1264年・弘長4年(2月28日改元)・文永元年 甲子(きのえね) 43歳
亀山天皇
北条長時
北条政村 在職1264年[弘長4年]~1268年[文永5年])
3月1日
延暦寺衆徒 入洛強訴する(続史愚抄・武家年代記・皇年代略記)
3月23日
延暦寺衆徒蜂起 自ら延暦寺諸堂を焼く
五代帝王物語
「夜中ばかりに延暦寺の講堂・常行堂・法花堂などを始として戒壇・鐘楼に至るまで、山僧手づから火をつけて焼払。浅猿とも云ばかりなし」
続史愚抄
「今夜、延暦寺講堂・常行堂・妙見堂・鐘楼・法華堂・四王院・延命院・戒壇院・八部院已下等焼亡す。頃日衆徒両條を訴え申す
(室町前の大納言及び光範、丹波庄の事に依って配流せらるべし。及び天王寺別当は圓満院師資二代卿。而るに寺門に寄せらる。早く山門に付けらるべき事)。聖断陵遅するの間、憤怒して放火てえり」
3月25日
延暦寺衆徒 四天王寺の別当職を園城寺に付嘱することに対し強訴する
続史愚抄
「3月25日 庚子
山徒日吉七社神輿を上げ、大宮・二宮・聖眞子・三宮の四神輿中堂に入ると。亥の刻、山徒日吉神輿(八王子・十禅師・客人)三基・祇園三基・北野二基・赤山・京極寺二基等(八王子・赤山神輿を矢り立つと)を皇居(二條高倉東洞院)及び一院(冷泉高倉)・新院等の御所に振り棄つ。また放火せしむ。武士と悪徒と刃傷し、死者有り」
3月29日
園城寺 三摩耶戒を修す
4月17日
書を大学三郎の妻に報ず
「月水御書(がっすいごしょ)」
(定1-34・P286、創新234・P1642、校1-36・P322、全P1199、新P300)
鎌倉・大学三郎の妻
日朝本 平18 真蹟なし
録内18-24 遺8-19 縮477
*昭和定本「月水御書(報大学三郎妻書)」
創価学会新版「月水御書」
*「法華仏教研究」4号 山中講一郎氏の論考「日蓮とジェンダー」
*方便品と寿量品
但し御不審の事、法華経は何(いず)れの品も先に申しつる様に愚(おろ)かならねども、殊(こと)に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍(はべ)り。余品(よほん)は皆枝葉(しよう)にて候なり。
されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。又別に書き出だしてもあそばし候べく候。余の二十六品は身に影の随ひ、玉に財(たから)の備(そな)はるが如し。寿量品・方便品を読み候へば、自然(じねん)に余品はよみ候はねども備はり候なり。薬王品・提婆品(だいばほん)は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども、提婆品は方便品の枝葉、薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候ひて、余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候。
*随方毘尼
委細に経論を考へ見るに、仏法の中に随方毘尼(ずいほうびに)と申す戒の法門は是に当たれり。此の戒の心は、いた(甚)う事か(欠)けざる事をば、少々仏教にたが(違)ふとも、其の国の風俗に違(たが)ふべからざるよし、仏一つの戒を説き給へり。此の由を知らざる智者共、神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義(ごうぎ)を申して、多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり。
書を著す
「題目弥陀名号勝劣事(だいもくみだみょうごうしょうれつじ)」
(定1-35・P293、創新56・P797、校1-41・P358、全P111、新P327)
昭和定本・創価学会新版・対告衆なし
平賀本 宝8 真蹟なし
遺8-26 縮485
*昭和定本・創価学会新版「文永元年」
5月2日
延暦寺衆徒 授戒を執行した園城寺戒壇を焼き巨鐘を奪う(一代要記・続史愚抄・三井寺続灯記)
五代帝王物語
「三井寺には四月に召返されたる三摩耶戒ををして行て、戒壇を立ると聞えしかば、山門の衆徒寄かけて合戦。ついに寺を焼払ふ。次の日又よせて、別所々々をせめおとす。如意寺ばかりぞおとされざりける」
続史愚抄
「山の衆徒寺門に発向す。辰より午に至るまで合戦す。山門戦勝す。園城寺金堂已下塔堂房舎一宇残らずこれを焼き払う。頃日城郭を構え戒壇を建つ故と」
7月5日
文永の大彗星出現
「安国論御勘由来」文永5年4月5日 真蹟、延山録外
又其の後文永元年甲子(きのえね)七月五日、彗星東方に出でて余光大体一国等に及ぶ。此又世始まりてより已来無き所の凶瑞(きょうずい)なり。内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず。予弥(いよいよ)悲歎を増長す。
