1237年・嘉禎3年 丁酉(ひのととり) 16歳
四条天皇
北条泰時
2月3日
山門衆徒 蜂起す
玉蘂・九条道家著(1193年・建久4年~1252年・建長4年)
「山門の衆徒蜂起す。これ三井戒壇を立てらるべきの由結構す。並びに宇治僧正一座宣下の事と。仍って制止せしむ」
「宇治大僧正来たる。一座宣下の事、山僧理に伏し、蜂起すべからざるの由、座主宮告げ送る所なり」
2月
定豪 伝法院座主に重補される(東寺長者補任)
3月9日
鎌倉大雨洪水
吾妻鏡「3月9日 庚申甚雨沃すが如し。終日休止せず 亥の刻洪水」
3月10日
近衛兼経 摂政に任ぜられる(公卿補任)
4月9日
藤原家隆 卒80歳(公卿補任)
6月25日
幕府 諸社寺・国司・領家の訴訟は御成敗式目に依拠しない旨を下知する(吾妻鏡)
8月
四天王寺覚順等 本寺への放火未遂により殺害さる
吾妻鏡
「六波羅飛脚參申云、去五日、四天王寺執行、一族上座覺順、引卒二百餘人、欲保天王寺之間、渡部黨相戰之間、覺順已下九十三人、被討取訖。餘兵、於所々、被虜。金堂已下、雖放火、皆打消〈云云〉」
六波羅の飛脚参り、申して云く、去る五日四天王寺執行の一族上座覺順、二百余人を引率し、天王寺を保たんと欲するの間、渡部党相戦うの間、覺順以下九十三人討ち取られをはんぬ。余兵所々に於いて生虜らる。金堂以下放火すと雖も、皆打ち消す
この年
嘉禎年間に狐雲懐奘 「正法眼蔵随聞記」を著す
日蓮 「道善房について得度」と伝う(妙法比丘尼御返事・全P1407)