日蓮滅後の身延山に関する一考

1 御所持佛教事

(1)池上から身延山へ

 

弘安5(1282)1013日辰の刻、日蓮は武州・池上宗仲邸にて亡くなり、翌14日戌の刻に入棺、子の刻に火葬されました。日蓮の遺骨を奉持した弟子達は身延山へと向かいます。

 

弘安61月下旬、門弟一同によって百箇日忌法要が営まれたようです。この時、一弟子六人のうち、身延山にいたのは日昭、日朗、日興、日持の四名であり、日向、日頂は不在でしたが「墓所可守番帳事=墓番帳」が作成されています。「墓番帳」はおそらく日蓮百箇日前後に作られたもので、内容は一弟子六人を中心として、その弟子らにより日蓮の墓所の寺(後に見るようにそれは身延山の寺を意味すると考えられます)を一カ月ずつ輪番で守ることを約したものになっています。

 

 

「宗祖御遷化記録」 御所持佛教事、墓所可守番帳事=墓番帳

(日興筆正本・西山本門寺蔵)

 

日昭  日朗  日興  他行 他行 日時   ( 第四紙継目 )

花押  花押  花押          花押

 

一  御所持佛教事

御遺言云

佛者 釈迦立像 墓所傍可立置云々

経者 私集最要文名註法花経

同篭置墓所寺六人香花当番時

可被見之 自余聖教者非沙汰之限云々

仍任御遺言所記如件

弘安五年十月十六日 執筆日興  花押

 

弁闍梨  大闍梨  白蓮闍梨  他行   他行  蓮花闍梨 ( 第五紙継目 )

 花押   花押    花押   佐土公  伊予公    花押

 

定         次第不同

墓所可守番帳事

正月  弁阿闍梨

二月  大国阿闍梨

三月  越前公 

淡路公

四月  伊与公

五月  蓮花闍梨

六月  越後公 

下野公

七月  伊賀公

筑前公

八月  和泉公 

治部公

九月  白蓮阿闍梨

十月  但馬公 

卿公

十一月 佐土公

十二月 丹波公 

寂日房

右守番帳次第無懈怠可令勤仕之状如件

 

弘安六年正月 日

 

(2) 日蓮遷化記録としての三つの文書

 

池上本門寺には身延山久遠寺の輪番を定めた「身延山久遠寺番帳事」があります。池上本を偽筆とする説に対し、「日蓮教団全史・上」(立正大学日蓮教学研究所編 1964年 平楽寺書店)では、「池上本は草案、西山本は改訂された正本」(趣意P57)としています。

今回は、池上本の真偽論は横に置いて西山本を基に考えていきますが、日蓮の「遷化記録」としての三つの文書の概要を確認しておきましょう。

 

 

◇西山本門寺本

日興筆(白蓮阿闍梨)   五紙(継紙)巻子   一巻  国重要文化財

記録⇒日蓮略伝あり、本弟子定置あり、葬送記録あり、遺物配分あり、墓所番帳あり

 

◇池上本門寺本

日興筆?(白蓮阿闍梨)   二紙(折紙)軸装  二軸  東京都重宝

記録⇒日蓮略伝なし、本弟子定置なし、葬送記録なし、遺物配分あり(前半分欠)、身延山番帳あり

 

◇池田本覚寺本

日位?(治部公日位)   八丁(綴帖装)冊子 一帖  静岡県指定文化財

記録⇒日蓮略伝なし、本弟子定置なし、葬送記録あり、遺物配分あり、墓所または身延山番帳なし

 

 

他には日向所持の「遷化記録」が存在したようで、本間裕史氏は「『日蓮聖人御遷化記録』考」(「浅井圓道先生古稀記念論文集 日蓮教学の諸問題」収載 1997年 平楽寺書店)と題する論文で、以下のように指摘されています。

 

「ちなみに、日向所持分の御遷化記録が身延山にも残っていたようである。身延山久遠寺第二十一世寂照院日乾が、慶長八年(1603)十月十五日付で記された『身延山久遠寺御霊宝記録』、いわゆる『乾師目録』には、

御葬礼次第等折紙二紙 裏ニ昭朗興持ノ四人ノ御判有之

とある。」(同書P224)

 

中尾堯氏は「『日蓮聖人御遷化記録』の書誌的研究」(「宗教社会史研究Ⅲ」収載 2005年 立正大学史学会 )と題する論文で、西山本門寺本、池上本門寺本は日興筆、池田本覚寺本はその保存状態より考察した結果、「日位の筆写本ではなく、日蓮の本弟子日持が、葬送儀礼の現場で記した筆記本である」(同書P28)とされています。

 

本間裕史氏は「『日蓮聖人御遷化記録』考」で、西山本門寺本は日興筆、池上本門寺本は検討の結果「日興の自筆とはとうてい言い難いと言わざるを得ない」(P230)とし、池田本覚寺本は文中にある「身延山久遠寺」「本門寺」について、当時、身延山久遠寺、本門寺と呼称される寺院の建立、実態がなかったことから、「日興の認めた御遷化記録よりも後年になって、日位が備忘録として残したものであろう」(同書P227)と指摘されています。

 

 

2 日蓮の随身仏・釈迦立像はどこに置かれたのか?

 

「御所持佛教事」の「仏は 釈迦立像 墓所の傍に立て置く可し云々」について、日蓮系教団の一部からは「『墓所の傍』なのだから、墓地の傍らに釈迦立像を置くのが日蓮の遺志である。ここに、日蓮滅後の釈尊一体仏は無益である、という日蓮の意も読み取れるのである」との解釈がされています。

筆者の信仰としては、「釈尊一体仏は日蓮滅後には無益である」については同意なのですが、ここでは文中の「仏は釈迦立像=釈尊像」の安置の態様に焦点を当てて、以下、確認していきましょう。

 

 

(1)墓所=墓所の寺

 

一 御所持仏教の事

(日蓮の)御遺言に云く。

仏は 釈迦立像 墓所の傍に立て置く可し云々。

経は 私集最要文註法花経と名づく 

同じく墓所の寺に篭()め置き六人香花当番の時之を被見す可し 

自余の聖教は沙汰之限りに非ず云々 

仍て御遺言に任せ記す所件の如し。

 

 

日蓮の遺言では、釈迦随身仏は墓所の傍らに立て置くとしています。註法華経については(随身仏と)同じく墓所の寺に篭め置くとされています。紙製の註法華経を置くのですから、「墓所の寺」には「堂舎等の建物内」との意も含まれていると理解できるでしょう。

 

文面の解釈について「日蓮教団全史・上」(1964年 立正大学日蓮教学研究所編 平楽寺書店)では、「従って、前条の仏像が『墓所の傍』に安置され、註法華経が『同じく墓所の寺に篭め置か』れるというのは墓所の傍に寺が作られることになっていたことが当然予想される。この寺はいわゆる塔頭(たっちゅう)といわれるものである。弟子が師匠の遺徳をしのぶため、塔(墓所)の近くに房をかまえて住する所を塔頭というといい・・・・」(P54)と、塔(墓所)の近くに寺・塔頭が作られるとして「この寺、塔頭に立像仏が本尊として安置され、註法華経がおかれ、輪番諸師乃至器許の人々が披読することができたのである。」(同書P54)と説明しています。

 

筆者としては「仏は 釈迦立像 墓所の傍に立て置く可し」の「墓所」と、「経は 私集最要文註法花経と名づく 同じく墓所の寺に篭め置き」の「墓所の寺」とは、「同じく」により同じ所を意味する、即ち「墓所=墓所の寺」と考えています。「御所持仏教の事」を「ABに置くべし、Cは同じくDに置くべし」と書き換えてみたらどうでしょう。この場合BDという「表現の異なり」はあるものの、「同じく」によりBDはその「意味するところについては同じ」となる、「BDは同所」ということになるのではないでしょうか。

 

註法華経を置く所は、前文に続いて「同じく墓所の寺」ですから、前の「仏は 釈迦立像 墓所の傍に立て置く可し」の「墓所」とは後文と同じ「墓所の寺」であり、「寺」を略したもの、と解釈されるのではないでしょうか。「傍」とあるのは、釈迦随身仏が「墓所の寺」のいずれかの堂舎に立て置かれるべきものである(それは日蓮教団全史の解説する塔頭が濃厚ですが)、との日蓮の謙譲の意を表していると考えます。

 

文永8年の法難以降、日蓮の内面世界は激的な変化を遂げ、それまで存在しなかった南無妙法蓮華経の曼荼羅本尊を顕し「大本尊」として帰命礼拝の対象を創り上げ、その教導も「開目抄」「観心本尊抄」を始めとする法門書や書簡に見られるように「教え主」的なもの、即ち「末法の教主意識」がうかがわれるものとなりました。一方では、爾前権教への信仰、執着から法華経信仰に目覚めた弟子檀越に対しては、教主釈尊の出世の本懐と位置付ける法華経に立ち還った信仰初門の機を踏まえて、教主釈尊(それは久遠実成の釈尊・久遠仏)と位置付けての説示、釈尊(久遠仏)との師弟を教導するものが多くあります。「末法の衆生は爾前権教ではなく法華経信仰に立ち還らねば成仏は叶わない」との教示の信仰的象徴が、日蓮の傍らに置かれていた (久遠仏としての) 釈迦随身仏ではなかったかと考えるのです。

