11 各御書に見える東密・台密批判と日蓮の動向
【 報恩抄 】
日蓮が師僧・道善房死去の知らせを受けて報恩のために記述し、「清澄山 浄顕房・義城房の本へ」送った「報恩抄」(建治2年[1276]7月21日)でも、東密・台密に照準を合わせるように教理面を詳細に論じながら批判しています。
設ひ慈覚、伝教大師に値ひ奉りて習ひ伝へたりとも、智証、義真和尚に口決せりといふとも、伝教・義真の正文に相違せば、あに不審を加へざらん。
されば叡山の仏法は但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ。名と所領とは天台山、其主(ぬし)は真言師なり。されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。已今当の経文をやぶらせ給ふは、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。弘法大師こそ第一の謗法の人とをもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事(ひがごと)なり。
弘法大師いかなる徳ましますとも、法華経を戯論の法と定め、釈迦仏を無明の辺域とかかせ給へる御ふで(筆)は、智慧かしこからん人は用ふべからず。
弘法大師は仏身を現じて華厳経・大日経に対して法華経は戯論等云云。仏説まことならば弘法は天魔にあらずや。
同じき四月八日に平左衛門尉に見参(げんざん)す。本よりご(期)せし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさ(諌)めんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。
又去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時、蒙古国は何比(いつごろ)かよせ候べきと問ふに、答へて云はく、経文は月日をさゝず、但し天眼(てんげん)のいかり頻(しき)りなり、今年をばすぐべからずと申したりき。
是等は如何にとして知るべしと人疑ふべし。予不肖(ふしょう)の身なれども、法華経を弘通する行者を王臣人民之を怨(あだ)む間、法華経の座にて守護せんと誓ひをなせる地神いかりをなして身をふるひ、天神身より光を出だして此の国をおどす。いかに諫むれども用ひざれば、結句(けっく)は人の身に入って自界叛逆せしめ、他国より責むべし。
【 種種御振舞御書・建治2年[1276] 】
(文永11年)三月十三日に島を立ちて同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきにはにるべくもなく威儀を和らげてただしくする上或る入道は念仏をとふ、或る俗は真言をとふ、或る人は禅をとふ、平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ一一に経文を引いて申しぬ。
平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なり、それにとつては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし、真言師だにも調伏するならば弥よ此の国軍にまくべし
同(文永11年)四月十日より阿弥陀堂法印に仰せ付けられて雨の御いのりあり、此の法印は東寺第一の智人・をむろ(御室)等の御師・弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ天台・華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり。
(4月11日)
それに随ひて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず、雨しづかにて一日一夜ふりしかば、守殿(こうどの)御感のあまりに、金三十両、むま(馬)、やうやうの御ひ(引)きで(出)物ありときこふ。
(4月11日~12日)
鎌倉中の上下万人手をたた(叩)き口をすくめてわら(笑)うやう(様)は、日蓮ひが(僻)法門申してすでに頚をき(切)られんとせしがとかうしてゆりたらば、さではなくして念仏禅をそし(謗)るのみならず、真言の密教なんどをもそし(謗)るゆへ(故)にかかる法のしるし(験)めでたしとののし(罵)りしかば、日蓮が弟子等けうさめ(興醒)てこれは御あら義と申せし程に日蓮が申すやうはしば(暫)しまて、弘法大師の悪義まことにて国の御いの(祈)りとなるべくば隠岐法皇こそいくさ(戦)にか(勝)ち給はめ
中略
いゐもあはせず大風吹き来たる(4月12日)。大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を、或は天に吹きのぼせ、或は地に吹きいれ、そらには大なる光物とび、地には棟梁みだれたり。人々をもふ(吹)きころ(殺)し、牛馬をゝ(多)くたふ(倒)れぬ。
