候ひけむ、死罪を止めて佐渡の島まで遠流せられ候ひしは、良観上人の所行に候はずや。其の訴状は別紙にこれ有り。抑(そもそも)生草(いきぐさ)をだに伐(き)るべからずと六斎日夜の説法に給はれながら、法華の正法を弘むる僧を断罪に行なはるべき旨申し立てらるゝは、自語相違に候はずや如何。此の僧豈(あに)天魔の入れる僧に候はずや。
*教主釈尊・日本国の一切衆生の父母、師匠、主君
所謂「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり」文。文の如くば教主釈尊は日本国の一切衆生の父母なり、師匠なり、主君なり。阿弥陀仏は此の三の義ましまさず。而るに三徳の仏を閣(さしお)いて他仏を昼夜朝夕に称名し、六万八万の名号を唱へまします。あに不孝の御所作にわたらせ給はずや。
弥陀の願も、釈迦如来の説かせ給ひしかども終にくひ返し給ひて、唯我一人と定め給ひぬ。其の後は全く二人三人と見え候はず。随って人にも父母二人なし。何れの経に弥陀は此の国の父、何れの論に母たる旨見へて候。観経等の念仏の法門は、法華経を説かせ給はむ為のしばらくのしつらひなり。塔く(組)まむ為の足代(あししろ)の如し。而るを仏法なれば始終あるべしと思ふ人大僻案(びゃくあん)なり。塔立てゝ後足代を貴ぶほどのはかなき者なり。又日よりも星は明らかと申す者なるべし。此の人を経に説いて云はく「復教詔(きょうしょう)すと雖も而も信受せず、其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。
当世日本国の一切衆生の釈迦仏を抛(なげう)って阿弥陀仏を念じ、法華経を抛って観経等を信ずる人、或は此くの如き謗法の者を供養せむ俗男俗女等、存外に五逆・七逆・八虐の罪ををかせる者を智者と渇仰する諸の大名僧並びに国主等なり。「如是展転至無数劫(にょぜてんでんしむしゅこう)」とは是なり。此くの如き僻事(ひがごと)をなまじゐに承りて候間、次(つ)いでを以て申さしめ候。
*日蓮聖人=三界の主、一切衆生の父母、釈迦如来の御使ひ上行菩薩
頼基が今更何につけて疎縁に思ひまいらせ候べき。後生までも随従しまいらせて、頼基成仏し候はゞ君をもすくひまいらせ、君成仏しましまさば頼基もたすけられまいらせむとこそ存じ候へ。其れに付ひて諸僧の説法を聴聞仕りて、何れか成仏の法とうかゞひ候処に、日蓮聖人の御房は三界の主、一切衆生の父母、釈迦如来の御使ひ上行菩薩にて御坐候ひける事の法華経に説かれてましましけるを信じまいらせたるに候。
*釈迦如来の御使ひ日蓮聖人
良観房が讒訴(ざんそ)に依りて釈迦如来の御使ひ日蓮聖人を流罪し奉りしかば、聖人の申し給ひしが如く百日が内に合戦出来して、若干(そこばく)の武者滅亡せし中に、名越の公達(きんだち)横死(おうし)にあはせ給ひぬ。是偏に良観房が失ひ奉りたるに候はずや。
7月
書を四条金吾に報ず
「四条金吾殿御返事(不可惜所領の事)」
(定2-250・P1361、創新208・P1582、校2-268・P1417、全P1163、新P1161)
身延・四条金吾
真蹟断簡 14字1行・大分県大分市都町 常妙寺蔵
43字3行・千葉県千葉市若葉区野呂町 妙興寺蔵
日朝本 平22
録内17-47 遺23-26 縮1617
*昭和定本「四条金吾殿御返事(為法華経不可惜所領事)」
創価学会新版「四条金吾殿御返事(不可惜所領の事)」
全集「四条金吾殿御返事(不可惜所領事)」
*教主釈尊の御計らひか
設ひ日蓮一人は杖木瓦礫(じょうもくがりゃく)・悪口王難をもしの(忍)ぶとも、妻子を帯せる無智の俗なんどは争(いか)でか叶ふべき。中々信ぜざらんはよかりなん。すへとを(末通)らずしばし(暫時)ならば人にわら(哂)はれなんと不便にをもひ候ひしに、度々の難、二箇度の御勘気に心ざしをあらはし給ふだにも不思議なるに、かくをど(脅)さるゝに二所の所領をすてゝ、法華経を信じとを(通)すべしと御起請候ひし事、いかにとも申す計りなし。普賢・文殊等なを末代はいかんがと仏思(おぼ)し食(め)して、妙法蓮華経の五字をば地涌千界の上首上行等の四人にこそ仰せつけられて候へ。只事の心を案ずるに、日蓮が道をたすけんと、上行菩薩貴辺の御身に入りかはらせ給へるか。又教主釈尊の御計らひか。
*四条金吾に子はいなかった?