 

日蓮は伊豆配流以降、随身仏と呼ばれるように釈尊像を終生所持しています。日蓮の書簡における「国主・父母・明師たる釈迦仏」(P993 一谷入道御書 真蹟断片)等の釈尊(久遠仏)尊信の文を踏まえて考えれば、随身仏は釈尊(久遠仏)にお仕え申し上げる弟子としての範を示すものであり、更に「釈迦仏の御使ひ」(P996 同書)とあるように自身は教主釈尊(久遠仏)の使いたることを姿で示すものでもあったことでしょう。

 

そのような随身仏(久遠仏)を、自身の臨終に当たって墓地そのものの横に立て置け、即ち「野ざらしにせよ」などということは考えられないというべきでしょう。故に釈迦随身仏は墓地そのものではなく、墓所の寺に「立て置く」ことを遺言したのではないでしょうか。

 

 

(2)原殿御返事

 

ここで視点を変えて、日興の著「原殿御返事」に注目してみましょう。

 

日蓮聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御徴力以ての形の如く造立奉り思召立候を、御用途も候はず、大国阿闍梨奪い取り奉り候仏の代りに其程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給て固く其の旨を御存知候を、日興が申様は責て故聖人安置の仏にて候はゞさも候なん。それも其の仏は上行等の脇士もなく、始成の仏にて候き。その上其れは大国阿闍梨の取り奉り候ぬ。なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき。御力契給せず御子孫の御中に作らせ給仁出来し給ふまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。

 

 

日興の記述について、順を追って確認します。

 

(日蓮の遺言により釈迦立像・第一転の仏は「墓所の傍に立て置」かれた)

・大国阿闍梨=日朗は「墓所の傍に立て置く可し」とされた釈迦立像を持ち去ります。

日興は「大国阿闍梨奪い取り奉り候」と記すも、それは日興の認識であり、真実はどこにあるのか?については別問題だと思います。

 

・波木井氏は「御用途も候はず」財力がないにも関わらず、「大国阿闍梨奪い取り奉り候仏の代りに其程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給て」と、日朗が所持するところとなった釈迦立像の替わりに、それと同じような一体仏・第二転の仏の造立を申し出てきました。

 

・日興の考えとしては「其の仏は上行等の脇士もなく、始成の仏にて候き」と、日蓮が安置した仏(随身仏)ならばよいと思われるかもしれないが、その仏は上行菩薩を始めとした四菩薩の脇士がない一体仏であり始成の仏となる(久遠仏ではない)のである。しかもその仏は日朗が持ち去っており、どうして第二転の始成無常の仏を欲しく思うことがあるだろうか、とします。

 

・続けて「御力契給せず御子孫の御中に作らせ給仁出来し給ふまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。」と、一尊四士の造立は経費がかかることなので、子孫が財力をつけるようになるまでは日蓮の文字曼荼羅を安置するべきである、と教示しています。

 

・即ち、日興は「一体仏は不可」「一尊四士ならば造立可」とするのです。しかし「一尊四士は将来、財力ある子孫が出るまで待つべきであり、それまでは日蓮文字曼荼羅(紙本)を安置しなさい」としているのであり、一尊四士や紙本の曼荼羅が風雨に晒される「墓地そのものの傍」に置かれるということは考えづらいものがある、といえるでしょう。

これにより、「墓所の傍」とは堂舎等の建物内であることが推定されるのではないでしょうか。

 

繰り返しますが、日興は「日朗が持っていった釈迦立像の替わりに釈迦仏を造立するのなら、四菩薩を添えた一尊四士(久遠実成の釈尊)を造るべきである。しかし、経費のかかることなので、将来、子孫が財力をつける等、経済環境が整うまでは日蓮曼荼羅を安置するように」(趣意)と教示するのです。釈迦立像の替わりに日蓮曼荼羅の奉安を勧め、一尊四士造立は財力が備わるまで待つべき、としているのです。

 

この日興の説示により、日蓮随身仏たる釈迦立像が置かれた場所はどのような所であったのかがうかがえるのではないでしょうか。それは、堂舎など建物内の、本尊を奉安する所を示しているといえるでしょう。日蓮の随身仏・釈迦立像は日蓮亡き後、身延山の寺の建物内に奉安されていたことを、日興の記述から読み取れるのではないでしょうか。

 

 

3 墓所の寺とは身延山の寺を意味するのではないか

 

日蓮遺言にある「六人」が「香花当番」する墓所輪番とは、身延山の寺の一角にある墓地の輪番ではなく「墓所の寺」、即ち「身延山の寺」の輪番を意味しているのではないでしょうか。

 

 

(1)六老僧は日蓮の「本弟子=一弟子」であり、墓所の寺=身延山の寺を一弟子が月番で守ることはごく普通なことではないか

 

宗祖御遷化記録 (日興筆正本・西山本門寺蔵)

~前略~

一 弘安五年 壬午 九月十八日 武州池上に入御 地頭 衛門太夫宗仲

同十月八日 本弟子六人被定置 此状六人面々可帯云々 日興一筆也

一弟子六人事 不次第

 蓮花阿闍梨 日持 

    日頂 

 佐士公   日向

一 白蓮阿闍梨 日興

 大國阿闍梨 日朗

 弁阿闍梨  日昭

右六人者本弟子也 仍為向後所定如件

弘安五年十月八日

~後略~

 

「宗祖御遷化記録」にあるように、日蓮は弘安5年同108日に「蓮華阿闍梨日持公日頂佐士公日向白蓮阿闍梨日興、 大国阿闍梨日朗、弁阿闍梨日昭」の六名を「本弟子」「一弟子」としています。即ち「唯授一人血脈相承」の言葉に示されるような、特定の人物にのみ秘法を授ける、付属をするという継承法ではなくして本弟子六人を定め、その六人を「一弟子」としているのです。このことは、自身滅後の日蓮法華教団運営はこれら一弟子六人を中心として行い、六人和合して令法久住、広宣流布を期すべきことを明示した、と理解できることでしょう。

 

日蓮は最後臨終の時に当たり、本弟子=一弟子六人を定置したことの意味、本弟子六人による日蓮法華教団の在り方などを、病床を訪れた直弟子達に種々指南したことでしょう。そして「此状六人面々可帯云々」とあるように一弟子・本弟子を定め置いた書状を六人それぞれが所持し、日蓮の遺志というものを共有したのです。

 

このような経緯を踏まえて日興の「佐渡国法花講衆御返事」(元亨3[1323]622日、日蓮滅後42)の下記の記述を見ると、「勝手に日蓮聖人の直弟子と名乗ることを誡める」ことが主眼とはなっていますが、本弟子六人定置の意味の一端がうかがえると思います。更に「その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりといはせんずるためにて候」に、本弟子六人を導師とした弟子檀越の共存、共栄を思い描く日蓮の遺志も読み取れ、そのような師匠の遺志が六門徒に共有されていたこともうかがわれるのではないでしょうか。

 

 

本文

うちこしうちこし直の御弟子と申やからが、聖人の御ときも候しあひだ、本弟子六人をさだめおかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりといはせんずるためにて候。案のごとく聖人の御後も、すゑの弟子どもが、これは聖人の直の御弟子と申やからおほく候。これが大謗法にて候也。

 

意訳

ものごとの順序を越えて、自分は日蓮聖人の直弟子だと名乗る輩が、日蓮聖人在世にもいました。そのため本弟子六人を定めて六老僧としたのです。その本弟子が教化した弟子は、その本弟子の弟子分に属すると明確にするためです。案じた通り、日蓮聖人の滅後に末席にいた弟子たちが勝手に「私は日蓮聖人の直弟子である」と名乗ることが多くありました。これは師弟の道を逸脱する大謗法の振る舞いといわねばなりません。

 

 

日蓮の遺志としての「本弟子」「一弟子」六人であり、それは「不次第」なのです。そこには「一門結束すべし」との意も込められていると思え、同時に一弟子それぞれの門徒は共存共栄であるべきですから、特定の人物を身延山の寺の別当職とするよりも、日蓮が等しく「本弟子=一弟子」六人とその弟子(孫弟子)による身延山の寺の輪番を期したとしても、それはごく自然なことといえるのではないでしょうか。

 

師たる日蓮にしてみれば、皆が手塩にかけて育てた弟子であり、自らの法難の合間に叱咤激励、教導を重ねたことでしょう。日蓮が身延山で過ごした8年と5カ月、その間、最大の脅威ともいえる幕府権力と同じ都市・鎌倉にあって一門を守り、教線を維持したのが日昭、日朗などです。富士方面で果敢なる弘法を展開し、多くの帰依者を得て、熱原の法難で東奔西走したのが日興。上総、房総方面では日向が布教、駿河には日持、下総には日頂の両名です。

 

