12 日蓮と上行菩薩の教理的関係

ここでは「法華取要抄」と万年救護本尊の関係から考えてみましょう。

文永11(1274)524日の「法華取要抄」に日蓮は記します。

 

問て云く如来滅後二千余年に龍樹・天親・天台・伝教の残したまへる秘法とは何物ぞや。答て曰く本門の本尊と戒壇と題目の五字と也。

 

我が門弟之を見て法華経を信用せよ。目を瞋(いか)らして鏡に向かへ。天の瞋るは人に失有ればなり。二つの日並び出づるは一国に二の国王を並ぶる相なり。王と王との闘諍なり。星の日月を犯すは臣の王を犯す相なり。日と日と競ひ出づるは四天下一同の諍論なり。明星並び出づるは太子と太子との諍論なり。是くの如く国土乱れて後、上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。

 

天変相次ぎ戦乱に明け暮れて国が衰微するその時に、上行菩薩等が出現して「本門の三つの法門」を「建立」するのである。しかる後、全世界に「妙法蓮華経の広宣流布」することは疑いないであろう。

 

日蓮がこのように説示した約4ヶ月後、元軍の日本侵攻によって事態は現実のものとなり、「最後なれば申すなり。恨み給ふべからず」(曾谷入道殿御書)から程なくして万年救護本尊が書き顕わされています。注目すべきは他の曼荼羅には見られない、即ち日蓮が意識して書き示した「大本尊」「上行菩薩」との表記が「法華取要抄」と共通していることです。

「是くの如く国土乱れて後、上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立」との「宣言」の意を含むのは曼荼羅総体ではありますが、書簡に記述したもの(是くの如く国土乱れて)が実際に現れた(蒙古襲来)後に顕された(大本尊・上行菩薩)ことからすれば、万年救護本尊を認める日蓮の念頭には「法華取要抄」の自らの記述があったのではないでしょうか。

 

ここで、日蓮と上行菩薩の関係について他の御書を確認してみましょう。

 

 

◇文永12(1275)216日「新尼御前御返事」

而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほゞ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて此の二十余年が間此を申す。

 

 

◇文永12(1275)310日「曾谷入道殿許御書」

予、倩(つらつら)事の情(こころ)を案ずるに、大師、薬王菩薩として霊山会上に侍()して、仏、上行菩薩出現の時を兼ねて之を記したまふ故に粗(ほぼ)之を喩(さと)すか。而るに予、地涌の一分には非ざれども、兼ねて此の事を知る。故に地涌の大士に前立(さきだ)ちて粗(ほぼ)五字を示す。

 

 

◇建治元年(1275)6月「撰時抄」

後五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵・帝・日・月・四天・竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや。

 

 

◇建治元年(1275)712日「高橋入道殿御返事」

末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。

中略

其の時十方世界の大鬼神一閻浮提に充満して四衆の身に入り、或は父母をがいし、或は兄弟等を失はん。殊に国中の智者げなる持戒げなる僧尼の心に此の鬼神入って、国主並びに臣下をたぼら()かさん。此の時上行菩薩の御かび(加被)をかほりて法華経の題目南無妙法蓮華経の五字計りを一切衆生にさづ()けば、彼の四衆等並びに大僧等此の人をあだ()む事、父母のかたき宿世のかたき朝敵・怨敵のごとくあだむべし。

 

 

◇建治元年(1275)「上野殿御消息」

然る間釈迦・多宝等の十方無量の仏、上行地涌等の菩薩も、普賢・文殊等の迹化の大士も、舎利弗等の諸大声聞も、大梵天王・日月等の明主諸天も、八部王も、十羅刹女等も、日本国中の大小の諸神も、総じて此の法華経を強く信じまいらせて、余念なく一筋に信仰する者をば、影の身にそふが如く守らせ給ひ候なり。相構へて相構へて、心を翻(ひるが)へさず一筋に信じ給ふならば、現世安穏後生善処なるべし。

 

 

◇建治3(1277)6月「下山御消息」

今の時は世すでに上行菩薩の御出現の時剋に相当れり。而るに余愚眼を以てこれを見るに、先相すでにあらはれたる歟。

 

 

◇建治3(1277)625日「頼基陳状」

日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使ひ、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御坐候聖人を

 

日蓮聖人の御房は三界の主、一切衆生の父母、釈迦如来の御使ひ上行菩薩にて御坐候ひける事の法華経に説かれてましましけるを信じまいらせたるに候。

 

⇒建治3(1277)69日に行われた龍象房と日行の桑谷問答に同席した四条金吾が、主君・江馬入道より勘気を蒙り、「日蓮と法華経信仰を捨てるという起請文を出すこと。拒否すれば所領二カ所を没収する」と、下文を以て迫られます。四条金吾は直ちに事の顛末を日蓮に報告。日蓮は江馬氏の下文に対する「陳状の案文」を作成して四条金吾のもとに届け、金吾は誰人かに清書を依頼して陳状を用意しました。

