源実朝暗殺から承久の乱、そして日蓮へ

鶴岡八幡宮寺別当の公暁(こうぎょう)による3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)暗殺という衝撃的な事件。

ここから現在の日蓮系教団まで、時空間を超えて一直線につながっているのではないでしょうか。

 

なぜか?

 

実朝が亡くなり、鎌倉幕府と朝廷の軋轢が強まり、そして承久の乱へ。

結果は朝廷側の惨敗、幕府側の大勝というもの。

 

承久の乱の翌年に生まれた日蓮は、やがて物心がつくようになると「なぜ、王である朝廷方が敗れて、武士の北条義時らが勝利したのか?」と考えるようになります。

これが少年日蓮最大の疑問であり、修学研鑽の原動力となりました。

 

「神国王御書」に次のようにあります。

 

しかるに、日蓮、このことを疑いしゆえに、幼少の比より随分に顕密二道ならびに諸宗の一切経を、あるいは人にならい、あるいは我と開見し、勘え見て候えば、故の候いけるぞ。我が面を見ることは明鏡によるべし、国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。

 

意訳

日蓮は、密教の祈祷を尽くした平家方の安徳天皇の檀ノ浦における最期、同じく密教の祈祷を盛大に行った承久の乱における朝廷側の敗北と三上皇の配流、これについて疑問を持ったために、幼少のころから顕教・密教の二教をはじめ、諸宗の一切の経教を懸命に学び、あるいは人に学び、あるいは自分一人で経典を開き見て考えたところ、その理由があることを知ったのである。

自分の顔を見ようとするなら明鏡によるべきであり、国土の盛衰を計り知ることは仏法の鏡よりすぐれたものはない。

 

源平合戦の時は、平家側は密教の祈祷を尽くします。

「叡山には、明雲座主を始めとして三千人の大衆、五壇の大法を行い、大臣以下は家々に尊勝陀羅尼・不動明王を供養し、諸寺諸山には奉幣し、大法・秘法を尽くさずということなし」()

 

承久の乱では、朝廷側は密教の加持祈祷に頼ります。

「天台座主・慈円、仁和寺の御室、三井等の高僧等を相催し、日本国にわたれるところの大法・秘法残りなく行われ給う」()

 

何故、朝廷側が敗れたのか?

しかも当時としては日本国での最高の祈り=密教の祈祷を尽くしながら。

 

諸国における修学研鑽、経典探求の旅・・・

青年日蓮がたどり着いた結論が、「法華経最第一」「唱題成仏の法門」であり、「密教の祈禱こそが、かえって我が身を滅ぼす、即ち亡国の因となるのだ」というものでした。「本尊問答抄」に「彼の真言の邪法の故」とあるとおりです。

 

その後、立正安国論で警告した他国侵逼難・蒙古襲来が近づくにつれて、鎌倉に響くのは密教の異国調伏の祈祷。ここにおいて、承久の乱での密教の祈祷と重なる光景、事態を眼前にした日蓮は東密(真言)批判を公に展開。文永11年の文永の役からは台密(天台密教)破折を始め、同時に末法の一切衆生が帰命して成仏をかなえる御本尊の図顕を間断なく行うようになるのです。

 

第二次蒙古襲来前の「撰時抄」(建治元年)では、日蓮は承久の乱を引用しながら、台密の円仁(慈覚大師)、密教の祈祷を破折しています。

 

撰時抄

日蓮は愚癡の者なれば経論もしらず。ただ「この夢をもって法華経に真言すぐれたりと申す人は、今生には国をほろぼし家を失い、後生にはあび地獄に入るべし」とはしりて候。
今、現証あるべし。日本国と蒙古との合戦に一切の真言師の調伏を行い候えば、日本かちて候ならば、真言はいみじかりけりとおもい候いなん。ただし、承久の合戦にそこばくの真言師のいのり候いしが、調伏せられ給いし権大夫殿はかたせ給い、後鳥羽院は隠岐国へ、御子の天子は佐渡の島々へ調伏しやりまいらせ候いぬ。結句は野干のなきの身におうなるように、「還って本人に著きなん」の経文にすこしもたがわず。叡山の三千人、かまくらにせめられて一同にしたがいはてぬ。

 

意訳

日蓮は愚かなる者だから経論の詳細は知らない。ただ円仁の夢()を以て「真言勝法華劣」を唱える人は今生には国を滅ぼし、家を失い、死しては阿鼻地獄に堕ちることを知っているのである。

今、ここに現証というものがある。

日本国と蒙古の合戦に一切の真言師に蒙古調伏を行わせて、日本国が勝つならば、真言は勝れており、尊いものだということが分かるであろう。

ただし、承久の合戦では多くの真言師が鎌倉幕府の権の大夫殿(北条義時のこと、北条政子の弟)を調伏したが、倒れることを祈られた北条義時の勝利となり、調伏した側の朝廷方は敗れてしまった。結果、後鳥羽上皇は隠岐の国へ、子の順徳上皇は佐渡の島へ配流となり、自らが島流しとなるための調伏となってしまったのである。

結局は、野干は自らの鳴き声の為に他の動物に殺されるようなものであり、法華経観世音菩薩普門品第二十五にある「還って本人に著きなん」とあるとおり、真言のような邪法を以て調伏すれば還って我が身を滅ぼすこととなるのである。経文通りに、比叡山の僧徒三千人は幕府滅亡を祈りながら鎌倉勢に攻め込まれ、一同に従属することになった。

 

※円仁の夢

「慈覚大師の別伝」にある物語。円仁は金剛頂経の疏七巻、蘇悉地経の疏七巻を著述し、それが仏の意に叶うものかを確かめるべく仏像の前に二つの疏を置いて七日七夜深い祈りを捧げた。五日目の明け方に夢を見た。それは、太陽を弓で射たところ太陽に命中し太陽は落ちた、というもの。円仁は二つの疏は仏意に通達したものと悟り、以来伝導を決意した。

 

「そうだったのか!

幼少からの疑問を経典・法華経により解明した日蓮は、蒙古襲来に怯え密教の祈祷にすがる日本国の有り様、世相を眼前とし、「今再びの亡国の危機」を感じた故に、不惜身命の東密・台密破折を展開したのだと拝察します。

 

その言葉は、「天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(撰時抄)と辛辣、激しいものでした。このように東密の空海と並んで台密の円仁、円珍を批判する日蓮に、批判が浴びせられるようになります。

 

我が師は上古の賢哲・汝は末代の愚人

善無畏三蔵抄

 

汝何なる智を以て之を難ずるや

富木殿御書

 

と難詰されますが、法の邪正を世に明らかにし、一切衆生救済を願い一閻浮提第一の御本尊を顕す自らは「一閻浮提第一の聖人なり」(聖人知三世事・建治元年)と高らかに宣言するのです。

 

疑問→探究・究明・解明→認識・理解→説法教化→批判・法難→自己のなんたるかを覚知・・・

「ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし」(諸法実相抄)の生き方が、ここにあるのではないでしょうか。

 

そして時が流れて現代へと・・・

もし、実朝暗殺がなく、朝廷と鎌倉幕府の蜜月が続いていたら、日蓮が疑問を抱いた乱も起きずに、即ちその後の日蓮もなかったかもしれず、日蓮なくば日興もなく・・・

 

 

まったく歴史に偶然はなく、すべては必然であったのかと思えてくるのです。

 

                                                     2022.11.20