1261年・文応2年(2月20日改元)・弘長元年 辛酉(かのととり) 40歳

亀山天皇

 

北条長時

 

29

日蓮 武州恩田代官益行を介して吉田兼益に就いて神道を承くと伝う

(本化別頭仏祖統記・山城新編法華霊場記・蓮公薩埵略伝[日慶記]・日蓮宗年表)

⇒御書にはない

 

 

229

幕府 仏神事興行等を制定、61ヵ条の関東新制を施行(吾妻鏡)

 

 

313

鎌倉幕府政所・公文所・問注所 焼失

吾妻鏡

「未尅、政所之郭内失火、廳屋、公文所、問注屋、炎上。御倉等者、免災。」

未の刻政所の郭内失火。廰屋・公文所・問注屋炎上。御倉等は災を免かる。

 

 

313

書を著すと伝う

「大黒天神相伝肝文」

(3続編16P2041)

伊東

真蹟なし

録外21-39 縮二続75

< 系年 >

昭和定本「弘長元年313(録外考文)

*平成校定は偽書として不収録

 

 

313

書を著すと伝う

「大黒送状」

(3続編17P2043)

伊東

本満寺本 真蹟なし

録外7-37

< 系年 >

昭和定本「弘長元年313(録外考文)

*平成校定は偽書として不収録

 

 

322

幕府 諸国盗賊・悪党蜂起の禁圧を守護に命ず

 

 

428

書を椎地四郎に報ず

「椎地四郎殿御書(しいじのしろうどのごしょ)

(1-25P227、創新258P1720、校2-437P1999、全P1448、新1555)

鎌倉・椎地四郎

日朝本 満上357 宝12 真蹟なし

録外2-44 受3-1 遺7-31 縮410

*平成校定「椎地四郎殿御書(如渡得船之事)(身軽法重死身弘法御書)

< 系年 >

昭和定本「弘長元年428日」

創価学会新版・「428日」

平成校定「弘安4428日」

 

如渡得船

此の経を一文一句なりとも聴聞(ちょうもん)して神(たましい)にそめん人は、生死の大海を渡るべき船なるべし。妙楽大師の云はく「一句も神に染めぬれば咸(ことごと)く彼岸を資(たす)く、思惟修習(しゆいしゅじゅう)永く舟航(しゅうこう)に用(ゆう)たり」云云。生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんばかなふべからず。

(そもそも)法華経の如渡得船(にょととくせん)の船と申す事は、教主大覚世尊、巧智無辺(ぎょうちむへん)の番匠(ばんしょう)として四味八教の材木を取り集め、正直捨権とけづりなして、邪正一如(じゃしょういちにょ)ときり合はせ、醍醐一実(だいごいちじつ)のくぎを丁(ちょう)とうって生死の大海へをしう()かべ、中道一実のほばしら(帆柱)に界如三千(かいにょさんぜん)の帆をあげて、諸法実相のおひて(追風)をえて、以信得入の一切衆生を取りのせて、釈迦如来はかじ()を取り、多宝如来はつなで(綱手)を取り給へば、上行等の四菩薩は函蓋(かんがい)相応して、きりきりとこ()ぎ給ふ所の船を如渡得船の船とは申すなり。是にのるべき者は日蓮が弟子檀那等なり。能く能く信じさせ給へ。

 

 

511

朝廷 辛酉の徳政を行い、新制21ヵ条を宣下す

続史愚抄

511日 壬申

辛酉御祈りの為徳政を行わる。新制二十一箇條宣下す」

 

 

512

日蓮 執権北条長時により伊豆に配流される

 

◇「一谷入道御書」建治元年58日 真蹟

去ぬる弘長元年太歳辛酉(かのととり)五月十二日に御勘気をかを()ほりて、伊豆国伊東の郷(ごう)というところに流罪せられたりき。兵衛介(ひょうえのすけ)頼朝のながされてありしところなり。さりしかどもほどもなく同じき三年太歳癸亥(みずのとい)二月に召し返されぬ。

 

 

◇「下山御消息」建治36月 真蹟

先づ大地震に付いて去ぬる正嘉元年に書を一巻注したりしを、故最明寺の入道殿に奉る。御尋ねもなく御用ひもなかりしかば、国主の御用ひなき法師なればあやまちたりとも科(とが)あらじやとおもひけん。念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したるぞと聞こへし。夜中に日蓮が小庵(しょうあん)に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ。然れども心を合はせたる事なれば、寄せたる者も科なくて、大事の政道を破る。日蓮が生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ。されば人のあまりににくきには、我がほろぶべきとがをもかへりみざるか。御式目をも破らるゝか。

 

 

◇「妙法比丘尼御返事」弘安元年96日 日朝本

今日本国すでに大謗法の国となりて他国にやぶ()らるべしと見えたり。此を知りながら申さずば縦(たと)ひ現在は安穏なりとも後生には無間大城に堕つべし。後生を恐れて申すならば流罪死罪は一定(いちじょう)なりと思ひ定めて、去ぬる文応の比(ころ)、故最明寺入道殿に申し上げぬ。されども用ひ給ふ事なかりしかば、念仏者等此の由を聞きて、上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程にかな()はざりしかば、長時(ながとき)武蔵守(むさしのかみ)殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ。されば極楽時殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各(おのおの)御覧あるべし。其の後何程(いかほど)もなくして召し返されて後、又経文の如く弥(いよいよ)申しつよる。

 

 

◇「報恩抄」建治2721日 真蹟

去ぬる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気(ごかんき)をかうふりて、伊豆国伊東にながされぬ。

 

 

627

書を船守弥三郎夫妻に報ず

「船守弥三郎許御書(ふなもりやさぶろうもとごしょ)

