1271年・文永8年 辛未(かのとひつじ) 50歳
亀山天皇
北条時宗
1月11日
書を秋元殿に報ず
「秋元殿御返事」
(定1-45・P405、創新169・P1455、校1-43・P369、全P1070、新P334)
安房 保田・秋元殿
宝5 真蹟なし
録外25-27 遺11-8 縮667
*昭和定本・創価学会新版「秋元殿御返事」
平成校定「秋元殿御返事(五節供事)」
全集「秋元殿御返事(五節供御書)」
< 系年 >
昭和定本「文永3年1月11日或は文永8年(縮)」
創価学会新版・全集「文永8年1月11日」
平成校定「文永2年1月11日」
4月17日
書を著すと伝う
「寿量品得意抄(じゅりょうほんとくいしょう)」
(定3続編22・P2058、創新421・P2141、校3真偽未決書8・P2827、全P1210)
鎌倉
昭和定本・創価学会新版・対告衆なし
満上109 宝17 真蹟なし
録外15-11 遺11-9 縮669
*昭和定本「文永8年4月17日」
創価学会新版・系年なし
5月8日
書を四条金吾に報ず
「月満御前御書(つきまろごぜんごしょ)」
(定1-79・P485、創新190・P1511、校1-79・P518、全P1110、新P462)
四条金吾
受5-19 遺11-13 縮672 真蹟なし
*全集「月満御前御書(月満誕生御書)」
< 系年 >
昭和定本「文永8年5月」
創価学会新版・平成校定「文永8年5月8日」
*御本尊・十羅刹に申し上げて候
其の上此の国の主(あるじ)八幡大菩薩は卯月八日にうまれさせ給ふ。娑婆世界の教主釈尊も又卯月八日に御誕生なりき。今の童女、又月は替はれども八日にうまれ給ふ。釈尊・八幡のうまれ替はりとや申さん。
日蓮は凡夫なれば能(よ)くは知らず。是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。さこそ父母も悦び給ふらん。殊に御祝として餅(もちい)・酒・鳥目(ちょうもく)一貫文送り給び候ひ畢(おわ)んぬ。是また御本尊・十羅刹に申し上げて候。
⇒文中の御本尊は曼荼羅か?法華経か?釈尊像か?
現存曼荼羅で、図顕開始が確認されるのは、文永8年10月以降。
5月16日
書を波木井実長に報ず
「南部六郎殿御書(なんぶのろくろうどのごしょ)」
(定1-80・P487、創新283・P1806、校1-80・P520、全P1374、新P463)
南部六郎
創価学会新版・波木井実長(はきいさねなが)
延山録外 縮続94 真蹟なし
*全集「南部六郎殿御書(国家謗法事)」
平成校定「南部六郎殿御書(国家謗法之事)」
5月
書を日眼女に報ず
「四条金吾女房御書(しじょうきんごのにょうぼうごしょ)」
(定1-78・P484、創新189・P1510、校1-81・P521、全P1109、新P464)
四条金吾女房
創価学会新版・日眼女(にちげんにょ)
日朝本 宝9 真蹟なし
録外2-42 遺11-12 縮671
*平成校定「四条金吾女房御書(印東金吾女房書)」
全集「四条金吾女房御書(安楽産福子御書)」
*昭和定本「文永8年5月7日」
創価学会新版「文永8年5月」
平成校定「文永8年5月 日」
*符の事、日蓮相承の中より撰み出だして
懐胎(かいたい)のよし承り候ひ畢(おわ)んぬ。それについては符(ふ)の事仰せ候。日蓮相承の中より撰(えら)み出だして候。能(よ)く能く信心あるべく候。たと(例)へば秘薬なりとも、毒を入りぬれば薬の用すくなし。つるぎ(剣)なれども、わるびれ(臆病)たる人のためには何かせん。就中(なかんずく)、夫婦共に法華の持者なり。法華経流布あるべきたね(種)をつぐ所の玉の子出で生まれん。目出度(めでた)く覚へ候ぞ。色心二法をつぐ人なり。争(いか)でかをそ(遅)なはり候べき。と(疾)くと(疾)くこそう(生)まれ候はむずれ。
*此の薬、口伝相承の事
此の薬をのませ給はゞ疑ひなかるべきなり。闇なれども灯(ひ)入りぬれば明らかなり。濁
水にも月入りぬればすめり。明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。
法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり。
信心の水すまば、利生の月必ず応(おう)を垂(た)れ守護し給ふべし。と(疾)くと(疾)くうまれ候べし。法華経に云はく「如是妙法」と。又云はく「安楽産福子(あんらくさんふくし)」云云。口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候。則ち如来の使ひなるべし。返す返すも信心候べし。
5月
書を三位房に与う
「十章抄(じっしょうしょう)」
(定1-81・P488、創新238・P1664、校1-82・P523、全P1273、新P465)
三位公日行
創価学会新版・三位房(さんみぼう)
真蹟6紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵(但し前2紙、後尾1紙欠?)
日朝本
録内30-27 遺11-14 縮674
*平成校定「真蹟9紙(但し第1・2・9紙欠)」
*昭和定本・創価学会新版「文永8年5月」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*日本国・大乗の中の一乗の国なり
当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり。設ひぜん(善)たりとも、義分あ(当)たれりというとも、先づ名をい(忌)むべし。其の故は仏法は国に随ふべし。天竺には一向小乗・一向大乗・大小兼学の国あ(相)ひわ(分)かれたり。震旦(しんだん)亦復(またまた)是くの如し。日本国は一向大乗の国、大乗の中の一乗の国なり。華厳・法相・三論等の諸大乗すら猶相応せず。何(いか)に況んや小乗の三宗をや。
5月
澄覚 天台座主に重補される(天台座主記・続史愚抄)
6月18日より24日
極楽寺良観( 1217年[建保5年]~1303年[乾元2年・嘉元元年]、西大寺叡尊に師事し真言律宗を名乗る )の祈雨
「下山御消息」(建治3年6月 真蹟)より
此に両火房上より祈雨の御いのりを仰せ付けられたり云云。
此に両火房祈雨あり。去ぬる文永八年六月十八日より二十四日なり。
此に使ひを極楽寺へ遣はす。年来(としごろ)の御歎きこれなり。
「七日が間に若し一雨も下(ふ)らば、御弟子となりて二百五十戒具(つぶさ)に持たん上に念仏無間地獄と申す事ひが(僻)よ(読)みなりけりと申すべし。余だにも帰伏し奉らば、我が弟子等をはじめて日本国大体かたぶき候ひなん」云云。
七日が間に三度の使ひをつかはす。然れどもいかんがしたりけむ一雨も下(ふ)らざるの上、頽(たい)風・飆(ひょう)風・旋(せん)風・暴風等の八風十二時にやむ事なし。剰(あまつさ)へ二七日まで一雨も下らず、風もやむ事なし。されば此の事は何事ぞ。
【 祈雨の勝負について 】
以下、「頼基陳状」(建治3年6月25日 日興本)より
「去ぬる文永八年太歳辛未六月十八日大旱魃(かんばつ)の時、彼の御房祈雨の法を行なひて万民をたすけんと申し付け候由、日蓮聖人聞き給ひて、此体(これてい)は小事なれども、此の次いでに日蓮が法験(ほうけん)を万人に知らせばやと仰せありて、」
文永8年6月、大旱魃となった鎌倉では民衆は苦しみに喘ぎ、その窮状を脱する為、鎌倉幕府は良観に祈雨の修法を命じる。
それを耳にした日蓮は「日蓮が法験を万人に知らせばや」と、かねてから訴えていた「仏法の正邪」を万民に知らせる好機と考える。
そこで、
「仍(よ)って良観房の所(もと)へ周防房(すおうぼう)・入沢(いるさわの)入道と申す念仏者を遣はす。」
良観の弟子である周防房と入沢入道に、以下の内容を告げて良観のもとへと走らせる。
「七日の内にふらし給はゞ日蓮が念仏無間と申す法門すてゝ、良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、」
良観が一週間以内に雨を降らせたならば、私は良観の弟子になる。
「雨ふらぬほどならば、彼の御房の持戒げ(気)なるが大誑惑なるは顕然(けんねん)なるべし。」
雨が降らないならば、良観の教えは大誑惑であることが明らかとなる。
「上代も雨祈(あまごい)に付いて勝負を決したる例(ためし)これ多し。所謂(いわゆる)護命(ごみょう)と伝教大師と、守敏(しゅびん)と弘法(こうぼう)となり。」