これら六名が中核となって日蓮法華教団を守り、拡大し、更なる発展を成すことを日蓮は期待したことでしょう。六人全員を「一弟子」としたことに、そのような意が読み取れるのです。

 

日蓮は、自身亡き後の弟子達の多忙は予想していたものの、その合間を縫って愛弟子六人が交替で自己の墓所の寺=身延山の寺の守護輪番を成すことは、師としての喜びでもあったと思うのです。

 

 

(2)日蓮滅後は六人それぞれの教線が主舞台であり、身延山の寺は二次的なものだったのではないか

 

更に、日蓮滅後に予想される対外的対応という観点からも考えなければならないと思います。六人それぞれの教線は鎌倉、上総、下総、駿河、甲斐方面等にあったのであり、これら地域の一門の維持運営を考えれば、特定の人物を、それぞれの教線から遠い墓所の寺=身延山の寺に常住させるなどは実務的ではありません。ましてや、日蓮亡き後様々な圧迫が予想されるであろう中での対外的な対応、これも困難の度を更に増すと思われる法華伝道上からすれば、六人の誰人かを身延山という山寺に常住させるなどは大変な戦力減退となり、現場での中心者の不在はその地域での日蓮法華教団の存亡に係わる事態となったことでしょう。

 

当然、滅後のことを慮っての本弟子六人定置であれば、これらのことは日蓮の思考の範疇であったでしょうし、日興・日持を除く主要門弟の攻防戦の主舞台は身延より遠い所にある以上、「身延山は墓所の寺として月番で維持管理していく体制でよろしい」との認識だったのではないでしょうか。即ち、本弟子中の特定の人物が身延山に常住することは、日蓮の本意ではなかったと考えるのです。

 

「一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布」(P818 「法華取要抄」真蹟)こそが日蓮の期すところですから、それを実行する現場は六弟子有縁の地、教線になります。その地域の導師として陣頭指揮を執るための本弟子であり、その為の六人の選定ですから、その内の一人を自身の墓所の寺=身延山の寺に常住させる、いわば閉じ込めておくなどは日蓮の思考にはなかったと思うのです。

 

 

(3)臨終近くの日蓮による身延山の位置付けと滅後の弟子の意識

 

日蓮と本弟子にとっての、身延山の寺の位置付けという観点も考慮したいと思います。

 

弘安5919日に波木井実長に報じた「波木井殿御報」(日興代筆本身延曽存)には「さりながらも日本国にそこばくもてあつか()うて候み()を、九年まで御きえ(帰依)候ひぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、はか()をばみのぶさわ(身延沢)にせさせ候べく候。」(P1924)とあり、「日本中どこに行っても受け入れられないであろう日蓮を、9年まで受け入れて頂いた波木井氏の信仰、志には感謝の言葉もなく、私がどこで死んだとしても、墓は身延に立ててほしい」旨を記しています。日蓮にとっては自身亡き後、身延山は伝道の拠点というよりも墓所であり、即ちそこは墓所の寺にすぎないという認識だったと思われるのです。そして、この意識を本弟子六人も共有したのではないでしょうか。

 

現実に弘安71018日、日興が房総の美作房日保に宛てた「美作房御返事」の文中では、「今年は聖人の御第三年に成らせ給ひつるに、身労なのめに候はゞ何方へも参り合ひ進らせて、御仏事をも諸共に相たしなみ進らす可く候つるに、所労と申し、又一方成らざる御事と申し、何方にも参り合せ進らせず候つる事、恐れ入り候上歎き存じ候。」と、「弘安7年は、聖人滅後の三回忌に当たるが、老僧達は何所へも参集しなかった。日興の気持ちとしては、何所であれ諸共参り合わせて御仏事を奉修したかった。日興は体の調子がおもわしくなく、また、諸事情もあって、何所へも出かけなかった」旨を記しています。

ここでは、「日蓮三回忌という大事な仏事は身延山の寺で執り行われるべきものでもなかったこと。日興の気持ちとしてはどこであれ老僧達と共に修したかったこと」が記されているのであり、この時の日蓮法華教団内における身延山の位置付け、それは精神的な位置付けとも言えるかもしれませんが、後の時代ほどの中心的存在、宗教的意味合いの高いものではなく、単に墓所の寺であったろうことがうかがえるのです。

 

このように、生前の日蓮にとっても、本弟子六人にとっても、娑婆世界での一切衆生への説法教化という法華経の本義、伝道活動の実際からすれば、身延山自体の位置付けは二次的なものだったのでしょうし、ましてや日蓮滅後の弟子達にとっては、月番を務めることによって亡き師匠を偲び師弟の絆を確認する、精神的な象徴だったと思われるのです。

 

 

4 墓所の寺=身延山の寺は日蓮滅後、二次的なものであった

 

これまで見てきたように、日蓮法華教団における身延山の位置付けは日蓮存命中と滅後では大きく異なるものがあったと考えられます。日蓮が各地の弟子檀越に書状を発し、曼荼羅を図顕・授与していた往時は法華伝道の頭脳・心臓部、法華経信仰の泉、源流とも言える地でしたが、日蓮亡き後は墓所の寺となり、日興・日持を除く本弟子四人、主要門弟の教線から遠いこともあって二次的な位置付けとなっていた。それは「妙法蓮華経の広宣流布」を願い、何よりも優先させた日蓮が意としたところでもあり、本弟子六人も共有するものであったことでしょう。

 

自身滅後の教線維持、拡大を主とし優先する考えから、日蓮の遺志として墓所の寺=身延山の寺の輪番制は定められた、具体的な当番順については本弟子六人を中心に決めるよう託されたものと思われます。故に本弟子=一弟子六人の内、身延山常住別当職を日蓮より直接任じられた者はいなかったと考えられ、一部で使用される「池上相承書・釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」というものは、後世、日蓮に仮託して富士門流で作成されたものであるといえるでしょう。

 

日蓮三回忌後の弘安71018日、日興が房総在住の美作房日保に宛てた「美作房御返事」には「何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの蹄に親たり懸らせ給ひ候事目も当てられぬ事に候」とあり、墓所輪番制はこの頃には完全に崩壊していたことを日興の筆が物語っています。これは、身延山を二次的なものとする考えが本弟子六人のみならず、更にその弟子達にも共有されていたことを意味するものでしょう。

 

しかも、「三月の越前公・淡路公」「六月の越後公・下野公」「七月の伊賀公・筑前公」「八月の和泉公・治部公」等、身延山と近接した駿河の国、甲斐の国を教線とする弟子達が二度目の輪番に登山していなかったと考えられるのです。

 

もし、日興が日蓮滅後より身延山別当として常住していたのであれば、「身延沢の御墓の荒れはて候」との事態は起こり得なかったことでしょう。

 

これについて、日興が「墓所が荒れ果てている」旨を書いたのは、輪番不参の五老僧に身延登山を促すための方便、誇張であるという説があります。しかしながら、日興から書状を託されて美作房日保のもとに向かったのは越後房日弁であり、たまたま身延より上総へ帰るところだったので書状を届けたのですが、彼は身延山の実状を実際に眼にしています。墓所の実態を見ている越後房日弁を使者に立てながら、書状には相違する内容を書き込むとは考えづらいのではないでしょうか。

 

以上、「墓所可守番帳事」は日蓮の遺志としての「身延山の寺の輪番制」を示すものと考えられるのではないでしょうか。そのことは同時に日蓮入滅直後よりの、特定の弟子の身延山常住説を否定することにもなるでしょう。

 

 

5 墓所輪番崩壊の時期は

(1)一周忌の年は一弟子皆が輪番を務めたのではないか

 

墓所の寺=身延山の寺を守ることは輪番制となったものの、それが順守されたのは一周忌の年までだったでしょうか。

 

もう一度「墓番帳」を確認してみましょう。

 

正月  弁阿闍梨

二月  大国阿闍梨

 

弘安61月は日蓮の百箇日忌であり、この頃作成された「墓番帳」に日昭は「弁闍梨・花押」日朗は「大闍梨・花押」と記しているので、両名の身延在山は明らかといえます。身延山の輪番も1月が日昭、2月が日朗なので、そのまま身延に留まればよいだけのことであり、最初の当番給仕を務めたことでしょう。「一弟子」と定められて三カ月もしないうちに、師匠の墓所寺当番を怠る、しかも取り決めの書面には「右番帳の次第を守り懈怠無く勤仕せしむ可し」と誡文が記され、自ら署名・花押をしながらその当月に破る、などは考えづらいものがあります。

 

この後の月番の弟子とその教線を見ると、

 

3月・越前公(甲斐の国)、淡路公(駿河の国)

5月・蓮花阿闍梨(日持、駿河の国)

6月・越後公(日弁、駿河の国)、下野公(日秀、駿河の国)

7月・筑前公(駿河の国)

8月・和泉公(日法、駿河の国)、治部公(日位、駿河の国)

9月・白蓮阿闍梨(日興、甲斐の国、駿河の国)

10月・卿公(日目、駿河の国)

 

