1262年・弘長2年 壬戌(みずのえいぬ) 41歳

亀山天皇

 

北条長時

 

116

書を工藤殿に報ず

「四恩抄(伊豆御勘気抄)

(1-28P233、創新104P1212、校1-31P271、全P935、新P264)

伊豆 伊東・工藤左近尉吉隆

創価学会新版・工藤殿

日朝本 平26 真蹟なし

録内40-1 遺7-37 縮417

*平成校定「四恩抄(伊豆御勘気抄)(与工藤左近書)

 

*「四恩抄」「顕謗法抄」「教機時国抄」は標釈結一体の書である。

(山中講一郎氏「日蓮自伝考」P43)

 

 

*行住坐臥に法華経を読み行ずる

此の身に学文つかまつりし事、やうやく二十四五年にまかりなるなり。法華経を殊(こと)に信じまいらせ候ひし事は、わづかに此の六七年よりこのかたなり。又信じて候ひしかども懈怠(けだい)の身たる上、或は学文と云ひ、或は世間の事にさ(障)えられて、一日わづかに一巻・一品(いっぽん)・題目計(ばか)りなり。

去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。其の故は法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて是程の悦びは何事か候べき。凡夫の習ひ我とはげみて、菩提心(ぼだいしん)を発(お)こして後世を願ふといへども、自ら思ひ出だし十二時の間に一時二時こそははげみ候へ。是は思ひ出ださぬにも御経をよみ、読まざるにも法華経を行ずるにて候か。

中略

是程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者(じきょうしゃ)は、末代には有りがたくこそ候らめ。

 

 

四恩

仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か。四恩とは心地観経(しんじかんぎょう)に云はく、

一には一切衆生の恩~

二には父母の恩~

三には国王の恩~

四には三宝の恩~

 

 

1

真弁 高野山検校に重補される(高野春秋)

 

 

210

書を著す

「教機時国抄」

(1-29P241、創新28P477、校1-32P278、全P438、新269)

伊豆 伊東

昭和定本・創価学会新版・対告衆なし

日朝本 平31 真蹟なし

録内26-1 遺7-45 縮424

*平成校定「教機時国抄(五義抄)

 

*冒頭「本朝沙門日蓮之を註(しる)す」

 

 

*五義

一に教(きょう)とは、釈迦如来所説の一切の経律論五千四十八巻四百八十帙(ちつ)。天竺(てんじく)に流布すること一千年、仏の滅後一千一十五年に当たって震旦(しんだん)国に仏経渡る。後漢(ごかん)の孝明(こうめい)皇帝永平(えいへい)十年丁卯(ひのとう)より唐の玄宗(げんそう)皇帝開元(かいげん)十八年庚午(かのえうま)に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢(おわ)んぬ。此の一切の経律論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕教・密教あり。此等を弁(わきま)ふべし。~

 

二に機とは、仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし。~

問うて云はく、無智の人の中にして此の経を説くこと莫(なか)れとの文は如何。

答へて云はく、機を知るは智人の説法する事なり。又謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓(どっく)の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し。

(また)智者と成るべき機と知らば必ず先づ小乗を教へ、次に権大乗を教へ、後に実大乗を教ふべし。愚者と知らば必ず先づ実大乗を教ふべし。信謗共に下種と為()ればなり。

 

三に時とは、仏教を弘めん人は必ず時を知るべし。~

時を知らずして法を弘むれば益無き上還って悪道に堕するなり。

仏出世し給ふて必ず法華経を説かんと欲するに、縦(たと)ひ機有れども時無きが故に四十余年此の経を説きたまはず。故に経に云はく「説時未だ至らざるが故なり」等云云。

仏の滅後の次の日より正法(しょうぼう)一千年は持戒の者は多く破戒の者は少なし。

正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少なし。

像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少なく無戒の者は多し。

正法には破戒無戒を捨てゝ持戒の者を供養すべし。

像法には無戒を捨てゝ破戒の者を供養すべし。

末法には無戒の者を供養すること仏の如くすべし。

但し法華経を謗ぜん者をば、正像末の三時に亘(わた)りて、持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも共に供養すべからず。供養せば必ず国に三災七難起こり必ず無間大城に堕すべきなり。~

 

四に国とは、仏教は必ず国に依って之を弘むべし。~

又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之有り。而(しか)るに日本国は一向に小乗の国か、一向に大乗の国か、大小兼学の国か、能く能く之を勘(かんが)ふべし。

 

五に教法流布(きょうぼうるふ)の先後(せんご)とは、未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴(き)かざる者あり。既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり。必ず先に弘まる法を知りて後の法を弘むべし。~