(1-26P229、創新259P1722、校1-29P266、全P1445、新P261)

伊豆 伊東・船守弥三郎夫妻

満上177 宝6 真蹟なし

録外13-18 受7-36 遺7-32 縮412

*平成校定「船守弥三郎殿許御書(船守弥三郎許御書)

全集「船守弥三郎許御書(伊豆配流事)

 

*海中出現の釈迦立像について

・「法華仏教研究」17号 東佑介氏の論考「日蓮所持の釈迦立像に関する一考察」

・「法華仏教研究」18号 川﨑弘志氏の論考「日蓮聖人御所持の釈迦立像について 東佑介氏の所論に対する反論」

 

 

*仏体

ことに当地頭の病悩について、祈せい()申すべきよし仰せ候ひし間、案にあつか()ひて候。然れども一分信仰の心を日蓮に出だし給へば、法華経へそせう(訴訟)とこそおもひ候へ。此の時は十羅刹女(じゅうらせつにょ)もいかでか力をあ()はせ給はざるべきと思ひ候ひて、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏並びに天照・八幡・大小の神祇(じんぎ)等に申して候。定めて評議ありてぞしるし()をばあらはし給はん、よも日蓮をば捨てさせ給はじ。いた(痛)きとかゆ(痒)きとの如く、あてがはせ給はんとおもひ候ひしに、ついに病悩なを(治)り、海中いろ(鱗)くずの中より出現の仏体を日蓮にたまはる事、此の病悩のゆへなり。さだめて十羅刹女のせめなり。此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし。

 

 

*教主釈尊とは我等衆生の事なり

我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが、法華経の行者となりて無始色心本是理性(むししきしんほんぜりしょう)・妙境妙智(みょうきょうみょうち)金剛不滅(こんごうふめつ)の仏身とならん事、あにかの仏にかは(異)るべきや。過去久遠五百塵点(じんでん)のそのかみ(当初)唯我一人(ゆいがいちにん)の教主釈尊とは我等衆生の事なり。法華経の一念三千の法門、常住此説法のふるまひなり。かゝるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。寿量品に云はく「倒(てんどう)の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり。迷悟(めいご)の不同は沙羅(しゃら)の四見の如し。一念三千の仏と申すは法界の成仏と云ふ事にて候ぞ。

中略

凡夫即仏なり、仏即凡夫なり、一念三千我実成仏これなり。

しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生まれかわり給ひて日蓮をたす(助)け給ふか。

 

 

7

高野山大衆 検校真弁を追う(高野春秋)

 

 

10

定親 東寺長者に補任される(東寺長者補任・続史愚抄)

 

 

113

北条重時 卒64(吾妻鏡)

 

 

12

幕府 名主・百姓等の公田売却を停止 

 

 

この年 

 

忍性 北条長時の招聘により鎌倉に入る(本朝高僧伝・元亨釈書・性公大徳譜)

 

 

日興 伊豆国宇佐美および吉田に弘教と伝う

*「家中抄」(富要5148)

日興

弘長元年の五月、師、伊豆の伊東に配流せられ給ふ伯耆公即伊東にゆいて給仕し給へり、行程百五十里、文笈を荷担して遠しとし給はず道中処々にて説法強化し給へり、給仕の隙には伊東の近所を強化し給ふに宇左美吉田に信者少々出来る、同三年二月十二日御赦免ありて上人鎌倉へかへり給ふ伯耆房御伴なり御伝。

 

⇒前記考察の「日興の入門は文永23年頃」とすれば、日蓮の伊豆流罪時に日興が給仕したとは、やはり「伝承」となるか。

 

【 系年、文応2年・弘長元年と推定される書 】

 

 

書を著す

「同一鹹味御書(どういつかんみごしょ)

(1-27P232、創新27P475、校1-30P269、全P1447、新P263)

伊豆 伊東

満下269 宝10 真蹟なし

録外3-52 受1-6 遺7-36 縮415

*本満寺本「同一鹹味御書=大海八不思議事」

平成校定「同一鹹味御書(与檀越某書)

<系年>

創価学会新版「弘長元年」

 

*現身に悪瘡

法華の持者を禁(いまし)むるは釈迦如来を禁むるなり。梵釈四天(ぼんしゃくしてん)も如何(いかが)驚き給はざらん。十羅刹女の頭破七分(ずはしちぶん)の誓ひ、此の時に非ずんば何(いつ)の時か果し給ふべき。頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を禁獄(きんごく)せし阿闍世(あじゃせ)、早く現身に大悪瘡(だいあくそう)を感得(かんとく)しき。法華の持者を禁獄する人、何ぞ現身に悪瘡を感ぜざらんや。

 

 

書を著すと伝う

「善神擁護抄」

(3続編15P2041、校3真偽未決書6P2817)

伊東

真蹟なし

録外25-16 遺7-35 縮415

*平成校定「善神擁護抄(太田抄)

 

 

図録を著す

「華厳法相三論天台等元祖事」

(4図録新加32P2904、校3図録11P2393)

真蹟6紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

< 系年 >

昭和定本・平成校定「弘長」

 

 

要文抄録

「三部経肝心要文」(日蓮聖人真蹟集成 第6)

真蹟16紙・東京都大田区池上 池上本門寺蔵

< 系年 >

文応年間と推される

「天台沙門日蓮」と記す

 

「三部経肝心要文」(日蓮聖人真蹟集成 第6巻)より 右下に「天台沙門日蓮」と記す
「三部経肝心要文」(日蓮聖人真蹟集成 第6巻)より 右下に「天台沙門日蓮」と記す

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