最澄 年表 2

大同5年・弘仁元年(810) 44歳

114

天台法華宗の年分度者、遮那業の学生・光戒、光仁、光智、光法の四名、止観業の学生・光忠、光定、光善、光秀の四名が得度。

 

115

最澄は空海に書を送り、「十一面儀軌」「千手菩薩儀軌」の貸し出しを要請。

 

119

最澄は比叡山寺の同法衆に隠居を告げ、三カ条の起請をたてる。

特に第三条では、「心神未だ調わず。耳根、眼根は練行するに安からず」となった最澄は、「一切の事は、先ず泰範禅師・経珍禅師に聞せしめ、伝えて最澄に聞すことを欲す」とし、比叡山寺の一切の事は泰範と経珍の二人に任せることを明示している。

 

217

最澄は空海に書を送り、「借用した華厳経の書写が終わらない」こと、「十一面儀軌中巻は写し終わった」ことなどを伝える。また、空海より依頼されていた「摩訶止観」については現在、校合しているので、一巻の校合が終わる都度に送付することを約す。

 

514

比叡山寺において、最澄は広智に三品悉地の真言、三部三昧耶の灌頂を授ける。

 

96日~

薬子の変起こる

平城上皇は平安京を廃して平城京に遷都する詔勅を発するも、嵯峨天皇側によって拒否される。11日、平城上皇と寵愛を受けた尚侍・藤原薬子は東国行きを阻止され、上皇は剃髪して隠退・出家、薬子は服毒自殺する。また、薬子の兄・藤原仲成は射殺される。

 

911

空海は最澄に書を送り、「摩訶止観」の送付に感謝し、最澄より誘われた比叡山寺への登山は都合により行けない旨を記す。

「風信雲書、天より翔臨す。之を披き之を閲(けみ)するに、雲霧を掲ぐるが如し」で始まる「風信帖」。(年号のない書状だが、この年のものと推定される)

文末では「今、我が金蘭及び室山と与に一処に集会し、仏法の大事因縁を商量し、共に法幢を建てて、仏の恩徳に報いんと思う。望むらくは、煩労を憚らず、蹔(しばら)く此の院に降赴(こうふ)せられんことを。此れ望む所、望む所。」とあり、最澄、室生山の僧(堅恵または興福寺の修円とされる)らと一堂に会して、仏法の大事因縁を語り仏恩に報いたいとする。そして、最澄の高雄山寺への来訪を促している。これらは薬子の変という皇室を取り巻く争乱により、世情騒然としていることを受けてのものか。

 

913

最澄は空海からの招請に応じられない旨の書を送り、空海は返信する。「忽披状」

 

10

空海は新たに請来した「仁王経」「守護国界主陀羅尼経」「仏母明王経」等の護国経典により、鎮護国家の修法を行いたい旨を上表する。「国家の奉為に修法せんと請う表」

 

◎この年、最澄は伝燈法師位を授けられるも、諸宗僧綱による推挙は弘仁13(822)まで得られなかった。

 

弘仁2年(811) 45歳

214

最澄は空海に書を送り、「遍照一尊の灌頂」を受けることを願う。

空海は後日に授法する旨、返信する。

 

215

最澄は空海に書を送り、「三障未だ浄からざれば、聖教を披くことは望み難し。一期の後、深く恩の厚きことを悟る。下資、後期を待って必ず将に参謁せん。」と、後日の「遍照一尊の灌頂」受法を願う。

 

413

最澄は空海に書を送り、「但し宿因微薄にして、未だ密会に預からず。昼夜尅念すること、鳥跡何ぞ述べん。去年期するところの悉地の月は来月に当たれり。」と、真言の法・受法を昼夜心待ちしている心情を記す。(書状に年号はないも、この年のものと推定される)

あわせて智顗の「法華文句疏」、湛然の「法華記」、「貞元釈教目録」の貸し出しを要請する。

 

81

泰範は比叡山寺の「御講法華会」講師に任じられるも、「忽ち重障ありて諸事に堪えず」として出仕を辞退。最澄は慰留の書を送る。

 

1027

空海を乙訓寺(おとくにでら)に移住させる官符が治部省に下される。

 

119

空海は乙訓寺(現・京都府長岡京市)に移り別当となる。

 

弘仁3年(812) 46歳

41(年号はないがこの年か)

