1243年・仁治4年(2月26日改元)・寛元元年 癸卯(みずのとう) 22歳

後嵯峨天皇

 

北条経時

 

1

厳海 高野闘争により長者を辞す(東寺長者補任)

 

 

3

遠藤盛国 仏堂を佐渡畑方村に創し、大覚世尊寺と号すと伝う(縁起・日蓮宗年表)

 

 

53

北条経時 鎌倉佐介谷に蓮華寺を開き、良忠を導師として供養

 

 

616

鎌倉深沢に八丈余の木造阿弥陀坐像を供養

吾妻鏡

「未尅、小雨雷電。深澤村、建立一宇精舎、安八丈餘阿彌陀像、今日展供養。導師、卿僧正良信。讃衆十人、勸進聖人淨光房、此六年之間、勸進都鄙。卑尊莫不奉加。」

 

未の刻小雨・雷電

深澤村建立の一宇の精舎、八丈余の阿弥陀像を安じ、今日供養を展ぶ。導師は卿僧正良信、讃衆十人。勧進聖人浄光房、この六年の間勧進す。都鄙の卑尊奉加せざると云うこと莫し。

 

 

7

幕府 承久の乱の没収地を京中の篝屋(かがりや・鎌倉幕府が京都の治安維持のために、市中の辻々に置いた番所)用地に充てる(吾妻鏡)

 

 

8

九条道家 東福寺を創建し円爾を住持とする

 

 

 

 

 

 

9

高野山の僧26人を流竄(りゅうざん・流刑、島流し)する(高野春秋)

 

 

 

1222

幕府 奴婢雑人の10歳未満の子女はその父母に付せしむの令を下す(吾妻鏡)

 

 

この年 

 

鎌倉蓮華寺を材木座に移し光明寺と改むと伝う(浄土宗三祖言行録) 

 

 

日蓮 比叡山大和庄俊範の会下に投ずると伝う(日蓮聖人伝)

 

⇒「日大直兼十番問答記」(「日蓮聖人研究」山川智応 P114)

直兼ノ物語ニ云ク。当山ニハ(今ヤ)碩学之無シ云云。某ハ俊範ヨリ四代也。此ノ坊ハ俊範法印護摩堂ノ跡也。慧心院ノ宗督我ニ在リ云云。

日大答ヘテ云ク。大聖人、俊範ヨリ天台ノ法門ハ御相伝也云云。日大ハ当宗御弘通ヨリ四代也。天台ノ御相承、坂本坊ニテ、日大、直兼ニ値ヒ、天台宗ト法門ノ論、同不同アリ云云。交合云云。宿習不思議不思議。南無妙法蓮華経。

 

日蓮は図録である「浄土九品之事」(3図録15P2306、創新87P933、校3図録14P2410、全695 新P421)にて、俊範の名を挙げて「俊鑁法印 大和の庄 椙生(すぎう) 三塔の総学頭」と記すが、大和庄俊範と日蓮の師弟関係を窺わせる文献はない。比叡山に於いて、日蓮は俊範の講義を聴講した、またその「反念仏」という思想的影響を受け、教理面の探求に没頭したということだろうか。

 

日蓮 書を著すと伝う

「戒法門」

(3続編1P1935、校1-2P16、新P12)

遊学中

日朝本 満上156 宝2 真蹟なし

録外4-41 受2-27 遺1-15 縮16

*平成校定「戒法門(根本戒法門)

 

*五戒

戒と申すは一切の経論に説かるゝ数は、五戒・八戒・十戒・十重禁戒(きんかい)・四十八軽戒(きょうかい)・二百五十戒・五百戒・乃至八万四千戒。此くの如く戒品(かいほん)多しといへども、始めの五戒を戒の本と申し候ぞ。

五戒と申すは、

一には慈悲を起こして物の命を殺さゞる戒を不殺生戒(ふせっしょうかい)と名づく。道理なき殺生を制するなり。一を殺して万を生かすべきをば許すべし。

二には盗みせざる戒を不偸盗戒(ふちゅうとうかい)と名づく。道理なき盗みの事なり。

三には他人の妻を犯さゞる戒を不邪婬戒(ふじゃいんかい)と名づく。

四には妄語せざる戒を不妄語戒(ふもうごかい)と名づく。由なき事に妄語せざれとなり。

五には酒を飲まざる戒、僻事(ひがごと)を制するなり。薬酒をば飲むべし。

先世に三宝の御前にして此の戒を受けし時、天には日月(にちがつ)・衆星・二十八宿・七星・九曜(くよう)・五星、地には五つの地神・七鬼神・十二神・三十六禽(きん)、又梵天・帝釈・四大天王・五道の冥官(みょうかん)等、此の五戒を受くる人を護らんと誓ひ給ひき。又五戒に依って生ずべき処を定む。不妄語戒は大地をつくる。不殺生戒は草木となる。不邪婬戒は大海・江河(こうが)となる。不盗戒は風となる。

 

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