1247年・寛元5年(2月28日改元)・宝治元年 丁未(ひのとひつじ) 26歳

後深草天皇

 

北条時頼

 

119

近衛兼経 幕府の要請により摂政に就任(公卿補任)

 

 

3

道覚 天台座主に補任される(百錬抄・天台座主記)

 

 

425

幕府 後鳥羽院の御霊を鶴岡北方に新宮す(吾妻鏡)

「巳一點在暈〈云云〉。今日被奉勸請後鳥羽院御靈於鶴岡乾山麓。是爲奉宥彼怨靈、日來所被建立一宇社壇也。以重尊僧都、被補別當職〈云云〉」

 

 

5

興福寺覚遍 山徒顕雲と闘う(百錬抄)

 

 

65

宝治合戦・北条時頼 三浦泰村等を討つ(吾妻鏡・百錬抄)

保暦間記[ほうりゃくかんき、1356年・延文元年以前成立、作者不明]

「三浦駿河守が子に若狭守泰村と申は、時頼縁有けるに依て、驕を成す事無双なり。また秋田城介義景も去る子細有て権を取けり。二人中悪して煩多かりけり。義景種々の謀をして讒言を成ける程に、泰村誅せらる。舎弟能登守光村・式部丞景村、彼の一族縁有けるにや、毛利蔵人入道西阿以下、右幕下の法華堂に引籠て自害しけり。是も恣なる事共なり。その後義景法師子息泰盛権を取事並び無し。これを宝治合戦と申すなり。」

 

 

6

隆弁 鶴岡別当に補任される(鶴岡八幡社務職次第)

 

 

 

 

 

 

83

道元 北条時頼の招きにより鎌倉に赴く

(道元録)

 

 

 

10

法隆寺 聖徳太子著「法華義疏」を開版(日本古刻書史)

 

 

1126

法然弟子・善恵房証空 寂71(本朝高僧伝)

 

 

117

鎌倉寿福寺焼く

吾妻鏡

「丑刻、依失火、金剛壽福寺佛殿以下。至総門、悉以災。」

 

 

1212

幕府 本地頭と新地頭の徴租方式を定める(吾妻鏡)

 

 

1229

幕府 京都大番役を3ヶ月交代と改定(吾妻鏡)

 

 

この年

山徒 興福寺を襲う(和漢仏教年契)

 

 

日蓮 南都薬師寺に大蔵経を閲すと伝う(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表・富士年表)

⇒日蓮の文書にはない

 

 

日蓮 書を著すと伝う

「尭舜禹王抄」(3続編4P1955)

遊学中

三宝寺本 真蹟なし

2-8 縮36

*平成校定は真偽未決書として不収録

 

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