最澄は比叡山寺から離れていた泰範に、「早く弊室に帰り」「老僧を棄つること勿れ」と帰山を促す書を送る。

⇒この時点で、泰範は比叡山寺から離山していたことが窺える書状となっている。

 

58

最澄は「老病僧最澄」と署名した「遺言状」を書き、泰範を「山寺之惣別当兼文書司」、円澄を「伝法座主」、沙弥・孝融と近士(ごんじ)・土師茂足(はじのしげたり)を「一切経蔵別当」、近士・壬生雄成(みぶのおなり)を「雑文書別当」に任じ、後事を託さんとする。

 

629

泰範は「破戒悪行し、徒に清浄衆を穢」したので身を引く旨の、「暇を請う」書を最澄に送る。

最澄は泰範に「住持の法は蹔(しばら)く闍梨(泰範)に於()る」と慰留の書を送る。

⇒泰範は最澄の「山寺之惣別当兼文書司」との任命を受け入れず、また比叡山寺にも帰山しなかったものか。

 

819

最澄は空海に書を送る。

文中、「但し遮那宗は天台と融通し、疏宗亦同じ」「亦一乗の旨、真言と異なることなし」と記し、「法華一乗と真言一乗は等しくなんら異なることはない」との、最澄の密教観が窺えるものとなっている。

 

9

最澄は弟子・光定と共に摂津・住吉大神に参詣、一万燈を供し大乗を読誦する。

 

1026

最澄は空海に書を送り、「金剛頂真実大教王経」一部三巻の借覧を要請する。

 

1027

最澄は興福寺維摩会列席の後、弟子の光定と共に乙訓寺の空海を訪ね、高雄山寺での灌頂伝授を約す。

 

10月下旬

この頃、空海は高雄山寺に戻る。

 

115

最澄は近江国高島郡にいる泰範に書を送り、空海の灌頂伝授を共に受けたいと誘う。

 

117

最澄は再度、空海よりの灌頂伝授に共に入壇することを泰範に促す。

 

1115日、

空海は灌頂壇を高雄山寺に開筳

最澄は和気真綱(わけのまつな)、和気仲世(わけのなかよ)兄弟と共に高雄山寺に赴き、三濃種人を加えた四名で空海に弟子の礼を取り、金剛界の結縁灌頂を受法する。

 

1115

最澄は高雄山寺滞在中の食料調達のため、侍者を泰範のもとに派遣。

 

124

最澄は高雄山寺の智泉に薯蕷二十余根、薯蕷子二十籠を送る。添え書には智泉を「法兄」と仰ぐことを記す。

 

1214

最澄は弟子の円澄、光定、比叡山寺の僧徒、更に泰範と南都諸大寺の学匠・沙弥・近事・童子など190名余と共に、空海より胎蔵の結縁灌頂を受法する。

⇒金剛界・胎蔵の灌頂は一般的な結縁灌頂であり、最澄の望んでいた伝法灌頂ではなかったようだ。

 

1218

最澄は空海に経典711巻の貸し出しを要請する書を送る。

 

1223

最澄は灌頂後も高雄山寺の空海のもとに留まっていた泰範に書を送り、空海より「法華儀軌」を受法した後、比叡山寺へ伝授することを要望する。

 

弘仁4年(813) 47歳

118

最澄は空海に書を送る。

「修行満位僧・円澄」は久しく最澄の同法であり、深く真言道を仰ぎ、真言の修行を欲している。空海に付属するので真言を受法させて頂くことを伏して願う、旨を記す。「円澄の貢状」

また同日、高雄山寺の三綱に書を送り、高雄山寺での最澄の住房・北院の厨子を泰範に貸し与えるよう、依頼する。

 

同日

最澄は空海への書状で、「弟子最澄」が空海より経典を借覧・書写する意を「但だ最澄の意趣は御書等を写すべきのみ」と記し、「奸心を用い、盗みて御書を写し取り、慢心を発すと疑うことなかれ」「小弟子(最澄)、越三昧耶の心を発さず」と疑念なきよう求める。

 

1

最澄は高雄山寺の空海のもとに上記円澄と光定らを派遣し密教を学ばせる。後の文書「円澄等書状」(天長8[831]925)には、円澄・泰範・賢栄を派遣したことが記される。

 

2

空海は泰範・円澄・光定ら数名に「法華儀軌一尊法」の伝授を始める。

 

36

泰範・円澄・光定等19名、金剛界の結縁灌頂を空海から受法。

 