祈雨により仏法の勝負を決した先例がある。
日蓮の申し入れ、
「七日の内に雨降るならば、本の八斎戒・念仏を以て往生すべしと思ふべし、」
良観の祈雨の修法が成就したならば、その弟子となろう。
「又雨らずば一向に法華経になるべし」
祈雨が叶わなかった時は良観が法華経を受持すべしについては、
「是等悦びて極楽寺の良観房に此の由を申し候ひけり。」
周防房と入沢入道は喜び、師匠である良観に報告。
それを聞いた良観は
「良観房悦びな(泣)いて七日の内に雨ふらすべき由にて、」
と泣くほどに喜ぶ。
続いて祈雨は始まり、良観と「弟子百二十余人」が、「頭より煙を出だし、声を天にひゞかし」ながら、激しく祈雨の修法を行う。
経典は「或は念仏、或は請雨(しょうう)経、或は法華経、或は八斎戒を説きて種々に祈請(きしょう)す。」と多岐に亘るも、験はなくして「四五日まで雨の気無ければ」雨の気配は一向になしの現実。その時点で良観と弟子達は「たましゐを失ひて」となる。
そこで「多宝寺の弟子等数百人呼び集めて」他寺院の僧衆までをも動員し、「力を尽くして祈り」を捧げても、結局は一週間たっても「七日の内に露ばかりも雨降らず」という結果に終わった。
「其の時日蓮聖人使ひを遣はす事三度に及ぶ」と、使者を三度も良観のもとへと派遣。
日蓮の破折は痛烈なもの。
「持戒持律の良観房」として「法華・真言の義理を極め」て、「慈悲第一と」世に普く「聞こへ給う上人」であり、しかも「数百人の衆徒を率ゐて」祈雨の修法を行い、「七日の間に」雨を降らせるはずだったのが、「いかにふらし給はぬやらむ」どうして降らせられなかったのだろうか。
「是を以て思ひ給へ」
この現証を以て知るべきである。
「一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんや」
一丈の堀すらも越えられない者が、どうして二丈、三丈の堀を超えることができるのだろうか。
「やすき雨をだにふらし給はず、況やかた(難)き往生成仏をや」
雨を降らすこともできないのに、ましてや難しい往生成仏を遂げることなどできようはずもない。
「然れば今よりは日蓮怨み給ふ邪見をば是を以て翻(ひるがえ)し給へ」
そのようなことであるのだから、只今よりは、私に対する怨み憎しみ、爾前権教に執着する邪見を改めて、法華経を受持しなさい。
「後生をそ(恐)ろしくをぼ(思)し給はゞ約束のまゝにいそぎ来たり給へ。」
成仏を願い後生を怖れるならば、兼ねての約束通り、私のもとに急いで来なさい。
「雨ふらす法と仏になる道をし(教)へ奉らむ。七日の内に雨こそふらし給はざらめ。」
しかれば、雨を降らす法、成仏への道を教えよう。また、当初のあなたの願いであった七日の内に雨を降らすことも叶うであろう。
勝負の七日目に至るまで良観と弟子達が祈った結果が、
「旱魃(かんばつ)弥(いよいよ)興盛に八風ますます吹き重なりて民のなげき弥々深し。」
と雨が降るどころか、旱魃が益々進み、暴風が荒れ狂い、万民の苦しみが増すの惨状。
故に日蓮は、
「すみやかに其のいのりや(止)め給へと、第七日の申(さる)の時・使者ありのまゝに申す」
と使者を通して祈雨の中止を促したが、
「良観房は涙を流す。弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる」
良観は涙を流し、弟子檀那は大声をあげて悔しがった。
「然れば良観房身の上の恥を思はゞ、跡をくらまして山林にもまじはり、約束のまゝに日蓮が弟子ともなりたらば、道心の少しにてもあるべきに、さはなくして無尽の讒言を構へて、殺罪に申し行なはむとせし」
良観房は身の恥を思うのならば、自らの信ずる法を捨て山林へと入り当初の約束通り日蓮の門へと下り、その弟子となれば少しの道心はあるべき人物と思っていたのに、そうではなくて、ありもしないことを言って訴訟を起こし、死罪に処させようとした。
7月12日
書を四条金吾に報ず
「四条金吾殿御書」
(定1-82・P493、創新191・P1513、校1-83・P528、全P1111、新P469)
四条金吾
延山本 宝9 真蹟なし
録外22-19 受3-9 遺11-19 縮679
*昭和定本・創価学会新版「四条金吾殿御書」
平成校定「四条金吾殿御書(施餓鬼御書)」
全集「四条金吾殿御書(盂蘭盆由来御書)」
*法華経の行者、釈迦・多宝仏・十方の諸仏の御宝前
僧の中にも父母師匠の命日をとぶらふ人はまれなり。定めて天の日月・地の地神いかりいき(憤)どをり給ひて、不孝の者とおもはせ給ふらん。形は人にして畜生のごとし、人頭鹿(にんずろく)とも申すべきなり。
日蓮此の業障をけしはてゝ未来は霊山浄土にまい(詣)るべしとおもへば、種々の大難雨のごとくふり、雲のごとくにわき候へども、法華経の御故なれば苦をも苦とおもはず。かゝる日蓮が弟子檀那となり給ふ人々、殊に今月十二日の妙法聖霊は法華経の行者なり日蓮が檀那なり、いかでか餓鬼道におち給ふべきや。定んで釈迦・多宝仏・十方の諸仏の御宝前にましまさん。是こそ四条金吾殿の母よ母よと、同心に頭をなで悦びほめ給ふらめ。あはれいみじき子を我はもちたりと、釈迦仏とかたらせ給ふらん。
【 祈雨の勝負から竜の口へ① 行敏御返事 】
7月13日
浄土僧・行敏の難状に答う
「行敏御返事(ぎょうびんごへんじ)」
(定1-83・P496、創新76・P867、校1-84・P531、全P179、新P471)
創価学会新版・行敏
真蹟1紙断簡・静岡県湖西市(こさいし)鷲津 本興寺蔵
満下195 平19 宝11
録外18-31 続中28 遺11-22 縮682
⇒極楽寺良観の「祈雨の勝負」惨敗に、他の仏教諸派の高僧達も危機感を持ったか。今度は鎌倉の諸宗教が結託して、日蓮に対する行動に出る。
光明寺の開山と伝えられる「法然上人の孫弟子・念阿弥陀仏」(行敏訴状御会通)の弟子・行敏が、日蓮に対して「難状」を送り、法論を求めてくる。
*「行敏御返事」中の「行敏初度の難状」
未だ見参に入らずと雖も、事の次(ついで)を以て申し承るは常の習ひに候か。
抑(そもそも)風聞の如くんば所立の義尤(もっと)も以て不審なり。
法華の前に説ける一切の諸経は、皆是妄語にして出離の法に非ずと是一。
大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむるの法と是二。
念仏は無間地獄の業たりと是三。
禅宗は天魔の説、若し依って行ずる者は悪見を増長すと是四。
事若し実(まこと)ならば仏法の怨敵なり。仍って対面を遂げて悪見を破らんと欲す。将又(はたまた)其の義無くんば争(いか)でか悪名を被(こうむ)らざらん、痛ましきかな。是非に付き委しく示し給はるべきなり。恐々謹言。
七月八日 僧行敏在判
日蓮阿闍梨御房
意訳
風聞の通りならば、日蓮の立てる教えは全く以て不審なのである。
一つ目は、「釈尊の教えの中で、法華経以前に説かれた一切の諸経は、全てが妄語であり、生死を出離する成仏得道の法ではない」ということ。
二つ目は、「大小の戒律は世間を誑惑して、人を悪道に堕落させる法である」ということ。
三つ目は、「念仏を唱えれば無間地獄へと堕す、業を積む因である」ということ。
四つ目は、「禅宗は天魔の教えであり、これを行ずる者は悪見を増長する」ということ。
これらが若し事実ならば、日蓮は仏法の怨敵である。あなたと対面し、悪見を破そうと思うが、返答を願いたい。あなたは教えの是非について、詳しく示すべきである。
行敏の難状に対して、日蓮も数日後には返答をする。
*「行敏御返事」中の「行敏初度の難状」の続き、日蓮の返書。
条々御不審の事、私の問答は事行き難く候か。然れば上奏を経られ、仰せ下さるゝの趣(おもむき)に随って是非を糾明せらるべく候か。
此くの如く仰せを蒙(こうむ)り候条、尤(もっと)も庶幾(しょき)する所に候。恐々謹言。
七月十三日 日蓮花押
行敏御房御返事
意訳
あなたよりお尋ねの件については、私的な問答では行い難い。上奏を経た上で、日蓮の教えの是非について論じあうべきではないか。このような問答(公場対決)はかねてから願っていたところである。
⇒祈雨の勝負で完敗した良観ら諸宗の僧達。今度は念仏僧の行敏を表に立て、日蓮に「問答」を仕掛けたものの、より話が大きくなるであろう「公場での対決」を求められてしまう。良観達は日蓮から投げ返された話を進める気はなく、有りもしないことをでっち上げて、再び念仏僧の行敏を担ぎあげての「訴訟」を行う。
【 祈雨の勝負から竜の口へ② 行敏訴状御会通 】
