1227年・嘉禄3年(12月10日改元) ・安貞元年 丁亥(ひのとい) 6歳
後堀河天皇
北条泰時
2月15日
熊野衆徒 神体を奉じて入京を企つ(吾妻鏡・北条家侍臣記)
3月7日
鎌倉大地震(吾妻鏡)
4月22日
造営中の内裏焼失(百錬抄)
4月23日
幕府 守護に対し西国悪党を退治するよう命令(吾妻鏡)
5月1日
高麗の牒状 京都に到着
吾妻鏡
「高麗国の牒状到来す。今日披覧に及ぶと。その状の書き様、
高麗国全羅州道の按察使牒す 日本国惣官太宰府当使
彼の国に准じて対馬嶋人古来邦物を貢進し、歳々に和好を修む。また我が本朝もその所便に従い舘舎を持営し、撫するに恩信を以てす。これを用いて沿辺の州縣・嶋嶼の居民、前来の交好を恃みて疑忌する所無し。彼告ぐ、金海府は対馬人等旧住依するの処、奈何ぞや。丙戌六月に於いて、その夜寝に乗じて城竇より入り、正屋を奪掠しをはんぬ。この比すでに甚だし。また何辺の村塞も、擅便往来し、彼此一同に、無辜の百姓を侵擾することやまず。今は国朝上件の事を取問す。固より当職承存等二十人を差し、牒を晋めて前去す。且つは元来信奉する禮制も廃絶して行われず。船数結多して常の往来無く、悪事を作為す。これ何の因由ぞや。此の如きの事理を疾速に廻報せよ。右前事を具し須く日本国惣官に牒すべし。謹みて牒す。
丁亥二月日牒
副使兼監倉使転輪堤黙刑獄兵馬公事龍虎軍郎将兼三司判官趙判」
5月14日
北条時頼 生る(吾妻鏡・北条年代記)
6月22日
延暦寺衆徒 法然房源空の墳墓を破却する(源空上人伝・百錬抄・法然上人行状画図)
7月6日
法然房弟子 隆寛・幸西・空阿等、遠流となる(百錬抄・明月記・皇代記・民部卿広橋経光日記)
10月11日
延暦寺衆徒 僉議(せんぎ)により「選択集」の印板焼失を奏聞し焼く(選択集文前綱義)
11月
道元 宋より帰朝し曹洞宗を開く(道元録・碧山日録)
12月
道元 「普勧坐禅儀」を著す
12月13日
隆寛 寂80歳(隆寛律師略伝・浄土宗年譜)