となっています。これらは日興とその弟子を中心とした月番であり、彼らの法華伝道の舞台と身延山は近接していることから、初回の輪番給仕は務めたことと思われます。

 

続いての11月は「佐土公(日向)」となっていますがどうでしょう。亡き師匠の墓所の寺=身延山の寺の月番を初回から、というよりも一回も務めない、登山せず、などということがあるでしょうか。初の月番であれば、まずは怠らずその任についたと思われます。これは4月の「伊与公(日頂)」、7月の伊賀公、10月の但馬公も同じであったでしょう。

 

12月は「丹波公、寂日房」となっていますが、寂日房日華であればその教線は甲斐の国であることから、近接の身延山には登山したことでしょう。

 

 

(2)聖人御房を御堂に

 

問題は明けて弘安7年からになります。

前に記したように、弘安79月当番の日興は身延に登山して墓所が荒廃しているのを目の当たりにしそれを嘆いているので、弘安71月から8月のいずれかの時期には、月番の弟子達は身延疎遠となり輪番制は崩れていたと理解できます。

 

日興は墓所の整備を行い、師日蓮の三回忌の仏事を行います。

これについては身延山の御影堂で、三回忌が行われた記録が二つあります。

 

「開山より日順に伝はる法門」

波木井は富士へ音信有るべからずと云ふ連書の起請有り、身延山には日蓮聖人九年、其後日興上人六年御座有り、聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造させ玉ふ事も日興上人の御建立也。(富士宗学要集2P95)

 

「尊師実録」

(日尊は)弘安七年甲申・五月十二日、甲州身延山へ登山、同年十月十三日、大聖人第三回御仏事に相当たる日、始て日興上人に対面、御影堂出仕云々(日蓮宗宗学全書2P411)

 

重須・三位日順の「開山より日順に伝はる法門」によれば、日興は日蓮亡き後、身延山の聖人御房を御影堂に作り変えています。聖人御影といえば重須に移住してからの書簡に見られるように、日興は聖人御影を造立し生身の日蓮に擬して崇敬しており、それは他の本弟子以上のものがあったように思われます。その、「聖人御影信仰」の事始めともいえるでしょうか。日蓮亡き後、「御影を造させ」て、奉安するに相応しい造りに房舎を改築したものでしょう。ただし狭隘なる地でのことであり、今日のような諸寺院に見られる「御影堂」とは、その規模、趣も異なっていたのではないでしょうか。

 

「尊師実録」に弘安7年の「十月十三日、大聖人第三回御仏事」に「御影堂出仕」とあるように、御影像の造立、「聖人御房」の「御堂」への「造り」変えは、この時までには成されていたものでしょう。

 

尚、「聖人御房」の「御堂」への改築を以て「日蓮三回忌以前より、日興が久遠寺の別当として身延の地を掌握していたことが明確にうかがえるのである」とする説もありますが、記録として伝わるのは「聖人御房の御影堂への改築と御影造立」だけであり、改築作業を日興が推進したからといって、日興が身延山の寺の別当職にあったかどうかはまた別問題であるといえます。

確実な文献上では、「三回忌以前より日興が久遠寺の別当であった」との記録はありません。このような主張は、それ以外の記録、例えば「美作房御返事」にて日興は日蓮墓所の荒廃を嘆いていることなどから、否定されるのではないでしょうか。「御堂」の改築は行うが、肝心の日蓮墓所を放置していた、ということは考えられません。常住していなければこその、「美作房御返事」の記述であると考えるのです。

 

また、前に見たように、本弟子六人らによる「墓所の寺の輪番」は「身延山の寺の輪番」を意味しているものと考えられるのですから、日興常住説は現在の宗派意識に基づく主張・解説だけでは成り立たず、そこに確たる証拠というものが必要になってきます。もちろん、日興の教線は甲斐と駿河にありますから、往復の途次に身延山に立ち寄りもしたことでしょうし、「御房」の「御堂」への改築の際には尚更のことであったでしょう。

 

更には「尊師実録」の記述を以て「弘安六年に日目を師匠として出家得度した日尊が、弘安七年の五月に登山したのは、大師匠である日興が身延に常住されていたからこそ、お目通りのために登山したということである」との説もあります。

これは日尊の登山の動機の「推測」により、日興常住を「確定」しようとするものですが、同書より判明することは、「(前年に日目のもとで受法した)日尊は弘安7512日に日蓮の正墓のある身延山に登山した」そして「1013日、日蓮三回忌の仏事の日、初めて日興に会った」というだけであり、どこにも日興常住説を裏付ける直接の証拠は見当たりません。

 

日尊が弘安7512日、身延に登山した動機は日目の弟子となり仏門の修行を始めたことを日蓮墓所に報告するため、次の登山は日蓮三回忌に列席するためと考えられ、日興と初めて会ったのが1013日と記録されていることから、この記述はむしろ、日興身延不在を示し、常住説を否定するものともいえるでしょう。

 

 

(3)「大国阿闍梨奪い取り」が可ならば日朗は「師の遺品を守った」も可である

 

話をもとに戻して、弘安71月の日昭、2月の日朗の月番のことを考えてみましょう。

 

日興は五老僧方の登延を促し、弘安71018日、房総の美作房日保に書状を発しています。

この「美作房御返事」では、日興は「詮する所縦ひ地頭不法に候はゞ眤んで候ひなん。争でか御墓をば捨て進らせ候はんとこそ覚え候。師を捨つ可からずと申す法門を立て乍ら、忽に本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難も術無く覚え候」と、「師を捨ててはならないという法門を立てながら、御墓を捨てて身延から遠ざかることは、世間からも非難をあびるであろう」と、他の本弟子達が墓所を捨てて身延から遠ざかっていることを嘆き、「委細の旨は越後公に申さしめ候ひ了ぬ。若し日興等が心を兼て知し食し渡らせ給ふべからずば、其の様誓状を以て真実智者のほしく渡らせ給ひ候事越後公に申さしめ候。波木井殿も同事にをはしまし候」と、「自身と波木井氏は老僧達の不審が解けることを心から望んでおり誓状を書いてもよい」としています。

 

故にこの年1月の日昭、2月の日朗は月番に来ない、身延不参だったのかと考えるところですが、ここで気になるのが、後に日昭所持となる「註法華経」、同じく日朗所持の「釈迦随身仏」です。

果たして、これらはいつ、両名の手に渡ったのでしょうか。

 

弘安61月、2月の初めての月番の時でしょうか。

「御所持佛教事」に「御遺言云」として「佛者 釈迦立像 墓所傍可立置云々」「経者 私集最要文名註法花経 同篭置墓所寺六人香花当番時 可披見之 自余聖教者非沙汰之限云々」とあるのを誰よりも知っていて、しかも自身の手で署名をし、判形を加えながら、初回の月番の時にいきなり持ち出してしまうでしょうか。一門の重鎮たる日昭・日朗の二名が、日蓮亡き後、順に輪番登山に身延を訪れる弟子達に、師の遺品であり亡き師が偲ばれる釈迦立像と註法華経を一回も拝させない、ということをするとは思えません。

 

であれば、二回目の月番である弘安71月に「註法華経」の移動、2月に「釈迦立像」の移動ということになるのではないでしょうか。注意したいのは日朗による釈迦立像の移動を日興が「大国阿闍梨奪い取り奉り候仏」(原殿御返事)というのは一方(富士門流)で使われる表現であり、それが可ならば日朗側としては、「釈迦立像を守った」ということも可であるということです。日蓮教学に関する異見ならば、日蓮文書により判定することも可能ですが、歴史上の事項について現在の宗派間の異なる見解が存する場合、一方の主張だけを採用することは公平なる判定の阻害要因となります。特に釈迦立像の移動に関しては、その真相は明らかになることはないと思え、筆者を含めて、諸説は推論の域を出ないのではないでしょうか。

 

筆者としては日昭、日朗は二回目の月番には登山したと考えます。しかし、これ以前に波木井氏と両名の関係は、距離あるものとなっていたようです。

 

「美作房御返事」に「若し日興等が心を兼て知し食し渡らせ給ふべからずば其の様誓状を以て真実智者のほしく渡らせ給ひ候事越後公に申さしめ候、波木井殿も同事にをはしまし候」(我々、日興・波木井氏の気持ちをご存知なかったのであれば、誓状を書いてもよい。)とし、更に「さればとて老僧達の御事を愚かに思い進らせ候事は法華経も御知見候へ、地頭と申し某等と申し努々無き事に候、今も御不審免り候はゞ悦び入り候の由地頭も申され候某等も存し候、其れにもさこそ御存知わたらせ給ひ候らん」(さればとて、老僧達をおろそかにしているわけではない。私も波木井氏も、老僧達の不審が解けることを心より望んでいる。)とあるので、日昭、日朗は地頭波木井氏に不審を抱いていたことがうかがえ、弘安7年秋の頃には日昭、日朗と波木井氏は決裂状態になっていたと考えられるのです。

 

日興が「美作房御返事」に「地頭の不法ならん時は我れも住むまじき由御遺言とは承はり候へ」と記したように、日蓮の「身延の地頭に不法があるならば、我が魂はそこには住まない」との遺言は何も日興一人のみならず、本弟子六人が存知のものであったことでしょう。であれば、日昭、日朗の認識として、「謗法の地頭となった波木井氏の領する身延山には、最早、聖人の魂は住まれず」という思いがあり、師の遺物ではあるが弟子から見れば師の化身ともいえる「釈迦立像」と「註法華経」を謗法の地に置くのは師の本意に非ず、「我れも住むまじき」の遺言どおりに、他に座を写すことが師の心に叶うもの、弟子の務めとして、「釈迦立像」と「註法華経」の移動は「師の遺品を守ることになる」という思いがあったとも考えられるのです。

 

 

(4)日昭・日朗と波木井氏の不和の因は?