との(殿)は子なし。たのもしき兄弟なし。わづかの二所の所領なり。一生はゆめの上、明日をご(期)せず。いかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給ふべからず。
*釈迦仏の御計らひ
日蓮はながされずして、かまくら(鎌倉)にだにもありしかば、有りしいくさに一定打ち殺されなん。此も又御内にてはあしかりぬべければ釈迦仏の御計らひにてやあるらむ。
*かま(構)へてきた(汚)なきし(死)にすべからず
御よ(寄)りあ(合)ひあるべからず。よる(夜)は用心きびしく、夜廻りの殿原かたらひて用ひ、常にはよりあはるべし。今度御内をだにもい(出)だされずば十に九は内のもの(者)ねら(狙)ひなむ。かま(構)へてきた(汚)なきし(死)にすべからず。
書を富木入道に報ず
「鼠入鹿(ねずみいるかの)事」
(定2-251・P1364、校2-281・P1461、新P1190)
身延・富木入道(鈴)
真蹟2紙断簡・京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町 立本寺蔵
*平成校定「鼠いるか事(鼠入鹿事)」
*已前御文御返事申し候ひしか。
鵞目一結・三年の古酒一筒給び了んぬ。
御文に云く、安房国にねずみいるかとかや申し候・大魚、或十七八尋、或廿尋云云、乃至 彼の大魚を鎌倉に乃至家々にあぶら(油)にしぼり候ふ香り、たえ候ふべきやう候はずくさ(臭)く等云云。
(後略)
7月16日
書を南条時光に報ず
「上野殿御返事(法華経の御命の事)」
(定2-252・P1365、創新312・P1869、校2-193・P1076、全P1512、新P892)
身延・南条時光
真蹟断簡 第1紙12行・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
第2紙8行・京都府京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町 要法寺蔵
日興本・大石寺蔵
日朝本 宝12 満下309
録外5-35 遺19-23 縮1277
*平成校定「日付署名2行・京都 要法寺蔵」
*昭和定本「上野殿御返事」
創価学会新版「上野殿御返事(法華経の御命の事)」
< 系年 >
昭和定本「建治3年7月16日(興)或は建治元年(縮)」
創価学会新版「建治3年7月16日」
平成校定「建治元年7月16日」
全集「建治元年7月12日」
*日蓮への供養・法華経の御いのちをつがせ給ふ
むぎ(麦)ひとひつ(一櫃)、かわのり五条、はじ(薑)かみ六は(把)給び了んぬ。
中略
山のなかのすまい(住居)さこそとをも(思)ひやらせ給ひて、とり(鳥)のかいご(卵子)をやしなうがごとく、ともしび(灯)にあぶら(油)をそうるがごとく、か(枯)れたるくさ(草)にあめ(雨)のふるがごとく、う(飢)へたる子にち(乳)をあたうるがごとく、法華経の御いのちをつがせ給ふ事、三世の諸仏を供養し給へるにてあるなり。十方の衆生の眼を開く功徳にて候べし。尊しとも申す計りなし。
7月26日
興福寺 雷火により金堂等焼失(続史愚抄)
8月4日
書を弥三郎に報ず
「弥三郎殿御返事(やさぶろうどのごへんじ)」
(定2-253・P1366、創新404・P2082、校2-269・P1420、全P1449、新P1163)
身延・弥三郎
満下87 宝11 真蹟なし
録外2-19 受1-34 遺23-30 縮1620
*釈迦仏=国主、師匠、親父
是は無智の俗にて候へども、承り給ひしに、貴く思ひ進らせ候ひしは、法華の第二の巻に「今此三界(こんしさんがい)」とかや申す文にて候なり。此の文の意は今此の日本国は釈迦仏の御領なり。天照太神・八幡大菩薩・神武(じんむ)天皇等の一切の神、国主並びに万民までも釈迦仏の御所領の内なる上、此の仏は我等衆生に三の故御坐(おわ)す大恩の仏なり。一には国主なり、二には師匠なり、三には親父なり。此の三徳を備へ給ふ事は十方の仏の中に唯釈迦仏計りなり。されば今の日本国の一切衆生は設ひ釈迦仏にねんごろに仕ふる事、当時の阿弥陀仏の如くすとも、又他仏を並べて同じ様にもてなし進らせば大なる失(とが)なり。
*一切衆生の父母たる上、仏の仰せ
かゝる事をば日本国には但日蓮一人計り知って、始めは云ふべきか云ふまじきかとうら(慮)おもひけれども、さりとては何にすべき。一切衆生の父母たる上、仏の仰せを背くべきか、我が身こそ何様(いかよう)にもならめと思ひて云ひ出だせしかば、二十余年所をおはれ、弟子等を殺され、我が身も疵を蒙り、二度まで流され、結句は頸(くび)切られんとす。是偏(ひとえ)に日本国の一切衆生の大苦にあはんを兼ねて知りて歎き候なり。されば心あらん人々は我等が為にと思(おぼ)し食(め)すべし。若し恩を知り心有らん人々は、二つ当たらん杖には一つは替はるべき事ぞかし。さこそ無からめ、還りて怨をなしなんどせらるゝ事は心得ず候。
*釈迦・多宝・十方の仏来集して我が身に入りかはり
構へて構へて所領を惜しみ、妻子を顧(かえり)み、又人を憑(たの)みてあやぶむ事無かれ。但偏に思ひ切るべし。今年の世間を鏡とせよ。若干の人の死ぬるに、今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり。此こそ宇治川を渡せし所よ。是こそ勢多(せた)を渡せし所よ。名を揚るか名をくだ(下)すかなり。人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり。釈迦・多宝・十方の仏来集して我が身に入りかはり、我を助け給へと観念せさせ給ふべし。地頭のもとに召さるゝ事あらば、先づは此の趣を能く能く申さるべく候。
8月21日
書を池上宗長に報ず
「兵衛志殿御返事(鎌足造仏の事)」
(定2-254・P1370、創新174・P1483、校2-270・P1425、全P1089、新P1166)
身延・兵衛志(兵衛志宗長=池上兄弟の弟)
創価学会新版・池上宗長
真蹟4紙完・京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町 立本寺蔵
日朝本 宝11 満下203
録外9-36 受2-24 遺19-50 縮1306
*創価学会新版「兵衛志殿御返事(鎌足造仏の事)」
全集「兵衛志殿御返事(鎌足造仏事)」
< 系年 >
昭和定本「建治3年8月21日(諦) 或は建治元年(縮)」
創価学会新版・平成校定「建治3年8月21日」
全集「建治元年8月21日」
*釈迦仏、法華経の御力なり
今の代は他国にうば(奪)われんとする事、釈尊をいるが(忽)せにする故なり。神の力も及ぶべからずと申すはこれなり。
