1253年・建長5年 癸丑(みずのとうし) 32歳
後深草天皇
北条時頼
2月15日
日興父・妙行卒と伝う(重須過去帳・日蓮宗年表)
2月16日
日向 上総国に誕生と伝う(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表・富士年表)
3月28日
日蓮 安房国・清澄寺にて浄円房以下少々の大衆に「これを申しはじめ」る
◇「清澄寺大衆中」建治2年(または建治年間) 真蹟曽存 平賀本
此を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年三月二十八日、安房国東条郷清澄寺道善の房の持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す。
4月28日
日蓮 立教
安房国・清澄寺にて「法門申しはじめ」る
◇「聖人御難事」弘安2年10月1日 真蹟
去ぬる建長五年太歳癸丑(みずのとうし)四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや(厨)、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや(御厨)、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午(うま)の時(午の刻=昼の12時前後の2時間)に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年なり太歳己卯(つちのとう)。
◇「新尼御前御返事」文永12年2月16日 真蹟 真蹟曽存 日朝本
日蓮は一閻浮提の内、日本国安房国東条郡に始めて此の正法を弘通し始めたり。随って地頭敵(かたき)となる。彼の者すでに半分ほろびて今半分あり。
◇「開目抄」文永9年2月 真蹟曽存 日興写要文
無量生が間、恒河沙(ごうがしゃ)の度(たび)すかされて権経に堕ちぬ。権経より小乗経に堕ちぬ。外道外典に堕ちぬ。結句は悪道に堕ちけりと深く此をしれり。
日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。
これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟(しゆい)するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合はせ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしとし(知)りぬ。
二辺の中にはいうべし。
王難等出来の時は、退転すべくば一度に思ひ止むべしと且(しばら)くやす(休)らいし程に、宝塔品の六難九易これなり。我等程の小力の者、須弥山(しゅみせん)はな(投)ぐとも、我等程の無通の者、乾草を負ふて劫火にはやけずとも、我等程の無智の者、恒沙(ごうじゃ)の経々をばよみをぼうとも、法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと、とかるゝはこれなるべし。今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願じぬ。
◇「報恩抄」建治2年7月21日 真蹟
但し各々二人(浄顕房・義城房)は日蓮が幼少の師匠にてをはします。勤操(ごんそう)僧正・行表(ぎょうひょう)僧正の伝教大師の御師たりしが、かへりて御弟子とならせ給ひしがごとし。日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしに、を(追)ひてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり。後生は疑ひおぼすべからず。
6月10日
鎌倉大地震
吾妻鏡
「未尅、大地震。近年無比類。又小選而小動一兩度。」
未の刻大地震。近年比類無し。また小選して小動一両度。
「十三日 乙丑 小雨降。爲地震御祈、於御所被行泰山府君祭。爲親朝臣、奉仕之。後藤壹岐前司基政、爲御使。」
地震御祈りの為、御所に於いて泰山府君祭を行わる。為親朝臣これを奉仕す。後藤壱岐の前司基政御使たり。
7月12日
