身延期の御書「釈迦仏」が意味するものは
「上野殿御返事」建治3年(1277)1月3日
まことに法華経の御志み(見)へて候。くは(委)しくは釈迦仏に申し上げ候い了(おわん)ぬ。
「六郎次郎殿御返事(報二檀越書)」建治3年3月19日
白米三斗油一筩(ひとつつ)給び畢んぬ。いまにはじめぬ御心ざし申しつくしがたく候。日蓮が悦び候のみならず、釈迦仏定んで御悦び候らん。「我則歓喜諸仏亦然」とは是なり。
「上野殿御返事」弘安元年(1278)9月19日
かゝるところにこのしほを一駄給びて候。御志、大地よりもあつく虚空よりもひろし。予が言は力及ぶべからず。たゞ法華経と釈迦仏とにゆづ(譲)りまいらせ候。事多しと申せども紙上にはつ(尽)くしがたし。
このような身延期に見える「釈迦仏に申し上げ」「釈迦仏定んで御悦び候らん」「法華経と釈迦仏とにゆづりまいらせ」等の記述にある「釈迦仏」とは、『供養の品々を宝前に捧げる、その中央には曼荼羅が安置されていたことを思えば、現実に拝する曼荼羅を意味していた』ということ、更に『信仰観念世界の久遠実成の釈尊=久遠の仏』の意もあったのではないでしょうか。
要はこれら書簡における「釈迦仏」とは、
① 信仰上の釈尊=久遠の仏
② 曼荼羅を釈迦仏=久遠の仏に擬して(見立てて)の表現
③ ①と②の意を兼ね備えての記述
ではないかと考えるのです。
平安期~鎌倉期では、本尊といえば仏像。優しい尊い姿をされた仏さまに菩薩さま。紙に書かれた絵像はありますが、日蓮以前の明恵や親鸞の文字本尊も圧倒的多数の人々が知りません。
そのようなところに、いきなりの文字曼荼羅の登場です。
絵でもなければ、彫刻でもなく、文字を本尊として急速に広めるのです。尊くもなければ優しくもない、紙に書かれた文字が本尊では多くの人が「なんのこと?」と驚いたことでしょう。
日蓮からすれば、従来からの命を懸けた主張、教説である「教主釈尊=久遠の仏に還れ、法華経最第一」を踏まえて、爾前権教・密教の仏像が林立する中で自己が顕した曼荼羅の正当性と正統性を主張すれば、随他意説(随他施化)、対機の説法として「我が顕せし曼荼羅こそ教主なき時代の教主なり」「教主=久遠の仏はあなたが帰命する本尊ですよ」との意を含ませる。また、それを前提として当然のように説く、書くということがあったのではないかと思うのです。
「妙心尼御前御返事(妙字御消息)」(弘安3年5月4日)の、「妙の文字は三十二相八十種好円備せさせ給ふ釈迦如来にておはしますを、我等が眼つたなくして文字とはみまいらせ候なり」と、妙の一文字をも釈迦如来=久遠の仏とする信仰的意義付けからすれば、曼荼羅当体を釈尊=久遠の仏として、拝する者を救済すると意義付けていたことがうかがわれるのではないでしょうか。
ということは、かの「観心本尊抄」の「寿量の仏」「此の仏像出現せしむべきか」 「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」についても、それらは曼荼羅を信仰的観点から呼称した一表現形態といえるのではないかと考えます。
もっとも、曼荼羅を釈尊=久遠の仏に擬したといっても、それらは当時の衆生の機を踏まえた上での、『随他意説(随他施化)、対機の説法』としての、一つの表現です。
では、「そのようなことを説く日蓮は何者ぞ」と思う時、「日蓮云わく、一切衆生の同一苦は、ことごとくこれ日蓮一人の苦なりと申すべし」(諫暁八幡抄)として、法華経・薬王菩薩本事品第二十三の「此経則為閻浮提人病之良薬 若人有病得聞是経病即消滅」と、一閻浮提の人々の病の良薬、一切衆生の苦を解決する本尊として曼荼羅を顕し、「法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず」(祈祷抄)と、さらに「一分の解(げ)無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位」(四信五品抄)との問いには、爾前権教・密教の祖師たちよりも「勝出(しょうしゅつ)すること百千万億倍なり」(同)とまでするのですから、やはりその境地は末法の「一閻浮提第一の聖人」(聖人知三世事)(妙心尼御前御返事)・教主としての自覚が満ちていたのではないかと考えるのです。
2022.12.31