各々二人はすでにとこそ人はみしかども、かくいみじくみへさせ給ふは、ひとへに釈迦仏、法華経の御力なりとをぼすらむ。又此にもをもひ候、後生のたの(頼)もしさ申すばかりなし。此より後もいかなる事ありとも、すこしもたゆ(弛)む事なかれ。いよいよはりあげてせ(責)むべし。たとい命に及ぶとも、すこしもひるむ事なかれ
8月23日
書を富木常忍に報ず
「富木殿御書(止暇断眠御書)」
(定2-255・P1372、創新137・P1322、校2-271・P1427、全P969、新P1167)
身延・富木常忍
真蹟8紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
信伝本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
日朝本
録内32-1 遺19-51 縮1308
*録内「富木殿不可親近謗法者事」
昭和定本「富木殿御書」
創価学会新版・全集「富木殿御書(止暇断眠御書)」
平成校定「富木殿御書(不可親近謗法者事)」
< 系年 >
昭和定本「建治3年8月23日(鈴)或は建治元年(縮)」
創価学会新版・平成校定「建治3年8月23日」
全集「建治元年8月23日」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*日本国~一人も無く弘法・慈覚・智証の三大師の末孫の檀越なり
今日本国の八宗並びに浄土・禅宗等の四衆、上は主上(しゅじょう)・上皇より、下は臣下・万民に至るまで、皆一人も無く弘法・慈覚・智証の三大師の末孫の檀越(だんのつ)なり。円仁(えんにん)慈覚大師云はく「故に彼と異なり」と。
円珍智証大師云はく「華厳・法華を大日経に望むれば戯論(けろん)と為作(な)す」と。
空海弘法大師云はく「後に望むれば戯論(けろん)と作(な)す」等云云。
此の三大師の意は法華経は已今当(いこんとう)の諸経の中の第一なり。然りと雖も大日経に相対すれば戯論の法なり等云云。此の義、心有らん人信を取るべきや不(いな)や。今日本国の諸人、悪象・悪馬・悪牛・悪狗(く)・毒蛇・悪刺(あくせき)・懸岸(けんがん)・険崖(けんがい)・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舍・悪妻・悪子・悪所従等よりも此等に超過し、恐怖すべきこと百千万億倍なるは持戒邪見の高僧等なり。
*比叡山の変質~夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ
問うて云はく、上に挙ぐる所の三大師を謗法と疑ふか。叡山第二円澄寂光(えんちょうじゃっこう)大師・別当光定(べっとうこうじょう)大師・安慧(あんね)大楽大師・慧亮(えりょう)和尚・安然(あんねん)和上・浄観僧都(じょうかんそうず)・檀那(だんな)僧上・慧心(えしん)先徳、此等の数百人、弘法の御弟子実慧(じつえ)・真済(しんぜい)・真雅(しんが)等の数百人、並びに八宗・十宗等の大師先徳、日と日と、月と月と、星と星と並び出でたるが如く既に四百余年を経歴(きょうりゃく)す。此等の人々、一人として此の義を疑はず。汝何(いか)なる智を以て之を難ずるや云云。
此等の意を以て之を案ずるに、我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿(なか)れ
*志有らん諸人は一処に聚集(じゅじゅう)して御聴聞有るべきか。
8月23日
書を日女に報ず
「日女御前御返事(にちにょごぜんごへんじ) (御本尊相貌抄[ごほんぞんそうみょうしょう])」
(定2-256・P1374、創新405・P2086、校2-366・P1774、全P1243、新P1387)
身延・日女御前
創価学会新版・日女
日朝本 宝22 真蹟なし
録外23-12 受3-15 遺23-34 縮1624
*昭和定本「日女御前御返事」
創価学会新版「日女御前御返事(御本尊相貌抄)」
平成校定「日女御前御返事(多宝塔中本門本尊事)」
全集「日女御前御返事(御本尊相貌抄)」
< 系年 >
昭和定本・創価学会新版・全集「建治3年8月23日」
平成校定「弘安2年8月23日」
*「法華仏教研究」14号 花野充道氏の論考「日蓮の本尊論と『日女御前御返事』」
*御本尊供養
御本尊供養の御為に鵞目(がもく)五貫・白米一駄・菓子其の数送り給び候ひ畢(おわ)んぬ。
*八品に顕はれ給ふ
抑(そもそも)此の御本尊は在世五十年の中には八年、八年の間にも涌出品(ゆじゅっぽん)より嘱累品(ぞくるいほん)まで八品に顕はれ給ふなり。
*末法の始めの五百年に出現
さて滅後には正法・像法・末法の中には、正像二千年にはいまだ本門の本尊と申す名だにもなし、何に況んや顕はれ給はんをや。又顕はすべき人なし。
天台・妙楽・伝教等は内には鑑(かんが)み給へども、故こそあるらめ言(ことば)には出(い)だし給はず。彼の顔淵(がんえん)が聞きし事、意(こころ)にはさとるといへども言(ことば)に顕はしていはざるが如し。
然るに仏滅後二千年過ぎて、末法の始めの五百年に出現せさせ給ふべき由、経文赫々(かくかく)たり明々たり。天台・妙楽等の解釈分明(ふんみょう)なり。
*法華弘通の旗印として顕はし奉る
爰(ここ)に日蓮いかなる不思議にてや候らん、竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比(ころ)、はじめて法華弘通のはたじるし(旗印)として顕はし奉るなり。
是(これ)全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中の大牟尼世尊・分身(ふんじん)の諸仏のすりかたぎ(摺形木)たる本尊なり。
*是を本尊とは申すなり
されば首題の五字は中央にかゝり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、普賢・文殊等、舎利弗・目連等座を屈し、日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外(ほか)不動・愛染は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多(だった)・愚癡(ぐち)の竜女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女等、加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々、総じて大小の神祇(しんぎ)等、体の神つら(列)なる、其の余の用(ゆう)の神豈(あに)もるべきや。
