1241年・仁治2年 辛丑(かのとうし) 20歳

四条天皇

 

北条泰時

 

1

慈源 天台座主に補任される(百錬抄・天台座主記)

 

24

白赤気三條出現

吾妻鏡

「戌尅。白赤氣三條、出現。件變、消其東傍、赤氣又出現。長七尺。彼變減、猶西傍赤氣一條。出現四尺。觀之恠之。泰貞朝臣、最前馳參御所申云、此變、爲彗形。異名火柱也。村上御宇。康保年中。出見。同變〈云云〉。次晴賢、廣資等參上。晴賢申云、今夜依陰雲諸星不分明之上者、非可窺得彗星之類、且又無軸星。旁有不審。以晴天之時、可伺定〈云云〉。廣資、同泰貞之説、仍各聊雖及相論猶不一決〈云云〉。」

 

戌の刻白赤気三條出現す。件の変消え、その東傍に赤気また出現す、長七尺。彼の変減じ、猶西傍に赤気一條出現す、四尺か。観る者これを怪しむ。泰貞朝臣最前に御所に馳参す。申して云く、この変彗形たり。異名火柱なり。村上の御宇康保年中同変出現すと。時に前の武州御前に侯せしめ給う。佐渡の前司基綱・秋田城の介義景・太宰の少貳為佐・法印珍誉等祇侯す。次いで晴賢・廣資等参上す。晴賢申して云く、今夜陰雲に依って諸星分明ならざるの上は、彗星の類を窺い得るべきに非ず。且つはまた軸星無し。旁々不審有り。晴天の時を以て伺い定むべしと。廣資泰貞が説に同ず。仍って各々聊か相論に及ぶと雖も、猶一決せず。

 

 

27

8日にかけて鎌倉大地震

吾妻鏡

「巳尅、大地震。古老云、去建暦年中、有如今之大動。即是和田左衛門尉義盛、叛逆兆也。其外、於關東、未有如此例〈云云〉。其後午時子尅、兩度小動。」

 

巳の刻大地震。古老云く、去る建暦年中、今の如きの大動有り。即ちこれ和田左衛門の尉義盛叛逆の兆しなり。その外関東に於いて未だ此の如き例有らずと。その後午の時・子の刻両度少動す。

 

「八日 丙寅 巳尅地震。昨日兩日之間、動揺五箇」

巳の刻地震。昨日両日の間、動揺五箇度なり

 

 

3

慈賢 寂67(天台座主記)

 

 

43

鎌倉大地震 高潮により由比の鶴岡拝殿が流失

吾妻鏡

「戌尅大地震。南風。由比浦大鳥居内拜殿、被引潮流失、著岸、舩十余艘、破損」

戌の刻大地震。南風。由比浦の大鳥居内の拝殿潮に引かれ流失す。着岸の船十余艘破損す。

 

 

7

円爾 宋より帰国

 

 

820

藤原定家 卒80(公卿補任)

 

 

1022

幕府 武蔵野の開墾を計画し水田を開く(吾妻鏡)

 

 

11

道智 園城寺長吏に補任される(園城寺長吏次第・三井寺続灯記)

 

 

121

幕府 酒宴等での御家人の豪奢を戒め過差を禁止(吾妻鏡)

 

 

この年

 

公縁 園城寺長吏に補任される(園城寺長吏次第・三井寺続灯記)

 

 

日蓮 鶴岡八幡宮において大蔵経を閲すと伝う(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表・富士年表)

 

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