1254年・建長6年 甲寅(きのえとら) 33歳
後深草天皇
北条時頼
1月1日
日蓮 正月1日に生身の愛染明王を、ある月の15日より17日に至る間に生身の不動明王を感見する
1月10日
鎌倉大火
吾妻鏡
「西風烈、卯一點、濱風早。町邊燒亡。至名越山王堂、人家數百宇災。日出以後、火止。燒死者數十人〈云云〉依彼穢、今日將軍家御神拝、延引〈云云〉。」
西風烈し。卯の一点浜風早く町の辺焼亡す。名越山王堂に至るまで人家数百宇災す。
日の出以後火止む。焼死者数十人と。彼の穢に依って、今日将軍家の御神拝延引すと」
4月29日
幕府 宋船入泊の員数を定めて5艘に制限する(吾妻鏡)
6月25日
「不動・愛染感見記」を著す
(定1-3・P16、校1-5・P36)
真蹟2紙完・千葉県安房郡鋸南町吉浜 保田妙本寺蔵
10月1日
幕府 武士の狼藉および人身売買の停止を命ず(吾妻鏡)
11月2日
足利義氏 卒66歳(吾妻鏡)
この年
日朗 得度と伝う(本化別頭仏祖統記・山城新編法華霊場記・日蓮宗年表・富士年表)
円爾 鎌倉寿福寺に住す
北条時頼 弁円に就いて受戒す(東福寺紀年録・本朝高僧伝)
静仁 園城寺長吏に補任される(園城寺長吏次第)一説では建長3年(三井寺続灯記)
【 系年、建長6年と推定される書 】
書を著す
「某殿御返事(白木御消息)」
「某殿御返事(折紙)の位置とその伝来」中尾堯氏
(「日蓮とその教団」P26 1999年 吉川弘文館)
京都府京都市 某家蔵
*以下、中尾堯氏の解説
・某殿御返事が執筆された時期
立教後から鎌倉に草庵を構えた頃、建長6年から正嘉元年初め。
・鎌倉で草庵を建築する時に、信者の武士某から白木を布施される。法華経一部読誦を要請された折紙の書状に対する謝礼の返事。
*始めにて候らえば、かうし(格子)つく(作)て候也。まず、白木の事悦び入りて候。法華経一部読誦すべきの折紙、悦び入りて候。恐々
乃時 日蓮 御返事
図録を著す
「戒之事」
(定3図録2・P2222、校3図録2・P2302)
真蹟2紙断簡・静岡県三島市泉町 本覚寺蔵
貼合第1紙
貼合第1紙後半
貼合第2紙
貼合第2紙後半
*平成校定は「真蹟断簡4紙」
書を著すと伝う
「十王讃嘆抄」
(定3続編6・P1966、校3真偽未決書2・P2764)
鎌倉
宝22 真蹟なし
録外19-2 遺2-27 縮54
書を著すと伝う
「八大地獄抄」
(定3続編7・P1993、校3真偽未決書3・P2791)
鎌倉
三宝寺本 真蹟なし
録外3-14 遺2-55 縮81
書を著すと伝う
「問答抄」
(定3続編8・P2003、校3真偽未決書4・P2801)
鎌倉
満下65 宝3 真蹟なし
録外3-35 縮二続6
*系年
「建長6年(明)」