1251年・建長3年 辛亥(かのとい) 30歳
後深草天皇
北条時頼
2月10日
鎌倉大火
吾妻鏡
「甘縄邊燒亡。從火地相法橋之宅起。自戌刻、到子之一點不止。東若宮大路、南由比濱、北中下馬橋、西佐々目谷也。相摸右近大夫將監時定、相摸八郎時隆等弟、以下數箇所災〈云云〉。今日相州自染筆、被献御書於二條殿。向後御心安、可存之由〈云云〉。」
甘縄の辺焼亡す。火は地相法橋の宅より起こる。戌の刻より子の一点に到るまで止まず。東は若宮大路、南は由比浜、北は中下馬橋、西は佐々目谷なり。相模右近大夫将監時定・相模の八郎時隆等の第以下数箇所災す。今日相州自ら筆を染め、御書を二條殿に献らる。向後御心安く存ずべきの由。
4月23日
鎌倉大雨洪水
吾妻鏡
「甚雨自廿一日未止。今夜子尅洪水村里家耕所苗、悉以流失〈云云〉。」
甚雨二十一日より止まず。今夜子の刻洪水。村里の家・耕所の苗、悉く以て流失す。
5月
道乗 東寺長者に補任される(東寺長者補任・仁和寺諸院家記)
9月17日
幕府 利銭出挙における訴訟について定む(吾妻鏡)
10月
宗性 「日本高僧伝要文抄」を著す
11月24日
日蓮 京都五条之坊門富小路で「五輪九字明秘密義釈」を書写
「五輪九字明秘密義釈奥書(ごりんくじみょうひみつぎしゃくおくがき)」(定4親写本奥書2・P2875)
真蹟1冊49紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵
< 奥書 >
建長三年一一月廿四日戌時了。
五帖之坊門富小路。坊門よりは南。
富小路よりは西。
⇒「五輪九字明秘密義釈」は、新義真言宗の開祖とされる覚鑁(かくばん・興教大師、1095年・嘉保2年~1143年・康治2年)の晩年の著作であり、同写本に日蓮が記した自署はなし。
内容は、東密と浄土教、両者の融合を説いたもの。顕教には批判的なものとなっている。日蓮は修学の一環として学び、同時に密教を摂取していることも窺わせるものである。
・第1紙表面に文永初期の筆跡で大日経義釈、不思議疏の要文を記入する。
扉の左下隅に日蓮の密号と思われる署名あり。その右には「常忍」との傍書。
・覚鑁書を見ると、独自に創案した阿弥陀曼荼羅が載せられていることは興味深い。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅を組み合わせたようなものであり、中央に観音、阿弥陀、周囲を八大菩薩が囲み、外周に内外の四供養菩薩、四摂菩薩が配置されている。
・1254年・建長6年9月3日、肥前公日吽は「五輪九字明秘密義釈」を書写している。
五輪九字明秘密釈
建長六年甲寅九月三日未時了。
清澄山住人肥前公日吽生年廿七才
為仏法興隆法界衆生成仏道也。
(金沢文庫古文書―識語編747)
12月3日
幕府 鎌倉市中の商売区域を制定(吾妻鏡)
12月26日
僧了行等、謀叛を企て誅せらる
吾妻鏡
「雹降 於地積之事三寸、今日未尅之及一點、而世上物怱也。近江大夫判官氏信、武藏左衛門尉景頼、生虜了行法師矢作左衛門尉〈千葉介近親〉長次郎左衛門尉久連等。件之輩。有謀叛之企〈云云〉。仍諏方兵衛入道、爲蓮佛之承推問子細。大田七郎康有、而記詞、逆心悉顯露〈云云〉。其後鎌倉中、彌騒動、諸人競集〈云云〉。」
雹降る。地に於いて積もるの事三寸、今日未の刻の一点に及んで世上物騒なり。近江大夫判官氏信・武蔵左衛門の尉景頼、了行法師・矢作左衛門の尉(千葉の介近親)・長次郎左衛門の尉久連等を生虜る。件の輩謀叛の企て有り。仍って諏方兵衛入道蓮佛の承りとして、子細を推問す。大田の七郎康有をして詞を記す。逆心悉く顕露す。その後鎌倉中いよいよ騒動す。諸人競い集まる。
「廿七日 壬午天晴 被誅謀叛之衆。又有配流之者〈云云〉。近國御家人群參如雲霞。皆以可歸國之由、被仰出也」
謀叛の衆を誅せらる。また配流の者有りと。近国の御家人群参すること雲霞の如し。皆以て帰国すべきの由仰せ出さるるなり。
この年
北条長時 鎌倉に浄光明寺を創建(新編鎌倉志)
北条時頼 建長寺の造営を始める(武家年代記・新編鎌倉志)
円照 東大寺戒壇院を再興する(円照行状記・招提千載伝記)
道仁 園城寺長吏に補任される(園城寺長吏次第・三井寺続灯記)