11 聖地の仏教者
法華経の霊経譚に満ちた熊野・那智の地だが、もちろん、法華一経の修行者だけということはなく、臨済宗法燈派は熊野三山周辺に布教展開し、真言、念仏の行者もこの地で修練し神仏の啓示を受けている。
(1) 臨済宗法燈派の那智社・奥の院(滝見寺)
那智山の社家の菩提寺であった滝見寺については、根井浄氏の「補陀落渡海史」(1)で詳説されている。根井氏の教示によると、神域内の滝見寺は那智社の奥の院で、本地観音道場とも呼ばれていた。紀伊国・由良荘にある興国寺の開山にして、臨済宗法燈派の祖・心地覚心(1207~1298)が滝見寺の開基と伝えられる。「新宮本願庵主梅本家文書」に宝暦2年(1752)の由良興国寺の書上げが載せられており、そこには「那智山之僧俗共奥之院を菩提所に致、往古より滅罪執行来申候、奥之院建立は弘安三庚辰、今宝暦二年に至て四百七拾三年に而御座候」とあって、奥の院(滝見寺)は弘安3年(1280)に創建されたという。滝見寺には法燈国師(心地覚心)の像が伝わったが、天正9年(1581)の兵火で焼失し、慶長10年(1605)、京都七条仏師・康厳により新像が作られている。
真言僧・願性が由良荘の西方寺(後の臨済宗法燈派本山・興国寺)に心地覚心を迎え、開山としたのが正嘉2年(1258)だから、那智・奥の院の創建が実際に弘安3年であったかどうかはともかく、その後の法燈派の布教展開により、那智社の神域内に奥の院を建てることはあったと思う。滝見寺(奥の院)の法燈国師像の伝来が、法燈派による創建を物語るものだろう。
そこには開創以来、臨済宗法燈派の僧が住していたのではないか。根井浄氏が引用(2)した、享保12年(1727)「本願出入證跡文写別帳写」の弐に収録された「切支丹御改帳」に「由良興国寺末寺 奥院 祖仏」とあるのが傍証になるだろう。
尚、興国寺に伝来する「紀州由良鷲峰開山法燈円明国師之縁起」の覚心七十四歳条に、「那智濱宮補陀落行處記」という文書が引用され、そこに心地覚心の那智での修行と奥の院を建てたことが伝えられている。心地覚心は承元元年(1207)に生まれ、永仁6年(1298)に没している。彼の74歳というと弘安期(1278~1288)になっているから、奥の院創建の時とされる弘安3年(1280)とは符合している。時系列を合わせた聖人修行譚ともいえるし、故なきことではないとも思われ、今は「奥の院(滝見寺)の創建が心地覚心存命中にまで遡れる可能性がある」ということ、また「13世紀には心地覚心の一門が熊野一円に布教し、那智には坊舎を建てるまでに展開した」との理解に留めておきたいと思う。
(2) 新猿楽記の真言師・次郎
平安中期の学者・藤原明衡(?~1066)の「新猿楽記」には、一生不犯を貫いた大験者・真言師である次郎が修行した地として、「大峰、葛木、熊野、金峰、越中立山、伊豆走湯根本中堂、伯耆大山、富士御山、越前白山、高野、粉河、箕尾、葛川等」を挙げている。
次郎は、一生不犯の大験者、三業相応の真言師なり。久修練行年深く、持戒精進日積れり。両界鏡を懸け、別尊玉を琢く。五部の真言雲晴れて、三密の観行月煽(ほがらか)なり。梵語悉曇舌和(やわらか)にして、立印加持指嫋(たお)やかなり。唱礼・九方便滞りなく、修法に芥子焼くに験あり。護摩・天供には阿闍梨たり。許可灌頂には弟子たり。凡そ真言の道底を究め、苦行の功傍に抜けたり。十安居を遂げ、一落叉を満つること度々なり。大峰・葛木を通り、辺道を踏むこと年々なり。熊野・金峰・越中の立山・伊豆の走湯・根本中道・伯耆の大山・富士の御山・越前の白山・高野・粉河・箕尾・葛川等の間に、行を競ひ験を挑まざることなし。山臥修行者は、昔の役行者・浄蔵貴所といへども、ただ一陀羅尼の験者なり。今の右衛門尉の次郎君に於いては、すでに智行具足の生仏なり。