 

 

*日本国の五義

此の五義を知りて仏法を弘めば日本国の国師とも成るべきか。所以(ゆえ)に法華経は一切経の中の第一の経王(きょうおう)なりと知るは是(これ)教を知る者なり。

 

日本国の一切衆生は桓武(かんむ)皇帝より已来四百余年一向(いっこう)に法華経の機なり。例せば霊山(りょうぜん)八箇年の純円(じゅんえん)の機なるが如し。〔天台大師・聖徳太子・鑑真和尚・根本大師・安然和尚・慧心等の記に之有り〕是機を知れる者なり。~

 

日本国の当世は如来の滅後二千二百一十余年、後五百歳に当たって妙法蓮華経広宣流布の時刻なり。是時を知るなり。~

 

日本国は一向に法華経の国なり。例せば舎衛国(しゃえこく)の一向に大乗なりしが如きなり。又天竺(てんじく)には一向に小乗の国、一向に大乗の国、大小兼学の国も之有り。日本国は一向に大乗の国なり。大乗の中にも法華経の国たるべきなり。〔瑜伽論・肇公記・聖徳太子・伝教大師・安然等の記に之有り〕是国を知れる者なり。~

 

 

*三類の強敵

法華経の勧持品(かんじほん)に、後五百歳二千余年に当たって法華経の敵人三類有るべしと記し置きたまへり。当世は後五百歳(ごごひゃくさい)に当たれり。日蓮仏語の実否(じっぴ)を勘(かんが)ふるに三類の敵人之有り。之を隠さば法華経の行者に非ず、之を顕はさば身命(しんみょう)定めて喪(うしな)はんか。法華経第四に云はく「而も此の経は如来の現在にすら猶(なお)怨嫉(おんしつ)多し。況(いわ)んや滅度の後をや」等云云。

中略

此等の本文を見れば三類の敵人を顕はさずんば法華経の行者に非ず。之を顕はすは法華経の行者なり。而れども必ず身命を喪(うしな)はんか。例せば獅子(しし)尊者・提婆(だいば)菩薩等の如くならん云云。

 

 

227

叡尊 北条実時の請により鎌倉に入る

 

 

417

書を著すと伝う

「行者仏天守護抄」

(1-30P246)

伊豆 伊東

真蹟なし

録外15-13 遺7-49 縮429

*平成校定は偽書として不収録

 

 

6

高野山大衆 再び真弁を追う(高野春秋)

 

 

6

南都衆徒の訴えにより大江頼重を大宰府に配する(一代要記)

 

 

6

円助 天王寺可等に補任される(続史愚抄)

 

 

1128

親鸞 京都に寂す 90

(本願寺聖人親鸞伝絵・続史愚抄・門跡伝・真宗高田派正統記・本願寺聖人親鸞伝・)

 

 

12

道勝 東寺長者に補任される(東寺長者補任・本朝高僧伝・高野春秋・続史愚抄)

 

  

この年

 

寂仙房日澄 誕生と伝う

 

*「家中抄」(富要5209)

日澄伝

釈の日澄先祖は門徒存知の事に(日興述作)云く因幡国富城庄の本主なりと、事の縁有るを以て下総国に居住す、五郎入道常忍後に日常と号す、子息二人、兄は伊予阿闍梨日頂なり則ち高祖直弟六人の内なり、其の次は寂仙房日澄是れなり、誕生は弘長二年壬戌暦、幼少より茂原日向を師として出家す、其の後舎兄日頂に随逐して修学す、日興延山御出の後日向に従ひ身延に登る。

永仁年中に甲斐国下山の地頭左衛門四郎光長新堂を建立し一躰仏を安置す、此の時日澄初めて富士に来臨し興師二値遇し奉り法義を難ず、此の時富士所立の相を聞き已りて已義と為すの処、正安二年庚子民部阿闍梨日向彼の新堂並に一躰仏を開眼供養す、此の時日向と日澄と法論有り、彼此校量して水火の領解を成し、終に富士に移り弟子と為る、之れに依って本尊を授与す、其の端書に云はく「乾元元年壬寅十二月廿八日、富城寂仙房日澄に之れを授与す」(澄公四十一歳の時なり)、是れより来た富士学頭に居え給ふ

 

*日順阿闍梨血脈(富要221)