宝塔品に云はく「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云。
此等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列座の二界・八番の雑衆等、一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる。是を本尊とは申すなり。経に諸法実相と云ふは是なり。
*末曾有の大曼荼羅
妙楽云はく「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云。又云はく「実相の深理、本有の妙法蓮華経」等云云。
伝教大師云はく「一念三千即自受用身(じじゅゆうしん)、自受用身とは出尊形の仏なり」文。
此の故に末曾有の大曼荼羅とは名付け奉るなり。仏滅後二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云ふ事なり。
*囲み守り給ふ
かゝる御本尊を供養し奉り給ふ女人、現在には幸ひをまねき、後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて、闇に灯(ともしび)の如く、険難の処に強力を得たるが如く、彼(かし)こへまはり、此へより、日女御前をかこ(囲)みまぼ(守)り給ふべきなり。
*胸中の肉団におはしますなり
此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如(くしきしんのうしんにょ)の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もか(欠)けず一界にあるなり。之に依って曼陀羅とは申すなり。曼陀羅と云ふは天竺の名なり、此には輪円具足(りんねんぐそく)とも功徳聚(くどくじゅ)とも名づくるなり。
*御本尊の宝塔の中へ入る
此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。以信得入(いしんとくにゅう)とは是なり。日蓮が弟子檀那等「正直捨方便」「不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)」と無二に信ずる故によ(因)て、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。たのもしたのもし。如何(いか)にも後生をたしなみ給ふべし、たし(嗜)なみ給ふべし。穴賢(あなかしこ)。南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信を以て源とす。
*日蓮が弟子檀那の肝要
法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる、即ち五種の修行を具足するなり。此の事伝教大師入唐(にっとう)して、道邃(どうずい)和尚に値ひ奉りて、五種頓修の妙行と云ふ事を相伝し給ふなり。日蓮が弟子檀那の肝要、是より外に求むる事なかれ。神力品に云へり。委(くわ)しくは又々申すべく候。
8月
安達泰盛 高野山にて「大日経疏」等を開板
書を四条金吾に報ず
「四条金吾殿御返事(世雄[せおう]御書)」
(定2-257・P1378、創新209・P1585、校2-274・P1438、全P1165、新P1175)
身延・四条金吾
日朝本 平25 真蹟なし
録内39-37 遺23-37 縮1628
*録内「四条金吾御書」
昭和定本「四条金吾殿御返事(告誡書)」
創価学会新版・全集「四条金吾殿御返事(世雄御書)」
平成校定「四条金吾殿御返事(仏法王法勝負抄)(告誡書)」「建治3年秋」
*山上弘道氏の論考「四條金吾領地回復を伝える諸遺文の系年再考」(興風23号P609)
「内容的には『頼基陳状』や同陳状の送り状たる『定』250『四条金吾殿御返事』と密接に関連しており、真撰遺文として良いであろう」
*仏法は月の国より始めて日の国にとゞまるべし
御文(おんふみ)あらあらうけ給はりて、長き夜のあけ、とをき道をかへりたるがごとし。夫(それ)仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄(せおう)と号し、王をば自在となづけたり。中にも天竺をば月氏という、我が国をば日本と申す。一閻浮提八万の国の中に大なる国は天竺、小なる国は日本なり。名のめでたきは印度第二、扶桑第一なり。仏法は月の国より始めて日の国にとゞまるべし。月は西より出でて東に向かひ、日は東より西へ行く事天然のことはり、磁石と鉄と、雷と象牙とのごとし。誰か此のことはりをやぶらん。
*法華経・釈迦仏・日天に申すなり
剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず。是きたへる故なり。まえ(前)にかう申すはきたうなるべし。仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり。
いかにいと(愛)をし、はな(離)れじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしゝとをぼすとも死しては他人の物、すでにさか(栄)へて年久し、すこしも惜しむ事なかれ。又さきざき申すがごとく、さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし。
日蓮は少(わか)きより今生のいのりなし。只仏にならんとをもふ計りなり。されども殿の御事をばひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思ふなり。
書を著す
「仏眼御書」
(定2-259・P1386、校2-284・P1467、新P1195)
身延
真蹟1紙断簡7行・東京都新宿区 某家蔵
*本文
仏眼をかり、仏耳(ぶつに)をたまわりて、しめし候ひしかども、用ゐる事なければ、ついに此の国やぶれなんとす。白癩病(びゃくらいびょう)の者のあまたありて、一人のし(知)る人日蓮をにくみしかば、此の山にかくれて候。
9月9日
書を松野六郎左衛門に報ず
「松野殿御返事(臨終妙覚の事)」
(定2-261・P1389、創新376・P1996、校2-272・P1429、全P1388、新P1169)
身延・松野
創価学会新版・松野六郎左衛門(まつののろくろうざえもん)
宝8 真蹟なし
録外9-6 遺23-44 縮1636
*録外「松野殿御消息」
昭和定本「松野殿御返事」
創価学会新版「松野殿御返事(臨終妙覚の事)」
