竜口の光り物はあったのか?なかったのか?
日蓮伝に必ず登場する竜口法難での光り物。
実際にあったのか?それともなかったのか?
御書を読み解きながら、じっくりと考えてみましょう。
まずは現存日蓮真蹟御書より確認していきます。
一谷入道御書(一谷入道女房御書) 建治元年5月8日 真蹟断片
文永八年太歳辛未(かのとひつじ)九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽(たちま)ちに頸(くび)を刎(は)ねらるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて、北国佐渡の島を知行する武蔵前司(むさしのぜんじ)の預かりにて、其の内の者どもの沙汰として彼の島に行き付きてありしが
報恩抄 建治2年7月21日 真蹟断簡7紙
去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は相模国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん、其の夜はのびて依智というところへつきぬ。
四条金吾殿御返事(梵音声書) 系年文永9年と推定 日興本・重須本門寺蔵
前々の諸難はさておき候ひぬ。去ぬる九月十二日御勘気をかふりて、其の夜のうちに頸をは(刎)ねらるべきにて候ひしが、いかなる事にやよりけん、彼の夜は延びて此の国に来たりていままで候に、世間にもすてられ、仏法にも捨てられ、天にもとぶ(訪)らはれず、二途にかけたるすてものなり。
文永8年9月12日、日蓮は結局、死刑にならなかったことについて、
一谷入道御書
子細ありけるかの故にしばらくのびて
報恩抄
いかにしてやありけん
四条金吾殿御返事
いかなる事にやよりけん
と記述していますが、その詳細は明かしていません。
次に真蹟曽存の「種種御振舞御書」(建治2年か)では、竜口の光り物の詳細が描写されています。
こしごへ(腰越)たつ(竜)の口にゆきぬ。此にてぞ有らんずらんとをもうところに、案にたがはず兵士どもうちまはりさわ(騒)ぎしかば、左衛門尉申すやう、只今なりとな(泣)く。日蓮申すやう、不かく(覚)のとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそく(約束)をばたがへらるゝぞと申せし時、江のしま(島)のかたより月のごとくひかり(光)たる物、まり(鞠)のやうにて辰巳(たつみ)のかたより戌亥(いぬい)のかたへひかり(光)わたる。十二日の夜のあけぐれ(昧爽)、人の面(おもて)もみ(見)へざりしが、物のひかり(光)月よ(夜)のやうにて人々の面もみなみゆ。
太刀取目くらみたふ(倒)れ臥(ふ)し、兵共(つわものども)おぢ怖れ、けうさ(興醒)めて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり。
日蓮申すやう、いかにとのばら(殿原)かゝる大に禍なる召人(めしうど)にはとを(遠)のくぞ、近く打ちよ(寄)れや打ちよれやとたか(高)だか(高)とよばわれども、いそぎよる人もなし。
さてよ(夜)あけばいかにいかに、頸切るべくわいそ(急)ぎ切るべし、夜明けなばみぐる(見苦)しかりなんとすゝ(勧)めしかども、とかくのへんじ(返事)もなし。はるか計りありて云はく、さがみ(相模)のえち(依智)と申すところへ入らせ給へと申す
現在の「種種御振舞御書」は、幕末の研究者・小川泰道が真蹟・種種御振舞御書19紙1巻完、佐渡御勘気抄21紙1巻完、阿弥陀堂法印祈雨抄10紙1巻断、以上3巻を一つにまとめたものであり、身延山に存在しましたが明治8年の身延山の大火により焼失、「真蹟身延曽存」扱いとなっています。
文永8年9月12日夜、日蓮が竜口で斬られかかったことについては「報恩抄」に「相模国たつの口にて切らるべかりしが」とあることから確実ですが、そこでいったい何が起きたのでしょうか?
