1244年・寛元2年 甲辰(きのえたつ) 23歳
後嵯峨天皇
北条経時
1月
定玄 興福寺別当に補任される(興福寺別当次第・興福寺寺務次第)
2月16日
幕府 奴婢養子・人身売買など4条の法を制定(吾妻鏡)
3月18日
御書所を置く(百錬抄)
4月28日
藤原頼嗣 将軍に就任(公卿補任・百錬抄・吾妻鏡)
6月4日
藤原頼経 後鳥羽院追福のため「法華経」100部摺写(しょうしゃ・板木に彫って印刷すること)
吾妻鏡
「爲前大納言家御願、奉爲後鳥羽院御追善、日來被摺寫法華經百部。此形木、即所被彫彼震筆也。仍今日、被遂供養。大藏卿僧正良信、爲導師。」
前の大納言家の御願として、後鳥羽院御追善の奉為、日来法華経百部を摺写せらる。この形木即ち彼の宸筆を彫らるる所なり。仍って今日供養を遂げらる。大蔵卿僧正良信導師たり。
7月18日
波多野義重 越前に大仏寺を建立し道元を請す(道元録・永享門答記・延宝伝灯録)
8月24日
幕府 紀伊熊野山と伊勢阿曾山に蜂起した悪党の討伐を両国の守護に命ず(吾妻鏡)
8月29日
前太政大臣・西園寺公経 卒74歳(一般年表)
9月17日
日蓮 書を著すと伝う
「色身二法抄」
(定3続編2・P1947、校1-3、P28、新P20)
遊学中
日春本・岡宮光長寺蔵 日朝本 満下274 宝2 真蹟なし
録外14-30 遺2-1 縮28
*先づ止観・真言に付いて此の旨を能く能く意得べきなり
先づ止観・真言に付いて此の旨を能く能く意得(こころう)べきなり。先づ此の旨を意得(こころえ)ば、大慈悲心・菩提心を意得べし。其の故如何(いかん)となれば、世間の事を案ずるも、猶心をしづ(鎮)めざれば意得難し。何に況んや、仏教の道、生死の二法を覚(さと)らんことは、道心を発(お)こさずんば協(かな)ふべからず。道心とは、無始より不思議の妙法蓮華経の色心、五輪・五仏の身を持ちながら迷ひける事の悲しきなり。如何(いか)にしても此の旨を能く能く尋ぬべきなり。
⇒比叡山の止観業・遮那業について、その修学の大事なることを示す。
*釈迦如来も大日如来も
されば釈迦如来も大日如来も強(あなが)ちに歎き思し食しける事は、中々一切衆生の迷ひの凡夫、妙法蓮華経の色心をも離れ、五戒・五智・五仏の正体をも隔てずば、あなが(強)ちに仏も歎き思し食すまじきを、妙法蓮華経の色心を持ちながら、五戒・五智・五仏の正体に無始より迷ひける事を歎き思し食しけるなり。されば如何(いか)にしても迷ひの時も悟りの仏にてありけるぞと、此の旨を能く能く意得べきなり。
*生死の二法は色心の二法
是くの如く、十界の依正、色心の二法、一法二義の理にして、生死常住の故に三世に改まることなし。哀れなる哉(かな)、生死の無常を厭(いと)ひ悲しみ、身の常住の生死をし(知)らずして厭ひ居る事よ。此の理をしらずして、或は此の生死を厭ひて生死なき浄土をもと(求)め、或は又此の理をしらずして、生死は虚妄の物なりと観ずる人も之有り。悲しむべし悲しむべし。
唯(ただ)生とは心法なり、滅とは色法なり。故に生死の二法は色心の二法にて有りけるなり。是即ち真言・止観の観法、出離生死の頓証(とんしょう)なり。道場所得の妙悟、妙覚朗然(ろうねん)の知見なり。最後臨終の時は此の理を思し食し定むべし。
⇒本書冒頭では、比叡山の止観業・遮那業について、その修学の大事なることを示している。「境妙庵目録」は1281年・弘安4年、身延山での述作とするも、真言第一思想であることから法華真言勝劣判別以前の述作、即ち初期の頃の書とするのが妥当か。
妙法蓮華経の五字を五智五仏に配当、十界の依正全てを三世不改と説示、色心二法、生死一大事の法門を論じる台密の教義の書である。