全集「松野殿御返事(三界無安御書)」
*法華経・釈迦仏に任せ奉り候
鵞目一貫文・油一升・衣一つ・筆十管給び候。
今に始めぬ御志、申し尽くしがたく候へば法華経・釈迦仏に任せ奉り候。先立ってより申し候、但在家の御身は余念もなく日夜朝夕南無妙法蓮華経と唱へ候ひて、最後臨終の時を見させ給へ。妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ。法界は寂光土にして瑠璃(るり)を以て地とし、金縄(こがねのなわ)を以て八つの道をさかひ、天(そら)より四種の花ふり、虚空(こくう)に音楽聞こえ、諸仏菩薩は皆常楽我浄の風にそよめき給へば、我等も必ず其の数に列(つら)ならん。法華経はかゝるいみじき御経にてをは(御座)しまいらせ候。委細はいそ(急)ぎ候間申さず候。
9月11日
書を四条金吾に報ず
「崇峻天皇御書(三種財宝御書)」
(定2-262・P1390、創新210・P1592、校2-273・P1431、全P1170、新P1170)
身延・四条金吾
真蹟10紙断簡・身延山久遠寺曽存(意・乾録等)
日朝本 宝12 満下82
録内19-36 受2-9 遺23-47 縮1639
*昭和定本「崇峻天皇御書」
創価学会新版・全集「崇峻天皇御書(三種財宝御書)」
平成校定「崇峻天皇御書(同地獄抄)(四条抄)」
*定んで釈迦仏の御前に子細候らん
竜象と殿の兄とは殿の御ためにはあ(悪)しかりつる人ぞかし。天の御計(はか)らひに殿の御心の如くなるぞかし。いかに天の御心に背かんとはをぼするぞ。設(たと)ひ千万の財をみ(満)ちたりとも、上にすてられまいらせ給ひては、何の詮かあるべき。已(すで)に上にはをや(親)の様に思はれまい(進)らせ、水の器に随ふが如く、こうじ(犢)の母を思ひ老者の杖をたのむが如く、主のとの(殿)を思(おぼ)し食(め)されたるは法華経の御たすけにあらずや。あらうら(羨)やましやとこそ、御内の人々は思はるゝらめ。と(疾)くとく此の四人かた(語)らひて日蓮にき(聞)かせ給へ。さるならば強盛に天に申すべし。又殿の故御父御母の御事も、左衛門尉(さえもんのじょう)があまりに歎き候ぞと天にも申し入って候なり。定んで釈迦仏の御前に子細候らん。
*四条金吾が地獄に入れば日蓮も共に
返す返す今に忘れぬ事は頸切られんとせし時、殿はとも(供)して馬の口に付きて、な(鳴)きかな(悲)しみ給ひしをば、いかなる世にか忘れなん。設ひ殿の罪ふかくして地獄に入り給はゞ、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給ふとも、用ひまいらせ候べからず。同じく地獄なるべし。日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ。
*心の財
人身は受けがたし、爪の上の土。人身は持ちがたし、草の上の露。百二十まで持ちて名をくた(腐)して死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。中務(なかつかさ)三郎左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよ(吉)かりけりよかりけりと、鎌倉の人々の口にうたはれ給へ。穴賢(あなかしこ)穴賢。蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。
*仏法と申すは是にて候ぞ
孔子と申せし賢人は九思一言とて、こゝ(九)のたび(度)おもひて一度(ひとたび)申す。周公旦(しゅうこうたん)と申せし人は沐(もく)する時は三度(みたび)握り、食する時は三度は(吐)き給ひき。たしかにき(聞)こしめ(食)せ。我ばし恨みさせ給ふな。仏法と申すは是にて候ぞ。
一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という。
9月14日
日澄 「曾谷入道殿許御書(御返事)」を書写(日興門流上代事典P655)
⇒本門寺根源蔵の信伝御書書写本中の記述
「已上十一通者因幡国富城庄之本主日常所賜也。於正本者当住下総国高鹿郡八幡庄内栗原村也。定有彼在所歟。此本者以御正本写校畢。日澄謹書」
「写本云、建治三年九月十四日書写云云。日澄御筆也」
日蓮より富木常忍宛て書簡の内、11通について日澄は書写している。
9月20日
書を日仲に報ず
「石本日仲聖人御返事(いわもとのにっちゅうしょうにんごへんじ)」
(定2-263・P1398、創新347・P1934、校2-203・P1098、全P1454、新P907)
身延・石本日仲聖人
創価学会新版・日仲
真蹟1紙断簡・静岡県富士宮市上条 大石寺曽存
縮続143
< 系年 >
昭和定本「建治3年9月20日(鈴)」
創価学会新版「建治期」
平成校定「建治元年9月20日」
*駿馬一疋
同時に二仏に亘るか。将(は)た又一方は妄語なるか。近来念仏者、天下を誑惑(おうわく)するか。早々御存知有るべきか。抑(そもそ)も駿馬(しゅんめ)一疋(いっぴき)追(お)ひ遣(つか)はさる事、存外之次第か。事々見参(げんざん)の時を期す。恐恐謹言。
10月13日
船守弥三郎妻 寂と伝う(蓮慶寺過去帳)
⇒「日蓮宗年表」は1286年・弘安9年12月22日
10月
曼荼羅(45)を図顕する
*顕示年月日
建治三年太才丁丑十月 日
*讃文
仏滅後二千二百余 年之間 一閻浮提之内 未曾有大 漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無十方分身諸仏 南無善徳如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 千眼天王 大提頭頼吨天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 天照太神 正八幡宮 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
91.2×50.3㎝ 3枚継ぎ
*備考
・当曼荼羅の模写が京都市の某寺に現存する。
・模写曼荼羅は顕示年月を「建治二年丙子十月 日」にしている。
・塩田義遜氏の「大曼荼羅儀相の研究」附表に「第十六 建治二年十月 古写真 所蔵不明」とあるのは、模写曼荼羅のことを指しているか。
*所蔵
京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町 本能寺
⇒讃文には「仏滅後二千二百二十(三十)余年之間」などと認めるのが通例だが、曼荼羅(45)と(46)の如く「仏滅後二千二百余年之間」と「二十(三十)」を欠くのは桁文字を脱してしまったものか。また、当曼荼羅の「蓮」の字には「点」が無く、これは筆誤だと思われる。