北條九代記
「寅の刻彗星寅方に見ゆ。芒気丈余。旬月に及ぶの間、半天に及び未曾有の例なり」
続史愚抄
「7月7日 己卯
彗星晨に見ゆ。光芒やや大きく、半天に及ぶ」
*「法華仏教研究」5号 山中講一郎氏の論考「日本、中国の史料にみる『文永の大長星』」
「7月28日 庚子
彗星御祈りの為仁王経法を修せらる。阿闍梨定親僧正 」
7月29日
書を著す
「法華真言勝劣事」
(定1-36・P302、創新54・P776、校1-37・P330、全P120、新P305)
鎌倉
昭和定本・創価学会新版・対告衆なし
金綱集6 日朝本 平19 真蹟なし
録内35-1 遺8-36 縮494
昭和定本・創価学会新版「文永元年7月29日」
7月
日目父・新田五郎重綱 寂(富要5-303)
8月14日
書を著すと伝う
「聖人御系図御書」
(定3続編18・P2045)
真蹟なし
縮続203
*平成校定は偽書として不収録
8月21日
北条長時 卒35歳(関東評定伝)
夏~秋
日蓮 安房国に帰り母の病気平癒を祈る
(当世念仏者無間地獄事・定P311、可延定業書・P862、伯耆公御房御消息・P1909)
9月4日
沙弥道意 新田頼綱に配分状を与う〔新田頼綱宛配分状〕(富要8-20)
9月17日
書を著すと伝う
「大黒天神供養相承事」
(定3続編19・P2045)
真蹟なし
遺8-44 縮503
*平成校定は偽書として不収録
9月22日
書を著す
「当世念仏者無間地獄事(とうせいねんぶつしゃむけんじごくじ)」
(定1-37・P311、創新55・P787、校1-38・P339、全P104、新312)
安房 東条・浄円房
創価学会新版・対告衆なし
日朝本 平19 真蹟なし
録内34-10 遺8-45 縮504
*平成校定「当世念仏者無間地獄事(浄円房抄)」
昭和定本・創価学会新版「文永元年9月22日」
*昭和定本冒頭
「安房国・長狭郡(ながさのこおり)・東条花房(はなぶさ)郷蓮華寺に於て浄円房に対して日蓮阿闍梨之を註す。文永元年九月二十二日。」
*五義
加之(しかのみならず)仏法を弘めん輩は、教・機・時・国・教法流布の前後を検(かんが)ふべきか。
10月25日
幕府 越訴奉行を設置
11月11日
日蓮 安房東条松原にて地頭・景信に襲撃され傷を蒙る、弟子檀越殉難する
(南条兵衛七郎殿御書・定P326、聖人御難事・定P1673、波木井殿御書・定P1927)
11月14日
日蓮 安房西条華房蓮華寺にて師・道善房と会す(善無畏三蔵抄・定P474)
◇善無畏三蔵抄 文永7年
文永元年十一月十四日西条華房の僧坊にして見参に入りし時、彼の人(道善房)の云はく
11月
比叡山戒壇院上棟
続史愚抄
「11月8日 己卯
延暦寺に於いて秋季授戒有り。戒壇院新造後初度なり。去る月二十三日木作始め、今月二日上棟」
12月13日
書を南条兵衛七郎に報ず
「南条兵衛七郎殿御書(なんじょうひょうえしちろうどのごしょ)」
(定1、4-38・P319、P3007、P3036、創新296・P1824、校1-40・P349、全P1493、新P321)
安房・南条兵衛七郎
真蹟断片11紙11箇所散在
日興本完・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵
日朝本
録内20-16 遺9-1 縮516
< 断片所蔵 >
第1紙末47字3行・神奈川県鎌倉市稲村ケ崎 本化妙宗連盟
第2紙214字13行・神奈川県 某家
第3紙203字13行・京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町 本禅寺
19字1行・広島県福山市水呑町 重顕寺
11字1行・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺
17字1行・神奈川県横浜市西区南軽井沢 勧行寺
54字3行・千葉県市川市大野町 法蓮寺
173字10行・福井県小浜市小浜酒井 長源寺
13字1行・滋賀県彦根市中央町 蓮華寺
第16紙53字初3行・京都府京都市上京区寺町通今出川上ル二丁目鶴山町 本満寺
第16紙69字末4行・京都府京都市上京区智恵光院通五辻上ル紋屋町 本隆寺
*平成校定「南条兵衛七郎殿御書(慰労書)」
※日興筆13行断片・千葉県安房郡鋸南町吉浜 保田妙本寺蔵
坂井法曄氏の論考「日興写本をめぐる諸問題について」(興風21号P240)
*当書真蹟の行間に日興筆の「唱法華題目抄」の抄録あり。
*本師・釈尊
御所労の由(よし)承り候はまことにてや候らん。世間の定めなき事は病なき人も留(とど)まりがたき事に候へば、まして病あらん人は申すにおよばず。但心あらん人は後世をこそ思ひさだむべきにて候へ。又後世を思ひ定めん事は私にはかな(叶)ひがたく候。一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ。