 

波木井氏と日昭・日朗の不和は日蓮入滅後からではなく、長期間に亘るものではないでしょうか。

 

文永10(1273)83日、佐渡の日蓮が波木井実長に報じた「波木井三郎殿御返事」(日興本 北山本門寺蔵)には、鎌倉在住の筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨より法門の教示を受けるべき旨が記されており、波木井氏は鎌倉にいたことがうかがわれます。

 

鎌倉に筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨と申す小僧等之有り。之を召して御尊び有るべし、御談義有るべし、大事の法門等粗申す。彼等は日本に未だ流布せざる大法少々之を有す。随って御学問に注し申すべきなり。(P745)

 

地頭・波木井氏は幕府の番役として鎌倉に詰めていることも長かったと考えられますので、同地で日蓮の弟子達と接することが多かったのでしょう。特に日蓮の佐渡配流以前より、鎌倉には日昭、日朗の二人が教線を張り、日蓮法華衆組織の運営、教導に当たっており、それは日蓮の佐渡配流期、身延期を通して変わらなかったようであり、波木井氏は弟子の筆頭格の両名から直接指南を受ける機会もあったことでしょう。

 

そこで、教義上の見解の相違か、感情的なもつれがあったものか。後に日興は身延山より離れることになりますが、間近にいる日蓮直弟子と折り合えず、直弟子をして波木井氏から離れさせてしまう何ものかが波木井氏にはあったのではないでしょうか。

 

前記「波木井三郎殿御返事」には爾前分々の得道有無の事之を記す可しと雖も名目を知る人に之を申す也。然りと雖も大体之を教る弟子之れ有り。此の輩等を召して粗聞くべし。其の時之を記し申す可し(P749)とあり、鎌倉の波木井氏は「爾前権教の教えでも分々の利益があるのだろうか」と佐渡の日蓮に質問していることがうかがえます。これに対し日蓮は、「但此経の信不信に任す可きのみ」()「法華経の心は当位即妙不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり」()と、罪業深き凡身のままでも法華経への信によって成仏することなどを教示し、当書冒頭にあるように鎌倉の弟子より教えを受けるべき旨を記しています。

 

系年・建治3年の「四条金吾殿御返事」(八風等真言破事・真蹟断片)には、「だいがくどの(大学殿)ゑもんのたいうどの(右衛門大夫殿)の事どもは申すままにて候あいだ、いのり叶いたるやうにみえて候。はきりどの(波木井殿)の事は、法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば、いかんがと存じて候いしほどに、さりとてはと申して候いしゆへにや候けん、すこししるし候か。これにをもうほどなかりしゆへに又をもうほどなし。だんな(檀那)と師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし」(P1303)との記述があります。

 

「比企大学三郎能本殿や池上右衛門大夫宗仲殿は日蓮が教示した通りにしたので、諸願が成就したのである。波木井六郎実長殿は法門については御信用されているようだが、この訴訟については日蓮のいうままにされなかったので、いかがなものであろうかと案じていたのだが、少々注意したことによるものか、少しは効果があったようだ。しかし、こちらの思いほどには聞く耳を持たなかったので、訴訟の結果は思うにまかせなかったのである。波木井氏の例に見られるように、檀那と師匠の心が合致しない祈りは、水の上に火を焚くようなものであり、叶うものも叶わない結果となるのである」(趣意)

 

日蓮は、波木井氏の訴訟の件を通して彼の性格、姿勢を気にかけていますが、日蓮をして案じさせるものが波木井氏の内面にはあったのであり、この一例を以てして、鎌倉における日昭、日朗等、他の日蓮一門との関係を推し量るべきでしょうし、ある意味、重しともいえる師匠・日蓮亡き後、彼の感情面が一気に露わになり、一弟子達と正面からぶつかったということも推測できるのではないでしょうか。

 

弘安7(1284)に推定される(「興風」11P191 池田令道氏の論考「無年号文書・波木井日円状の系年について」による)無記年の波木井文書「六月五日」状には、以下のようにあります。

 

本文 

 (前略) 日円は故しやう()人の御てし(弟子)にて候也。申せハ老僧たちもおな()しとうほう(同胞)にてこそわたらせ給候に、無道に師匠の御はか()をす()てまいらせて、とか()なき日円を御ふしん候ハんハ、いかて仏ち()にもあひかなハせ給い候へき。御経にこうを入れまいらせ候師匠の御あハれミをかふり候し事、おそらくハおと()りまいらせす候。せんこ(先後)のしやへちハかりこそ候へ。されハ仏道のさハりになるへしともおほえす候也。こまかにハけさん(見参)にも申て候き。又えちせん殿くハしく申さるへく候也。恐々謹言 

六月五日 日円花押 伯耆阿闍梨御房  (富士宗学要集8P14)

 

意訳

日円(波木井氏)は故日蓮聖人の弟子です。申して言えば老僧方も同じ同胞であるのに、無道心にも師匠日蓮聖人のお墓を捨てられて、失無き日円に不審を抱かれるのは、仏智に相叶うことなのだろうか。法華経に功徳を入れられた師匠日蓮聖人の御慈悲を蒙ったことについては、おそらくは老僧方に劣ることはありません。法華経を受法した、先後の違いがあるだけではないか。故に仏道の障害になるとも思えません。詳細は、見参にて申したとおりです。また、越前殿が詳しく申すことでしょう。

 

これを読めば、波木井氏は一弟子六人に対して対等意識であったことがうかがえ、「申せハ老僧たちもおな()しとうほう(同胞)」「おそらくハおと()りまいらせす候」「せんこ(先後)のしやへちハかりこそ候へ」よりすれば、その意識は日蓮存命中からではなかったでしょうか。であれば、文永末の時期において既に、日蓮直弟子と波木井氏には一定の距離があったといえるように思います。上記のような波木井氏の信仰姿勢、文面よりうかがえる性格というものに、日昭・日朗が身延山より註法華経と立像釈迦仏を移動させ、また日興をして身延より離れさせた因があるように考えるのです。

 

ここで一つ付け加えれば、日蓮文書の多くに記される身延山での困窮生活に、鎌倉の日昭・日朗が地頭・波木井氏の外護の任に不審を持ったということもあるのではないでしょうか。

 

まず、文永11年の身延入山時には、道中各地は飢饉だったようであり、517日の「富木殿御書」(真蹟)では、「かち(飢渇)申すばかりなし。米一合もう()らず。がし(餓死)しぬべし。此の御房たちもみなかへ()して但(ただ)一人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給へ」と、その惨状を記しています。(P809)

 

身延草庵の生活では、建治21213日の「道場神守護事(与富木氏書)(真蹟)では、「且()つ知ろし食()すが如く、此の所は里中を離れたる深山なり。衣食乏少(えじきぼうしょう)の間読経の声続き難く、談義の勤め廃(すた)るべし」(P1274)と衣食の乏しさを訴えています。

 

続いて建治3年の「庵室修復書」(真蹟曽存)では、「去ぬる文永十一年六月十七日に、この山のなかに、き()をうちきりて、かりそめにあじち(庵室)をつくりて候ひしが、やうやく四年がほど、はしら()()ち、かきかべ(牆壁)をち候へども、なを()す事なくて、よる()()をとぼさねども、月のひかり()にて聖教をよみまいらせ、わ()れと御経をま()きまいらせ候はねども、風をのづ()からふ()きかへ()しまいらせ候ひしが、今年は十二のはしら()四方にかうべ()をな()げ、四方のかべは一そ()にたう()れぬ。うだい(有待)たも()ちがたければ、月はすめ、雨はと()ゞまれとはげみ候ひつるほどに、人ぶ()なくして、がくしゃう(学生)ども()をせめ、食なくしてゆき()をもちて命をたすけて候ところに」(P1410)とあります。

 

柱朽ちて壁が剝げ落ちた草庵で、月の光で経典を読み、壁の隙間より風が吹き抜けて経典が巻かれていく様が痛々しく、食べものもなく、雪を口にするなど食糧事情が厳しかったようです。

 