その後、秋頃には江馬氏が病気にかかり、四条金吾が治療・看病の任にあたって主君の誤解も解ける方向に事態が改善していったため、陳状が主君に実際に上呈されたかどうかははっきりしないようです。「頼基陳状」には真蹟がなく、北山本門寺に再治本と未再治本が伝わります。「昭和定本」「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」「日興上人全集」等は再治本、未再治本共に日興筆としていますが、菅原関道氏は「重須本門寺所蔵の頼基陳状両写本について」(興風15P141)にて、再治本が日興筆、未再治本は日澄筆であると立証されています。

 

山上弘道氏は「宗祖書状・陳状等のご自身によるテキスト化について」(興風18P257)で、再治本・日興本と未再治本・日澄本の比較検討を行い、その文面から、また関係人物に対する配慮・記述から未再治本・日澄本は上呈本であった、即ち日蓮の案文であったことを立証されています。

それによれば、上記の「日蓮聖人は~上行菩薩の垂迹」「日蓮聖人の御房は~上行菩薩にて御坐候ひける」との記述は日澄本、即ち四条金吾が主君・江馬氏に上呈するために用意した陳状にはなく、弘安2年以降に成立されたと判断される再治本・日興本に記入されています。「日蓮は上行菩薩」との文は、はじめに内外に示した文書には記されていないと考えられるのです。

 

存命中の再治本であれば、日蓮は万年救護本尊で上行菩薩であると理解される記述をした以外に、弟子への教導では自らの内観を、「檀越からその主君への陳状書」という間接的なものによって表現していたことになります。もしくは再治本の該文が日蓮滅後に日興が書き加えたものであれば、それは日興の師匠に対する理解、信解を示すものにほかなりません。

 

 

◇建治3(1277)7月「四条金吾殿御返事」

只事の心を案ずるに、日蓮が道をたすけんと、上行菩薩貴辺の御身に入りかはらせ給へるか。又教主釈尊の御計らひか。

 

 

◇弘安元年(1278)9月「本尊問答抄」

経には上行・無辺行等こそいでてひろ()めさせ給ふべしと見えて候へども、いまだ見えさせ給はず。日蓮は其の人には候はねどもほゞ心へて候へば、地涌の菩薩のいでさせ給ふまでの口ずさみに、あらあら申して況滅度後のほこさき(矛先)に当たり候なり。

 

 

御書によれば、日蓮は上行菩薩の働きを説示して今は出現の時とするも、それは自らであることを否定したり、守護の働きをする神仏的存在に例えたりもします。このような「日蓮と上行菩薩の教理的関係」は一定しないかの感がある中、唯一、自らの意思表示としてその手により「上行菩薩・日蓮」と理解できるように書かれたのが、万年救護本尊の讃文だといえるでしょう。

 

いわば「文証」ならぬ「本尊証」が万年救護本尊の讃文であり、「上行菩薩・日蓮」の明証として、信解ある門下にとっては「大本尊」に末法の教主日蓮を顕すものとして、未曾有の国難の時に「上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立」したことを示す曼荼羅として、万年救護本尊は建治期から弘安期にかけて、身延の草庵に奉掲され続けたのではないかと考えるのです。

 

また、日蓮が教導上では「上行菩薩であることを自身の言葉、記述として直接、明確に表示」しなかったのも、当然、軽々に示すことではなく、法華経への信厚き者が我が意とするところを理解すべきとの考えであり、故に「身延に来たって曼荼羅(万年救護本尊)を拝する門下こそが我が意を察せよ」との思いで、書簡、返状ではかくなる表現(自らであることを否定、神仏的存在に例える)程度に留めたのではないでしょうか。

 

文永10(1273)426日、「観心本尊抄」を富木常忍・大田入道・教信御房等に送付した際の「観心本尊抄副状」に、「此の事日蓮当身の大事也。之を秘して無二の志を見ば之を開拓せらるべきか。此の書は難多く答へ少なし、未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか。設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べて之を読むこと勿れ。仏滅後二千二百二十余年、未だ此の書の心有らず、国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す。」との、重要なる法門書の扱いに慎重を期するよう厳命したことと合わせ考えると、我即上行菩薩であるとの仏教的確信の表明には受け手の信仰理解の程度により様々な疑問を生ずる可能性がある故、間接的なものに留めたのだと考えられます。そのような意味からも、日蓮の内観「日蓮即上行菩薩」「日蓮即末法の教主」を外に表すには慎重を期して、門下の信を以て理解せしめるべくの思いを込めて書き顕わした万年救護本尊は、他の曼荼羅とは異なる扱いであったと思われるのです。

 

それは身延の草庵で、日蓮の法華経信仰世界での一つの到達点を示すものとして奉掲され続けたことを意味するといえるのではないでしょうか。

 

 

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