1222年・承久4年(4月13日改元)・貞応元年 壬午 (みずのえうま) 1歳
後堀河天皇
北条義時
2月16日
日蓮 安房国長狭郡東条郷・片海に誕生と伝う
2月23日
清涼寺(嵯峨)再建供養
4月26日
幕府 守護・地頭の所務を制定し非法を禁ず(吾妻鏡)
7月23日
鎌倉大地震
吾妻鏡「晴 未の刻大地震」
8月2日
彗星出現
吾妻鏡「彗星見戌方、軸星大如半月。色白光芒赤、長一丈七尺餘。」
戌の刻、彗星戌方に見ゆ。軸星の大きさ半月の如く、色白く光芒赤し。長一丈七尺余
【 日蓮の誕生に関して 】
日蓮の生年がこの年であることは、嘉禎4年・暦仁元年(1238)11月14日、安房清澄寺において円珍の「授決円多羅義集唐決」(定4親写本奥書1・p.2875)を写した書写本の奥書に、
嘉禎四年 太歳戊戌 十一月十四
阿房国東北御庄清澄山 道善房
東面執筆是聖房 生年十七才
後見人々是無誹謗
とあるところから17歳より逆算して、この年とされている。
月日については、日蓮の書物には「2月16日」との明記はなく、大石寺6世・日時(?~応永13[1406])の著と考えられる「三師御伝土代」には「日蓮聖人は本地是れ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は則安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり。八十六代 後の堀河の院の御宇、貞応元年二月十六日誕生なり」とあることから、2月16日とされているようだ。
天文5年(1536)7月、若狭長源寺にて描かれた絵巻「日蓮聖人註画讃」(勧発師・安立院日政、画工・窪田藤右兵衛尉統泰)には、「如来二月十五日示滅、元祖二月十六日現生」と仏教の開祖・釈迦に続く、再誕日蓮を暗示する記述がされている。
日蓮の御書より
◇「本尊問答抄」弘安元年9月 日興本
然るに日蓮は東海道十五箇国の内、第十二に相当たる安房国長狹郡東条郷片海の海人が子なり。
◇「善無畏三蔵抄」文永7年 本満寺本、三宝寺本、当書と推される真蹟断簡あり
而るに日蓮は安房国東条片海(かたうみ)の石中(いそなか)の賎民が子なり。威徳なく、有徳のものにあらず。
◇「妙法比丘尼御返事」弘安元年9月 日朝本
而るに日蓮は日本国安房国と申す国に生まれて候ひしが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり。
◇「弥源太殿御返事」文永11年2月21日 日朝本
其の上日蓮は日本国の中には安州(あんしゅう)のものなり。総じて彼の国は天照太神のす(住)みそ(初)め給ひし国なりといへり。かしこにして日本国をさぐり出だし給ふ。あは(安房)の国御くりや(厨)なり。しかも此の国の一切衆生の慈父悲母なり。かゝるいみじき国ならん。日蓮又彼の国に生まれたり、第一の果報なるなり。
◇「佐渡御勘気抄」文永8年10月10日 本満寺本
日蓮は日本国東夷(とうい)東条安房国、海辺の旃陀羅(せんだら)が子なり。
◇「佐渡御書」文永9年3月20日 日朝本
日蓮今生には貧窮下賎(びんぐげせん)の者と生まれ旃陀羅が家より出でたり。
◇「中興入道御消息」弘安2年11月30日 平賀本
然るに日蓮は中国・都の者にもあらず、辺国の将軍等の子息にもあらず、遠国の者、民が子にて候ひしかば、
※「安房国長狹郡東条郷片海の海人が子」
⇒現在は「片海」との地名はなく、誕生地につき複数の説がある。
※「三師御伝土代」の作者である大石寺・日時
⇒池田令道氏の論考、「大石寺蔵『御伝土代』の作者について」(興風16号)、「大石寺蔵『御伝土代』の作者について(補遺)」(興風23号)による。
※日蓮の出自について
「法華仏教研究」21号 石附敏幸氏の論考「日蓮と鎌倉幕府」
「法華仏教研究」23号 四方弘道氏の論考「日蓮の出自と旃陀羅宣言について」