1247年・寛元5年(2月28日改元)・宝治元年 丁未(ひのとひつじ) 26歳
後深草天皇
北条時頼
1月19日
近衛兼経 幕府の要請により摂政に就任(公卿補任)
3月
道覚 天台座主に補任される(百錬抄・天台座主記)
4月25日
幕府 後鳥羽院の御霊を鶴岡北方に新宮す(吾妻鏡)
「巳一點在暈〈云云〉。今日被奉勸請後鳥羽院御靈於鶴岡乾山麓。是爲奉宥彼怨靈、日來所被建立一宇社壇也。以重尊僧都、被補別當職〈云云〉」
5月
興福寺覚遍 山徒顕雲と闘う(百錬抄)
6月5日
宝治合戦・北条時頼 三浦泰村等を討つ(吾妻鏡・百錬抄)
保暦間記[ほうりゃくかんき、1356年・延文元年以前成立、作者不明]
「三浦駿河守が子に若狭守泰村と申は、時頼縁有けるに依て、驕を成す事無双なり。また秋田城介義景も去る子細有て権を取けり。二人中悪して煩多かりけり。義景種々の謀をして讒言を成ける程に、泰村誅せらる。舎弟能登守光村・式部丞景村、彼の一族縁有けるにや、毛利蔵人入道西阿以下、右幕下の法華堂に引籠て自害しけり。是も恣なる事共なり。その後義景法師子息泰盛権を取事並び無し。これを宝治合戦と申すなり。」
6月
隆弁 鶴岡別当に補任される(鶴岡八幡社務職次第)
8月3日
道元 北条時頼の招きにより鎌倉に赴く
(道元録)
10月
法隆寺 聖徳太子著「法華義疏」を開版(日本古刻書史)
11月26日
法然弟子・善恵房証空 寂71歳(本朝高僧伝)
11月7日
鎌倉寿福寺焼く
吾妻鏡
「丑刻、依失火、金剛壽福寺佛殿以下。至総門、悉以災。」
12月12日
幕府 本地頭と新地頭の徴租方式を定める(吾妻鏡)
12月29日
幕府 京都大番役を3ヶ月交代と改定(吾妻鏡)
この年
山徒 興福寺を襲う(和漢仏教年契)
日蓮 南都薬師寺に大蔵経を閲すと伝う(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表・富士年表)
⇒日蓮の文書にはない
日蓮 書を著すと伝う
「尭舜禹王抄」(定3続編4・P1955)
遊学中
三宝寺本 真蹟なし
遺2-8 縮36
*平成校定は真偽未決書として不収録