7月
書を著して良観らの訴状に反論す
「行敏訴状御会通(びょうびんそじょうごえつう)」
(定1-84・P497、創新77・P868、校1-85・P532、全P180、新P472)
真蹟19紙・身延山久遠寺曽存(乾・遠・奠・筵録)
延山録外2・3 日朝本
録内37-30 遺11-23 縮683
*平成校定「良観念阿等訴状御返礼」
*当世日本第一の持戒の僧良観聖人並びに法然上人の孫弟子念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等諸聖人等の日蓮を訴訟する状に云はく「早く日蓮を召し決せられて邪見を摧破(さいは)し、正義を興隆せんと欲する事」云云。
日蓮云はく「邪見を摧破し正義を興隆せば、一眼の亀の浮木の穴に入るならん」幸甚幸甚。
⇒この書は、今日では「行敏訴状御会通」として伝えられている書だが、日蓮を鎌倉幕府に訴え出た訴訟の主は、実質的には良観・念阿弥陀仏・道阿弥陀仏らの高僧達であり、そのことを認識していた日蓮は本文冒頭で「良観、念阿弥陀仏、道阿弥陀等」と記したものか。
訴状の要点は、
①「日蓮偏(ひとえ)に法華一部に執して諸余の大乗を誹謗す」
日蓮は法華経だけを正としている。念仏・禅・律宗を誹謗している。
②「年来の本尊・弥陀・観音等の像を火に入れ水に流す」
あろうことか、諸宗の本尊を焼いたり、水に流している。
③「凶徒を室中に集む」
凶徒を集めている。
④「又云く『兵杖(ひょうじょう)』等云云。」
武器を隠し持っている。
というもの。
特に幕府を刺激したのは③④の「日蓮一派は凶徒を結集し、武器を持った危険人物を集めて社会に不安を与えている」ではなかったか。「凶徒を室中に集」め「兵杖」を貯えているのでは、次に何をしようとしているのか?謀反を企んでいるのか?と、幕府も猜疑心にとらわれる。鎌倉の諸宗は「日蓮一派は凶徒である」とのレッテルを貼り、悪しき印象を植え付けようとした。
訴状を受けた幕府は日蓮に回覧し、返答を求める。直ちに「行敏訴状御会通」を幕府に呈して良観らを破折。
*冒頭、訴状には「(日蓮の)邪見を摧破し正義を興隆」するとあるが、それはむしろ「一眼の亀の浮木の穴に入るならん、幸甚幸甚」と、千載一遇の機会であると喜ぶ。
①他宗誹謗云々については、
「道綽(どうしゃく)禅師云はく『当今(とうこん)末法は是五濁悪世なり、唯浄土の一門のみ有って路に通入すべし』云云。善導和尚云はく『千中無一』云云。法然上人云はく『捨閉閣抛』云云。」と記して、
道綽の「唯浄土の一門のみ有って路に通入す」
善導の「千中無一」
法然の「捨閉閣抛」等、
念仏側の教えを列挙して、
「将又(はたまた)忍性良観聖人、彼等の立義に与力して此れを正義と存せらるゝか。」
と真言の良観はこれら念仏の師達の教えに組するのか、と矛順を破折する。
また、
「已今当の三説を非毀(ひき)して法華経一部を讃歎するは釈尊の金言なり、諸仏の傍例なり、敢(あ)へて日蓮が自義に非ず。」
と法華経最第一とするのは釈尊の教えであり、日蓮の自義ではないことを示す。
②他宗の本尊・仏像を焼き、水に流すなどの訴えには、
「此の事慥(たし)かなる証人を指し出だして申すべし。若し証拠無くんば良観上人等自ら本尊を取り出だして火に入れ水に流し、科(とが)を日蓮に負はせんと欲するか。委細は之を糾明せん時其の隠れ無からんか。但し御尋ね無き間は、其の重罪は良観上人等に譲り渡す。二百五十戒を破失せる因縁此の大妄語に如かず。無間大城の人他処(たしょ)に求むること勿れ。」
確かなる証人を出すべきである。
もし、その証拠を出せないのならば、良観上人自らがこれらの悪事を行っている罪を、日蓮に負わせようとしているということになる。詳細は糾明すれば明らかになることであり、その重罪は良観上人に譲り渡そう。
二百五十戒を破失する因縁は、この大嘘にすぎるものはない。その時は、無間地獄に落ちて苦しむ人を、どこかの他人と考えてはならない。
と切り返す。
③「凶徒を室中に集む」に対しては、
「法華経に云はく『或は阿練若に有り』等云云。妙楽云はく、東春に云はく、輔正記に云はく。此等の経釈等を以て当世日本国に引き向かふるに」
と経釈を日本に引き当てながら、
「汝等が挙げる所の建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・大仏殿・長楽寺・浄光明寺等の寺々は妙楽大師の指す所の第三、最も甚しき悪所なり。東春に云はく『即ち是出家の処に一切の悪人を摂す』云云。」
当時の多くの民衆の信を集め、高僧らが起居する寺院こそが悪所であり、このような出家の所にこそ一切の悪人が摂せられている。私・日蓮と起居する草庵ではなく、良観らが悪人であり、幕府の庇護を受けた大寺院こそが仏法を破失する悪所なのだと破折する。
④「又云く『兵杖』等云云。」については、(※)
「涅槃経に云はく、天台の云はく、章安の云はく、妙楽の云はく、法華経守護の為の弓箭(きゅうせん)兵杖は仏法の定むる法なり。例せば国王守護の為に刀杖を集むるが如し。」
と記して仏法守護の為の武器などは「国王守護の為に」武装する如く、当然のこととして反論する。
続いて、
「良観上人等弘通する所の法、日蓮が難脱れ難きの間既(すで)に露顕せしむべきか。」
良観上人が広める法は、日蓮の破折からは逃れ難く、その邪義は露見している、
「故に彼の邪義を隠さんが為に諸国の守護・地頭・雑人等を相語らひて言はく、日蓮並びに弟子等は阿弥陀仏を火に入れ水に流す、汝等が大怨敵なり云云。頸を切れ、所領を追い出せ等と勧進するが故に日蓮の身に疵(きず)を被(こうむ)り、弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり。」
故に、自らの邪義を隠そうとするために、諸国の守護・地頭・雑人等に向かって「日蓮と弟子等は、阿弥陀仏を火に入れて焼き、水に流して滅している。あなた方念仏を信ずる者の大怨敵なのだ」「日蓮とその弟子達の首を切るべきだ。所領も取り上げて追い出すべきである」と言いふらしている。
その為に、東条松原では念仏信者である東条景信達に襲われ我が身に傷を負い、弟子等を殺害されることも数百人に及んでいる。
「此れ偏(ひとえ)に良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出でたり。心有らん人々は驚くべし怖るべし云云。」
これらはひとえに良観・念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等の大嘘から起きたことである。心ある人々は驚き怖れることであろう。
このように日蓮が認めた「行敏訴状御会通」も、問注所から良観ら諸宗の高僧に回覧されたと思われる。
*日蓮入滅後の弘安5年10月16日に日興の記した「宗祖御遷化記録」に、
一 文永八年 辛未 九月十二日 被流佐土島 御年五十
預武州泰司 依極楽寺長老 良観房訴状也 訴状在別紙
との記述がある。
文中の「依極楽寺長老 良観房訴状也 訴状在別紙」の「良観房訴状」(行敏の訴状)、「訴状在別紙」(良観の添状)は、日興の「諸宗要文」(日興上人全集)と身延11世・行学院日朝(1422年~1500年、後の12世・日意、13世・日伝と並んで身延中興の三師とされる)の「元祖化導記」に記される。
「諸宗要文」日興、静岡県富士郡芝川町西山 富士山本門寺蔵
(良観書状案・前欠)
可申承候、兼又此被参候僧被申旨候、以便宜伺入道殿御辺可令申給哉候覧、心事期参上之時候、恐々謹言。
七月二十二日 忍性 判
治部入道殿 信乃判官入道筆師也
「元祖化導記」身延・11世行学院日朝
二十三、良観房の書状案のこと。
その後は良久しく見参に罷り入らず候、罷り出で候便宜の時を以て参上仕り候、何事も申し承る可く候、兼て又此の参られ候僧の申さるる旨候、便宜を以て入道殿の御辺に伺い申さしめ給はる可く候やらん、心事参上の時を期し候、恐惶謹言。
七月二十二日 忍性在判 忍性は良観なり
治部入道殿 信濃判官入道殿
※「法華仏教研究」創刊号 山中講一郎氏の論考「日蓮と『アジール』」
【 祈雨の勝負から竜の口へ③ 権力者夫人への耳打ち 】
良観らが打った次の手は、いつの時代でも必ずや繰り返される権力者夫人への耳打ち。
「頼基陳状」建治3年6月25日 日興本
無尽の讒言を構へて、殺罪に申し行なはむとせし
「種種御振舞御書」真蹟曽存