(3) 真言僧・範俊
承保元年(1074)10月、真言(東密)僧・範俊(1038~1112)は那智で滝籠りを始めた。愛染法を修し、壇上に如意宝珠を出現させたという。嘉承元年(1106)、範俊は東寺長者に補任されている。尚、範俊は永保2年(1082)に請雨経法を修して霊験を現したものの、義範(1023~1088)の妨げにより面目を失い那智に籠ったという説があるが、「禁祕抄考註下巻」で否定されている。
「熊野山略記」
範俊僧正七百三日、被修不断愛染法之時、不断香三寸火舎同壇上出現之、如意宝珠在之、(3)
「禁祕抄考註下巻」(4)
(範俊は)那智山に参籠し、千日の行を始め、愛染王の法を行ず・・・・
同記裏書に云、堅済私に云、範俊那智山に籠る事は承保元年(1074)十月十五日なり、帰洛は同三年(1076)十二月上旬也。請雨経の法を修する事は永保二年(1082)七月十六日也。承保三年自り永保二年に至て七ヶ年を隔てて後、修法勤仕すれば請雨経の法に依て面目を失うに那智山に籠ると云事僻事也。(5)
「真言伝巻第六」禅遍(1184~1255)著
権僧正範俊ハ、成尊僧都ノ付法。小野法流ノ正嫡也。後三條 延久三年(1071)七月十四日、曼荼羅寺ニシテ灌頂ヲ受。承保元年(1074)十月ヨリ、那智山ニ参籠ス。(6)
(4) 林懐と仲算大徳
13世紀に成立したとされる説話集「撰集抄」(7)の巻六、第三「林懐僧都発心之事」には、世の無常を感じて出家し、のちに山階寺(興福寺の旧称)の貫首となった唐院の僧都・林懐(951~1025)の若き日の那智滝での修行体験が載せられている。それによると、林懐は仲算大徳とともに那智滝で修行。仲算が般若心経を誦したところ、滝が逆流し滝の上に生身の千手観音が現れたという。
さても、此人(林懐のこと)若くましましけるとき、仲算大徳にともなひて、熊野へ参り給ひけるに、那智の瀧にて、仲算大徳「心経」を貴くよみ給ひければ、瀧さかさまに流れて、瀧の上に生身の千手観音の現れいまそかりけるを、まのあたり拝み給ひけるとなん。仲算の徳行はさる事にて、をがみ給へる琳懐ありがたき事になん、そのころ申侍りけるとぞ。
(5)真言僧・文覚の修行
「平家物語」には、平安末の真言僧・文覚(1139~1203)が那智滝で不動明王の慈救呪(じくじゅ)を唱え、滝行をし、命が尽きたところを不動明王の眷族である矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)に助けられた話を載せていて、この模様は「那智参詣曼荼羅」にも描かれている。文覚は籠山行千日を成し遂げたという。
「平家物語・巻第五 文覚荒行」
抑かの頼朝と申すは、去る平治元年十二月、ちち左馬頭義朝が謀反によって、年十四歳と申しし永暦元年三月廿日、伊豆国蛭島へながされて、廿余年の春秋をおくりむかふ。年ごろもあればこそありけめ、今年いかなる心にて謀反をばおこされけるぞといふに、高雄の文覚上人の申しすすめられたりけるとかや。
彼文覚と申すは、もとは渡辺の遠藤佐近将監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。十九の歳、道心おこし出家して、修行にいでんとしけるが、「修行といふはいかほどの大事やらん、ためいて見ん」とて、六月の日の草もゆるがずてったるに、片山のやぶのなかにはいり、あふのけにふし、虻ぞ蚊ぞ蜂蟻なんどいふ毒虫どもが身にひしととりついて、さしくひなんどしけれども、ちっとも身をもはたらかさず、七日まではおきあがらず、八日といふにおきあがって、「修行といふはこれ程の大事か」と人に問へば、「それ程ならんには、いかでか命もいくべき」といふあひだ、「さてはあんべいごさんなれ」とて、修行にぞいでにける。