3

円澄、光定は比叡山寺に戻るも泰範は空海のもとに留まる。

⇒これについては上記のように、泰範は空海のもとに行く以前から比叡山寺と最澄から離れ分かれていたのであり、泰範は最澄や比叡山寺のもとに戻る理由、必要性はなかった、とも考えられる。

 

619

最澄は泰範に書を送り、「摩訶止観輔行伝弘決」十巻の返還を求める。「棄てられし老同法最澄」とあり、最澄と泰範の師弟関係は過去のものとなり、相当な距離感が生じていたことが窺われる。

 

91

最澄、「依憑天台集」を著す。

 

11

40歳となった空海は「中寿感興の詩並びに序」を最澄ら知己に贈る。

 

1123

最澄は空海に書を送り「文殊讃法身礼」「方円図」「注義」「釈理趣経一巻」等の借覧を願い出る。

 

1125

最澄は高雄山寺の泰範に手紙を送り、空海から贈られた「中寿感興詩」に対する和韻の詩を作るため「一百廿礼仏」「方円図」「注義」について空海より教示を受け、それを伝えるように依頼。更に入手した「法華経の梵本一巻」を来月910日頃、御覧に入れたいので都合をお聞きしたい旨を記す。「久隔帖」

 

12

最澄は「中寿感興詩」に対する和韻の詩を空海に贈る。

 

1216

空海は最澄に礼状を送る。

 

◎この年12月か(または11月か) 空海は「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答する書」を以て密教受法の厳格なることを説き、経典の貸し出しを拒絶。

 

弘仁5年(814) 48歳

14

最澄は嵯峨天皇の詔を受け、殿上にて諸僧らと天台義を論じる。

 

28

最澄は空海の督促により、借用していた「守護国界主経」一部、「虚空蔵経疏」一部四巻、「貞元目録」初帙十巻を返還。

 

◎最澄は筑紫国を巡化。千手観音像を造像、大般若経・法華経を書写、宇佐八幡の神宮寺と賀春神宮院にて法華経を講説する、と伝える。

 

弘仁6年(815) 49歳

41

空海は「諸の有縁の衆を勧めて、秘密蔵の法を写し奉るべき文」=通称「勧縁疏」を著し、弟子達を東国、西国各地に派遣して、請来した経論36巻の書写流伝、即ち秘密法門の宣布を始める。文中、顕劣密勝を論じて、密教は顕教に勝ることを強調する。

この後、会津の徳一は「真言宗未決文」(815821頃の成立と推測される)を著して、11カ条の疑問を呈する。

 

8

最澄は和気氏の要請により、大安寺塔中院で法華一乗を真実とする天台義を講説、南都学僧と論争する。

 

◎この頃、空海は「弁顕密二教論」を著す。

 

弘仁7年(816) 50歳

210

最澄は空海の督促により、借用していた経典「新華厳疏」上帙十巻、「鳥瑟渋摩法」一巻等を返還。(二回目)

 

51

最澄は高雄山寺の泰範に書を送り、「蓋し劣を捨てて勝を取るは世上の常理なり。然るに法花一乗と真言一乗と、何ぞ優劣有らんや」と、法華一乗と真言一乗とは優劣のなきことを記し、比叡山寺への帰山を促す。

 

◎泰範ではなく空海が返書を認め、「顕密・権実の相違」を記し、「所以に真言の醍醐に耽執(たんしゅう)して、未だ随他の薬を瞰嘗(たんしょう)するに遑(いとま)あらず。」と泰範は密教の修行に専念することを伝える。以降、最澄と空海の書状のやり取りは減っていく。

 

619

空海は嵯峨天皇に上表文を提出し、「上は国家の奉為に、下は諸の修行者の為に、荒藪を芟()り夷(たいら)げて、聊(いささ)か修禅の一院を建立せん」と、高野山の下賜を奏請(そうせい)する。

 

78

嵯峨天皇は紀伊国司宛てに太政官符を下し、高野山を空海に下賜。

 

◎この年、最澄は「依憑天台集」に序文を加えて「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯(みん)ず」と、面授を重んじる真言授受法を批判する。

 

◎最澄は円澄、円仁らを伴い東国を巡化する。

 