念仏者・持斎(じさい)・真言師等、自身の智は及ばず、訴状も叶はざれば、上郎(じょうろう)尼ごぜんたちにとりつきて、種々にかま(構)へ申す。故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し、道隆上人・良観上人等を頸をはねよと申す。御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬがれがたし。
「妙法比丘尼御返事」弘安元年9月6日 日朝本
極楽寺の生き仏の良観聖人、折り紙をさゝ(捧)げて上(かみ)へ訴へ、建長寺の道隆聖人は輿(こし)に乗りて奉行人にひざ(跪)まづく。諸の五百戒の尼御前等ははく(帛)をつか(遣)ひてでんそう(伝奏)をなす。是偏(ひとえ)に法華経を読んでよまず、聞いてきかず。善導・法然が千中無一と弘法・慈覚・達磨等の皆是戯論(けろん)、教外別伝のあまきふる酒にえ(酔)はせ給ひて、さか(酒)ぐる(狂)ひにておはするなり。
「報恩抄」建治2年7月21日 真蹟
禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行につき、或はきり(権家)人につき、或はきり(権閨)女房につき、或は後家尼御前等えつひて無尽のざんげん(ざんげん)をなせし程に、最後には天下第一の大事、日本国を失はんと呪そ(咀)する法師なり。故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし、但須臾(しゅゆ)に頸をめせ。弟子等をば又或は頸を切り、或は遠国につかはし、或は籠に入れよと尼ごぜんたち(御前達)いか(怒)らせ給ひしかば、そのまゝ行なはれけり。
「故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。」
今日、「家訓」として記憶される「極楽寺殿御消息」を残した極楽寺殿=連署の北条重時、そして、日蓮が「立正安国論」を上進した相手である最明寺殿=5代執権の北条時頼。
「日蓮は『最明寺殿・極楽寺殿は無間地獄に堕ちた』と言っている」「御尋ねあるまでもなし、但須臾に頚をめせ・弟子等をば又頚を切り・或は遠国につかはし・或は篭に入れよ」との諸宗の高僧らの訴え、大合唱。それを聞いた「尼ごぜんたち」の感情。
この段階で竜の口への道は開かれたか。
【 祈雨の勝負から竜の口へ④ 平左衛門尉頼綱と対面 】
9月2日
幕府 高麗の牒状を朝廷に奏上し議定(吉続記)
9月10日
日蓮は平左衛門尉頼綱と対面
以下「種種御振舞御書」より
「但し上件の事一定申すかと、召し出だしてたづねらるべしとて召し出だされぬ。」
日蓮は幕府から呼び出され、「侍所」で平左衛門尉=平頼綱始め奉行人の尋問を受けることとなる。
「奉行人の云はく、上へのをほせかくのごとしと申せしかば、上件の事一言もたがはず申す。但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄といふ事はそらごとなり。此の法門は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時より申せし事なり。」
侍所に呼び出されてしまうという事態の中、日蓮は、
「建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへ」
「道隆上人・良観上人等を頸をはねよ」
については、「上件の事一言もたがはず申す」と一切の申し開きはせず、
「最明寺殿極楽寺殿を地獄という事はそらごとなり」と一言切り返しただけ。
弁明を期待していた役人は唖然としたか。
次に切り出したのは真正面からの公場対決要求。
「詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば、世を安穏にたもたんとをぼさば、彼の法師ばらを召し合はせてきこしめせ。」
全ては、この国を憂い思うが故に言ってきたことなのであるから、世を安穏たらしめたいと思うならば、諸宗(爾前権教)の法師達と私とで公場対決を行わせ、仏法の正邪を決するべきなのだ。
「さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行はるゝほどならば、国に後悔ありて、」
かの邪教の法師ではなく、法華経を奉ずる私に罪を着せるならば、大変に理不尽なことであり、仏法の道理に反することでもあり、この国に、後悔することが起きることであろう。
「日蓮御勘気をかほらば仏の御使ひを用ひぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流死罪の後、百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしう(同士打)ちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より、ことには西方よりせめられさせ給ふべし。其の時後悔あるべし平左衛門尉と、申し付けしかども、太政(だいじょう)入道のくる(狂)ひしやうに、すこしもはゞかる事なく物にくるう。」
日蓮を罰するのならば、それは仏の使いを用いないということになる。大梵天、帝釈天、日天、月天、四天王等、諸天善神の治罰は必定であり、日蓮を遠流または死罪に処した後、百日、一年、三年、七年の内に同士討ち「自界叛逆難」が起きることであろう。
その後には、他国よりの侵略「他国侵逼難」が始まり、東西南北の四方より、特に西方より攻められることだろう。
その時は、あなたは後悔することになる。
と平左衛門尉に申しつけたところ、平清盛がそうであったように、彼もまた、少しも辺りをはばかることもなく、猛り狂った。
続いては、9月12日の再度の対面。
ここに至り、日蓮が弟子檀那に励まし訴えていた「各々思ひ切り給へ。此の身を法華経にかうるは石に金をかへ、糞に米をかうるなり。」の事態が現実へと。
【 竜口 】
9月12日
書を平左衛門尉頼綱に報ず
「一昨日御書(いっさくじつごしょ)」
(定1-85・P501、創新78・P873、校1-86・P536、全P183、新P476)
平左衛門尉頼綱
日朝本 平15 真蹟なし
録内26-9 遺11-27 縮687
*平成校定「一昨日御書(与平左衛門尉書)」
*鷲嶺・鶴林の文を開いて、鵞王・烏瑟の志を覚る
一昨日見参(げんざん)に罷(まか)り入り候の条悦び入り候。
中略
夫(それ)未萌(みぼう)を知る者は六正(りくせい)の聖臣(せいしん)なり。法華を弘むる者は諸仏の使者なり。而るに日蓮忝(かたじけな)くも鷲嶺(じゅれい)・鶴林(かくりん)の文を開いて、鵞王(がおう)・烏瑟(うしつ)の志を覚る。剰(あまつさ)へ将来を勘へたるに粗(ほぼ)普合することを得たり。先哲に及ばずと雖も、定んで後人(こうじん)には希なるべき者なり。法を知り国を思ふの志、尤(もっと)も賞せらるべきの処、邪法・邪教の輩、讒奏(ざんそう)・讒言(ざんげん)するの間、久しく大忠を懐(いだ)いて、而も未だ微望を達せず。剰へ不快の見参に罷り入ること、偏に難治の次第を愁(うれ)ふる者なり。
*一切衆生の為に言上せしむる所なり
伏して惟(おもんみ)れば泰山(たいざん)に昇らずんば天の高きを知らず、深谷に入らずんば地の厚きを知らず。仍って御存知の為、立正安国論一巻之を進覧す。勘へ載する所の文、九牛(きゅうぎゅう)の一毛(いちもう)なり。未だ微志を尽くさざるのみ。
抑貴辺は当時天下の棟梁なり。何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮(けんりょ)を回らして須(すべから)く異敵を退くべし。世を安んじ国を安んずるを忠と為し孝と為す。是(これ)偏に身の為に之を述べず、君の為、仏の為、神の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり。
9月12日
鎌倉の草庵にて逮捕、その際に平頼綱を諫める〔第2回国諫〕
・・・・そして竜口・首の座へ
「種種御振舞御書」真蹟曽存
去ぬる文永八年太歳辛未九月十二日御勘気をかほる。其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ。了行(りょうこう)が謀反ををこし、大夫(たいふ)律師が世をみださんとせしを、めしとられしにもこへたり。平左衛門尉大将として数百人の兵者(つわもの)にどうまろ(胴丸)きせてゑぼうし(烏帽子)かけして、眼をいからし声をあ(荒)らうす。