熊野へ参り那智ごもりせんとしける行の心みに、きこゆる滝にしばらくうたれてみんとて、滝もとへぞ参りける。比は十二月十日あまりの事なれば、雪ふりつもりつららゐて、谷の小河も音もせず。嶺の嵐ふきこほり滝の白糸垂氷となり、みな白妙におしなべて、四方の梢も見えわかず。しかるに文覚、滝つぼにおりひたり、頸きはつかって慈救の呪をみてけるが、二三日こそありけれ、四五日にもなりければ、こらへずして、文覚うきあがりにけり。数千丈みなぎりおつる滝なれば、なじかはたまるべき。ざっとおしおとされて、かたなの刃のごとくに、さしもきびしき岩かどのなかを、うきぬしづみぬ、五六町こそながれたれ。時にうつくしげなる童子一人来って、文覚が左右の手をとってひきあげ給ふ。人、奇特の思をなし、火をたきあぶりなんどしければ、定業ならぬ命ではあり、ほどなくいきいでにけり。
文覚すこし人心地いできて、大のまなこを見いからかし、「われ此滝に三七日うたれて、慈救の三洛叉をみてうど思ふ大願あり。今日はわづかに五日になる。七日だにも過ぎざるに、なに者がここへはとってきたるぞ」といひければ、見る人身の毛よだってものいはず。又滝つぼにかへりたってうたれけり。
第二日といふに、八人の童子来って、ひきあげんとし給へども、さんざんにつかみあうてあがらず。三日といふに、文覚つひにはかなくなりにけり。滝つぼをけがさじとや、みづら結うたる天童二人、滝のうへよりおりくだり、文覚が頂上より、手足のつまさき、たなうらにいたるまで、よにあたたかにかうばしき御手をもって、なでくだし給ふとおぼえければ、夢の心地していきいでぬ。
「抑いかなる人にてましませば、かうはあはれみ給ふらん」と問ひ奉る。「われはこれ大聖不動明王の御使に、こんがら(矜羯羅)・せいたか(制吒迦)といふ二童子なり。『文覚無上の願をおこして、勇猛の行をくはたつ。ゆいて力をあはすべし』と明王の勅によって来れるなり」とこたへ給ふ。文覚声をいからかして、「さて、明王はいづくにましますぞ」。「都率天に」とこたへて、雲井はるかにあがり給ひぬ。たなごころをあはせてこれを拝し奉る。
さればわが行をば、大聖不動明王までも、しろしめされたるにこそとたのもしうおぼえて、猶滝つぼにかへりたってうたれけり。まことにめでたき瑞相どもありければ、吹きくる風も身にしまず、落ちくる水も湯のごとし。かくて三七日の大願つひにとげにければ、那智に千日こもり、大峰三度、葛城二度、高野、粉河、金峰山、白山、立山、富士の嵩、伊豆、箱根、信濃戸隠、出羽羽黒、すべて日本国のこる所なく、おこなひまはって、さすが尚ふる里や恋しかりけん、都へのぼりたりければ、凡そとぶ鳥も祈りおとす程のやいばの験者とぞきこえし。
意訳
そもそも、かの頼朝と申すのは、去る平治元年(1159)12月、父の左馬頭義朝(1123~1160)の謀反によって、年は14歳と申した永暦元年(1160)3月20日、伊豆国の蛭島へ流されて、20余年の春秋を送り迎えていた。長年、流人としておとなしくしていたからこそ、無事に過ごせたものだろう。それが、今年になって、どのような心境の変化で謀反を起こされたのかというと、高雄の文覚上人の申し進めだということだ。
かの文覚という人は、元は渡辺党の遠藤佐近将監茂遠の子、遠藤武者盛遠といって、上西門院に仕える衆であった。19の年に道心を起こして出家、修行に出ようとしたが、「修行というのはいかほどの大事であろうか、まずは試してみよう」として、6月の太陽が照りつけ無風で草も揺るがないような日に、辺境の山の、藪の中に入り、仰向けに寝転がった。虻、蚊、蜂、蟻という毒虫等が身にすき間もなくとりついて、刺したり、噛んだりしたのだが、少しも身動きすることはなかった。文覚は7日までは起き上がらず、8日目に起き上がって「修行というのは、これ程の大事か」と人に問うたところ、「それ程では、どうして命がもつことがあろうか」と言われたので、「それでは、たやすいことだな」といって、修行に出かけたのであった。
