12 東密の鎌倉進出~清澄山の一宇と鶴岡八幡宮寺
「安房国清澄寺縁起」(岩村義運氏 1930)が伝える
「光仁(こうにん)天皇の宝亀(ほうき)二年(771)、一人の旅僧何地(いずこ)よりか飄然(ひょうぜん)として此の山に来たり一大柏樹(はくじゅ)を以って、虚空蔵菩薩の尊像を謹刻し、一宇を此處(このところ)に建立し、日夜礼拝供養怠らず」(同書P3)
との清澄寺起源の時代の宗旨は不明だと考えますが、
「其の後六十余年を経て、仁明(にんみょう)天皇の御宇(ぎょう)、承和(じょうわ)三年(836)慈覚大師東国巡錫(じゅんしゃく)の砌(みぎり)、清澄に登りし處(ところ)、聞きしに優る仙境に讃嘆禁ぜず、之れ仏法相応の霊地なりとし、錫を止めて興隆に力を盡(つく)し、自ら一草堂に籠りて、虚空蔵菩薩求聞持法を厳修して其成満を祈り、遂に僧坊を建つる十有二、祠殿(しでん)を造る二十有五、房総第一の巨刹、天台有数の大寺となり、清澄寺の名、漸(ようや)く世に知らるるに至れり」(同書P6)
と、円仁再興との伝承を発生させた時代=天台・台密の聖らが再興した時から暫くは天台・台密色の濃い清澄寺だったのではないでしょうか。
これが東密の聖らの再興であれば、「弘法大師東国巡錫の砌、この地に・・・」との縁起を創ったと考えられ、「慈覚大師東国巡錫の砌、清澄に登りし處」(安房国清澄寺縁起)、「房州千光山清澄寺者、慈覚大師草創」(清澄寺・古鐘の銘文)との伝承に、清澄山の堂宇を整備した天台・台密系の聖らの姿が思われるのです。
くだって元暦(げんりゃく)元年(1184)5月3日、後に見るように東密と関係の深かった源頼朝(久安3年・1147~建久10年・1199)が伊勢神宮の外宮(げくう)に安房国東条郷を寄進して以降、時を重ねる過程で清澄寺に東密の進出もあったものでしょうか。
寺伝では、源頼朝は清澄寺を尊信し、妻の政子(保元2年・1157~嘉禄元年・1225)は頼朝追善のために大輪蔵を建立して一切経を収めたと伝えています。
源頼朝が再興した鎌倉の鶴岡八幡宮寺は建久2年(1191)の火災後、上宮と下宮の体制となり、初代の円暁(頼朝の従兄弟)から5代の慶幸までは三井寺(園城寺)出身者が別当職を務め、6代目に東寺出身の定豪が就いて以降、17代までは三井寺、東寺出身者によって占められていきます。
頼朝時代から東寺の勢力は伊豆・関東に進出しており、加えて鶴岡別当となった東寺の高僧につき従う僧らが幕府との関係を深め、教勢拡大を意図して鎌倉と海上交通が活発な安房国に渡り、虚空蔵菩薩求聞持法の霊場として喧伝されていた清澄寺に向かうことは、十分に推測されることではないでしょうか。