中略
さて平左衛門尉が一の郎従(ろうじゅう)少輔房(しょうぼう)と申す者はしりよりて、日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出だして、おもて(面)を三度さいな(呵責)みて、さんざん(散散)とう(打)ちちらす。又九巻の法華経を兵者ども打ちちらして、あるいは足にふみ、あるいは身にまとひ、あるいはいたじき(板敷)たゝみ(畳)等、家の二三間にちらさぬ所もなし。
日蓮大高声(だいこうしょう)を放ちて申す。あらをもしろや平左衛門尉がものにくるうを見よ、とのばら(殿原)、但今ぞ日本国の柱をたを(倒)すとよ(呼)ばはりしかば、上下万人あわてゝ見へし。日蓮こそ御勘気をかほれば、をく(臆)して見ゆべかりしに、さはなくして、これはひが(僻)ごとなりとやをもひけん。兵者どものいろ(色)こそへんじて見へしか。
中略
こしごへ(腰越)たつ(竜)の口にゆきぬ。此にてぞ有らんずらんとをもうところに、案にたがはず兵士どもうちまはりさわ(騒)ぎしかば、左衛門尉申すやう、只今なりとな(泣)く。日蓮申すやう、不かく(覚)のとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそく(約束)をばたがへらるゝぞと申せし時、江のしま(島)のかたより月のごとくひかり(光)たる物、まり(鞠)のやうにて辰巳(たつみ)のかたより戌亥(いぬい)のかたへひかり(光)わたる。十二日の夜のあけぐれ(昧爽)、人の面(おもて)もみ(見)へざりしが、物のひかり(光)月よ(夜)のやうにて人々の面もみなみゆ。
太刀取目くらみたふ(倒)れ臥(ふ)し、兵共(つわものども)おぢ怖れ、けうさ(興醒)めて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり。
日蓮申すやう、いかにとのばら(殿原)かゝる大に禍なる召人(めしうど)にはとを(遠)のくぞ、近く打ちよ(寄)れや打ちよれやとたか(高)だか(高)とよばわれども、いそぎよる人もなし。
さてよ(夜)あけばいかにいかに、頸切るべくわいそ(急)ぎ切るべし、夜明けなばみぐる(見苦)しかりなんとすゝ(勧)めしかども、とかくのへんじ(返事)もなし。はるか計りありて云はく、さがみ(相模)のえち(依智)と申すところへ入らせ給へと申す
「一谷入道御書」建治元年5月8日 真蹟
文永八年太歳辛未(かのとひつじ)九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽(たちま)ちに頸(くび)を刎(は)ねらるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて、北国佐渡の島を知行する武蔵前司(むさしのぜんじ)の預かりにて、其の内の者どもの沙汰として彼の島に行き付きてありしが、彼の島の者ども因果の理をも弁(わきま)へぬあらゑびす(荒夷)なれば、あらくあたりし事は申す計りなし。然れども一分も恨むる心なし。
「妙法比丘尼御返事」弘安元年9月6日 日朝本
又国主より御勘気二度なり。第二度は外には遠流と聞こへしかども内には頸を切るべしとて、鎌倉竜口と申す処に九月十二日の丑(うし)の時に頸の座に引きすへられて候ひき。いかゞして候ひけん、月の如くにを(在)はせし物、江島より飛び出でて使ひの頭へかゝり候ひしかば、使ひおそ(怖)れてき(斬)らず。とかうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頸はのがれぬ。
「報恩抄」建治2年7月21日 真蹟
去ぬる文永八年九月十二日に、平左衛門並びに数百人に向かって云はく、日蓮は日本国のはしら(柱)なり。日蓮を失ふほどならば、日本国のはしら(柱)をたを(倒)すになりぬ等云云。此の経文に智人を国主等、若しは悪僧等がざんげん(讒言)により、若しは諸人の悪口によ(依)て失(とが)にあ(当)つるならば、には(俄)かにいくさ(軍)を(起)こり、又大風ふかせ、他国よりせむべし等云云。去ぬる文永九年二月のどし(同士)いくさ、同じき十一年の四月の大風、同じき十月に大蒙古の来たりしは、偏(ひとえ)に日蓮がゆへにあらずや。いわ(況)うや前よりこれをかん(勘)がへたり。誰の人か疑ふべき。
中略
去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は相模国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん、其の夜はのびて依智というところへつきぬ。
「佐渡御書」文永9年3月20日 日朝本
日蓮は此の関東の御一門の棟梁なり、日月なり、亀鏡なり、眼目なり、日蓮捨て去る時七難必ず起こるべしと、去年九月十二日御勘気を蒙りし時、大音声を放ちてよばはりし事これなるべし。
「法蓮抄」建治元年4月 真蹟
去ぬる文永八年九月十二日の御勘気の時、重ねて申して云はく、予は日本国の棟梁なり。我を失ふは国を失ふなるべしと。今は用ひまじけれども後のためにとて申しにき。
「神国王御書」真蹟 建治元年
悦ばしい哉、経文に任せて五五百歳広宣流布をまつ。悲しい哉、闘諍堅固の時に当たって此の国修羅道となるべし。
清盛入道と頼朝とは源平両家、本より狗犬と猿猴とのごとし。小人小福の頼朝をあだみしゆへに、宿敵たる入道の一門はほろびし上、科なき主上の西海に沈み給ひし事は不便の事なり。
此は教主釈尊・多宝・十方の仏の御使ひとして世間には一分の失なき者を、一国の諸人にあだまするのみならず、両度の流罪に当てゝ、日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし。其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこぼちて、仏像・経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ、日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候ひしをとりいだして頭をさんざんに打ちさいなむ。
此の事如何なる宿意もなし、当座の科もなし、たゞ法華経を弘通する計りの大科なり。
⇒鎌倉の草庵を平左衛門尉一行に襲撃された時の状況の記述。逮捕後、日中に市中を引き回されたこと、草庵では「釈尊像、法華経・一切経を安置」していたことが確認できる。
尚、「木絵二像開眼之事(法華骨目肝心)」(真蹟曽存 昭和定本「文永10年或は文永元年(縮)」・平成校定「文永9年」・全集「文永元年」)で記した「木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。但し心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず。~中略~三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云。~中略~法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち(形)とあら(顕)はしぬれば、顕・形(ぎょう)の二色となれるなり。滅せる梵音声、かへ(還)て形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり。~中略~法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。」との、釈尊像を法華経によって開眼供養するという教示そのものの奉安形式である。
「頼基陳状」建治3年6月25日 日興本
三位も文永八年九月十二日の勘気の時は供奉(ぐぶ)の一行にて有りしかば、~
⇒竜の口への同行者は熊王、四条金吾兄弟四人以外に、三位房他の供奉の人がいたことがうかがえる。
「新尼御前御返事」文永12年2月16日 真蹟
真蹟断片、真蹟・身延山久遠寺曽存、日朝本
かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候
⇒師・日蓮に続き、弟子檀越にも迫害、弾圧が及ぶ。
「日蓮聖人御弘通次第」身延3世・日進正本 身延山蔵
文永八年辛未 九月十二日(法光寺御代也)御頸座(相模竜口)に臨み給ふ、其夜遂に依智に入御す、此夜天変あり江之島の光物出来して御馬の頸を超て行く、
十三日夜、不思議方方に現ず、大星庭上の梅枝に下り給う、