日澄和尚は即ち日興上人の弟子、類聚相承の大徳なり。慧眼明了にして普く五千余巻を知見し、広学多聞にして悉く十宗の法水を斟酌す。行足独歩にして殊に一心三観を証得し、宏才博覧にして良に三国の記録を兼伝す。其の上内外の旨趣、倭漢の先規、孔老の五常、詩歌の六義、都て通ぜざること無し。当家の入門に於いて亦次第梯隑す。先ず日向日頂の両闍梨に遇つて天台与同の想案を廻らし、次に富山日興上人に依憑して本迹水火の領解を成し、彼是校量して終に富山に移り畢んぬ。爾れより已来或は武家を諌め多年謗法対治の訴状を捧け、或は貴命に応して数帖自宗所依の肝要を抽んづ。所以に本迹要文上中下三巻・十宗立破各一帖十巻・内外所論上下二巻・倭漢次第已上二巻・且つ之を類聚して試に興師に献す。興師咲を含んで加被せしむる所なり。此の外撰述多端・注記相残して延慶三年太歳庚戌暮春十四日・四十九歳にして駿州富士重須の郷に在つて定寿未だ満たず、師に先き立つて沒す。具徳は荊渓に准し、聡敏は顔回の如し。

 

 

日向 叡山に登り剃髪と伝う(本化別頭仏祖統記・蓮祖旧跡志[堀江顕斎撰]・日蓮宗年表)

 

 

日頂 改衣と伝う(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表)

 

 

金剛院行満(熱海の真言僧) 日興により改衣して日行と名乗り自坊を大乗寺と号す、と伝う

(富士日興上人詳伝P14)

⇒日興の入門年数に諸説があり上記は伝承となるか

 

【 系年、弘長2年と推定される書 】

 

 

書を著す

「顕謗法抄」

(1-31P247、創新29P483、校1-33P283、全P443、新P274)

真蹟25紙・身延山久遠寺曽存(乾録)

昭和定本・創価学会新版・対告衆なし

 

日乾真蹟対照本・本満寺蔵

日朝本 平26

録内12-1 遺7-51 縮430

*創価学会新版「弘長2年」

 

*顕謗法抄真蹟断片114字・山梨県南アルプス市某氏所蔵

日蓮宗新聞(2010.12,20)

「ご真蹟に触れる」(中尾堯氏)で紹介される。

記事~「顕謗法抄は真蹟遺文―114字の断片新発見」

「この1行の断片は、まさに顕謗法抄の一部である。

この筆跡から見ると、法華経寺に伝来する「法門可被申抄」と同時期の文永6(1269)前後の著作と思われる」

 

*冒頭、「本朝沙門日蓮撰(せん)す」

 

 

*五義

第四に行者仏法を弘むる用心を明かさば、夫(それ)仏法をひろ()めんとをも()はんものは必ず五義を存じて正法をひろむべし。

五義とは、一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり。

 

書を著す

「論談敵対御書」

(1-32P274、創新416P2138、校1-34P310、新P292)

伊豆 伊東

昭和定本・創価学会新版・対告衆なし

真蹟17行断簡・山梨県南巨摩郡身延町大野 本遠寺蔵

*昭和定本「弘長2年」

創価学会新版・系年なし

  

*本文

論談敵対の時、二口三口に及ばず、一言二言をもって退屈(たいくつ)せしめ了(おわんぬ)

所謂(いわゆる)、善覚寺道阿弥陀仏、長安寺能安等是也。
その後はただ悪口(あっこう)を加え、無癡(むち)の道俗を相語らい、留難を作さしむ。或いは国々の地頭等に語らい、或いは事を権門(けんもん)に寄せ、或いは昼夜に私宅を打ち、或いは杖木を加え、或いは刀杖に及び、或いは貴人に向かって云く「謗法者」「邪見者」「悪口者」「犯禁(ぼんごん)者」等の狂言(おうごん)、その数を知らず。終(つい)に去年(こぞ)の五月十二日戌時(いぬのとき)、念仏者ならびに塗師(ぬし)・冠師(かんむりし)・雑人(ぞうにん)等。

 

⇒立正安国論を以て、実質的な国主(最明寺入道・北条時頼)を諌暁した日蓮。

幕府は無視黙殺、反応したのは批判された念仏者たち。新善光寺の別当・道教房念空(道阿弥陀仏)、長安寺の能安らが日蓮と法論するも一言二言をもって退屈」とあっけなく日蓮に破折されてしまう。その後は国々の地頭、貴人、権門、即ち幕府の権力者や身分の高い者から無知な人々にいたるまで日蓮の悪名を流し、更には草庵を襲ったり、暴力、暴言等を加える。

この一連の迫害が「松葉ヶ谷草庵の襲撃」と、後世になっていわれたものか。

 

その最終結果ともいうべきか、弘長元年(1261)512日、日蓮は伊豆配流となる。

 

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