朝廷 新制18条を宣下
8月26日
日蓮 草庵を鎌倉に構えると伝う
(山城新編法華霊場記・本圀寺年譜・日蓮聖人註画讃・山城名勝志)
⇒後世の伝承か。確定的なものではない
8月28日
道元 寂54歳(道元録)
道元 示寂以前に 「正法眼蔵」などを著す
9月16日
幕府 関東新制を出す(吾妻鏡)
10月1日
幕府 諸国地頭代の検断について制定(吾妻鏡)
11月25日
執権・時頼 鎌倉に建長寺を創建し道隆を請ず
吾妻鏡
「霰降 辰尅以後、小雨潅。建長寺供養也。以丈六地藏菩薩、爲中尊、又安置同像、千體。相州、殊令凝精誠給。去建長三年十一月八日、有事始、已造畢之間、今日展梵席。願文草、前大内記茂範朝臣。清書、相州。導師、宋朝僧道隆禪師、又一日内、被遂供養五部大乗經。此作善旨趣、上、祈皇帝萬歳將軍家及重臣千秋天下太平、下、訪三代上將二位家并御一門過去數輩没後御〈云云〉。」
霰降る。辰の刻以後小雨灑ぐ
建長寺供養なり。丈六の地蔵菩薩を以て中尊と為す。また同像千体を安置す。相州殊に精誠を凝らせしめ給う。去る建長三年十一月八日事始め有り。すでに造畢の間、今日梵席を展ぶ。願文の草は前の大内記茂範朝臣、清書は相州、導師は宋朝の僧道隆禅師。また一日の内五部大乗経を写し供養せらる。この作善の旨趣は、上は皇帝万歳・将軍家及び重臣の千秋・天下太平を祈り、下は三代の上将・二位家並びに御一門の過去数輩の没後を訪い御う。
11月
日昭 入弟と伝う(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表・富士年表)
12月9日
書を富木常忍に報ず
「富木殿御返事」
(定1-2・P15、校1-4・P35、新P25)
鎌倉・富木常忍
真蹟1紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
「天台肝要文集」紙背(真蹟集成6巻)
縮二続119
*全文
よろこびて御とのひと給えりて候。ひる(昼)はみぐり(見苦)しう候えば、よる(夜)まい(参)り候わんと存じ候。ゆうさりとりのときばかりに給うべく候。又御わた(渡)り候て法門をも御だんぎ(談義)あるべく候。
十二月九日
日蓮
とき殿
*法門談義について
又御はた(渡)り候ひて法門をも御だんぎ(談義)あるべく候。
⇒この時以前に、富木常忍は日蓮法華の信奉者となっていた。
・当書には書状の常として年時が書かれていない。系年について、稲田海素氏は「建長五年頃、即鎌倉進出の初、富木氏への消息と見た」とする。
・中尾堯氏は、
・法橋長専が建長5年12月27日に鎌倉で認め、富木常忍に発した書状を、常忍は30日に受け取っていることが、「端裏書き」によって確認される。
同書文面には「富木入道」とあり、富木常忍が(在俗のまま出家して)入道となったことが初めて窺える文書となっている。
・一方、12月9日付けの「富木殿御返事」の宛て名は「とき殿」であり、入道していないことから、同書は建長5年かそれ以前の12月9日に書かれたことになる。
・日蓮は建長3年11月24日、京都五条坊門富小路で「五輪九字明秘密義釈」を書写しているので、当時はまだ、比叡山留学中であることが明らか。
・建長5年4月28日の立教以降、日蓮は清澄山をひそかに逃れて身を隠しているが、当書の「ひる(昼)はみぐるしう候へば、よる(夜)まいり候はんと存じ候」との文書に深い関わりが感じられる。
以上のことから、12月9日付けの「富木殿御返事」は建長5年とするのが最も妥当とする。
そして、建長5年12月9日頃は、日蓮も富木常忍も下総の国八幡庄(千葉県市川市)に共に居住していたとする。(中尾堯氏の著「日蓮聖人のご真蹟」P43より趣意)
・山中喜八氏は
「殊に第十六丁目の紙背に『十二月九日 とき殿 日蓮』なる消息一紙が存するが、これを聖筆と断ずるにはさらに考究を要するところがあるようである」とする。
(山中喜八氏の著「日蓮聖人真蹟の世界・下P133)
⇒日蓮の側にあった者、弟子による代筆の書であろうか。
図録を著す
「六因四縁事」
(定3図録1・P2221、校3図録1・P2301)
真蹟1紙6行断簡・広島県福山市熊野町 常国寺蔵
この年
父母を授戒し、日蓮と更名すと伝う(本化別頭高祖伝、富士年表)
⇒「父母を授戒」は日蓮の文書にはない