同十月十日依智を立て、同二十八日配所の佐土国に付く。
*竜口について
*日蓮が竜口で切られなかった理由について
北条時宗の妻の懐妊により
門下の大学三郎が時宗の妻の父である安達泰盛と親交があり、助命に奔走したものか。
・川添昭二氏「日蓮と鎌倉文化」(2002 平楽寺書店)
・高木豊氏「日蓮 その行動と思想」(2002 太田出版)
「祈雨の勝負から竜口へ」については以上。
【 佐渡へ 】
9月13日
日蓮 相模国依智本間邸に送らる(報恩抄・定P1238)
日朗等5人 投獄さる(五人土籠御書・定P506)
9月
幕府 鎮西に所領をもつ御家人に異国警固・悪党鎮圧を命ず(一般年表)
9月15日
書を富木常忍に報ず
「土木殿御返事(ときどのごへんじ)(依智滞在の事)」
(定1-86・P503、創新119・P1276、校1-87・P538、全P950、新P477)
相模依智・富木常忍
真蹟2紙完・京都府京都市上京区寺町通今出川上ル二丁目鶴山町 本満寺蔵
満下392 宝21
録外22-17 遺11-28 縮688
*昭和定本「土木殿御返事」
創価学会新版「土木殿御返事(依智滞在の事)」
全集「土木殿御返事(依智滞在御書)」
*昭和定本・創価学会新版・平成校定「文永8年9月15日」
全集「9月14日」
*いまゝで頸の切れぬこそ本意なく候へ
此の十二日酉(とり)の時御勘気。武蔵守(むさしのかみ)殿御あづかりにて、十三日丑(うし)の時にかまくら(鎌倉)をい(出)でゝ佐土の国へなが(流)され候が、たうじ(当時)はほんま(本間)のえち(依智)と申すところに、えちの六郎左衛門尉殿の代官右馬太郎(うまたろう)と申す者あづかりて候が、いま四・五日はあるべげに候。
御歎きはさる事に候へども、これには一定(いちじょう)と本よりご(期)して候へばなげ(嘆)かず候。いまゝで頸の切れぬこそ本意なく候へ。法華経の御ゆへに過去に頸をうしな(失)ひたらば、かゝる少身のみ(身)にて候べきか。又「数々見擯出(さくさくけんひんずい)」とと(説)かれて、度々失(とが)にあたりて重罪をけ(消)してこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆへなり。
9月19日
蒙古使者・趙良弼(ちょうりょうひつ) 筑前国に至り国書を呈出
9月21日
書を四条金吾に報ず
「四条金吾殿御消息」
(定1-87・P504、創新192・P1516、校1-88・P539、全P1113、新P478)
相模依智・四条金吾
日朝本 満上363 宝9 真蹟なし
録外2-46 受3-3 遺11-29 縮689
*全集「四条金吾殿御消息(竜口御書)」
*寂光土
今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪はたつのくち。相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におと(劣)るべしや。其の故はすでに法華経の故なるがゆへなり。
中略
若し然らば日蓮が難にあ(値)う所ごとに仏土なるべきか。裟婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとゞめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか。神力品に云はく「若しは林中に於ても、若しは園中に於ても、若しは山谷曠野(せんごくこうや)にても、是の中に乃至般涅槃したまふ」とは是か。
*腹を切らん
かゝる日蓮にとも(伴)なひて、法華経の行者として腹を切らんとの給ふ事、かの弘演(こうえん)が腹をさいて主の懿公(いこう)がきも(肝)を入れたるよりも、百千万倍すぐれたる事なり。日蓮霊山にまいりて、まず四條金吾こそ、法華経の御故に日蓮とをな(同)じく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ。
*三光天子
又かまくらどの(鎌倉殿)の仰せとて、内々佐渡の国へつか(遣)はすべき由承り候。三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四・五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ。定めて守護あるべきかと、たのもしたのもし。法師品に云はく「則ち変化の人を遣はして、之が為に衛護(えご)と作さん」と、疑ひあるべからず。
10月3日
書を日朗はじめ門下5人に与う
「五人土籠御書(ごにんつちろうごしょ)」
(定1-88・P506、創新230・P1638、校1-89・P541、全P1212、新P479)
相模依智・日朗、日心、坂部入道、伊沢入道、得業寺
創価学会新版・日朗はじめ門下5人
真蹟2紙完・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺蔵
宝8
録外22-16 遺11-31 縮691
*土牢
今月七日さど(佐渡)の国へまか(罷)るなり。各々は法華経一部づゝあそばして候へば、我が身並びに父母・兄弟、存亡等に回向しましまし候らん。今夜のかん(寒)ずるにつけて、いよいよ我が身より心くる(苦)しさ申すばかりなし。ろう(牢)をい(出)でさせ給ひなば、明年のはる(春)かなら(必)ずき(来)たり給へ。み(見)ゝへまいらすべし。
*「日蓮自伝考」(P208)より
日心は、その実在性は怪しい。
佐渡御書に「いざはの入道・さかべの入道いかになりぬらん。かはのべ(河野辺)の山城・得行寺(とくぎょうじ)殿等の事、いかにと書き付けて給ふべし。」(「かはのべの山城」は写本の転写ミスか、おそらくは「かはのべの入道」)とあり、四名の身の上が緊迫したものであることが窺われる。入牢したのは、日朗以外はこの四名ではないか。
10月5日
書を大田乗明、曽谷教信、金原法橋の3人に報ず
「転重軽受法門(てんじゅうきょうじゅほうもん)」
(定1-89・P507、創新150・P1356、校1-90・P542、全P1000、新P480)
相模依智・大田左衛門尉、曾谷入道、金原法橋(かなばらほっきょう)
創価学会新版・大田乗明、曽谷教信、金原法橋
真蹟8紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
日朝本 平22
録内17-27 遺11-32 縮692
*昭和定本「転重軽受法門(与三子書)」
創価学会新版「転重軽受法門」
※日興写断片・福井県小浜市小浜酒井 長源寺蔵
坂井法曄氏の論考「日興写本をめぐる諸問題について」(興風21号P242)
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*摂受と折伏について
「法華仏教研究」15号 花野充道氏の論考「智顗と日蓮の摂折論の対比」
*転重軽受
涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につ(尽)きずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかゝる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっとき(消)へて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益をう(得)る事の候。
不軽菩薩の悪口罵詈(めり)せられ、杖木瓦礫(がりゃく)をかほ(被)るも、ゆへなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆへかとみへて「其罪畢已(ございひっち)」と説かれて候は、不軽菩薩の難に値ふゆへに、過去の罪の滅するかとみへはんべり。
10月9日
曼荼羅(1)を相州本間依智郷(神奈川県厚木市北部)において図顕する
*通称
楊子(ようじ)御本尊
*顕示年月日
文永八年太才辛未 十月九日 相州本間依智郷 書之
*相貌
首題 自署花押 不動明王 愛染明王
*寸法
53.6×33.0cm 1紙
*備考
・伝承では「日蓮、依智発足の前日、樹枝を砕いた楊子を以て認めた故に『楊子御本尊』と名ずく」と。
・「集成」4
*所蔵
京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町 立本寺
⇒楊子の筆でこのような首題の大書ができるものか?