熊野へ参り那智籠りをしようとしたが、まずは試しにと、名高い那智の滝に暫く打たれてみよう、と滝のもとへと参った。真冬の12月10日のことだから、雪が降り積もって氷柱となり、谷の小川の音も聞こえない。峰々をわたる風は吹けども凍り、滝の白糸も垂れ氷となっている。全てが白く妙なる世界、四方の梢も見分けられないほどだ。
そんな中、文覚は滝壺へと降り下って体をひたし、首まで水に浸かって慈救の呪(不動明王の陀羅尼)を唱えていた。2、3日は持ちこたえたものの、4、5日も経過したら堪え切れず、文覚は浮き上がってしまった。数千丈も漲り落ちる滝だから、一ヶ所にとどまっていられるわけがない。あっという間に押し落とされて、刀の刃のごとく、険しい岩角の間を浮き沈みしながら、五、六町も流されてしまった。その時、美顔の童子が一人来たって、文覚の左右の手を取り引き上げられた。それを見ていた人々は不思議な思いとなり、火を焚き温めたりしてくれたので、まだ寿命の時ではないこともあり、程なくして息を吹き返した。
文覚は、少しして落ち着いた様子となったが、大きな眼を見開いて「我はこの滝に三七日(21日)打たれて、慈救の三洛叉(三十万遍の慈救呪)を満たそうという大願を立てている。今日はわずか5日目にすぎない。7日を過ぎてもいないのに、何者がここへ連れてきたのだ」と言ったので、童子が助けた様子を見て知っている人々は身の毛がよだち、ものが言えなくなってしまった。
文覚は再び滝壺へと戻り、水に打たれ続けた。それから2日目という日に、八人の童子が来たって引き上げようとされたのだが、掴みあいとなった挙句、文覚は上がらなかった。3日目、文覚は、はかなく息が絶えてしまった。滝壺を汚すまいとしたのか、角髪(みずら)を結いた天の童子が二人、滝の上より降り下ってきた。死者となった文覚の頭上より、手足のつま先、掌の裏にいたるまで、よにも温かき香ばしい御手をもって撫で下されていたと思ったら、夢の心地がして再び生き返った。
「こうも私を憐れんで下さるあなた様は、どのような人であられるのでしょうか」と文覚が問い奉ると、「我は大聖不動明王の御使にして、矜羯羅(こんがら)・制吒迦(せいたか)という二童子です。『文覚は無上の願いを起こし、勇猛の行を企てている。直ちに行き力を合せなさい』との不動明王の勅により、この地に来たのです」と答えられた。文覚は力ある声で、「さて、不動明王はいずこにおられるのか」とたずね、二童子は「都率天にいらっしゃいます」と答えて、空高く雲の上へと上がっていかれた。
文覚は掌を合せて、この光景を拝し奉っていた。「ということは、我が行を大聖不動明王までもが御存知なのだ」と頼もしく思えてきて、猶も滝壺へと戻り水に打たれ続けた。まことにめでたき瑞相があったので、吹きくる寒風も身に凍みることなく、落ちてくる冷水も湯のごとしであった。かくして、21日間滝に打たれて慈救の三洛叉を満たすという大願が遂げられたので、文覚は那智に千日参籠し、吉野の大峰には三度、葛城山に二度、他に高野、粉河、金峰山、白山、立山、富士山、伊豆、箱根、信濃国の戸隠、出羽国の羽黒山と、日本国の霊場を残すことなく修行してまわった。その後、さすがに故郷が恋しくなったのだろうか、都へ上って来た時には、およそ飛ぶ鳥を祈り落とす程の、刃のごとき験者であると、その名は轟いたのである。
「熊野年代記」も長寛元年(1163)、文覚が熊野で絶食の荒行を行ったことを記している。
二条(天皇) 長寛元年 癸未 文覚熊野に入り、三山に七日宛絶食。