*三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏
故に法華経の第二に云はく「今此の三界は皆是(これ)我が有(う)なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり。而も今此の処は諸の患難(げんなん)多し。
唯(ただ)我一人のみ能(よ)く救護(くご)を為す。復教詔(きょうしょう)すと雖も而(しか)も信受せず」等云云。
此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり、師なり、主なり。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはま(座)しませども親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ(限)りたてまつる。親も親にこそよれ釈尊ほどの親、師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はあ(有)りがた(難)くこそはべれ。この親と師と主との仰せをそむ(背)かんもの天神地祇(てんじんちぎ)にす(捨)てられたてまつらざらんや、不孝第一の者なり。
*南条兵衛七郎は法華経を受持する前は念仏者であった
但とのは、このぎを聞こし食して、念仏をすて法華経にならせ給ひてはべりしが~
一家の人々念仏者にてましましげに候ひしかば、さだめて念仏をぞすゝ(勧)めむと給ひ候らん~
*東条の松原
今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路(おおじ)にして、申酉(さるとり)の時、数百人の念仏等にま(侍)ちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあ(合)ふものわづ(僅)かに三四人なり。い(射)るや(矢)はふ(降)るあめ(雨)のごとし、う(射)つたち(太刀)はいなづま(雷)のごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のて(手)にて候。自身もき(斬)られ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、う(討)ちも(漏)らされていま(今)ゝでい(生)きてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさりて候へ。
中略
法華経の故にあや(過)またるゝ人は一人もなし。されば日本国の持経者はいまだ此の経文にはあ(合)わせ給はず。唯日蓮一人こそよ(読)みはべれ。「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」是なり。されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。
もしさき(先)にた(立)ゝせ給はゞ、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給ふべし。日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりとなの(名乗)らせ給へ。
摩訶一日印 越後三条に誕生と伝う(本化別頭仏祖統記)
【 系年、弘長4年・文永元年と推定される書 】
書を著すと伝う
「禅宗天台勝劣抄」
(定3続編20・P2047、校1-42・P367、新P333)
真蹟なし
録外16-42 縮二続41
要文抄録
「恒河七種衆生事」
真蹟1巻9紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
涅槃経に説かれる恒河七種の衆生についての要文を抄出したもの。
要文抄録
「涅槃経疏要文」
真蹟1巻5紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
涅槃経第一、涅槃経疏第七・第八両巻の要文を抄録したもの。
要文抄録
「本理大綱集等要文」
真蹟1巻12紙・東京都大田区池上 池上本門寺蔵
文永元年と建治2年
時間をかけて抄録された様々な文書を順不同で合わせられたものであり錯雑状態
書を写す
「一乗要決巻上」
真蹟1冊33紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
著しく他筆が混ざる
巻末に「一乗要決」と「往生要集」の著作年代を比較対応する真蹟メモあり