11月7日
書を池上宗長の妻に報ず
「兵衛志殿女房御返事(ひょうえのさかんどののにょうぼうごへんじ) (牧牛女[もくごにょ]の事)」
(定2-264・P1398、創新175・P1485、校2-275・P1446、全P1097、新P1180)
身延・兵衛志殿女房
創価学会新版・池上宗長の妻
宝21 真蹟なし
録外22-23 遺23-57 縮1650
*昭和定本「兵衛志殿女房御返事」
創価学会新版「兵衛志殿女房御返事(牧牛女の事)」
全集「兵衛志殿女房御返事(銅器供養抄)」
*釈迦仏にまいらせ給へば・・・
銅(あかがね)の御器(ごき)二つ給(た)び畢(おわ)んぬ。
中略
今御器二つを千里にをくり、釈迦仏にまいらせ給へば、かの福のごとくなるべし。委(くわ)しくは申さず候。
11月18日
書を大田乗明の妻に報ず
「太田殿女房御返事(八寒地獄の事)」
(定2-265・P1399、創新154・P1369、校2-276・P1447、全P1013、新P1181)
身延・大田入道女房
創価学会新版・大田乗明の妻
日朝本 平16 真蹟なし
録内38-23 遺23-58 縮1651
*昭和定本「大田殿女房御返事」
創価学会新版「太田殿女房御返事(八寒地獄の事)」
平成校定・全集「太田殿女房御返事(八寒地獄事)」
*今法華経に衣をまいらせ給ふ女人あり
柳のあをうらの小袖、わた十両に及んで候か。
中略
今法華経に衣をまいらせ給ふ女人あり。後生には八寒地獄の苦をまぬがれさせ給ふのみならず、今生には大難をはら(払)ひ、其の功徳のあまりを男女のきんだち(公達)、きぬ(衣)にきぬ(衣)をかさ(重)ね、いろ(色)にいろをかさね給ふべし。
11月20日
書を池上宗長に報ず
「兵衛志殿御返事(三障四魔の事)」
(定2、4-266・P1401、P3018、創新176・P1486、校2-277・P1449、全P1090、新P1182)
身延・兵衛志
創価学会新版・池上宗長
真蹟16紙完(但し第11紙末尾11字欠)・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺蔵
第11紙末尾22字2行・東京都 某家蔵
日朝本 平24
録内39-22 遺19-65 縮1324
*昭和定本「兵衛志殿御返事」
創価学会新版「兵衛志殿御返事(三障四魔の事)」
平成校定「兵衛志殿御返事(諌暁書)」
全集「兵衛志殿御返事(三障四魔事)」
< 系年 >
昭和定本「建治3年11月20日(境)或は建治元年(縮)」
創価学会新版・平成校定「建治3年11月20日」
全集「建治元年11月20日」
*仏道をなり給へ・・・兄は勘当され弟の信仰はぐらつき
たゞしこのたびゑもん(右衛門)の志(さかん)どの(殿)かさねて親のかんだう(勘当)あり。とのゝ御前にこれにて申せしがごとく、一定かんだうあるべし、ひゃうへ(兵衛)の志殿をぼつかなし、ごぜん(御前)かまへて御心へ(得)あるべしと申して候ひしなり。
今度はとの(殿)は一定を(落)ち給ひぬとをぼ(覚)うるなり。をち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず。但地獄にて日蓮をうらみ給ふ事なかれ。しり候まじきなり。
千年のかるかや(苅茅)も一時にはひ(灰)となる。百年の功も一言にやぶれ候は法のことわり(理)なり。さゑもんの大夫殿は今度法華経のかたきになりさだ(定)まり給ふとみへて候。ゑもんのたいうの志殿は今度法華経の行者になり候はんずらん。とのは現前の計(はか)らひなれば親につき給はんずらむ。
ものぐる(物狂)わしき人々はこれをほめ候べし。宗盛(むねもり)が親父(おや)入道の悪事に随ひてしのわら(篠原)にて頸を切られし、重盛(しげもり)が随はずして先に死せし、いづれか親の孝人なる。
法華経のかたきになる親に随ひて、一乗の行者なる兄をす(捨)てば、親の孝養となりなんや。せんずるところ、ひとすぢにをも(思)ひ切って、兄と同じく仏道をなり給へ。親父は妙荘厳王(みょうしょうごんのう)のごとし、兄弟は浄蔵・浄眼なるべし。昔と今はかわるとも、法華経のことわりたが(違)うべからず。
*凡夫の仏になる
過去遠々劫より法華経を信ぜしかども、仏にならぬ事これなり。しを(潮)のひ(干)るとみ(満)つと、月の出づるといると、夏と秋と、冬と春とのさかひには必ず相違する事あり。凡夫の仏になる又かくのごとし。必ず三障四魔と申す障(さわ)りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり。此の事はわざ(態)とも申し、又びんぎ(便宜)にとをもひつるに、御使ひにありがたし。堕ち給ふならばよもこの御使ひはあらじとをもひ候へば、もしやと申すなり。
11月28日
書を曽谷教信に報ず
「曽谷入道殿御返事(如是我聞の事)」
(定2-267・P1407、創新166・P1436、校2-278・P1454、全P1057、新P1186)
身延・曾谷次郎入道
創価学会新版・曽谷教信
宝18 満上192 真蹟なし
録外12-2 受5-21 遺23-59 縮1653
*昭和定本「曾谷入道殿御返事(如是我聞抄)」
創価学会新版「曽谷入道殿御返事(如是我聞の事)」
全集「曾谷入道殿御返事(如是我聞事)」
*妙法口唱=一代の大綱を覚り給へり
今妙法蓮華経と申す人々はその心をしらざれども、法華経の心をう(得)るのみならず、一代の大綱(たいこう)を覚り給へり。例せば一・二・三歳の太子位につき給ひぬれば、国は我が所領なり。摂政・関白已下は我が所従なりとは、しらせ給はねども、なにも此の太子の物なり。譬へば小児は分別の心なけれども、悲母の乳を口にの(飲)みぬれば自然に生長するを、趙高(ちょうこう)が様に心おご(傲)れる臣下ありて、太子をあな(侮)づれば身をほろぼす。諸経諸宗の学者等、法華経の題目ばかりを唱ふる太子をあなづりて、趙高が如くして無間地獄に堕つるなり。又法華経の行者の、心もしらず題目計りを唱ふるが、諸宗の智者におどされて退心をおこすは、こがい(胡亥)と申せし太子が趙高(ちょうこう)におどされ、ころされしが如し。
*妙法蓮華経の五字・一経の心なり
所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人々は名と計り思へり。さにては候はず、体なり。体とは心にて候。
章安云はく「蓋(けだ)し序王(じょおう)とは経の玄意(げんい)を叙(じょ)し、玄意は文の心を述ぶ」云云。