弘安213日の「上野殿御返事」(真蹟)には、「この両三年は日本国の内に大疫起こりて人半分げん()じて候上、去年(こぞ)の七月より大なるけかち(飢渇)にて、さといち(里市)のむへん(無縁)のものと山中の僧等は命(いのち)存しがたし」(P1621)と疫病、飢饉の凄まじさを記し、「王もにく()み民もあだ()む。衣もうす()く食もとぼ()し。布衣(ぬのこ)はにしき()の如し。くさ()のは()はかんろ(甘露)とをも()う。其の上去年(こぞ)の十一月より雪つもりて山里路たえぬ。年返れども鳥の声ならではをとづ()るゝ人なし。友にあらずばたれ()か問ふべきと心ぼそ()くて過(すご)し候処に」()と、身延山の困窮生活を綴っているのです。

 

弘安41125日の「地引御書」(真蹟曽存)に至って、「坊は十間四面に、またひさし()()してつくりあげ、二十四日に大師講並びに延年、心のごとくつかまつりて、二十四日の戌亥(いぬい)の時、御所にすゑ(集会)して、三十余人をもって一日経か()きまいらせ、並びに申酉(さるとり)の刻に御供養すこしも事ゆへなし」(P1894)とあり、身延山に104面の堂宇が完成し生活は一応の安定をみたと思われます。

 

日蓮は身延山での困窮生活を各地の門下への書簡で記述しており、それは鎌倉の日昭、日朗などの老僧も聞き及んでいたことでしょう。その時、彼らはどのような印象を抱いたでしょうか。また、実際に身延の草庵を訪れ、生活の実態を見てもいます。弘安5225日の「伯耆公御房御消息」(P1909)は、身延に在山中の日朗の代筆とされます。

 

日蓮文書よりうかがえる身延山中での一門の生活は、幕府が地頭・波木井氏に監視を命じた内地への流刑かとも思えるものですが、幕府お膝元の鎌倉に在って法華伝道活動をする日昭・日朗からすれば、波木井氏の外護は不足なものと映ったことでしょう。

 

「波木井氏は、一門の大事なる師匠・日蓮聖人を死の淵に追いやるが如き惨状のまま放置している。何故に師匠の身の周りの環境整備を、地頭は怠っているのか」と不審に思ったでしょうか。日蓮の身延在山の有り様を知るほどに、日昭、日朗らは波木井氏に対する不信感を増幅させたと考えるのです。

ただし、日昭、日朗らは、日蓮が存命中は波木井氏への感情は抑制したと思われます。これまで見てきたように、波木井氏との不和が表面化するのは師匠・日蓮入滅後のことになります。

 

 

(5)日蓮滅後の鎌倉一門への圧迫

 

他に、墓所の寺輪番制崩壊の要因として、鎌倉幕府による日蓮一門に対する圧迫があったと思われます。

 

幕府にとっては日蓮という処断したくてもできなかった人物がいなくなったのですから、まずはお膝元の鎌倉日蓮一門の弱体化を計ろうとするのも、日蓮の身が鎌倉に在った時の対応からすれば当然の流れのうちともいえるでしょう。陰に陽に様々な圧迫を加えたろうことは想像に難くありません。

 

鎌倉を教線とする日昭、日朗は防戦、日蓮法華衆組織の維持、布教等、多忙を極めたことでしょう。このような時に長期間、鎌倉を離れることは日蓮法華衆組織の弱体化を意味します。故に、日昭、日朗らは弘安712月の墓所の寺=身延山輪番の時を除き、鎌倉を離れることはできなかったのではないでしょうか。先に見たように波木井氏との関係が日昭・日朗の身延疎遠(または離山)の大きな因として挙げられるのですが、鎌倉における幕府と日蓮法華衆組織の関係という不安定要素もそこに付け加えるべきだと考えるのです。

 

余談ですが、対して日興の教線・駿河の国、甲斐の国周辺での幕府との関わりはどうだったでしょうか。徳治2(1307)712日の日興の書状に「刃傷損物~法花衆たるによて~損物」(与了性御房書・日興上人全集P169  1996興風談所)とあって、鎌倉方面の檀越が日蓮法華信者である故に、なんらかの事件に巻き込まれて傷を負ったことが記されています。

このような個々の弟子・檀越が自らの宗教的立場、信念の貫徹により圧迫され、時には実力行使をされたこともあったでしょう。がしかし、日蓮存命中、門下が受けたものとしては最大級の弾圧となった熱原法難のような、幕府・国家権力による日興・富士門流総体に対する弾圧「富士の法難」などというものは起こることはありませんでした。歴史として記録されたのは、長い時間をかけての富士門流の分派、分裂の物語でした。

 

何か事が起きなくとも、頼るべき師匠亡き後の日蓮法華衆組織の維持、運営には相当な労力を要するものがあったと思われるのですが、鎌倉では幕府という最大の国家権力の圧迫です。それは「国家安泰の祈祷」を強制する弾圧であったともいわれます。(日蓮教団全史P60)

 

日蓮亡き後の一門を取り巻く諸状況を勘案すれば、教線も近く、地域的には平穏であった日興とその一門等が墓所の寺=身延山の寺に在住し、それを対幕府の最前線に身を置く日昭・日朗や他の一弟子らが追認するのも、自然の成り行きであったことでしょう。

 

 

6 日興の身延入山の時期について

 

日興が身延山に常住するようになった時期については諸説あり、「日興上人日目上人正伝」( 1982年 大石寺)では、「日興上人が大聖人の御灰骨を捧持して、恙無(つつがな)く身延に入山されたのは初冬の十月二十五日であった。日興上人は御遺命通り、本門弘通の大導師となり、また久遠寺の第二祖(別当)となって一門統帥の地位に就かれたのである。」(P117)と、日蓮入滅後、日興は遺骨を捧持して入山、そのまま常住した旨を主張します。

 

堀日亨氏の「日興上人身延離山史」(1937)では、「興師の御晋山は富士門流古伝の如く弘安5年の冬からそのまま御住持遊ばしたのではない、さりとて二箇の相承の中の池上相承を放棄すべきものではない。弘安6年の春夏は混雑でも有ったし、富士の諸関係もあるし、かたがたその年の暮れ頃にいよいよ名実共に常住ということになったと思う」(P48)と、弘安6年暮れ頃に身延入山としています。

 

池田令道氏は論考「無年号文書・波木井日円状の系年について」(興風11)にて、波木井文書の考察を重ねた結論として「大聖人滅後、はじめて日興上人が身延に入山されたのは他の門弟檀越たちと同じく弘安五年の十月末。翌六年の初めも引続き老僧たちと在山。その後、一度は下山されて、同六年九月の墓所の月番までには登山。その後はそのまま正応以後の離山まで在山の可能性が高い、と私は考える。年数については『従開山日順法門』の『身延山ニハ日蓮聖人九年、其後日興上人六年御座有リ』の一文はほぼ事実を記していると思われる。~中略~私の考えでは、おそらく大聖人滅後の日興上人は身延山を中心とした弘教であり、生活であったと思うのである。」(P244)と、弘安69月の墓所月番以降、常住されたとしています。

 

「日蓮教団全史」(1964年 立正大学日蓮教学研究所発行)では、大要、以下のように推測しています。

弘安710月の「美作房御返事」の中で、身延在住を決意した日興がその意志を鎌倉の波木井氏に伝えた。これを喜んだ波木井氏が「こしやう人(故聖人)の御わたり候とこそ思まいらせ候へ」と波木井文書「弘安八年正月四日状」で返書。別の波木井文書の「無記年の二月十九日状」にも、同様の「さてわたらせ給候ことハひとへにしやう人のわたらせ給候」との記述がある。これにより、日興は弘安8年正月前に住山したものの、しばらく有縁の地・駿河方面に赴き、8年末頃改めて入山し、以後常住。同年末頃には身延山を統轄するようになったと思われる。そして「無記年の二月十九日状」が波木井氏から日興に発せられた。故に「無記年の二月十九日状」は「弘安九年二月十九日状」となる。また「弘安八年正月四日状」では、波木井氏は次郎実継を使いとして僧膳料「米二斗」を日興の元に送っているが、「無記年の二月十九日状」によると、逆に日興より銭二結を送られ「丁度、金不足で困っている時であったからありがたい」としている。これにより「無記年の二月十九日状」は、弘安8年以降でなければならないのである。「以上の訴訟・贈物・住山の諸点より見て(無記年の二月十九日状は)弘安九年二月十九日の書状と断定することができ」るとしています。(以上、同書P67P73の趣意)

 

 

ここで参考になるのが波木井文書「無記年の六月五日付け状」であり、従来は日興身延離山時の正応2(1289)の書状とされてきましたが、池田令道氏の考察「無年号文書・波木井日円状の系年について」(興風11)により、弘安7(1284)に推定されています。

 

文中、「日円(波木井実長)は故聖人の御弟子にて候也。申せば老僧たちもおなし同胞にてこそわたらせ給候に」と、「私・日円は故日蓮聖人の弟子である。申すならば、一弟子の老僧方も同じ同胞ではないか」とあります。また「御経にこうを入れまいらせ候師匠の御あわれみをかふり候し事、おそらくはおとりまいらせす候。せんこのしやへちはかりこそ候へ。」と、「法華経に功徳を入れ参らせた師匠・日蓮聖人の御慈悲を蒙ったことについては、おそらくは老僧方に劣るところはない。日蓮聖人の教えを信受した先後の違いがあるばかりなのだ」としており、波木井氏が本弟子六人と対等意識を抱いていたことがうかがえるものとなっています。

