熊野三山に関する一考察 

    ~聖地を創る仏教者~

はじめに

 

紀州熊野の熊野本宮、新宮、那智の熊野三山は古来より貴紳衆庶の信仰を集め、鎌倉期には寄進された荘園は関東、東海、伊勢、摂津、播磨、備前等、19ヶ国に31荘となり大いに隆盛した。しかし、室町後期から戦国時代にかけて各地の荘園は在地土豪の支配下に入り、経済的基盤が不安定なものになってしまう。戦乱と社会の混乱により、恒常的な財源と思われた寺社領荘園の経営が立ち行かなくなれば、堂舎の維持・修繕は困難なものとなる。そんな時、三山の周縁部に存在していた聖・山伏らが諸国をめぐり活発な勧進活動を行い、その手腕を衆徒()に認められて社殿堂塔の建立・再興・修繕を担うようになった。功を重ね組織化された彼らは、特に那智山では山内の本社近くに坊舎=本願寺院を構えるようになっていた。

 

このような熊野三山の本願組織の形成について、根井浄氏は「補陀落渡海史」で「その年代を決定するには、なお史料の蒐集と慎重な議論を積み重ねる必要がある」()とし、個人が単独で活動していたと推測される13世紀以降の史料を紹介されている。ここで、熊野勧進初期の史料を確認してみよう。

 

 

 

◇「明月記」()

 

建仁元年(1201)1015日条

 

熊野本宮の神域の入り口である、発心門王子社の比丘尼「南無房」

 

午時許著発心門宿尼南無房宅

 

 

 

◇「熊野詣日記」()

 

応永34(1427)101日条

 

那智の比丘尼「橋勧進の尼」

 

此所に那智の御師の坊あり、これにていつも御もうけあり、入御の後やかて御たち、橋本にてはしめたる御方々、川氷めさる、ここに橋勧進の尼の心さし()ふかきあり、権現より夢の告とかやありて給たる阿弥陀の名号をもちたり、人信心をおこしておかみ(拝み)たてまつ()れハ、名号の六字の中より、御舎利の涌いてましますよし、この年月申あへり、このたひ()これをおかみ(拝み)たてまつる(奉る)に、けにもあわつふ(泡粒)のこと()く、しろ()きものの、忽然としてあまた(数多)出現せり、いかさまにもふしき(不思議)の事、ありやうある物をや、夜に入て後、那智の御山に著まします、

 

 

 

◇「御湯殿上日記」()

 

文明14(1482)417日条

 

はるばる、とく大寺より、くまのの御ほうか(奉加)の事申さるる。御たち(太刀)そひていたさるる。

 

 

 

文明16(1484)95日条

 

くまののほんくう(本宮)の御ほうか(奉加)の事、かんろし(甘露寺)申されて、御たちいたさるる。

 

 

 

延徳3(1491)69日条

 

くまのの御ほうか(奉加)の事、十こくの申とて、なかはし(長橋)とり御申す。侍従大納言にかかせられて、御たちそひていたさるる。

 

 

 

天文元年(1532)810日条

 

くまののなち(那智)のさうゑい(造営)なとしたる十こく、きやうとく(行徳)色々あるにつきて、上人かう()の事申よし。まてのこうち(万里小路)申さるる。

 

 

 

弘治4(1558)123日条

 

くわんしゆ(勧修)寺中納言より、くまののしつこく上人かうの事申、御心え候よし御返事あり。

 

 

 

◇「多聞院日記」()

 

天文11(1542)35日条

 

熊野より智勢来り一日語り畢、喜悦喜悦

 

 

 

同年36日条

 

智勢罷帰畢、くまののこくや(熊野の穀屋)、堺南庄材木町

 

 

 

同年閏319日条

 

熊野十穀海尊来了

 

 

 

◇「言継卿記」()

 

丹波国聖道心上人礼に来、熊野牛玉二枚、同那智大黒像二、茶廿袋、樽代二十疋等持来、一戔勧了、又上人号之事望之由申、明日可来云々。

 

 

 

比丘尼・南無房、橋勧進の尼、十こく、熊野の穀屋・智勢、熊野十穀・海尊、聖・道心上人等、これら単独の勧進が集まり組織化された時期について、根井浄氏は「彼らの組織としての存在は慶長年間(15961615)ごろから史料上にみえはじめることになり、したがって熊野三山の本願組織が一括して整うのは16世紀末期から17世紀初頭であったと、一応の見通しをつけて・・・」()とされている。山本殖生氏は「熊野本願所は、こうした職務を専門的・広範囲に行うところの三山内の組織体として、15世紀中頃から、遊行・廻国の勧進らが組織化され、彼らの勧進・造営の実績と既得権を基盤に成立・発展したのであろう。」()とされている。

 

 

 

両氏の説を合わせ考えれば、熊野・那智の本願は1314世紀には個々の活動であったものが15世紀中頃にはその集まりが組織化され、16世紀末から17世紀はじめに熊野三山本願所として成立したといえるだろう。

 

三山各社の近傍に住し、諸国を歩き勧進を行った者達は「修験者」「山伏」「聖」「穀屋」「十穀」「比丘尼」「橋勧進」等と呼称されるが、そこからは、彼らの信仰形成過程で取り入れられたであろう、顕密の宗派色ともいうべきものが感じられない。一体、彼らは顕密のどの宗派と関係し、その影響を受けているのだろうか。また、本願よりはるか以前、熊野・那智の開創期にその信仰を形成する過程で顕密仏教がいかに関わったのか、熊野権現と山林・滝籠修行の聖地にどのような宗教者が集ったのか、というのも気になるところだ。