まことに勇ましく荒々しい限りの文覚の修行だが、滝修行の霊験譚などは「平家物語」によってつくられたものとしても、実際のところはどうだろう。彼は熊野を訪れていたのだろうか。
壮年期に神護寺の再興を成し遂げ、東寺を復興した文覚の庇護者は後白河法皇で、その法皇は34回もの熊野詣でを行っている。熊野本宮には「庵室ども二、三百ばかり」(いほぬし)と多くの修行者が集い200以上の庵室が作られ、熊野三所権現の神威も「日本第一大領験」(平家物語)というものだ。そこで修行に打ち込む青年文覚の姿を想像しても、あながち間違いではないと思う。
文覚の熊野修行については、山田昭全氏が「文覚」(8)に詳しくまとめられているので、以下、要点を列挙したい。
◇上西門院衆=門院警護の武士であった遠藤武者盛遠は、平治元年(1159)年から長寛元年(1163)年頃までには出家し、文覚と号している。
◇文覚の後年の活躍ぶりからすれば、真言僧であったといえる。ただし、真言の血脈系譜には文覚の名が見当たらない。わずかに「伝燈廣録後巻」第二「勧修寺慈尊院二世学講興然伝」に、興然の付法四人に行慈、高弁、栄然、文覚があり、ここに文覚の名が見えるだけである。「伝燈廣録後巻」が、興然付法を四人とした根拠は不明。文覚が興然の付法を受けたのは、50歳の頃と推測される。
◇文覚には文覚以外の呼び名はなく、法号らしきものを持たず、血脈系譜に載らず、弟子に授戒もしていないことから、正規の戒牒を持たない私度僧であったと推測される。文覚は自称と思われる。
◇「愚管抄」巻六には、「文覚は行はあれど学はなき上人なり」とあり、彼の周辺からは学問らしきものは見えてこない。
◇文覚が熊野で荒行をしたであろうことは状況証拠から推測できる。
・文覚が後白河院に提出した「文覚四十五箇条起請文」(僧文覚起請文)に彼の略歴が書き込まれており、それによると、伊豆配流の時、30日間の断食をしている。
寿永元年(1182)4月5日、源頼朝の戦勝を祈願して、江ノ島で大弁才天法を修し、21日間の断食をしている。ここでの断食は修験者の行法だったとみられる。
・「熊野年代記」の史料価値は「僧文覚起請文」や「吾妻鏡」よりは低いものの、長寛元年(1163)、熊野での文覚の断食を伝える前後の、後白河院の熊野御幸の記録はほぼ史実と合っており、文覚に関する記述は無視できない。
・西行と文覚は交流を持っていて、西行の「山家集」に熊野と題する歌がある。
あらたなる熊野まうでのしるしをば氷の垢離に得べきなりけり
この歌からも、冬季、熊野で水垢離をとる荒行が行われていたことがうかがわれる。
・このようなことから、出家した文覚が目指したのは修験の行人の道だったと考えられる。
(6) 一遍の熊野成道
諸国を遊行して念仏札を賦算(配る)、踊り念仏も取り入れて庶民大衆に念仏を勧めた時宗の開祖・一遍(諱・智真 1239~1289)は、文永11年(1274)夏、熊野に参詣し熊野権現より神勅を受けた。その模様は一遍の十年忌にあたる正安元年(1299)、弟子の聖戒らにより作成された「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)に詳しい。
智真は文永8年(1271)、32歳の時に二度目の出家をし、諸国をめぐり文永11年(1274)夏、高野山を経由して熊野本宮に詣でる。道行く人に念仏札を配りながら歩く智真は、熊野の山中で老僧と出会う。念仏札を勧められた老僧は、一念の信無きことを理由に受け取りを拒否。それでも智真は老僧に対し、仏教を信ずる心の有無、不受の理由を問い、老僧は信心の起こらないことはいかんともし難い旨を返答。そんな問答をしているところに、道行く人々が集まりだし、智真は老僧が念仏札を受け取らなければ皆も受けないと考え、本意ではないものの老僧に札を渡し、それを見た人々も札を受け取った。ところが、当の老僧は姿が見えなくなってしまった。
