1242年・仁治3年 壬寅(みずのえとら) 21歳
四条天皇
後嵯峨天皇 在位1242年[仁治3年]1月20日~1246年[寛元4年]1月29日
北条泰時
北条経時(第4代執権) 在職1242年[仁治3年]6月15日~1246年[寛元4年]3月23日
1月20日
後嵯峨天皇 即位(百錬抄)
2月
厳海 東寺長者に補任される(百錬抄・一代要記)
3月3日
幕府 鎌倉の僧徒・従者の帯剣を禁ず
3月
慈源 天王寺別当に補任される(百錬抄・一代要記)
5月
慈源 天王寺別当を辞する(百錬抄)
6月15日
北条泰時 卒60歳(関東年代記)
北条経時 執権に就任(吾妻鏡)
7月4日
西園寺公経 渡宋船に銭貨10万貫等を積み帰国
8月
高野僧徒 伝法院を焼く(百錬抄・一代要記・高野春秋)
9月12日
順徳上皇 佐渡にて崩ず 46歳(百錬抄・増鏡・皇帝紀抄・平戸記・大乗院日記目録・迎陽記)
9月
清水寺 祇園社と争う(平戸記)
この年
日蓮 叡山遊学と伝う(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表・富士年表)
日蓮 清澄寺にて書を著す
「戒体即身成仏義」
(定1-1・P1、校1-1・P1、新P1)
清澄
日祐目録、日朝本 平14
録内39-1 遺1-1 縮1
日進「本迹事」、日全「法華問答正義抄」第16にて引文されている
< 系年 >
日奥目録「文永3年」
昭和定本「仁治3年或は文永3年」
*冒頭、「安房国清澄山住人 蓮長 撰」
*「日蓮伝再考」P120より
「『戒体即身成仏義』が日蓮の著作であるのかという確証は残念ながらない」
「今後、日蓮の修行時代の名前としては、はっきりしている『是生房』を用い、『蓮長』の名は使用しないほうがよいのではないかと思われる」
*「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」P163より要旨
・戒体とは、受戒の時、受者が心中に発得する戒律の根本的基盤となるもの。
・いかなる教えによれば戒体を発得した時、即身成仏できるかを論じた書。
・戒について、
一、小乗戒体
二、権大乗戒体
三、法華開会戒体
四、真言宗戒体
の四項目を設ける。
一、小乗戒体では、
妙楽大師の「摩訶止観輔行伝弘決」六巻に引かれる「提謂経」の説により五戒が人間の五根・五臓・五体・国土の五方・五行・五味・五星等の根本体であるとし、これは二乗が持つ尽形寿の戒であると説く。
二、権大乗戒体では、
「梵網経」の十重戒、「瓔珞経」の十無尽戒も五戒を根本とするが、これらは仏果に至るまで無量劫を経過しようとも不失の戒であるとする。
三、法華開会戒体では、
法華経によって開会されれば、九界の衆生の身がそのまま直ちに戒体であると示し、理由として「法華経の悟と申すは此の国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一と知也」だからであるとする。
この項が四項目中最も長文で、当時流行の浄土教の機教相応の教判に対する批判があり、法華経流布の国に生まれながら法華経不信であるのは謗法であるとしている。
四、真言宗戒体では、
真言の戒体は師子相伝によって伝えられるべきであるから、との理由で明文化することを省略。項目に真言宗戒体を列したのは、顕教である法華経の戒体よりも、密教の戒体の方が勝れることを示す為であるとしている。
*釈迦如来の御教の様に意得べし
無量義経に云はく「四十余年未だ真実を顕はさず」云云。
法華已前は虚妄方便の説なり。法華已前にして一人も成仏し、浄土にも往生してあらば、真実の説にてこそあらめ。
又云はく「無量無辺不可思議阿僧劫を過ぎて、終に無上菩提を成ずることを得ず」文。法華経には「正直に方便を捨てゝ但無上道を説く」云云。
