1235年・文暦2年(9月19日改元)・嘉禎元年 乙未(きのとひつじ) 14歳
四条天皇
北条泰時
1月27日
幕府 鎌倉・京中で僧徒が兵仗を帯することを禁ず(吾妻鏡)
3月28日
摂政九条教実 卒26歳(明月記)
3月
円実 興福寺別当に補任される(興福寺別当次第)
4月
親鸞 近江木部の天王寺にて説法(真宗高田派正統記・真宗木辺派本山錦織寺伝)
5月23日
石清水八幡宮寺 興福寺と争う
吾妻鏡
「5月23日 乙卯
石清水八幡宮寺と興福寺と確執有り。喧嘩等に及ぶの間、計り沙汰すべきの旨院宣を下さるるの由、六波羅よりこれを馳せ申さる。これ薪・大住両庄の用水相論の故なりと。仍ってその沙汰を経らる。御使を差し遣わし実検を遂げ、左右に就いて議定有るべきの趣、今日仰せ遣わさるる所なり」
6月
幕府 起請文の失の篇目を制定
7月23日
延暦寺衆徒 佐々木高信の死罪を求めて強訴
吾妻鏡
「7月29日 庚寅
去る二十三日台嶺の衆徒三社(十禅師・客人・八王子)の神輿を花洛に動かし奉る。これ近江の国高嶋郡田中郷の地頭佐々木次郎左衛門の尉高信の代官と日吉社人等と闘乱を起こすが故なり」
7月
幕府 専修念仏を禁ず
吾妻鏡
「7月24日 乙酉
念仏者と称し黒衣を着るの輩、近年都鄙に充満し、所郡に横行す。宣旨度々に及ぶと雖も未だ対治せられず。重ねて宣下せらるべきの由、京都に申さるべしと」
12月21日
興福寺衆徒 強訴のため春日神木を奉じて宇治に到る
百錬抄
「南都の衆徒蜂起す。春日の御賢木木津に着御す。去る夏大住庄と薪庄相論の事、聊か落居せしむの処、去る比八幡使大住庄に向かうの刻、また闘乱に及び、春日の神人を殺害するが故と」