そのことを、日蓮は「真言諸宗違目」(文永9年5月5日 真蹟7紙完・中山法華経寺蔵)で次のように記述しています。
日蓮流罪に当たれば教主釈尊衣を以て之を覆ひたまはんか。去年九月十二日の夜中に虎口を脱れたるか。「必ず心の固きに仮りて神の守り即ち強し」等とは是なり。汝等(なんじら)努々(ゆめゆめ)疑ふこと勿(なか)れ、決定して疑ひ有るべからざる者なり。
意訳
日蓮が流罪されれば、教主釈尊は衣を以て流罪の一部始終を覆い守ってくださっているであろう。去年(文永8年)9月12日の夜中に(時間的に竜口の斬首の時をさす)虎口(大変危険な状態)を逃れたのも、教主釈尊が衣で覆ってくださったからであろうか。妙楽大師の止観輔行伝弘決に「必ず心が堅固であるならば、神・諸天善神の守りもそれに応じて強いものとなる」とあるのはこのことです。あなた方は決して疑ってはなりません。心を強く定めて疑いを起こすようなことがあってはなりません。
「真言諸宗違目」によれば、文永8年9月12日夜、竜口において、仏法上では「教主釈尊衣を以て之を覆」うような守護があったのであり、故に「虎口を脱れたる」死刑とはならなかったことが理解できます。
では、「教主釈尊衣を以て之を覆ひたまはん」は何を指すのでしょうか?
先に見た「子細ありける」「いかにして」「いかなる事」は、当局側の何らかの動き、協議、働きを意味するものと推測でき、それらを「教主釈尊衣を以て之を覆ひたまはん」と形容することは不自然ではないでしょうか。やはり仏法的に表現されることは、仏法的理解を促すような「何かしらの事象」があったというべきでしょう。
ここで気が付くのは、「種種御振舞御書」で光り物による騒動を記述した後に「はるか計りありて云はく、さがみ(相模)のえち(依智)と申すところへ入らせ給へと申す」とあることで、暫くして何らかの計りがあったというのです。これは一谷入道御書の「子細ありけるかの故にしばらくのびて」、報恩抄の「いかにしてやありけん」、四条金吾殿御返事の「いかなる事にやよりけん」と同義ではないでしょうか。
そして「種種御振舞御書」を送った宛先・対告者です。
文中、日蓮が東密と台密の大師を批判することについて、「他人はさてをきぬ。安房国の東西の人々は此の事を信ずべき事なり」とあること。更に「いのもりの円頓房、清澄の西尭房・道義房、かたうみの実智房等は」等、清澄寺大衆の名が多く記されていることから、出身寺院である清澄寺大衆に送ったものとみなすのが妥当だと思われます。
幼少の頃より仏法を学び、その人格を培った自身の出身寺院に、また恩ある人々に我が「自伝」を届けるのは、人間としての自然な感情であり報恩でもあったと思います。
故に、それら故郷の人々に対する思いを込めて、竜口の光り物の詳細を描写したのではないでしょうか。
一方、一谷入道夫妻は本格的な日蓮法華の信仰に立脚することがありませんでしたから、「一谷入道御書」では、日蓮の妙法弘通における一大画期である竜口の詳細は記さなかった。
「報恩抄」は師匠・道善房の死を弔うと共に真の報恩について語ることを主眼とするものですから、竜口の詳細は記述しなかった。また宛先は清澄寺の法兄・浄顕房・義成房であり、同年に澄寺大衆に送ったと推測される「種種御振舞御書」に竜口の描写がある故に重複記述を避けられた。
四条金吾は竜口の光り物を眼前としていますから、「四条金吾殿御返事」にはあらためて記すまでもなく、その後の当局の動きのみを記述した。
要は、故郷の人々には、自らの宗教的一大画期の詳細を語った。
他の御書では、主眼とするものが他にあった故に、また読み手の信仰理解という側面から竜口の詳細は省略されて、当局側の動向のみを記した。
このように考えられるのではないでしょうか。
2022.12.3