◎法相宗・徳一は「仏性抄」を著して最澄の法華一乗の天台義を批判。

最澄と法相宗・徳一との論争始まる。三乗一乗論争(三一論争)・三一権実論争・仏性論争。弘仁12(821)まで続く。徳一は「仏性抄」に続いて「法華要略」「中辺義鏡」「庶異見章」「慧日羽足」「中辺義鏡残」等を著し、最澄は「法華去惑」「守護国界抄」「決権実論」「法華秀句」「再生敗種義」等を著す。

 

弘仁8年(817) 51歳

2

東国巡化中の最澄は徳一の批判に対し、「照権実鏡」一巻を著して反論。

 

36

最澄は下野・大慈寺の遮那仏前にて、円仁と徳円に金剛宝戒を授け、三種悉地の法を伝授。

 

515

最澄は上野・浄土院にて、円澄・広智らに三部三昧耶の灌頂を伝授する。

 

弘仁9年(818) 52歳

513

最澄、「天台法華宗年分学生式」(六条式)を朝廷に上奏。

・天台法華宗の年分学生は比叡山寺で独自に得度。「梵網経」所説の大乗菩薩戒を授け、大僧として太政官が公認する。

・遮那業と止観業の学生に十二年間の籠山を定め、比叡山寺独自の仏教学習を行い、終了後は国家の官符により修了者を伝法、諸国の講師として任用する。

 

8月末

最澄、「勧奨天台宗年分学生式」(八条式)を朝廷に上奏。

・天台法華宗の得度者は、戸籍を治部省玄蕃寮に移行しない。

⇒南都僧綱による監督下からの離脱を図る。

 

1110

最澄、空海と共に唐に渡った大使・藤原葛野麻呂死去。

 

11月中旬

空海は近事・賢聡らと共に高野山に入る。

 

弘仁10年(819) 53歳

高野山の空海と一門は壇場の結界を行い、七日七夜の作壇法を修法して伽藍の建立を始める。

 

315

最澄、「天台法華宗年分度者回小向大式」(四条式)を朝廷に上奏。

(東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺の「天下三戒壇」で授けられていた戒は「四分律」であり、部派仏教の一つ法蔵部の律に基づいていた。)これは小乗律であり、天台法華宗の年分学生並びに他の宗派より比叡山寺に来たって大乗を志向する者には小乗戒は受けさせず、大乗戒を授けて大僧とする。

⇒六条式・八条式・四条式の三つを合わせて「山家学生式」と称される。

⇒最澄は「山家学生式」によって大乗戒壇の建立、南都僧綱の統制から離れた独自宗派の勅許を求める。

 

519

嵯峨天皇の諮問を受けた大僧都・護命を始めとする南都僧綱は、「大日本六統表」を上奏して反対意見を表明。

 

◎この頃、空海は「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」(三部書)を撰述する。更に「秘密曼荼羅教付法伝(広付法伝)」の著述も始める。

 

弘仁11年(820) 54歳

◎最澄は「顕戒論」三巻を著して南都僧綱に反論する。

 

5

空海は弘仁年間(810823)に詩文創作の理論書「文鏡秘府論」六巻を編纂し、この月には、その縮約版となる「文筆眼心抄」を著す。

日本最古の漢字字書「篆隷万象名義(てんれいばんしょうみょうぎ)630巻も空海の編著で、成立年代は天長7(830)以降と推測される。

 

弘仁12年(821) 55歳

527

讃岐国・国司は、空海を満濃池修築の別当に任じるよう、朝廷に上申する。これにより空海は同地に三箇月滞在し、工事を監督・指導する。

 

97

空海が4月に修復を依頼した唐請来の胎蔵界曼荼羅・金剛界曼荼羅、諸尊の図像、祖師御影等が完成し、香華を設けて供養を行う。

 

◎この頃、空海は「真言付法伝(略付法伝)」を著す。

 

弘仁13年(822) 56歳

211

東大寺に「国家の為に灌頂道場を建立し」、空海が修法することを命じる太政官符が下される。

 

214

最澄の伝燈法師位について、弟子・光定は右大臣・藤原冬嗣に僧綱への働きかけを願う。冬嗣の尽力により伝燈法師位が最澄に授与される。

 

415

最澄の病は重くなり、後事の全てを義真に託す。

 

 

64

最澄、比叡山寺・中道院にて遷化。

63日、嵯峨天皇は最澄の大乗戒壇設立の上申を允許しており、弟子・光定により綸旨は病床の最澄に報告されていた、と考えられる。一週間後、大乗戒壇設立の太政官符が下される。

 

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