12・注
(1)増誉は園城寺で出家し、大峯山・葛城山で修行した。白河・堀川天皇の護持僧をつとめ寛治4年(1090)、白河上皇の熊野御幸の先達を無事に務めた功により熊野三山検校に補任され、円珍(役行者とも)開創と伝わる常光寺を下賜された。常光寺は聖体護持の寺として聖護院と改名されている。康和2年(1100)、増誉は園城寺長吏に補任され、長治2年(1105)には天台座主となるも、山門派の反対により翌日に辞任。その後は十三大寺の別当職を兼任したという。
(2)鎌倉末から南北朝期の公卿・洞院公賢(とういんきんかた・1291~1360)の日記、「園太暦」観応元年(1350)十月十五日条にある、「熊野山西御前託宣事」の「別当法眼快宣」の名が最後になるようだ。
(3)本願出入証跡文写別帳写・弐「熊野本願所史料」 pp.709~710
(4)安藤精一氏・編 「和歌山県の文化財」第三巻 1982年 清文堂
(5)太田直之氏「中世の社寺と信仰 勧進と勧進聖の時代」 p.176 2008年 弘文堂
(6)大河内智幸氏「十五世紀の熊野における不動堂本尊の造像」
『修験道の室町文化』所収 2011年 岩田書院
(7)関口真規子氏「修験道教団成立史」 2009年 勉誠出版