前後の慌ただしい諸状況からすれば、本間邸にたまたまあった筆を使用して認めたものか。
10月3日付けの「五人土籠御書」にて土牢中の門下を案ずる記述と併せ考える時、このような状況下で曼荼羅を顕したということは、法難渦中の弟子檀越に、我が祈りによる守護の力有を働かさん、との日蓮の強き思いが感じられる。
これ以降の曼荼羅のほとんどに不動明王、愛染明王の種子を欠かさないのは、日蓮が行者守護の働きとして、両明王を重要視していたことを意味するものであろう。
尚、現存真蹟曼荼羅で、不動・愛染のないものは10幅ほどか。
⇒2009年10月~11月に開催された特別展「鎌倉の日蓮聖人 中世人の信仰世界」(神奈川県立歴史博物館)で拝観。
縦53.6cm、横33.0cmの1紙は実際に眼にすると、すこぶる小ぶりである。しかし、拝するほどに何か多くを語りかけてくるような曼荼羅である。これは写真では分からないことだろう。約一か月前に竜口の虎口を脱して、佐渡配流に向かう前日の日蓮の心情「生と死、希望と絶望、挑戦と諦め」等が感じられるような・・・・文字通り、墨に日蓮の魂が込められ700年の時を超えた、生の日蓮がそこにいるような思いとなる曼荼羅である。
10月9日
書を日朗に報ず
「土籠御書(つちろうごしょ)」
(定1-90・P509、創新231・P1639、校1-92・P546、全P1213、新P483)
相模依智・日朗
日朝本 満下365 宝21 真蹟なし
録外11-15 受1-23 遺11-34 縮695
*本満寺本「土籠御書=日朗聖人への御消息」
平成校定「土籠御書(朗師土籠御書)」
*土牢
日蓮は明日佐渡国へまか(罷)るなり。今夜(こよい)のさむ(寒)きに付けても、ろう(牢)のうちのありさま、思ひやられていた(痛)はしくこそ候へ。
あはれ殿は、法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば、父母・六親・一切衆生をもたす(助)け給ふべき御身なり。
法華経を余人のよ(読)み候は、口ばかりことば(言)ばかりはよ(読)めども心はよ(読)まず、心はよ(読)めども身によ(読)まず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。「天の諸(もろもろ)の童子、以て給使(きゅうじ)を為さん、刀杖も加へず、毒も害すること能はじ」と説かれて候へば、別の事はあるべからず。籠(ろう)をばし出でさせ給ひ候はゞ、と(疾)くと(疾)くきたり給へ。見たてまつり、見えたてまつらん。
10月10日
日蓮 相模国依智・本間邸を発して佐渡に向う〔佐渡流罪〕(寺泊御書・定P512)
10月
書を清澄寺知友に報ず
「佐渡御勘気抄(さどごかんきしょう)」
(定1-91・P510、創新98・P1195、校1-91・P545、全P891、新P482)
円浄房、清澄寺大衆
創価学会新版・清澄寺知友
満下189 宝11 真蹟なし
録外18-30 遺11-39 縮701
*本満寺本「佐渡御勘気御書」
昭和定本「佐渡御勘気抄(与清澄知友書)」
創価学会新版「佐渡御勘気抄」
平成校定「佐渡御勘気抄(与清澄知友御書)」
< 日付 >
昭和定本「10月10日」
創価学会新版「10月 日」
平成校定「10月初旬」
全集「10月 日」
*法華経を読む
九月十二日に御勘気を蒙(こうむ)りて、今年(ことし)十月十日佐渡国(さどのくに)へまか(罷)り候也。
本より学文し候ひし事は、仏教をきは(究)めて仏になり、恩ある人をもたす(助)けんと思ふ。仏になる道は、必ず身命をす(捨)つるほどの事ありてこそ、仏にはな(成)り候らめと、を(推)しはか(量)らる。
既に経文のごとく、「悪口罵詈(あっくめり)」「刀杖瓦礫(がりゃく)」「数々見擯出(さくさくけんひんずい)」と説かれて、かゝるめに値ひ候こそ、法華経をよ(読)むにて候らめと、いよいよ信心もおこり、後生もたの(頼)もしく候。死して候はゞ、必ず各々をもたす(助)けたてまつるべし。
10月22日
日蓮一行 越後寺泊に着く(寺泊御書・定P512)
10月22日
書を富木常忍に報ず
「寺泊御書(てらどまりごしょ)」
(定1-92・P512、創新120・P1277、校1-93・P547、全P951、新P484)
越後寺泊・富木常忍
真蹟9紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
信伝本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
日朝本 平15
録内17-5 遺11-36 縮697
*昭和定本「寺泊御書(贖命重宝抄・ぞくみょうじゅうほうしょう)」
創価学会新版「寺泊御書」
*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(1913~1914年 神保弁静編)
*12日間の行程
今月[十月なり]十日、相州愛京(あいこう)郡依智郷(えちのごう)を起(た)って、武蔵国久目河(くめがわ)の宿(しゅく)に付き、十二日を経て越後国寺泊(てらどまり)の津に付きぬ。此より大海を亘って佐渡国に至らんと欲す。順風定まらず、其の期(ご)を知らず。道の間の事、心も及ぶこと莫(な)く、又筆にも及ばず。但暗に推し度(はか)るべし。又本より存知の上なれば、始めて歎くべきに非ざれば之を止む。
*周囲からの日蓮批判の内容
或人日蓮を難じて云はく、機を知らずして麁義(あらぎ)を立て難に値ふと。或人云はく勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。或人云はく、我も此の義を存ずれども言はず。或人云はく、唯教門(理論面のこと、対しては観門=実践面)計りなり、理は具(つぶさ)に我之を存ずと。
*経文に当たれり
勧持品に云はく「諸の無智の人有って、悪口罵詈(あっくめり)す」等云云。日蓮此の経文に当たれり。汝等何ぞ此の経文に入らざる。「及び刀杖を加ふる者」等云云。日蓮此の経文を読めり。汝等何ぞ此の経文を読まざる。「常に大衆の中に在って、我等の過(とが)を毀(そし)らんと欲す」等云云。「国王・大臣・婆羅門(ばらもん)・居士に向かって」等云云。「悪口して顰蹙(ひんじゅく)し、数々(しばしば)擯出(ひんずい)せられん」と。数々(さくさく)とは度々(たびたび)なり。日蓮が擯出は衆度(たびたび)、流罪は二度なり。
*土牢の五人を心にかける
但し囹僧(れいそう)等のみ心に懸かり候。便宜の時早々之を聴かすべし。
10月23日
法皇 後嵯峨院で蒙古牒状について評議(吉続記)
10月28日
日蓮一行 佐渡松ヶ崎に着く
「下山御消息」建治3年6月 真蹟
去ぬる文永八年九月十二日都(すべ)て一分の科(とが)もなくして佐土国へ流罪せらる。外には遠流(おんる)と聞こへしかども、内には頸(くび)を切ると定まりぬ。