悪風なれども、秋は時なればなをゆる(許)すかたもあり。此(これ)は夏四月なり、其の上、日本国にはふかず、但関東八箇国なり。八箇国にも武蔵・相模の両国なり。両国の中には相州につよくふく。相州にもかまくら(鎌倉)、かまくらにも御所・若宮・建長寺・極楽寺等につよくふけり。たゞ事ともみへず。ひとへにこのいの(祈)りのゆへ(故)にやとをぼ(覚)へて、わらひ口すくめせし人々も、けふ(興)さめてありし上、我が弟子どもゝあら不思議やと舌をふるう。
本よりご(期)せし事なれば三度国をいさ(諫)めんにもち(用)ゐずば国をさ(去)るべしと、されば同五月十二日にかまくら(鎌倉)をいで(出)て此の山(身延山)に入る、
同十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府もやぶ(破)られて少弐入道大友等ききに(先逃)げにに(逃)げ其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ、又今度よ(寄)せく(来)るならばいかにも此の国よはよは(弱弱)と見ゆるなり。
仁王経には「聖人去る時は七難必ず起る」等云云、
最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に乃至他方の怨賊来りて国人喪乱に遇わん」等云云、仏説まことならば此の国に一定悪人のあるを国主たつ(尊)とませ給いて善人をあだ(仇)ませ給うにや、
大集経に云く「日月明を現ぜず四方皆亢旱す是くの如く不善業の悪王・悪比丘・我が正法を毀壊せん」云云、
仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説く、其の王別えずして此の語を信聴せん是を破仏法・破国の因縁と為す」等云云、
法華経に云く「濁世の悪比丘」等云云、
経文まことならば此の国に一定悪比丘のあるなり、夫れ宝山には曲林をき(伐)る大海には死骸をとど(留)めず、仏法の大海一乗の宝山には五逆の瓦礫・四重の濁水をば入るれども誹謗の死骸と一闡提の曲林をばをさめざるなり、されば仏法を習わん人後世をねがはん人は法華誹謗をおそるべし。
皆人をぼするやうは、いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用ゆべきと、他人はさてをきぬ。安房国の東西の人人は此の事を信ずべき事なり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房・清澄の西堯房・道義房・かたうみの実智房等はたうとかりし僧ぞかし。此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。
文永11年3月26日、佐渡より鎌倉に戻った日蓮は平左衛門尉と対面し、真言師による異国調伏では日本は戦に負けてしまう=滅びると諫めます。4月10日、幕府は加賀法印定清=阿弥陀堂法印に祈雨の祈祷を命じ、翌11日には雨が降り出し、北条時宗は金三十両、馬等、様々な引き出物を与えます。
「阿弥陀堂法印の祈雨の功である」と、鎌倉の人々は幕府より褒美を与えられた法印を褒め称え日蓮をあざ笑います。日蓮一門の弟子達も「いかなることか」と動揺しますが、日蓮が真言の悪現証、真言師の祈雨について説明していたところ鎌倉は突然の大風に襲われ、その凄まじさ、被害の甚大さにあざ笑っていた人々は興醒め、弟子達は「不思議なことである」と驚きます。
日蓮は5月12日に鎌倉を発って身延山に入りますが、以下、「種種御振舞御書」の記述を確認してみましょう。
「種種御振舞御書」では、身延入山後に蒙古が攻め寄せた(文永の役)が、今度こそは日本は危ういとして経文を引用記述。
次に「されば仏法を習わん人、後世をねがはん人は法華誹謗をおそるべし」として、「皆人をぼするやうは、いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用ゆべきと」(同)と「清澄寺大衆中」と同じく、当時の人々が日蓮に対して抱いた感情、不信を「日蓮のように弘法大師・慈覚大師ほどの人物を謗る者の言うことをどうして用いることができようか」と表現しています。
このような疑難に対しては、「他人はさてをきぬ。安房国の東西の人人は此の事を信ずべき事なり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房・清澄の西堯房・道義房・かたうみの実智房等はたうとかりし僧ぞかし。此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。」(同)と、他所のことはさておいて、故郷の安房国の人々は空海・円仁を批判する日蓮のいうことを信ずるべきあり、その現証として、東密・台密であったであろう清澄寺及び周辺の僧の臨終がよくないものだったことを知るべきである、としています。
ここからは、清澄寺と周辺の僧の信仰、崇敬する人物が読み取れるのではないでしょうか。即ち空海と円仁を批判する日蓮の説示を用いない悪現証として、清澄寺と周辺に居住する僧の名が列挙されたということは、彼らは空海と円仁を崇めていたと理解でき、この記述も清澄寺内の東密と台密の法脈を探る際の史料になるといえるでしょう。
故郷の法兄・浄顕房に宛てた「本尊問答抄」(弘安元年[1278]9月)でも空海・円仁・円珍を批判し、題目・法本尊を教示するにあたって、やはり東密・台密批判を展開しています。