念仏札の賦算を勧めることにつき、思い悩んだ智真が熊野本宮・証誠殿で祈念していると、白髪の山伏姿の化身が現れた。「御房の勧めにより一切衆生が往生するのではなく、阿弥陀仏の十劫正覚により一切衆生の往生は必定なのである。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」と告げられる。また、12、3歳の童子が100人ほど集まり、手を捧げて念仏札を受け取り、念仏を唱えながら何処ともなく去ってしまう。
この熊野権現の啓示の後、彼は一遍と称し、これまでの南無阿弥陀仏の念仏札に「決定往生六十万人」と書き加えるようになり、諸国をくまなく遊行している。熊野権現の神勅については、江戸時代に編纂された「一遍上人語録」では「我法門は熊野権現夢想の口伝也」とし、時宗では「熊野成道」とされている。
「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)の詞書釈文・熊野成道の部分
巻第三 第九段
文永十一年の夏、高野山を過ぎて熊野へ参詣し給ふ。山海千重の雲路を凌ぎて、岩田河の流れに衣の袖を濯ぎ、王子数所の礼拝を致して、発心門の水際に、心の鎖(とざ)しを開き給ふ。藤代岩代の叢祠には、垂迹の露、玉を磨き、本宮新宮の社壇には、和光の月鏡を掛けたり。古栢老松の影湛へたる殷水の波声を譲り、錦徽玉皇の飾りを添へたる坐山の雲、色を移す。就中、発遺の釈迦は、降魔の明王と共に東に出で、来迎の弥陀は引接の薩埵を伴ひて、西に現はれ給へり。
ここに一人の僧あり、聖勧めての給はく、「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱へて、この札を受け給ふべし」と、僧云く、「今一念の信心起こり侍らず、受けば妄語なるべし」とて受けず。聖の給はく、「仏教を信ずる心御坐(おわし)まさずや、などか受け給はざるべき」僧云く、「経教を疑はずと雖も、信心の起こらざる事は、力及ばざる事なり」と。時に若干(そこばく)の道者集まれり。此の僧もし受けずば、皆受くまじきにて侍りければ、本意に非ずながら、「信心起こらずとも受け給へ」とて、僧に札を渡し給ひけり。これを見て道者皆悉く受け侍りぬ。僧は行く方を知らず。
この事思惟するに、故無きに非ず、勧進の趣冥慮を仰ぐべしと思ひ給ひて、本宮証誠殿の御前にして、願意を祈請し、目を閉ぢて未だ微睡(まどろ)まざるに、御殿の御戸を押し開きて、白髪なる山臥の長頭巾掛けて出で給ふ。長床には、山臥三百人許り、首を地につけて礼敬し奉る。この時、権現にて御坐しましけるよと思ひ給ひて、信仰し入りて御坐しけるに、彼の山臥聖の前に歩み寄り給ひての給はく、
「融通念仏勧むる聖、いかに念仏をば悪しく勧めらるるぞ。御房の勧めによりて、一切衆生初めて往生すべきに非ず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定する所也。信不信を選ばず、浄不浄を嫌はず、その札を配るべし」
と示し給ふ。後に目を開きて見給ひければ、十二、三許(ばか)りなる童子、百人許り来りて、手を捧げて、「その念仏受けむ」と云ひて、札を取りて「南無阿弥陀仏」と申して、何処とも無く去りにけり。
凡そ融通念仏は、大原の良忍上人、夢定の中に阿弥陀仏の教勅を受け給ひて、天治元年(1124)甲辰(きのえたつ)六月九日初め行ひ給ふ時に、鞍馬寺毘沙門天王を初め奉りて、梵天帝釈等名帳に名を現はして入り給ひけり。
この童子も王子達の受け給ひけるにや、と思ひ合はせらるる方も侍るべし。大権現の神託を授かりし後、「いよいよ他力本願の深意を領解せり」と語り給ひき。