此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず、義にあらず、一経の心なりと釈せられて候。されば題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は、猿をはなれて肝をたづねしはかなき亀なり。山林をすてゝ菓(このみ)を大海の辺(ほとり)にもとめし猿猴(えんこう)なり。はかなしはかなし。
11月
曼荼羅 (46)を図顕する
*通称
「切鉑(きりはく)御本尊」
*顕示年月日
[建治]三年太才丁丑十一月 日
*讃文
仏滅度後二千二百 余年之間一閻浮 提之内未 曾有 大漫荼 羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無十方分身諸仏 南無善徳如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無舎利弗尊者 南無迦葉尊者 不動明王 愛染明王 大梵天王 帝釈天王 大提頭頼吨天王 大毘楼博叉天王 大毘楼勒叉天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 正八幡宮 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
92.4×45.8㎝ 3枚継ぎ
*備考
現存真蹟曼荼羅では、十方分身諸仏・善徳如来の列座は曼荼羅(46)が最後となり、曼荼羅(47)以降は見られない。
*所蔵
京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺
12月17日
書を著す
「大白牛車書(だいびゃくごしゃしょ)」
(定2-269・P1411、創新431・P2151、校2-279・P1458、全P1543、新P1188)
身延・南条七郎次郎
宝12 真蹟なし
録外5-40 受2-21 遺23-64 縮1658
*録外「大白牛車御消息」
平成校定「大白牛車書(牛角抄)」
*昭和定本「建治3年12月17日」
*大白牛車の一乗法華の相伝
夫(それ)法華経第二の巻に云はく「此の宝乗に乗じて直(ただ)ちに道場に至る」云云。日蓮は建長五年三月二十八日、初めて此の大白牛車の一乗法華の相伝を申し顕はせり。而(しか)るに諸宗の人師等雲霞(うんか)の如くよせ来たり候。中にも真言・浄土・禅宗等、蜂の如く起こりせめたゝかふ。日蓮大白牛車の牛の角(つの)最第一なりと申してたゝかふ。両の角は本迹二門の如く、二乗作仏・久遠実成是なり。
中略
抑(そもそも)此の車と申すは本迹二門の輪を妙法蓮華経の牛にかけ、三界の火宅を生死生死とぐるりぐるりとまは(廻)り候ところの車なり。ただ信心のくさび(轄)に志のあぶら(膏)をさゝせ給ひて、霊山浄土へまいり給ふべし。又心王は牛の如し、生死は両の輪の如し。伝教大師云はく「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」云云。天台云はく「十如は只是乃至(ないし)今境は是体」云云。此の文釈能く能く案じ給ふべし
12月19日
幕府 六波羅政務の条規を議定す(建治三年日記)
12月30日
日蓮 発病す(中務左衛門尉殿御返事・定P1524・同・全P1179)
この年
駿州芝富村長貫栄昌山澄霊寺(真言宗)権僧正大覚院(坊法印) 日蓮の教えに伏して改宗し、永昌院日長と名づく(過去帳・日蓮宗年表)
【 系年、建治3年と推定される書・曼荼羅本尊 】
書を南条時光の縁者に報ず
「庵室修復書(あんじちしゅふくしょ)」
(定2-268・P1410、創新313・P1870、校2-280・P1460、全P1542、新P1189)
身延
創価学会新版・南条時光の縁者
真蹟4紙断片・身延山久遠寺曽存(乾録)
宝12 満下170
録外5-40 遺23-63 縮1657
*録外「大白牛車御消息」
< 系年 >
昭和定本・平成校定「建治3年冬」
創価学会新版「建治3年」
*この年に身延山の庵室が半倒壊し、修理する
去ぬる文永十一年六月十七日に、この山のなかに、き(木)をうちきりて、かりそめにあじち(庵室)をつくりて候ひしが、やうやく四年がほど、はしら(柱)く(朽)ち、かきかべ(牆壁)をち候へども、なを(直)す事なくて、よる(夜)ひ(火)をとぼさねども、月のひかり(光)にて聖教をよみまいらせ、わ(我)れと御経をま(巻)きまいらせ候はねども、風をのづ(自)からふ(吹)きかへ(返)しまいらせ候ひしが、今年は十二のはしら(柱)四方にかうべ(頭)をな(投)げ、四方のかべは一そ(所)にたう(倒)れぬ。うだい(有待)たも(保)ちがたければ、月はすめ、雨はと(止)ゞまれとはげみ候ひつるほどに、人ぶ(夫)なくして、がくしゃう(学生)ども(共)をせめ、食なくしてゆき(雪)をもちて命をたすけて候ところに、さき(前)にうへのどの(上野殿)よりいも(芋)二駄、これ一だはたま(珠)にもすぎ、
書を四条金吾に報ず
「四条金吾殿御返事(留難[るなん]を止[とど]むる秘術の事)」
(定2-258・P1386、創新211・P1598、校2-283・P1467、全P1170、新P1194)
身延・ 四条金吾
真蹟なし
続中16 遺23-44 縮1636
*昭和定本「四条金吾殿御返事」
創価学会新版「四条金吾殿御返事(留難を止むる秘術の事)」
*昭和定本・創価学会新版「建治3年」
*一切衆生色心の留難を止むる秘術
法華経を本迹相対して論ずるに、迹門は尚(なお)始成正覚の旨を明かす。故にいまだ留難(るなん)かゝれり。本門はかゝる留難を去りたり。然りと雖も題目の五字に相対する時は末法の機にかなはざる法なり。真実一切衆生色心の留難を止(とど)むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり。
書を西山殿に報ず
「西山殿御返事(名ばかり申し候の事)」
(定2-238・P1291、創新356・P1952、校2-255・P1332、全P1477、新P1101)
身延・西山
創価学会新版・西山殿
真蹟1紙完・身延山久遠寺曽存(遠、奠、亨録)
延山録外 縮続92
*昭和定本「西山殿御返事」
創価学会新版「西山殿御返事(名ばかり申し候の事)」
*昭和定本「建治3年1月23日」
創価学会新版「建治・弘安期」
書を著す
「法華初心成仏抄」
(定2-270・P1413、創新48・P685、校2-338・P1665、全P544、新P1307)
身延
日朝本 平24 真蹟なし
録内22-1 遺24-5 縮1671
*平成校定「法華初心成仏抄(初心抄)」
< 系年 >
昭和定本・創価学会新版・全集「建治3年」
平成校定「弘安元年」
*法華宗は釈迦所立の宗なり
