1259年・正嘉3年(3月26日改元)・正元元年 己未(つちのとひつじ) 38歳
後深草天皇
亀山天皇 在位[正元元年]11月26日~1274年[文永11年]1月26日
北条長時
春
大飢饉、大疫病となる
◇「安国論御勘由来」文永5年4月5日 真蹟 延山録外
同三年大飢饉。正元元年己未(つちのとひつじ)大疫病
五代帝王物語[五代は後堀河、四条、後嵯峨、後深草、亀山天皇を指し、鎌倉時代後期に書かれた編年体の歴史物語、作者未詳]
「正月の上旬の比、死人を喰ふ小尼出来て、よろづの所にてくふといふほどに、十四五計なる小尼、内野より朱雀の大路を南ざまへ行とて、まさに死人の上に乗ゐてむしり喰。目もあてられずぞ有ける。童部しりさきに立て打さいなめば、鳥羽の方へまかりける後はいかがなりぬらん」
「春比より世のなかに疫病おびただしくはやりて、下臈どもはやまぬ家なし。川原などは路もなきほどに死骸みちて、浅ましき事にて侍りき。崇神天皇の御代昔の例にも劣らずやありけん。飢饉もけしからぬ事にて、諸国七道の民おほく死亡せしかば、三月二十六日改元ありて正元と改る」
2月9日
幕府 諸国飢饉により浪人が山野・江海に入ることを地頭が制止するのを禁ず
鎌倉幕府法
一、山野・江海の煩いを止め、浪人の身命を助くべき事
諸国飢饉の間、遠近侘際の輩、或いは山野に入り薯蕷野老を取り、或いは江海に臨み魚鱗海藻を求む。此の如き業を以て、活計を支えるの処、在所の地頭堅く禁遏せしむと。早く地頭の制止を止め、浪人の身命を助くべきなり。但し事をこの制符に寄せ、過分の儀有るべからず。この旨を存じ沙汰を致すべきの状、仰せに依って執達件の如し。
正嘉三年二月九日
武蔵の守 相模の守
駿河の守殿
3月26日
尊助 天台座主に補任される(百錬抄・天台座主記)
5月4日
近衛兼経 卒50歳(公卿補任)
7月17日
書を武蔵殿に報ず
「武蔵殿御消息」
(定1-13・P87、創新232・P1640、校1-17・P122、全P1288、新P116)
武蔵房
創価学会新版・武蔵公
真蹟1紙16行・身延山久遠寺曽存(遠・奠・亨録)
延山録外 縮続93
*摂論(しょうろん)三巻(摂大乗論)は給び候へども、釈論等の各疏(しょ)候はざるあひだ事ゆかず候。をなじくは給び候ひてみあわすべく候。見参の事いつにてか候べき。仰せをかほり候はん。八講はいつにて候やらん。
⇒日蓮は武蔵房に書籍の借用を依頼する。同時に、天台宗の「法華八講」の日時を訪ねているところから、他の天台僧と共に参加していたものか。
10月14日
書を著す
「十住毘婆沙論尋出御書(じゅうじゅうびばしゃろんじんしゅつごしょ)」
(定1-14・P87、創新233・P1641、校1-18・P123、全P1288、新P117)
武蔵房
創価学会新版・武蔵公
延山録外 真蹟なし
縮続92
*平成校定「武蔵公御房御書(十住毘婆沙論尋出御書)」
*昨日武蔵前司殿の使ひとして念仏者等召し相はせられて候ひしなり。又十郎の使ひにて候はんずるか。十住毘婆沙論を内々見るべき事の候。万事を抛ちて尋ね出だし給ひ候へ。
⇒武蔵前司=大仏朝直(おさらぎともなお)を介して念仏者と対論したものか。この頃の日蓮の弘法、念仏批判活動の一端がうかがえる書となっている。
11月
尊信 興福寺別当に補任される(興福寺別当次第・興福寺寺務次第)
この年
賢秀公日源 駿河国熱原に誕生と伝う(富要5-76)
南条時光 駿河国上野に誕生と伝う(妙蓮寺過去帳)
【 系年、正嘉3年・正元元年と推定される書 】
書を著す
「守護国家論」
(定1-15・P89、創新23・P379、校1-19・P124、全P36、新P117)
鎌倉
真蹟18紙半・身延山久遠寺曽存(乾録)
日朝本 平10
録内10-1 遺5-1 縮220
<系年>
真蹟昭和定本・創価学会新版「正元元年」
*日蓮立教初期は法華真言未分というよりも法華真言並列ではなかったか
*法華・真言について
問うて云はく、不了義経を捨てゝ了義経に就くとは、大円覚修多羅(だいえんがくしゅたら)了義経・大仏頂如来密因修証(だいぶっちょうにょらいみついんしゅしょう)了義経、是くの如き諸大乗経は皆了義経なり。依用(えゆう)と為すべきや。
答へて曰く、了義・不了義は所対に随って不同なり。二乗・菩薩等の所説の不了義経に対すれば一代の仏説は皆了義なり。仏説に就いて亦小乗経は不了義、大乗経は了義なり。大乗に就いて又四十余年の諸経は不了義経、法華・涅槃・大日経等は了義経なり。而るに円覚・大仏頂等の諸経は小乗及び歴劫修行の不了義経に対すれば了義経なり。法華経の如き了義には非ざるなり。
*法華経最第一
問うて云はく、諸経滅尽の後特(ひと)り法華経留まるべき証文如何。答へて云はく、法華経の法師品に釈尊自ら流通せしめて云はく、「我が所説の経典無量千万億にして已(すで)に説き今説き当(まさ)に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為(こ)れ難信難解なり」云云。文の意は一代五十年の已今当(いこんとう)の三説に於て最第一の経なり。八万聖教の中に殊に未来に留めんと欲して説きたまひしなり。
*法華経は釈迦牟尼仏
法華経に云はく「若し法華経を閻浮提に行じ受持すること有らん者は応(まさ)に此の念を作(な)すべし。皆是普賢(ふげん)威神(いじん)の力なり」已上。
此の文の意は末代の凡夫法華経を信ずるは普賢の善知識の力なり。
又云はく「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念(しょうおくねん)し修習し書写すること有らん者は、当に知るべし、是の人は則(すなわ)ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口(ぶっく)より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」已上。