問ふ、今日本国中の天台・真言等の諸僧並びに王臣万民疑て云く、日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか。如何。答ふ、日蓮反詰して云く、弘法・慈覚・智証大師等は釈迦多宝十方の諸仏に勝るべきか是一。今日本国の王より民までも教主釈尊の御子也。
其後弘法大師真言経を下(おと)されける事を遺恨とや思食しけむ。真言宗を立てんとたばかりて、法華経は大日経に劣るのみならず華厳経に劣れりと云云。あはれ慈覚・智証、叡山園城にこの義をゆるさずば、弘法大師の僻見は日本国にひろまらざらまし。
彼両大師華厳法華の勝劣をばゆるさねど、法華真言の勝劣をば永く弘法大師に同心せしかば、存外に本伝教大師の大怨敵となる。其後日本国の諸碩徳等各智慧高く有るなれども彼三大師にこえざれば、今四百余年の間、日本一同に真言は法華経に勝れけりと定め畢んぬ。たまたま天台宗を習へる人人も真言は法華に及ば不るの由存ぜども、天台座主・御室等の高貴におそれて申す事なし。
然らば日本国中に数十万の寺社あり。皆真言宗也。たまたま法華宗を並ぶとも真言は主の如く法華は所従の如く也。若しくは兼学の人も心中は一同に真言也。座主・長吏・検校・別当、一向に真言たるうへ、上に好むところ下皆したがふ事なれば一人ももれず真言師也。されば日本国或は口には法華経最第一とはよめども、心は最第二最第三也。或は身口意共に最第二三也。三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなし。
是くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ、結句は此国他国にやぶられて亡国となるべきなり。
然而日蓮小智を以て勘えたるに其故あり。所謂彼真言の邪法の故也。僻事は一人なれども万国のわづらひ也。一人として行ずとも一国二国やぶれぬべし。況や三百余人をや。国主とともに法華経の大怨敵となりぬ。いかでかほろびざらん。
以上、確認してきました「善無畏三蔵抄」「聖密房御書」「清澄寺大衆中」「報恩抄」「光日房御書」「法蓮抄」「種種御振舞御書」「本尊問答抄」では、一部で師匠・道善房の浄土信仰を破する記述があり、禅・南都諸宗も批判しています。
ですが、日蓮の批判の矛先は東密・台密にあり、多くの紙数を費やすものとなっています。
故郷の法兄らに宛てた日蓮の書簡は「清澄寺大衆中」は当然として、他の書においても宛先の人物だけではなく周囲が読むであろうことを念頭に書いたものと考えられ、そこに特定の人物(善無畏・空海・円仁・円珍ら)・教理(東密・台密)を挙げて継続して批判し法華勧奨をなすところに、その人物を崇敬し、教えを信奉する者が清澄寺には多かった、即ち東密・台密の修学・修行者が清澄寺に居住していたと読み解くことができるのではないでしょうか。
【 神国王御書と善無畏三蔵抄 】
「神国王御書」と「善無畏三蔵抄」も少年日蓮の修学環境を探るのに、参考になる書だといえるでしょう。
神国王御書
幼少の比(ころ)より随分に顕密二道並びに諸宗の一切の経を、或は人にならい、或は我と開き見し、勘(かんが)へ見て候へば、故の候けるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ことは仏鏡にはすぐべからず。
日蓮は回想の中で、顕教・密教、諸宗の一切経を人に習い自ら学んだのは少年時代からであると記述しています。
善無畏三蔵抄
日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給ひて、我等易易(やすやす)と生死を離るべき教に入らんと思ひ候て、真言の秘教をあらあら習ひ、此事を尋ね勘るに、一人として答をする人なし。此人(善無畏三蔵)悪道を免れずば、当世の一切の真言並びに一印一真言の道俗、三悪道の罪を免るべきや。
顕教・密教の中でより勝れ、生死を離れるべき教えに入ることを願い、真言の秘教を粗々習ったが、特に善無畏三蔵の頓死について真言師から明答を得られなかった。善無畏が悪道に堕ちたのであれば、現在の真言諸師と信奉者が三悪道の罪をどうして免れることができようか、としています。
このような少年・青年期の修学を回想した記述により、日蓮は若き日に東密僧と接していたことが読み取れ、「幼少の比より随分に顕密二道」「真言の秘教をあらあら習ひ」ということであれば、それは少年日蓮の清澄寺修学時代を含むものであり、そこには少年日蓮に教示する東密僧の存在が考えられるのではないでしょうか。
東密の祖・空海が修した虚空蔵菩薩求聞持法を行う山林修行の霊場として喧伝されていた清澄寺であれば、記憶力増進を願い東密の修学・修行者が集うのも、また「慈覚開山之勝地」と天台・台密系の聖らによって再興されたと推される清澄寺であれば、そこに天台・台密の法脈が伝わるのも、即ち台東両系の修学・修行者達が居住したことも考えられるところです。
清澄寺には台東両系の共通の帰命対象・本尊として虚空蔵菩薩があり、宗派という枠にとらわれない虚空蔵信仰・求聞持法の霊場としての清澄寺だったと位置付けられるのではないでしょうか。