 

注目したいのが「無道に師匠の御墓を捨てまいらせて、失なき日円を御ふしん候はんは、いかで仏智にもあひかなはせ給い候へき。」と、「(老僧達は)無道なことに、師匠日蓮聖人のお墓を捨ててしまい、失無き私・日円に対して不審を言われるが、どうして仏意に相叶うであろうか」とあることで、波木井氏の認識として「無記年の六月五日付け状」を発した時、即ち弘安765日の時点で「老僧達は師匠の御墓を捨てた」としていることになります。

 

「師匠の御墓」を捨てたとは墓所、墓所の寺、身延山の寺を捨てたと同義だと考えられますが、この記述は同年1018日に、日興が美作房日保に宛てた「美作房御返事」の「師を捨つ可からずと申す法門を立て乍ら忽に本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難も術無く覚え候」との、「師を捨てるべからずという法門を立てながら、本師・日蓮聖人の墓所・身延山の寺を捨てることは、世間からも非難されることであろう」とあることに符合しています。

 

弘安765日に波木井氏、同年1018日に日興と、同じ年に、異なる二人によって他の老僧達が身延山の寺から遠ざかっていることが記述されているのです。

 

弘安71月の日昭、2月の日朗は自らの輪番を務めて以降、直接、波木井氏に告げたか、書簡により意思を表明したものかは明らかではありませんが、身延不参の意思を波木井氏に伝えた、また他の弟子達からも同様の意が表明されたのではないでしょうか。それは「身延沢の御墓の荒れはて」との日興の記述から、現実のものだったと考えられるのです。

 

このような老僧達の身延不参、それに伴う「何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの蹄に親たり懸らせ給ひ候事目も当てられぬ事に候」との墓所の荒廃が、日興に墓所の寺=身延山の寺への定住を決意させたのではないかと考えられ、同年9月の輪番を務め、各地の弟子に身延登山を促す書状を発して以降、即ち弘安7年秋より、日興は身延山の寺の運営に当たったのではないでしょうか。もちろん、彼の教線は駿河の国、甲斐の国等、身延山の周辺であったことからも折に触れ、各地を周り、入下山を重ねたことでしょう。

 

 

7 日興と波木井氏

 

日興の身延入山からは時間が飛んでしまいますが、ここで、一部で指摘される波木井氏の「四箇条の謗法」というものを確認してみましょう。

 

正応元年(1288)末から正応2(1289)春にかけて、身延を離山した日興一門は後年、「富士一跡門徒存知の事」に「四箇条の謗法」として波木井氏の「行為」を列挙します。その文面からは、波木井氏の「行為」を許した日向への批判の意も汲み取れます。

 

一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり。而るに日興、彼の御廟に通ぜざる子細は、彼の御廟の地頭・南部六道入道[法名日円]は日興最初発心の弟子なり。此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る。滅後其の年月、義絶する条条の事。

釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。

次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む。二所三島に参詣を致せり是二。

次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシ(福士)の塔を供養奉加・之有り是三。

次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり。甲斐国其の処なり是四。

已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云。此の義に依つて去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ。よつて御廟に相通ぜざるなり。

 

 

延慶2(1309)、重須談所の初代学頭・日澄が「富士一跡門徒存知の事」を著した頃には、日興一門の認識として波木井氏の「行為」を「四箇条の謗法」とし、それを許した日向を批判するのですが、まず「釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし」とは本師・日蓮や弟子檀越の先例に倣い、師説を受けてのものではなかったでしょうか。

 

 

【 釈迦如来造立供養 】

 

いつ頃、波木井氏が法華経受法に至ったのか、明確な年月は不明なようですが、「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」(P905)では、「入信の時期は『波木井三郎殿御返事』(七四五頁)、『原殿御返事』によって考えれば文永六年のころと推察される。」としています。

 

「波木井三郎殿御返事」(日興本 北山本門寺蔵)を見れば、文永10(1273)83日、佐渡の日蓮は波木井実長に「鎌倉在住の筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨より法門の教示を受ける」よう促していて、少なくとも文永8年の法難以前には日蓮の檀越として直接、面識もあったであろうことが推測されます。ということは文永8年の法難前、波木井氏は鎌倉の日蓮のもとを訪れたこともあったのではないでしょうか。そこには、「小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したり」(P892 神国王御書 真蹟)と釈尊像が奉安され(久遠仏を顕す意でしたが)、その前には経典が置かれています。

 

「波木井三郎殿御返事」には、「但し仏滅後二千余年三朝の間数万の寺々之有り。然りと雖も本門の教主の寺塔、地涌千界の菩薩の別に授与したまふ所の妙法蓮華経の五字未だ之を弘通せず。経文には有って国土には無し、時機の未だ至らざる故か。~当に知るべし、残る所の本門の教主妙法の五字、一閻浮提に流布せんこと疑ひ無き者か(P748)とあります。

 

筆者は、文中の「本門の教主の寺塔」について、「報恩抄」の「本門の教主釈尊」を曼荼羅本尊と読み解くように、本門の教主を曼荼羅本尊と理解して「曼荼羅本尊を安置する寺塔」と読みますが、波木井氏の理解としては、「本門の教主の寺塔」を「法華経本門寿量品の釈尊=仏像本尊を安置する寺塔」と読み、それを造る必要性を学び取ったのではないでしょうか。これはなにも波木井氏だけではなく、多くの門下がそのように読んだことでしょう。

 

系年が建治3年とされる「四条金吾殿御返事」(八風等真言破事・真蹟断片)では、「はきりどの(波木井殿)の事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば、いかんがと存じて候いしほどに」(P1303)と、日蓮は波木井氏の訴訟の行方を案じています。

 

四条金吾宛ての書簡に波木井氏の名が出るということは、波木井氏と四条金吾は既知の間柄であったと理解できます。その四条金吾は、建治2715日前に釈尊一体仏を造立して日蓮から「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云~此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ(P1182 四条金吾釈迦仏供養事・真蹟断片)と讃嘆の書状を受け取っており、夫人も同じく釈尊一体仏を弘安222日前に造立して、「三界の主・教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女~教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし」 (P1623 日眼女釈迦仏供養事・真蹟曽存) と讃嘆されていて、このようなことを波木井氏も知っていた可能性は高いと思われます。

 

系年が文永10年或は文永元年とされる「木絵二像開眼之事(法華骨目肝心)(真蹟曽存)では、「木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。~三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云。法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。」(P791)との教示があります。日蓮は文永10919日付の「弁殿尼御前御書」(真蹟)で、「しげければとゞむ。弁殿に申す。大師講ををこ()なうべし。」(P752)と、文永8年の法難からの再建過程にあった鎌倉日蓮法華衆に「天台大師講」を行うよう指示しており、席上、「木絵二像開眼之事」にある釈尊像を法華経によって開眼供養することも、日蓮門弟らによって在家の人々に伝えられていたのではないでしょうか。

 

日蓮の鎌倉布教拠点での釈尊一体仏、日蓮随身仏としての釈尊を見たこと。

自身に宛てられた書状での「本門の教主の寺塔」の必要性。

有力檀越の四条金吾夫妻の釈尊像造立と師匠日蓮の讃嘆。

 

これらを見て聞いて知っていた波木井氏が、日朗が身延山から移動した日蓮所持の釈尊像の替わりに自らが釈尊像を造ろうと思い立ったのは自然なことであり、それが日蓮存命中のことであったなら、四条金吾の先例からしても讃嘆されこそすれ、非難などされることはなかったと思います。

しかし、「原殿御返事」に見られる、一体仏では「上行等の脇士もなく、始成の仏にて候き」との日興の厳格な考えとは合致せず、正面から衝突することとなったのでしょう。

 

師日蓮亡き後、同じ釈尊像でも脇士によりその仏格を顕そうとした日興。

日蓮存命中からの経緯と身延山を取り巻く環境により、その一つの帰結として釈尊像・一体仏を造立した波木井氏。

 

このどちらにも極端な誤りはなく、共に師説により展開したのであり、釈尊像造立の有りようをめぐる解釈の違いと、そこに日向が介在して理解を示したことにより問題は複雑化し、感情的なものを含ませながら、日向と波木井氏、対する日興の隔たりが大きくなったのではないでしょうか。

 

 

【 二所三島に参詣 】

 

続いての「二所の権現=二所権現=箱根山・伊豆山の権現と三島神社への参拝」について、「日蓮教団全史」は次のように解説します。

 

「安国論の正意を破り、神天上してその社には悪鬼がかわって住んでいると定められた謗法の堂社三島神社に参詣した、との非難に対しては、日向は安国論の趣旨はたしかにそうではあるが、『白蓮阿闍梨、外典読みに片方を読んで至極を知らざる者にて候、法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会す可し、尤も参詣す可し』(原殿御返事)と教えた。恐らく鶴岡八幡宮が弘安三年十一月十四日炎上した事件についての八幡大菩薩の我国の守護、不守護についての諸人への諸御書に現われた教示、たとえば諌暁八幡抄の『此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし』(P1849)との旨をもって実長の行為を認めたと思われる。」(同書P74)

