1238年・嘉禎4年(11月23日改元)・暦仁元年 戊戌(つちのえいぬ) 17歳
四条天皇
北条泰時
1月28日
将軍・藤原頼経 上京(吾妻鏡)
2月23日
将軍・藤原頼経 参内(吾妻鏡)
2月26日
朝廷 頼経を検非違使別当に補任する(吾妻鏡)
2月29日
法然弟子・弁長 筑後に寂77歳(聖光上人伝)
2月
尊性 天台座主を辞す(天台座主記)
3月23日
浄光 鎌倉に大仏造営を始める
吾妻鏡
「雨降。未三點、大風。人屋皆破損、庭樹悉吹折。申尅属晴。西風又烈、御八講結願、頗魔障也。今日相摸國深澤里大佛堂事始也。僧浄光令勸進尊卑緇素企此營作〈云云〉」
雨降る 未の三点寅方大風、人屋皆破損し、庭樹悉く吹き折る。申の刻晴に属く。西風また烈し。御八講の結願、頗る魔の障りなり。今日、相模の国深澤里の大仏堂事始めなり。僧浄光尊卑の緇素を勧進せしめ、この営作を企つ
3月
慈源 天台座主に補任される(天台座主記)
6月19日
幕府 洛中警護のため街頭に篝屋を設置(吾妻鏡)
「爲洛中警衛、出辻々、可懸篝之由被定、仍被充催役於御家人等〈云云〉」
7月11日
北条泰時 大蔵経5千巻を園城寺へ奉納(吾妻鏡)
「左京兆、密々參園城寺給。是去年當于禪定二位家一十三年御忌景。爲奉報彼恩徳、於鎌倉、所被終書功之一切經五千餘巻、今日又迎件御月忌。依被奉納于唐院靈場也。當寺者、聖靈之御歸依、施主御渇仰。異他所〈云云〉。毎經巻之奥、令加左京兆署判給〈云云〉。」
8月
円基 寂53歳(天台座主記)
9月
真恵 東寺長者に補任される(東寺長者補任)
9月
定豪 寂(吾妻鏡・東寺長者補任)
10月
隆円 東大寺別当に補任される(吾妻鏡)
11月14日
日蓮 安房清澄寺において円珍の「授決円多羅義集唐決」(定4親写本奥書1・p.2875)を写す
真蹟・神奈川県横浜市金沢区金沢町 金沢文庫蔵
12月16日
幕府 諸寺供僧師資継承の法を定む(吾妻鏡・貞永式目追加)
【 「授決円多羅義集唐決」の日蓮写本に関して 】
同書奥書
嘉禎四年 太歳戊戌 十一月十四
阿房国東北御庄清澄山 道善房
東面執筆是聖房 生年十七才
後見人々是無誹謗
「是聖房」として書写しており、出家はこの時以前ということになる。第5代天台座主・円珍(智証大師、814年・弘仁5年~891年・寛平3年)の著「授決集」を補っているのが「授決円多羅義集唐決」であり、天台の円珍に仮託されているが実際は後代の人物が記している。平安時代末期に比叡山で勃興した中古天台観心主義の初期の文献であり、これが地方の房州清澄寺に伝わっていたことは、観心主義の広がりを示すものであると同時に、清澄寺も単なる田舎寺ではなく中央大寺院の思想的動向の圏内にあった、また、人物の交流が盛んであったことを物語っている。17歳で書写ということは天台宗学の一環であったろうし、思想的に摂り入れたことだろう。
*日蓮の鎌倉遊学について
「破良観等御書」延山録外 真蹟なし
予は、かつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、「日本第一の智者となし給え」、十二のとしよりこの願を立つ。その所願に子細あり。今くわしくのせがたし。
その後、まず浄土宗・禅宗をきく。その後、叡山・園城・高野・京中・田舎等、処々に修行して自他宗の法門をならいしかども、我が身の不審はれがたき上、
「南条兵衛七郎殿御書」文永元年12月13日 真蹟
法然・善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候ひき。
⇒日蓮は12歳のときに「日本第一の智者となし給え」と祈願し、17、18歳の頃に鎌倉で浄土宗、禅宗を学んだものか。