此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。
*日本国・法華経の流布すべき処
問うて云はく、日本国は法華・涅槃有縁(うえん)の地なりや否や。
答へて云はく、法華経第八に云はく「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」と。
七の巻に云はく「広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」と。
涅槃経第九に云はく「此の大乗経典大涅槃経も亦復(またまた)是くの如し。南方の諸の菩薩の為の故に当に広く流布すべし」已上経文。
三千世界広しと雖も仏自(みずか)ら法華・涅槃を以て南方流布の処と定む。南方の諸国の中に於ては日本国は殊(こと)に法華経の流布すべき処なり。
問うて云はく、其の証如何。
答へて曰く、肇公(じょうこう)の法華の翻経(ほんぎょう)の後記に云はく「羅什三蔵(らじゅうさんぞう)、須利耶蘇摩(しゅりやそま)三蔵に値ひ奉りて法華経を授かる時の語に云はく、仏日(ぶつにち)西山に隠れ遺耀(いよう)東北を照らす。茲(こ)の典(てん)東北の諸国に有縁なり。汝慎んで伝弘(でんぐ)せよ」已上。
東北とは日本なり。西南の天竺(てんじく)より東北の日本を指すなり。
故に慧心(えしん)の一乗要決(いちじょうようけつ)に云はく「日本一州円機(えんき)純一にして、朝野(ちょうや)遠近(おんごん)同じく一乗に帰し、緇素貴賎(しそきせん)悉く成仏を期す」已上。
願はくは日本国の今世の道俗選択集の久習(くじゅう)を捨てゝ、法華涅槃の現文(げんもん)に依り、肇公(じょうこう)・慧心(えしん)の日本記を恃(たの)みて法華修行の安心を企てよ。
*浄土
問うて云はく、法華経修行の者何(いず)れの浄土を期すべきや。
答へて曰く、法華経二十八品の肝心たる寿量品に云はく「我常在此娑婆世界」と。亦云はく「我常住於此」と。亦云はく「我此土安穏」文。
此の文の如くんば本地久成(くじょう)の円仏(えんぶつ)は此の世界に在(いま)せり。此の土(ど)を捨てゝ何れの土を願ふべきや。故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思うべし。何ぞ煩(わずら)はしく他処を求めんや。
故に神力品に云はく「若しは経巻所住の処ならば、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下(じゅげ)に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣(びゃくえ)の舎(いえ)にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野(せんごくこうや)にても、乃至当に知るべし、是の処は即ち是道場なり」と。
涅槃経に云はく「若し善男子、是の大涅槃微妙(みみょう)の経典流布せらるゝ処は当に知るべし、其の地即ち是金剛(こんごう)なり。是の中の諸人も亦金剛の如し」已上。
法華涅槃を信ずる行者は余処を求むべきに非ず。此の経を信ずる人の所住の処は即ち浄土なり。
書を著す
「念仏者追放宣旨事(ねんぶつしゃついほうせんじじ)」
(定3図録7・P2258、創新86・P918、校3図録7・P2366、全P86、新P161)
金綱集5 日朝本 平12 真蹟なし
録内36-15 遺5-46 縮272
*昭和定本「念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状(念仏追罰五編)」
創価学会新版「念仏者追放宣旨事」
平成校定「念仏者追放宣旨御教書事(念仏追罰五編)」
全集「念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状」
書を著す
「十法界事」
(定1-16・P137、創新21・P365、校1-20・P173、全P417、新P173)
日朝本 平14 真蹟なし
録内34-25 遺5-57 縮286
< 系年 >
昭和定本「正元元年或は佐後(祖書綱要刪略)」
創価学会新版「正元元年」
*衆生悉く皆同じく釈迦如来
然るに今法華方便品に「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と説きたまふ。爾の時八機並びに悪趣の衆生悉く皆同じく釈迦如来と成り、互ひに五眼(ごげん)を具し、一界に十界を具し、十界に百界を具せり。
書を著す
「爾前二乗菩薩不作仏事」
(定1-17・P144、創新22・P375、校1-21・P181、全P424、新P180)
真蹟・身延山久遠寺曽存(筵・亨録)
日朝本 平29
録内38-32 遺6-1 縮296
< 系年 >
昭和定本「正元元年、或は康元頃(境)」
創価学会新版「正元元年」
書を著す
「爾前得道有無御書」
(定1-18・P148、校1-22・P185、新P183)
日朝本 平25 真蹟なし
録内34-4 遺16-19 縮1045
*平成校定「爾前得道有無御書(二乗永不作仏事)」
< 系年 >
昭和定本「正元元年(諦)或は文永11年(縮)」
図録を著す
「四教略名目」
(定4図録新加31・P2877、校3図録6・P2334)
真蹟38紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
< 系年 >
昭和定本・平成校定「正嘉期」
末尾2紙には他筆が混じる
修学時代の備忘録的内容でもある
四教五時の名目、三大部の巻数、能釈の方法、天台八祖の系譜、十界の能居所居、十如是の名目、三千世間の組織を列示する。
書を写す
「浄土宗要決巻中」
真蹟1冊31紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
「浄土宗要決」の著者は不明であるも、文中記事より、長楽寺隆覚の門下の述作か