末法の教主~地引御書をめぐって

身延山より
身延山より

 

「地引御書を読むと、日蓮は晩年まで天台大師講を行っており、法華経の行者ではあるが末法の教主等という意識はなかったといえる。釈尊、天台大師智顗、伝教大師最澄に連なる導師だったのである」という主張について。

 

御書を読むと天台大師講は文永34年頃から始まったようですが、たしかに身延後期にも続いていました。身延山に十間四面の堂宇が完成したことを記録した「地引御書」にその記述があります。

 

 

地引御書 弘安41125

坊は十間四面の広さで、庇(ひさし)をさしだして造りあげ、二十四日の天台大師の命日には、天台大師講と延年の舞を心ゆくまで行ないました。さらに、同二十四日の戌亥の時に、御所に集まって、三十余人の人々によって法華経の一日写経を修しました。また、それより以前、申酉の刻には大坊落成の供養をわずかの事故もなく終えました。

 

 

日蓮は身延入山以来粗末な草庵で過ごしており、遺文には痛々しいほどの生活苦が記録されていますが、最晩年の弘安411月にいたって、立派な大坊が完成。地引御書にはその時の模様が記されています。

 

「二十三日、二十四日は、また空は晴れて寒さもなく、そのためか、参詣者が大勢来られて、まるで京都の町中や鎌倉の町の申酉の刻のような賑わいです」

それまでの書状に見える人里離れた深山のイメージから一変、大坊落成時には多くの人でにぎわったようです。

 

さて、「地引御書に天台大師講の記述があるから、日蓮は釈尊、天台、伝教に連なる導師止まりであった」という説は、拙速ではないかと思います。

 

文永92月の「開目抄」では、「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし」と、学は劣ると謙遜しながらも、信行では智顗・最澄を越えると明言。

 

建治3101日の「常忍抄」(富木入道殿御返事・禀権出界抄)では、「日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一・二をば申せども、第三をば申さず候。第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了へず。所詮末法の今に譲り与へしなり。五五百歳とは是なり。」と、智顗・最澄も概略しか説けなかった第三の法門を初めて説き出す日蓮であるとするのです。

 

 

これらの記述から、日蓮の意識では智顗・最澄を超える末法の教主であることがうかがえますが、何よりも曼荼羅本尊讃文の仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」と、全世界でいまだかつてなき大曼荼羅=大御本尊を顕していることこそ、日蓮が末法の教主であることを示すものではないでしょうか。

 

(2023.1.8)