1・注
(1)天台山乃王子信
周朝の第23代・霊王(前571~545)の王子・晋は、王宮を捨てて道教に入り、山中の修行を重ねて王子・喬という仙人となった。唐の天台山国清寺では、王子・晋が神格化されて、道教の地主・山王元弼真君となり、地主神として祀られていた。尚、唐より帰国した最澄は国清寺にならい、比叡山寺の地主神として日吉山王権現を祀った、と伝えられている。
(2)五来重氏「山岳宗教史研究叢書四 吉野・熊野信仰の研究」 p.27 1975年 名著出版
(3)宮家準氏「修験道の地域的展開」 p.367 2012年 春秋社
(4)熊野別当代々次第
五来氏は「熊野山別当代々記」と記しているが、今日では「熊野別当代々次第」として引用されることが多いようだ。阪本敏行氏は「熊野三山と熊野別当」(p.439)で、熊野別当の代々次第を記述した諸本を紹介されている。「熊野別当代々次第」「熊野山別当次第」「熊野別当代々記」「熊野山別当次第」等だが、いずれも史料批判が必要であると指摘される。
熊野別当の起源に関しては、新宮の本願所・新宮庵主霊光庵により編纂された「熊野年代記」に、「嵯峨(天皇) 弘仁三(年) 壬辰 十月十八日、熊野第一座快慶補任別当職。」「快慶父は左大臣、母は榎本道信女、治山三十六年。是熊野別当始。」とあり、嵯峨天皇在位の弘仁3年(812)10月18日、初代熊野別当に快慶が補任されたとしている。だが、「熊野年代記」の記述については、本願成立期の16世紀頃からは史実を伝えるようになるが、それ以前については、「本願」が旧来の「社家」に対して山内での立場を確立するために作為されたと判断される記述が多く、後白河法皇の熊野御幸前後に史実を伝える記事が見受けられもするが、熊野三山の草創期を知る史料としては二次的なものにならざるをえないようだ。確実な文献での熊野別当の初見は、平安中期の藤原行成(972~1028)の日記、「権記」の長保2年(1000)正月二十日条の「内大臣被示云、熊野別当増皇、久住於彼山・・・・」というもので、10世紀には別当職が存在していたことが確認される。
(5)「熊野三山と熊野別当」 p.32、p.416、p.439
(6)「修験道の地域的展開」 p.367
(7)天川彩氏「熊野 その聖地たる由縁」 2013年 彩流社
特に第四章の「『熊野権現垂迹縁起』千年の謎を解く」は、詳細に論じながらも「熊野学」初心者にも分かりやすい。
(8)「修験道の地域的展開」 p.367
(9)「福岡県郷土叢書」 有吉憲彰氏・編 1975年 文献出版