1256年・建長8年(10月5日改元)・康元元年 丙辰(ひのえたつ) 35歳
後深草天皇
北条時頼
北条長時(鎌倉幕府第6代執権) 在職1256年[康元元年]~1264年[文永元年]
2月
良盛 興福寺別当に補任される(興福寺別当次第・興福寺寺務次第)
6月
定済 醍醐寺座主に補任される(東寺長者補任)
7月22日
書を著すと伝う
「回向功徳抄(侍従殿御消息)」
(定1-9・P53、校3真偽未決書5・P2813)
侍従公
宝10 満下61 真蹟なし
受3-12 遺3-39 縮128
*本満寺本、他受用御書「回向功徳抄=侍従殿御消息」
昭和定本「回向功徳抄(侍従殿御消息)」
8月6日
鎌倉 大風雨・洪水・疫病流行
吾妻鏡
「甚雨大風、河溝洪水、山岡大頽毀。男女多横死〈云云〉。」
甚雨大風 河溝洪水・山岳大頽毀、男女多々横死す。
8月11日
藤原頼経 卒39歳(吾妻鏡)
8月~9月
赤斑瘡流行
吾妻鏡
「九月大一日 戊子霽 將軍家御惱、赤班瘡也。若宮別當僧正、參籠宮寺、致御祈祷。此事當時流布、諸人不免之。爲祈祷、於諸堂、被行百座仁王講。清左衛門尉滿定、奉行之。」
将軍家御悩は赤班瘡なり。若宮の別当僧正宮寺に参籠し、御祈祷を致さる。この事当時流布し、諸人これを免がれず。祈祷の為諸堂に於いて百座の仁王講を行わる。清左衛門の尉満定これを奉行す。
「三日 庚寅天晴。又有御惱御祈等。松殿法印良基、左大臣法印嚴惠、各修藥師護摩。七座泰山府君、宣賢、爲親、晴長、廣資、以平、晴憲、晴宗。此外被行七座靈所秡、天冑地府、御當年星、咒咀等祭。」
また御悩の御祈祷等有り。松殿法印良基・左大臣法印厳恵、各々薬師護摩を修す。七座の泰山府君は宣賢・為親・晴長・廣資・以平・晴憲・晴宗。この外七座の霊所祓い・天冑地府・御当年星・呪咀等の祭を行わる。
「十五日 壬寅陰 相州令惱赤班瘡給。」
相州赤班瘡を悩ましめ給う。
「十六日 癸卯 朝間、雨降。及晩、相州御不例事、去六月廿六日、當御衰日、始令出仕給之間、今御不例、可有其愼之由、陰陽道勘申之。仍被行泰山府君祭。又相州女子、有赤班瘡。邪氣相交〈云云〉。」
朝間雨降る
晩に及び相州不例の事、去る六月二十六日御衰日に当たり、始めて出仕せしめ給うの間、今この御不例その煩い有るべきの由、陰陽道これを勘じ申す。仍って泰山府君祭を行わる。また相州の女子赤班瘡有り。邪気相交る。
9月25日
藤原頼嗣 卒18歳(公卿補任)
11月22日
北条時頼 長時に執権を譲り、道隆により出家して覚了房道崇と号す(吾妻鏡)
この年
四条頼基・進士善春・工藤吉隆・池上宗仲・荏原義宗等入信と伝う
(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表・富士年表)
【 系年、建長8年・康元元年と推定される書 】
書を著すと伝う
「垂迹法門」
(定3続編9・P2015)
鎌倉
本満寺本 真蹟なし
録外15-20 遺3-38 縮127
*平成校定は偽書として不収録
書を著すと伝う
「十二因縁御書」
(定3続編10・P2016、校1-11・P74、新P53)
鎌倉
日朝本 延山本 満上73 宝2 真蹟なし
*成仏
凡(およ)そ成仏とは、我が身を知るを仏に成るとは申すなり。我が身を知るとは、本よりの仏と知るを云ふなり。一切衆生螻蟻蚊虻(ろうぎもんもう)まで生を受くる程のもの、身体は六根・六境・六識の十八界をもて組み立てたる身なり。
此の衆生は五陰和合(ごおんわごう)の身なり。釈に云はく「五陰和合を名づけて衆生と為す」と。此の五陰は十二因縁なる故なり。
其の十二因縁とは、無明・行・識・名色(みょうしき)・六入・触(そく)・受・愛・取・有・生・老死。此の十二因縁をば三世両重の因果と云ふ。
*決の六に云はく
「頭の円(まど)かなるは天に象(かたど)る、足の方(ほう)なるは地に象る、身内の空種(うつろ)なるは即ち是虚空なり。腹の温(あたた)かきは春夏に法(のっと)り、背の剛(かた)きは秋冬に法る。四体は四時に法る。大節(だいせつ)の十二は十二月に法り、小節(しょうせつ)の三百六十は三百六十日に法る。鼻の息の出入するは山沢渓谷(さんたくけいこく)の中の風に法り、口の息の出入は虚空(こくう)の中の風に法り、眼は日月に法り開閉するは昼夜に法り、髪は星辰(せいしん)に法り、眉(まゆ)は北斗に法り、脈(ちすじ)は江河に法り、骨は玉石に法り、肉は土地に法り、毛は叢林(そうりん)に法り、五臓は天に在っては五星に法り、地に在っては五岳に法る」と。
書を著すと伝う
「法華経大意」
(定3続編11・P2021)
鎌倉
満 真蹟なし
録外16-4 縮続13
*平成校定は偽書として不収録
書を著すと伝う
「神祇門」
(定3続編12・P2026)
鎌倉
満 真蹟なし
録外15-15 縮二続30
*平成校定は偽書として不収録