 

 

 

「熊野別当代々次第」等によれば、本宮・新宮・那智の三山を統括した熊野別当の活動が記録されているのは10世紀から14世紀にかけてだが、現在のところ、別当が常住した寺院の存在は不明で、天台・真言等の寺社勢力とつながる寺院もなかったようだ。(10)熊野別当が活動していた時代の熊野三山について、五来重氏は、「このような熊野別当と熊野大衆は熊野修験道教団を形成していたのであるが、ここに三山信仰の特異性があるといえる。すなわち三山信仰は神道でもなければ仏教でもない第三の宗教だったのである。しかも比叡山や高野山とはちがった教団組織をもち、妻帯世襲の半僧半俗の別当家にひきいられた山伏の黒衣武士団と、全国的な散在山伏の勧進組織から成っていたといえよう。すなわち別当は軍事的には武士団の棟梁であり、宗教的には熊野権現の名において山伏を統率する熊野修験道の管長であったわけである。しかも経済的には神領荘園を支配し、莫大な貴族の寄進施入物を収納するのであるから、ヨーロッパ中世の法王のように教権と俗権をあわせ持つ主権者であった。」(11)と解説されている。このような五来氏の指摘は、熊野権現を中心とした信仰形態と組織の独自性を踏まえてのものだろうが、現存文献を確認すると、その信仰の内実は、やはり、顕密仏教の教理を多分に摂り入れて成立したものではなかったろうか。

 

 

 

熊野・那智の信仰を語るのに欠かせない「修験道」について、和田萃氏は、「修験道とは、日本古来の山岳信仰に、仏教や道教的信仰が加わり、さらに後には陰陽道の影響をも受けて、10世紀後半から11世紀代に成立した宗教である。山林や山岳で修行することにより、神秘的で呪術的な能力を身につけるのが修験であり、それを達成した人が修験者である。中世以降に山伏の呼称が生まれるが、それ以前は験者とよばれた。~中略~10世紀後半から11世紀に修験道が成立する。しかしその当時の験者たちは山岳で修行し、験力を得た僧侶であったことに注目しておきたい。奈良時代には、山林で修行する優婆塞がいた。しかし平安中・後期の史料にみえるのはすべて僧である。」(12)と教示されている。

 

 

 

桜井徳太郎氏は、「原始的な山岳信仰を基盤に霊験を求める密教との習合において成立した修験道」(13)とされている。

 

 

 

宮家準氏は、「ところで我が国の古来の宗教では、山岳や海(海上の島)などの聖地を里から拝して、そこにいる神霊の加護を祈る形態がとられていた。このことは、こうした聖地を拝しうる場所に祭祀遺跡や古社などがあることからもあきらかである。そしてこの聖地の神を山麓の社に招いて祀ることに重点をおいた宗教を神道ととらえることができる。これに対して修験道は、積極的に聖地に入って修行し、そこの神霊の力を身につけて活動する宗教者を中心としている。換言すれば、我が国古来の聖地信仰のうち、山麓から聖地を拝するという形態に展開したのが神道で、積極的に聖地に入ってその神霊の力を獲得して、それをもとに活動するのが、密教の験者や修験者であるということができるのである」(14)、「一言でいえば修験道は近世末まで制度的には仏教になかば寄生する形で展開してきたと考えられるのである」(15)と教示されている。

 

 

 

各氏の教示を踏まえれば、日本古来の聖地信仰とその聖地に入り霊験を求める密教との習合により生まれた第三の宗教が、熊野のみならず各地の修験道であった。その形成と展開には顕密仏教が大きくかかわっている、ということになるだろうか。

 

 

 

ここで気になるのが、修験道形成の大きな部分を占めている「密教」の体現者、伝道者は誰だったのか。山岳で修行し、験力を得た顕密の僧侶とは誰だったのか。また、那智山に本願が成立するはるか以前の、平安時代の那智山に住し、熊野別当の統制とは一線を画しながら那智滝の修行を中心に独自色を保ち、自山の管理・運営にあたった衆徒の宗教はどのようなものだったのか、ということだ。本願についても、前に書いたように成立期の宗教はどうだったろうか。

 

 

 

ここまで筆者の意のおもむくままに書いてしまい、わかりづらい文章となってしまったので、改めて「知りたいこと」を整理しておこう。

 

 

 

・熊野・那智の開創期における顕密仏教の関わり。

 

・その時代、どのような宗教者が訪れ修行したのか。

 

・山岳で修行し験力を得た僧侶とは誰か。

 

・修験道の形成に少なからぬ役割をはたした密教の体現者、伝道者は誰か。

 

・那智山の衆徒の宗教はどのようなものか。

 

・本願組織の主体となる「修験者」「聖」「穀屋」「十穀」らの信仰形成をなした宗教。

 

 

 

修験道の成立はおおよそ10世紀後半から11世紀とされているが、次項からは少し幅を広げて、平安から鎌倉の二つの時代を背景とし、熊野・那智における宗教者と衆徒・本願の宗教を知る手がかりを求めて、各種文献にあたりながら歴史をさかのぼって概観してみよう。

 

 

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