曼荼羅本尊と釈迦仏像本尊並列が日蓮の本意?

 

日蓮系教団の友人からの指摘です。

 

日蓮聖人は「曼荼羅本尊の意義」について、弘安元年(1278)9月に「浄顕房日仲」に宛てた「本尊問答抄」に、

「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし

中略

此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦多宝十方の諸仏の御本尊法華経の行者の正意なり。問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり

中略

此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず、漢土の天台日本の伝教ほぼしろしめしていささかひろめさせ給はず当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候へ」

と御教示されました。

 

この指南の限りでは「法華経の題目を以て本尊」ですから、明らかに南無妙法蓮華経の首題が書かれた十界の曼荼羅を本尊とされています。

 

  ところが、同年同月の身延の草庵では「法華経と釈尊像本尊」を安置しているのです。

 

上野殿御返事(弘安元年9)

かかるところにこのしほ()を一駄給びて候御志大地よりもあつく虚空よりもひろし、予が言は力及ぶべからず、ただ法華経と釈迦仏とにゆづりまいらせ候、事多しと申せども紙上にはつくしがたし

 

御供養を捧げられた上野殿の志は「法華経と釈迦仏とにゆづりまいらせ候」ですから、御宝前には法華経と並び、釈尊像が本尊であったことが読み解けます。

 

  一方、弘安2(1279)5月の「新池殿御消息」では「一乗妙法蓮華経の御宝前」とあって、南無妙法蓮華経の曼荼羅を本尊とされていたことが確認できます。

 

新池殿御消息(弘安2[1279]5)

八木三石送り給い候、今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ

 

  弘安3(1280)38日の「上野殿御返事」には「御仏に供しまいらせて」との表現があり、御仏=釈尊ですから、釈尊像の奉安がうかがわれます。

 

上野殿御返事 (弘安338)

故上野殿御忌日の僧料米一たはらたしかに給び候い畢んぬ、御仏に供しまいらせて自我偈一巻よみまいらせ候べし

 

このように「弘安33月」にも「釈尊像を本尊」とされていたことが、その記述から伺われます。聖人は伊豆期以来、「海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる」(船守弥三郎許御書)の随身仏を終生離されずに所持されていることから、随身仏が奉安されていたものと拝察されます。ちなみに、流刑地の佐渡の塚原でも「我が根本より持ちまいらせて候教主釈尊を立てまいらせ」(妙法比丘尼御返事)と拝まれていました。

 

聖人は弘長元年(1261)5月に伊豆へ配流となって以降、現地で刻まれた釈尊像を奉安して拝され、それは鎌倉、佐渡、身延でと御入滅まで続けられているのです。

 

文永8年秋より曼荼羅を御図顕といえども、あたかも車の両輪のごとくに釈尊像と妙法曼荼羅は共に本尊として在ったのであり、どちらかを御教示された文証を以てそれが聖人の真意ということではなく、教導される弟子檀越の信仰を重んじながら一方を詳説されたと理解すべきです。

「本尊問答抄」もその範疇というべきでしょう。ですから、聖人が本尊として拝されたのは釈尊像と曼荼羅であった、ただこれだけの史実を認めればよいのであり、後代の門下も聖人がそのお姿と教導で示された釈尊像と曼荼羅を本尊として帰命するところに聖人のお創りになった「法華経信仰」があるというべきなのです。

 

・・・以上、友人の指摘・・・

 

まず、提示された御書を確認してみましょう。

上野殿御返事(弘安元年9)の「法華経と釈迦仏とにゆづりまいらせ候」

上野殿御返事 (弘安338)の「御仏に供しまいらせて」

共に供養とその志を讃嘆されて、法華経・釈迦仏・御仏に捧げる、お伝えすることを言われていますが、この場合の釈迦仏・御仏に関しては「信仰観念世界の教主釈尊」とも読み解ける表現であり、「かたちとして顕された釈尊像」と直ちに断定はできないと考えます。

 

釈尊像と曼荼羅ですが、伊豆期以降の釈尊像(立像釈迦仏)は終生所持、即ち奉安されていたと推測されます。では、その釈尊像と曼荼羅の関係、その位置付けはいかに?ということに関しては、日蓮一代の化導を俯瞰することにより「見えてくる」「理解される」ものがあるのではないかと思います。

 

日蓮の一代で特にターニングポイントとなったのが「文永8(1271)の法難」で、竜口の首の座という死地を脱することにより日蓮の内面世界は変化しており、それは『曼荼羅』という「かたち」となって顕れ、独自の法華経信仰世界が創出されることになります。

 

この曼荼羅については「観心本尊抄」(文永10425)で「其の本尊の為体」「是くの如き本尊は」と「本尊」として位置付けており、法華経虚空会の相を再現・相貌とした独自の曼荼羅が本尊として明示されることになりました。そのことは後の万年救護本尊(文永1112)讃文にも、「大本尊」と記されるところでもあります。

 

しかしながら、当時の仏教信仰では根本尊崇の当体(本尊)は仏像であり、日蓮一門も拝していたものでもあります。「ありがたい仏さま(尊い仏像)を拝んで諸願成就を期する」という人々が一般的な中で紙本の曼荼羅を本尊としたからには、それを拝することによる宗教的安心感、充足感を与えるような教理的意義付けを曼荼羅に付与しなければなりません。その表出形態が「仏滅後二千二百二十余年之間 一閻浮提之内未曾有大曼荼羅」という「仏滅後に未だかつてなき未曾有の大曼荼羅である」との讃文と、御書の随所に見られる曼荼羅本尊に関する説示となったのではないでしょうか。