余又兼ねて此の事を推せし故に弟子に向かって云はく、我が願既に遂げぬ。悦び身に余れり。人身は受けがたくして破れやすし。過去遠々劫より由なき事には失ひしかども、法華経のために命をすてたる事はなし。
我頸を刎(は)ねられて師子尊者が絶えたる跡を継ぎ、天台・伝教の功にも超へ、付法蔵の二十五人に一を加へて二十六人となり、不軽菩薩の行にも越えて、釈迦・多宝・十方の諸仏にいかゞせんとなげかせまいらせんと思ひし故に、言(ことば)をもをしまず已前にありし事、後に有るべき様を平(へいの)金吾に申し含めぬ。
此の語(ことば)しげければ委細にはかゝず。
11月1日
日蓮 塚原の一間四面の堂に入る(種種御振舞御書・定P971)
【 佐渡への道中と塚原 】
「法蓮抄」建治元年4月 真蹟
殊に今度の御勘気には死罪に及ぶべきが、いかゞ思はれけん佐渡の国につかはされしかば、彼の国へ趣く者は死は多く、生は希(まれ)なり。からくして行きつきたりしかば、殺害謀叛(むほん)の者よりも猶重く思はれたり。
鎌倉を出でしより日々に強敵かさなるが如し。ありとある人は念仏の持者なり。野を行き山を行くにも、そばひら(岨坦)の草木の風に随ってそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ。
やうやく国にも付きぬ。北国の習ひなれば冬は殊に風はげしく、雪ふかし。衣薄く、食ともし。根を移されし橘の自然にから(枳)たちとなりけるも、身の上につみしられたり。栖(すみか)にはおばな(尾花)かるかや(苅萱)おひしげれる野中の御三昧(まい)ばらに、おちやぶれたる草堂の、上は雨もり壁は風もたまらぬ傍(かたわ)らなり。
昼夜耳に聞く者はまくら(枕)にさ(冴)ゆる風の音、朝暮に眼に遮(さえぎ)る者は遠近(おちこち)の路を埋む雪なり。現身に餓鬼道を経(へ)、寒地獄に堕ちぬ。彼の蘇武(そぶ)が十九年の間胡国に留められて雪を食し、李陵が巌窟(がんくつ)に入って六年蓑(みの)をきてすごしけるも我が身の上なりき。
【 佐渡塚原到着後は何を拝していたのか? 】
「妙法比丘尼御返事」弘安元年9月6日 日朝本
又佐渡国にてきらんとせし程に、日蓮が申せしが如く鎌倉にどしう(同士打)ち始まりぬ。
使ひはしり下りて頸をきらず、結句はゆるされぬ。今は此の山に独(ひと)りすみ候。
佐渡国にありし時は、里より遥かにへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり。彼処に一間四面の堂あり。そらはいたまあわず、四壁はやぶれたり。雨はそとの如し、雪は内に積もる。仏はおはせず、筵・畳は一枚もなし。
然れども我が根本より持ちまいらせて候教主釈尊を立てまいらせ、法華経を手ににぎり、蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり。彼の蘇武が胡国にとめられて十九年が間、蓑をき、雪を食としてありしが如し。
【 日蓮に伴って佐渡に渡った僧 】
「元祖化導記」身延・11世行学院日朝
或る記に云く、佐渡公(民部日向)・伯耆公(日興)二人佐渡御参あり
11月13日
両日並び出づ(史料綜覧5-176)
11月23日
書を富木常忍に報ず
「富木入道殿御返事(願望仏国の事)」
(定1-93・P516、創新121・P1282、校1-94・P551、全P955、新P487)
佐渡塚原・富木入道
創価学会新版・富木常忍
日朝本 真蹟なし
録外23-26 遺11-41 縮702
*昭和定本「富木入道殿御返事」
創価学会新版「富木入道殿御返事(願望仏国の事)」
全集「富木入道殿御返事(願望仏国事)」
*佐渡島
此の比(ころ)は十一月の下旬なれば、相州鎌倉に候ひし時の思ひには、四節の転変は万国皆同じかるべしと存じ候ひし所に、此の北国(ほっこく)佐渡国に下著(げちゃく)候ひて後、二月(ふたつき)は寒風頻(しき)りに吹いて、霜雪更に降らざる時はあれども、日の光をば見ることなし。八寒を現身に感ず。
人の心は禽獣(きんじゅう)に同じく、主師親を知らず。何(いか)に況んや仏法の邪正、師の善悪は思ひもよらざるをや。此等は且く之を置く。
*一大事の秘法を此の国に初めて之を弘む
仏滅後二千二百余年に、月氏・漢土・日本・一閻浮提の内に「天親(てんじん)・竜樹(りゅうじゅ)、内鑑冷然(ないかんれいねん)たり、外は時の宜(よろ)しきに適(かな)ふ」云云
。天台・伝教は粗(ほぼ)釈し給へども、之を弘め残せる一大事の秘法を、此の国に初めて之を弘む。日蓮豈(あに)其の人に非ずや。前相已(すで)に顕はれぬ。去ぬる正嘉の大地震は前代未聞の大瑞なり。
神世十二、人王九十代、仏滅後二千二百余年未曾有の大瑞なり。
神力品に云はく「仏滅度の後に於て、能く是の経を持つが故に、諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云。「如来の一切の所有の法」云云。
但し此の大法弘まり給ふならば、爾前・迹門の経教は一分も益(やく)なかるべし。
伝教大師云はく「日出でて星隠る」云云。
遵式(じゅんしき)の記に云はく「末法の初め西を照らす」等云云。
法已(すで)に顕はれぬ。前相先代に超過せり。日蓮粗(ほぼ)之を勘ふるに、是(これ)時の然らしむる故なり。
経に云はく「四導師有り、一を上行と名づく」云云。
又云はく「悪世末法の時、能く是の経を持たん者」と。
又云はく「若し須弥を接って、他方に擲げ置かん」云云。
*仏国
流罪の事、痛く歎かせ給ふべからず。勧持品に云はく、不軽品に云はく。命限り有り、惜しむべからず。遂に願ふべきは仏国なり云云。
12月16日
朝廷 伊勢神宮に異国降伏の祈祷を命ず(吉続記)
この年
阿仏房・千日尼夫妻 入信と伝う(本化別頭仏祖統記・富士年表)
三位日行 京都より鎌倉に帰る(頼基陳状・定P1351)
【 系年、文永8年と推定される書 】
図録を著す
「一代五時図」
(定3図録9・P2281、創新82・P886、校3図録17・P2429、全P612、新P489)
真蹟20紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
遺7-18 縮392
< 系年 >
昭和定本・全集「文応元年」
創価学会新版・系年なし
平成校定「文永8年」
*「文応元年」説
「法華仏教研究」30号 平島盛龍氏の論考「『一代五時図』(図録番号9)の系年について」
*「文永8年頃」説
「日蓮の諸宗批判」 山上弘道氏
「法華仏教研究」31号 山上弘道氏の論考「初期日蓮遺文に見られる五時教判について」
書を著すと伝う
「此経難持十三箇秘訣」
(定3続編24・P2068)
相模依智
真蹟なし
続下17 遺11-35 縮696
*平成校定は偽書として不収録
書を著すと伝う
「早勝問答」
(定3続編23・P2061、創新58・P812、校1-95・P553、全P161、新P496)
鎌倉
宝6 真蹟なし
遺11-64 縮729
*昭和定本・創価学会新版・対告衆なし
*昭和定本・創価学会新版「文永8年」