10 万年救護本尊讃文と新尼御前御返事
日蓮の故郷・安房国の新尼、大尼から「あまのり」が身延に届けられ、御本尊を要請されたことに対する返状が文永12年(1275)2月16日に著された「新尼御前御返事」です。
内容的には、身延山での心情と供養に対する感謝の言葉を記した後、大尼から御本尊を所望されたことに対し、まずは御本尊の意義を説きながら、日蓮にとって重恩の人・大尼御前ではありますが、「日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給ひき」日蓮が迫害を蒙った時に、法華経を捨ててしまったので、そのような信仰の人には御本尊を授与できない。対して、日蓮が佐渡に流された時も退転せず、固き信仰を貫いた新尼には御本尊を渡していることがうかがえる記述となっています。
当書での御本尊の意義については、大尼・新尼への教導を基軸にして曼荼羅総体に通じるものと考えますが、その教示と万年救護本尊の讃文は重なるものがあります。万年救護本尊を顕して一箇月半後の書状であることも踏まえると、御本尊の意義を説く日蓮の念頭には万年救護本尊があったのではないでしょうか。
此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候ひしあまたの三蔵、漢土より月氏へ入り候ひし人人の中にもしるしをかせ給はず。西域等の書ども開き見候へば、五天竺の諸国寺寺の本尊皆しるし尽くして渡す。又漢土より日本に渡る聖人、日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候寺寺の御本尊、皆かんがへ尽くし、日本国最初の寺元興寺・四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば、其の寺寺の御本尊かくれなし。其の中に此の本尊はあへてましまさず。
⇒大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢日三ヶ国之間未有此 大本尊
「大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴するが、月漢日(インド、中国、日本)の三ヶ国に於いて未だなかった大本尊である。」
今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品嘱累に事極まりて候ひしが、金色世界の文殊師利、兜史多(とした)天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。是れ等は智慧いみじく、才学ある人人とはひびけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり。此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。
⇒或知不弘之 或不知之 我慈父以仏智隠留之為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世始弘宣之
「(日蓮以前、月漢日の諸師は)或いはこの大本尊のことを知っていたが弘めず、或いはこれを知らなかった。我が慈父=釈尊は仏智を以て大本尊を隠し留め(釈尊より上行菩薩に譲られて)、末法の為にこれを残されたからである。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである。」
そして、次の天災地変、疫病、飢饉と大兵乱は、明らかに当時の日本を意識した記述となっています。特に大兵乱は蒙古の次なる攻めを予期したものと思われ、その際は「五字の大曼荼羅を身に帯し心に存」することによって、諸国の王は国を助け、万民は難をのがれるであろうと、妙法曼荼羅の力用を説くのです。
末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難竝びをこり、一閻浮提の人人各各甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること、雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべしと仏記しおかせ給ひぬ。
文章表現と時期的なものを踏まえると、「新尼御前御返事」に「此の御本尊・妙法蓮華経の五字・五字の大曼荼羅」と記した日蓮の思考には、万年救護本尊があったのではないでしょうか。しかしながら文字として顕すと万年救護本尊、「新尼御前御返事」は実に長いものがあります。ここで文永12年(1275)4月に書き顕された、5幅の曼荼羅本尊讃文を確認してみましょう。
◇曼荼羅20
仏滅後二千二百卅余年之間 一閻浮提之内未有大曼 陀羅也
◇曼荼羅21
仏滅後二千二百三十余年之間 一閻浮提之内未有大曼陀羅也
◇曼荼羅22
仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮 提之内未有大曼陀羅也
◇曼荼羅23
仏滅後二千二百三十余年之間 一閻浮提之内未有大曼陀羅也
◇曼荼羅24
仏滅後二千二百卅余年之間 一閻浮提之内未有大曼陀羅 也
讃文は一定の表現になっています。
日蓮は万年救護本尊讃文で自身の仏教的境地を示し、次に「新尼御前御返事」で御本尊の仏教的由来と功徳を説示することにより、曼荼羅の持つ仏教上の意味合いを誰人にも分かるように簡潔に表す必要を感じ、それを文永12年(1275)4月以降の曼荼羅讃文として定形化していった、と考えられるのではないでしょうか。