問うて云はく、八宗九宗十宗の中に何(いず)れか釈迦仏の立て給へる宗なるや。答へて云はく、法華宗は釈迦所立の宗なり。其の故は已説・今説・当説の中には法華経第一なりと説き給ふ。是釈迦仏の立て給ふ処の御語(みことば)なり。故に法華経をば仏立(ぶつりゅう)宗と云ひ、又は法華宗と云ふ。又天台宗とも云ふなり。故に伝教大師の釈に云はく、天台所釈の法華の宗は釈迦世尊所立の宗と云へり。法華より外(ほか)の経には全く已今当の文なきなり。已説とは法華より已前の四十余年の諸経を云ひ、今説とは無量義経を云ひ、当説とは涅槃経を云ふ。此の三説の外に法華経計り成仏する宗なりと仏定め給へり。余宗は仏涅槃し給ひて後、或は菩薩、或は人師達の建立する宗なり。
*依法不依人
仏の御定(ごじょう)を背きて、菩薩人師の立てたる宗を用ゆべきか、菩薩人師の語(ことば)を背きて、仏の立て給へる宗を用ふべきか、又何れをも思ひ思ひに我が心に任せて志あらん経法を持つべきかと思ふ処に、仏是(これ)を兼ねて知ろし召して、末法濁悪の世に真実の道心あらん人々の持つべき経を定め給へり。
経に云はく「法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ、知に依って識(しき)に依らざれ、了義経に依って不了義経に依らざれ」文。此の文の心は菩薩人師の言(ことば)には依るべからず、仏の御定を用ひよ、華厳・阿含・方等・般若経等、真言・禅宗・念仏等の法には依らざれ、了義経を持つべし、了義経と云ふは法華経を持つべしと云ふ文なり。
*法華経を弘むべき国なり
問うて云はく、今日本国を見るに、当時五濁の障(さわ)り重く、闘諍堅固にして瞋恚(しんに)の心猛(たけ)く、嫉妬の思ひ甚だし。かゝる国かゝる時には、何れの経を弘むべきや。答へて云はく、法華経を弘むべき国なり。
其の故は法華経に云はく「閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云。
瑜伽論(ゆがろん)には、丑寅(うしとら)の隅に大乗妙法蓮華経の流布すべき小国ありと見えたり。
安然(あんねん)和尚云はく「我が日本国」等云云。天竺よりは丑寅の角(すみ)に此の日本国は当たるなり。
又慧心僧都(えしんそうず)の一乗要決に云はく「日本一州円機純一にして、朝野遠近(ちょうやおんごん)同じく一乗に帰し、緇素(しそ)貴賎悉(ことごと)く成仏を期せん」云云。此の文の心は、日本国は京・鎌倉・筑紫・鎮西(ちんぜい)・みちをく(陸奥)、遠きも近きも法華一乗の機のみ有りて、上も下も貴きも賎しきも持戒も破戒も男も女も、皆おしなべて法華経にて成仏すべき国なりと云ふ文なり。譬へば崑崙(こんろん)山に石なく蓬莱(ほうらい)山に毒なきが如く、日本国は純(もっぱ)らに法華経の国なり。
*法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字
答へて云はく、末法当時は久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘めさせ給ふべき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり、上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり。其の故は経文明白なり。道心堅固にして志あらん人は委(くわ)しく是を尋ね聞くべきなり。
*上行菩薩の化身、釈迦如来の御使ひ
智顗(ちぎ)法師と云ふは後には天台大師と号し奉る。最澄法師は後には伝教大師と云ふ是なり。
今の国主も又是くの如し。現世安穏後生善処なるべき此の大白法を信じて国土に弘め給はゞ、万国に其の身を仰がれ、後代に賢人の名を留め給ふべし。知らず、又無辺行菩薩の化身にてやましますらん。又妙法の五字を弘め給はん智者をば、いかに賎しくとも上行菩薩の化身か、又釈迦如来の御使ひかと思ふべし。
*よき師、よき檀那、よき法
祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。
書を窪尼に報ず
「窪尼御前御返事(くぼのあまごぜんごへんじ)(金[こがね]と蓮[はちす]の事)」
(定2-422・P1902、創新372・P1980、校2-456・P2035、全P1476、新P1583)
身延・西山殿後家尼
創価学会新版・窪尼
日興本(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵
日朝本 宝11 満上226
録外2-10 受2-24 遺30-37 縮2087
*本満寺本「西山殿御返事」
昭和定本「西山殿後家尼御前御返事(西山殿御返事)」
創価学会新版「窪尼御前御返事(金と蓮の事)」
*昭和定本「弘安4年」
創価学会新版「建治・弘安期」
*身延山の日蓮を慮っての御供養
あまざけ(甘酒)一をけ(桶)、やまのいも(山芋)、ところ(野老)せうせう(少少)給(た)び了(おわ)んぬ。
梵網(ぼんもう)経と申す経には一紙一草と申して、かみ(紙)一枚、くさ(草)ひとつ。大論と申すろん(論)にはつち(土)のもち(餅)ゐを仏にくやう(供養)せるもの、閻浮提の王となるよしをと(説)かれて候。
これはそれにはに(似)るべくもなし。そのうへをとこ(夫)にもすぎわかれ、たのむかたもなきあま(尼)の、するが(駿河)の国西山と申すところより、甲斐国はきゐ(波木井)の山の中にをく(送)られたり。人にす(捨)てられたるひじり(聖)の、寒にせめられていかに心ぐる(苦)しかるらんと、をも(思)ひや(遣)らせ給ひてをく(送)られたるか。
*通称
焼残りの御本尊
*讃文
仏滅後二千二百二十 余年之間一閻浮提 之内未曾有大 漫荼羅也
*相貌
首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無善徳如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者 不動明王 大梵天王 大持国天王 大広目天王 大日天王 第六天王 天照太神 正八幡宮 四輪王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 鬼子母神 十羅刹女
*寸法
87.3×38.8㎝ 3枚継ぎ
*備考
・本能寺は「焼残りの御本尊」と呼称するも、その理由、時期については不明。織田信長が討たれた「本能寺の変」を意識してのものか。
*所蔵
京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町 本能寺
⇒系年は建治3年か