 

 

神社への参詣について、日蓮一門にあっては「立正安国論」の正意・神天上の法義からすれば議論が生まれるものでしたが、幕府の御家人である波木井氏には当然の「行為」であったことでしょう。

 

甲斐源氏の系を引く南部三郎光行の子、波木井・御牧・飯野の三郷を領する鎌倉幕府御家人の波木井氏です。父の南部光行は治承4(1180)8月、石橋山の戦いで源頼朝に与して大庭景親ら平氏方と戦っています。

 

嘉禎4(1238)正月、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経(建保6年・1218~康元元年・1256)が上洛した際には、波木井氏は随兵を務め、兄・実光(次郎)と共に京都に同行しています。

 

「吾妻鏡」

嘉禎4年2月17日 癸巳 天顔快霽

前略

五十一番  大井の太郎  南部の次郎  同三郎

後略

 

南部光行の二男とされるのが上記、南部の次郎=実光で、三男が三郎=実長です。

 

二所権現と三島神社は源頼朝以来、幕府から重んじられて北条氏の保護を受け、関東武士の信仰を集めています。武門の守護神として篤く信仰され、多くの武士が参詣した二所権現と三島神社に幕府御家人という「公」の立場にある者が参詣するのも、「公」の「行為」で至極当然のことだったでしょう。他の武家と同様、彼も武運長久を祈念したものでしょうか。

 

以下、今日的な視点から一般常識として考えてみましょう。

私たちが一社会人として、会社の部、課等の単位で行われる新年の初詣に、「悪鬼乱入の神社には行かず」と宣言して一人だけ参加せず、ということがあるでしょうか。また、町内の神社で行われる「お祭り」に一軒だけ参加せず、としたらどうでしょうか。私人、公人どちらであっても、町内、自治会、会社等では宗教的催事、行事などへの付き合い、参加というのは自然なもの、また無視できない、等閑にできないものです。

ましてや、鎌倉時代にあって、幕府に恩顧ある武士達皆がこぞって参詣する神社に、宗教的信念に基づいて「行かない」ということが何を意味するか。上下の関係、一族に及ぼす影響を考えれば他の武士と同じく、御家人として幕府に忠誠をつくす意を表するためにも、参らないわけにはいかなかったことでしょう。

 

令和の今を生きる私達・日蓮法華信仰者は世情、地域の実情に合わせた「応用展開」は「可」で、鎌倉時代の波木井氏には厳格に原理原則を当てはめて非難するというのは、いかがなものかと思います。

 

 

【 領主の器 】

 

三つ目の「一門の勧進と号して南部の郷内のフクシ(福士)の塔を供養奉加・之有り」については、波木井氏の領地である南部郷福士の地に富士籠山修行者らにより念仏供養塔が建立された際、実長は南部一族の代表として供養をし、奉加帳に名を記したようです。

 

四つ目の「一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり」によれば、波木井氏は「南部一族の仏事を助けるため」として、九品往生を説く念仏道場を建立供養しています。

 

これについて、「日蓮教団全史・上」は以下のように解説しています。

「富士の塔供養について、実長は日興に弁解しているが、『九品の念仏の供養したりと候なる全くさること候はず、親しきもの適ま鎌倉より下って候に馬一匹たびて候事候き、それは何にせよ彼にせよとはいかで申すべく候、入道の材木を取って買候しも、何様の人の家御堂をや作り候らむ、その定にこそ候へ、馬賜ひ候事は五月にて候、仏事は七月かの事にて候ひけると承り候へ。全く仏事の合助に賜ひて候事候はず』と陳弁したが、日興はこれを諒承しなかったようである。」(同書P75)

 

このような波木井氏から日興への説明についは、当初より上記文面通りの経緯だったものか?それとも日興側の非難に応じて波木井氏が事態を収めるために譲って後付で考えたものなのか?これについては、今となってはどちらとも言い切れないと思いますが、公の立場も重んじる波木井氏と、自ら規定した宗教的信念に生きる日興とは相容れない関係になってしまったといえるでしょう。

 

筆者としては、文書に残る両者のやりとりはそれとして、波木井氏の意図は以下のようなものだったと考えます。

 

念仏供養塔を建てる、念仏道場の建立というものは、当時にあっては御家人、領主として民心を掌握すると共に、権勢を誇示する方法として一般的なものだったのではないでしょうか。波木井氏としても幕府御家人、波木井・御牧・飯野の地頭としての器、力量、また権威を示す社会的な「行為」であったと思われます。自らは日蓮法華の一人として法華経を信仰しながらも、他宗にも助力したということは地頭として領内宗教勢力の調和を図った、「一門の勧進」「一門仏事の助成」とあることからも一族と民心の掌握を意図した、ともいえるのではないでしょうか。

 

もちろん、そこには「日蓮が法門」に対する認識・理解がどの程度であったのか議論の余地があるにせよ、波木井氏は法華経信奉者としての自覚よりも、地頭としての従来からの思考により行動したのではないかと思います。この件についても「謗法厳誡」云々ではなく、当時の地頭、御家人、領主の有りようにこそ思いをめぐらせるべきではないでしょうか。

 

これが逆に、「法華以外は一切認めず」となったらどうでしょうか。

現実の例として、弘安年間に甲斐の国より讃岐に移転したとされる秋山家の秋山孫次郎泰忠(入道名・沙弥日高)の応安5年(1372)32日の「誡状」を見てみよう。

 

「日高念誡の状」

一 十三日のかう()又十五日かう()の人々ひやくしやう(百姓)も御めい()をそむ()き候はば、みなみな(皆皆)大はうぼう(謗法)としてりやうない(領内)のかまい()あるまじく候。

富士宗学要集8P130

 

これによれば、毎月13日と15日の「講」に参加する人々、百姓らにあっても、本門寺・大坊の僧の命に背くならば、それらの者は皆、大謗法者とみなして秋山領内にあっては構うところなし、としています。宗教上の行為のことではありますが、法華大坊の僧が言う事は絶対化されているのです。このような地にあって、念仏など他宗の教えを奉ずれば、日蓮の時代とは逆の有りよう、法華門徒による圧迫が加えられたのではないでしょうか。このような秋山氏の強権的な法華僧絶対化の文書を見ると、むしろ、90年程前の波木井氏の念仏助成行為の方が、信教の自由、多様な宗教勢力の共存等、今日的な視点・思考法に合致しているのではないかと思えてきます。

 

一部からは、数百年に亘り悪し様に言われる波木井氏ですが、それのみが「可」であり「正義」であるとは言えないのであり、客観的に分析するならば、波木井氏は法華経信奉の領主でありながら、他宗も尊重して領内の宗教的共存、民心の多様性、宗教的良心を保護した人物という評価もまた「可」になると考えるのです。

 

以上、今日的な視点、理解も踏まえた波木井氏に対する評価・認識をお伝えしましたが、日興は「亡くなるまでの波木井氏を弟子として認識していた」ことには注意したいと思います。

 

日蓮滅後16年の、永仁5(1297)925日、波木井実長日円は76歳で亡くなります。その翌年の永仁6(1298)に日興が著した「弟子分本尊目録」には、

 

一、 甲斐國南部六郎入道者日興ノ弟子也、仍テ所申与フル如シ件 (日蓮宗宗学全書2-114)

 

とあり、甲斐國南部六郎入道・波木井実長を日興の弟子也としています。「弟子分本尊目録」では日興の理解として、背いた人物には「背畢」(そむきおわんぬ)と追記されているのですが、波木井氏にはそれがありません。即ち前年に亡くなった波木井氏の生涯を指して、日興は自らの弟子であったとしているのです。

 

延慶2(1309)、重須談所の初代学頭・日澄が「富士一跡門徒存知の事」を著した頃には、富士日蓮法華一門としての意識、彼我の相違を明示するという意味からも、波木井氏に「四箇条の謗法」があり「義絶」とされたわけですが、これは「教団としての見解」といえるものであり、日興自らの手による「弟子分本尊目録」では「甲斐國南部六郎入道者日興ノ弟子也」にして「背畢」(そむきおわんぬ)が追記されていない、即ち日興は波木井氏の終生を通して弟子としていたことは重く見るべきではないでしょうか。

 

 

白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」(白蓮弟子分に与へ申す御筆御本尊目録の事)

略して「弟子分本尊目録」

 

 

※「日蓮宗宗学全書」(2-114)掲載の「弟子分本尊目録」では「一、 甲斐國南部六郎入道者日興ノ弟子也、仍テ所申与フル如シ件」となっていますが、大石寺発行「歴代法主全書」掲載の「弟子分本尊目録」では、「一、甲斐國南部六郎入道者、日興ノ第一ノ弟子也。仍テ所申与フル如シ件」と、波木井実長は日目等の「本六」と同じ「日興ノ第一ノ弟子」と記述されています。

 

この相違はいかなる理由によるものでしょうか。

 

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