 

「法華経の行者」(御書の随所)

 

「一閻浮提第一の聖人」(聖人知三世事)

 

「此の国に大聖人有り」(法蓮抄)

 

「日本の柱」(開目抄)

 

「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし主君ぞかし明師ぞかし[主師親](一谷入道御書)

との自覚を横溢させ、末法万年の一切衆生を救済する曼荼羅を本尊として顕す日蓮であれば、その法華経解釈、本尊の意義付け等の教理展開も自在にして縦横無尽でもありますが、このような「日蓮の意とするところ」を門下が直ちに理解できるか否かは微妙なところでしょう。

 

故に「観心本尊抄」の「送状」(文永10426)に、

「此の事日蓮当身の大事なり。之を秘して無二の志を見ば之を開拓せらるべきか。此の書は難多く答へ少なし、未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか。設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べて之を読むこと勿(なか)れ。仏滅後二千二百二十余年、未だ此の書の心有らず、国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す」

と曼荼羅本尊の意義を「日蓮当身の大事」として、慎重な扱いを期す教戒をしたのではないかと思うのです。

 

妙法曼荼羅図顕以降に一門の法華勧奨により日蓮法華の信仰世界に入った者、新たに登場した曼荼羅を拝する従来からの弟子檀越にとっても、日蓮独創の本尊を拝するということは『以前の仏から別の仏を拝するという信仰上の意味合い』を帯びるものでもあります。

 

即ち新参者は「爾前権教の仏から実教たる法華経の仏に向かい妙法を唱える』

従来の門下には『法華経の仏(仏像)が新たな仏のすがた=曼荼羅(紙本)となる』

というものであり、このような新旧の門下側・一般的な仏身観の側に立ち考慮した時(機根を踏まえた時)、日蓮は『曼荼羅本尊に教主釈尊なき末法万年の教主釈尊』という教理的意義を含意させ、対機の上から「曼荼羅を本門の教主釈尊、仏像」等と言い換えることもしたのではないでしょうか。

 

それは意識してのことであったと考えますが、もしかしたら自然と書き記したものかもしれません。または文書としては残らなかった師匠と弟子の間の口頭での了解、共通認識があったものでしょうか。

 

故に「報恩抄」では「本門の教主釈尊(曼荼羅)を本尊とすべし」との表現となり、「観心本尊抄」の「未だ寿量の仏(曼荼羅)有さず、末法に来入して始めて此の仏像(曼荼羅)出現せしむ可きか」「本門寿量品の本尊(曼荼羅)並びに四大菩薩をば三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由」という記述になったのではないかと考えるのです。

 

仏師が精魂傾けて彫像した仏菩薩像から一見、劣るかのような「紙本を本尊」とするからには、「慈愛に満ちた尊容」「迫力みなぎる姿」を上回るような意義を付与する、即ち「曼荼羅即教主・仏」として門下の信仰を促すのも至極当然のことであったでしょう。

 

日蓮が曼荼羅を本尊とした所以については、当時の日蓮一門の社会的階層・財力からすれば資金力を要する彫像の必要なく、自らにより直ちに顕せ、かついずこにでも携帯し各所で拝せる曼荼羅こそが、「一閻浮提広宣流布・立正安国」を大願とする我が一門に相応しいとの判断があったのではないでしょうか。

 

以上のことは『報恩抄の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」について』とも重複しますので、あわせてそちらもご覧ください。

 

 

文永後半以降の日蓮の本尊観は曼荼羅を主とするものであった。しかし、

・当時の「像法残機」の門下の機根を踏まえて (随他施化)

・他の仏菩薩や神を崇拝する日本国の衆生を久遠の仏に誘引される為 (次第誘引)

以上の観点から、日蓮は釈尊像も安置して法華経に還り受持すべきことを促し、かつ門下が造像した時にも包容讃嘆されたと考えるのです。また、妙法蓮華経の題目の流布を優先され、妙法曼荼羅の意義の周知と本格的な流布は後代に託された、ともいえるのではないでしょうか。

 

 

※上記は、釈尊像と曼荼羅との関係、「報恩抄」と「観心本尊抄」の記述を読み解くことを主として進めてまいりました。

故に文中には、

「新旧の門下側・一般的な仏身観の側に立ち考慮した時(機根を踏まえた時)、日蓮は『曼荼羅本尊に教主釈尊なき末法万年の教主釈尊』という教理的意義を含意させ、対機の上から「曼荼羅を本門の教主釈尊、仏像」等と言い換えることもしたのではないでしょうか」

と書きましたが、これはあくまでも日蓮在世の「新旧の門下側・一般的な仏身観の側に立ち考慮した時(機根を踏まえた時)」を前提とした「曼荼羅本尊に教主釈尊なき末法万年の教主釈尊という教理的意義を含意」であって、では、曼荼羅に関しての日蓮の真意はどこにあったのかということは、また別問題というべきでしょう。

 

ここで結論だけを記せば、それは「曼荼羅即日蓮というものではなかったか」と考えています。中央首題の妙法と日蓮が一体となったあの人と法が、それを示しているのではないでしょうか。

 

そもそも論として、日蓮が妙法曼荼羅を顕すこと自体が、南無妙法蓮華経と自らの名を万人に拝させることになるのですから、「末法の教主意識」の顕れであり、しかも自らの本尊を「一閻浮提第一の本尊」と宣言するのです。釈尊像ではなく、自身が図顕した曼荼羅を一閻浮提第一の本尊とした「その意」というものを、さらに考えてまいりたいと思います。

 

2022.12.31