1263年・弘長3年 癸亥(みずのとい) 42歳
亀山天皇
北条長時
2月22日
日蓮 伊豆流罪赦免となり鎌倉へ
◇「報恩抄」建治2年7月21日 真蹟
又同じき弘長三年癸亥二月二十二日にゆ(赦)りぬ。
4月
高麗 日本人による沿岸侵略の禁止を要請す(東国通鑑)
6月8日
新田妙法尼 日目父五郎重綱に「譲状」を与う(富要8-19)
7月13日
熱海小沢・大乗寺2代 金剛阿闍梨行満日行 寂(墓銘)
8月13日
朝廷 新制41ヵ条を宣下〔弘長の新制〕
8月14日
諸国 大風雨
吾妻鏡
「自朝、天陰雨降。雷鳴數聲、則南風烈、雨脚彌甚。午尅、大風抜樹。民屋大略、無全所。御所西侍顛倒、棟梁桁等、吹祓之。亦由比濱著岸舩、數十艘、破損漂没。」
朝より天陰雨降る。雷鳴数声
則ち南風烈しく、雨脚いよいよ甚だし。午の刻大風樹を抜き屋を発す。大略全き所無し。御所の西侍顛倒す。梁棟桁等これを吹き抜く。また由比浜着岸の船数十艘破損・漂没す。
8月
延暦寺衆徒 日吉社神輿を横川中堂に振う
続史愚抄
「大風屋を発す。諸国稼を傷む。八幡山木二千余株及び高良社の樹倒る。圧死者二人。
因って明日の放生会延引す。山門横川の僧徒訴えに依り、日吉聖眞子神輿を中堂に上ぐ。横川初例なり」
8月
最仁 天台座主に補任される(天台座主記・続史愚抄)
9月10日
幕府 切銭(きりぜに)を禁ず(吾妻鏡)
11月22日
北条時頼法名道崇 最明寺にて卒37歳(吾妻鏡・元亨釈書・一代要記)
12月10日
幕府 時頼逝去による御家人の出家を禁ず(吾妻鏡)
この年
日目祖父 新田重房 寂と伝う(継命版日目上人)
曾谷教信の父・道頂 卒と伝う(定P945・寺院系譜)
【 系年、弘長3年と推定される書 】
書を著す
「持妙法華問答抄」
(定1-33・P274、創新30・P509、校1-35・P311、全P461、新P293)
鎌倉
昭和定本・創価学会新版・対告衆なし
日朝本 平28 真蹟なし
録内21-1 遺8-7 縮465
*昭和定本「伝日持代作允可」
*平成校定「持妙法華問答抄(持法華問答抄)」