法華已前の経は不正直の経、方便の経。法華経は正直の経、真実の経なり。法華已前に衆生の得道があらばこそ、行じ易き観経に付きて往生し、大事なる法華経は行じ難ければ行ぜじと云はめ。
但釈迦如来の御教の様に意得べし、観経等は此の法華経へ教へ入れん方便の経なり。
浄土に往生して成仏を知るべしと説くは、権教の配立(はいりゅう)、観経の権説なり。真実には此の土にて我が身を仏因と知って往生すべきなり。此の道理を知らずして、浄土宗の日本の学者、我が色心より外の仏国土を求めさする事は、小乗経にもはづれ大乗にも似ず。師は魔師、弟子は魔民、一切衆生の其の教を信ずるは三途の主なり。
*法華の覚りを得る時
我が身に十界を具すと意得る時「欲令衆生仏之知見」と説いて、自身に一分の行無くして即身成仏するなり。尽形寿の五戒の身を改めずして仏身となる時は、依報の国土も又押さへて寂光土なり。
妙楽の釈の云はく「豈伽耶(がや)を離れて別に常寂を求めんや、寂光の外に別に娑婆あるに非ず」文。
法華已前の経に説ける十方の浄穢土は、只仮設の事に成りぬ。
又妙楽大師の釈に云はく「国土浄穢の差品(しゃほん)を見ず」云云。
又云はく「衆生自ら仏の依正の中に於て殊見(しゅけん)を生じて苦楽昇沈す。浄穢宛然(おんねん)として成壊斯(ここ)に在り」文。
法華の覚りを得る時、我等が色心生滅の身即不生不滅なり。国土も爾(しか)の如し。此の国土の牛馬六畜も皆仏なり、草木日月も皆聖衆なり。
経に云はく「是の法は法位に住して世間の相常住なり」文。
此の経を意得る者は持戒・破戒・無戒、皆開会の戒体を発得(ほっとく)するなり。
経に云はく「是を戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく」云云。
法華経の悟りと申すは、此の国土と我等が身と釈迦如来の御舎利(おんしゃり)と一つと知るなり。
経に云はく「三千大千世界を観るに乃至芥子の如き許(ばか)りも、これ菩薩にして身命を捨てたまふ処に非ざること有ること無し」文。
此の三千大千世界は、皆釈迦如来の菩薩にておはしまし候ひける時の御舎利なり。我等も此の世界の五味をなめて設けたる身なれば、又我等も釈迦菩薩の舎利なり。
故に経に云はく「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり」等云云。法華経を知ると申すは、此の文を知るべきなり。
*顕教より密教の勝るゝことを知らしめんが為なり
法華経を是の体に意得る則んば真言の初門なり。此の国土・我等が身を釈迦菩薩成仏の時、其の菩薩の身を替へずして成仏し給へば、此の国土・我等が身を捨てずして、寂光浄土・毘盧遮那仏にて有るなり。十界具足の釈迦如来の御舎利と知るべし。此をこそ大日経の入漫荼羅具縁品には慥かに説かれたるなり。真言の戒体は人之を見て師に依らずして相承を失ふべし。故に別に記して一具に載せず。但標章に載する事は人をして顕教より密教の勝るゝことを知らしめんが為なり。
明徳3年(1392年・日蓮滅後111年)につくられた清澄寺・梵鐘の鐘銘
房州千光山清澄寺者、慈覚大師草創。往昔有鐘、破壊久矣。何以驚睡眠止酸苦。行脚比丘惠闇、参礼虚空蔵大士次、欲発大心補此欠、遍募衆縁、成就其功。仍作銘曰
陶鋳金銅 成大治功 寅夕鯨吼 洪音湧空 響遍高低 啓昏導迷 礼楽既益 号令共斉
上窮碧天 下徹黄泉 赴斉出定 得句悟礼 梵字繁昌 國家安康 檀信有慶 聖寿無彊
明徳三季 壬申 八月 日 当寺主 前大僧正法印大和尚 弘賢
檀那 源朝臣 清貞 幹縁比丘 明了
勸縁比丘 惠闇 大工 武州塚田 道禪
(古鐘と山川智応氏の著「日蓮聖人研究 第一巻」P95を参照)