日蓮法華教・日蓮的摂入、包摂思想とその展開~妙法曼荼羅の形相の起源をめぐって1 密教と日蓮

1. 日蓮の教理的思考法における摂入・包摂というもの

文永11(1274)1120日の「曾谷入道殿御書」より、日蓮は台密に対する批判を開始します。ここで意を留めるべきは、「日蓮以前の既存の仏教は全て批判の対象になった」ということでしょう。

 

これまでの仏教各派、それは南都・比叡山・東密などの旧仏教、さらに新しく勃興した浄土教、禅の教え、これら全てが無得道・・・成仏得道の教え足りえないならば、必然的にそれにとって替わるものがなければなりません。日蓮は立教時から「法華経最第一」として繰り返し唱えていたのですが、いよいよ「台密への配慮」が解かれた今となっては、そこに残るものは日蓮の主張するところ「日蓮が法門」(P1911)ただ一つとなりました。

 

東密・台密への批判の過熱と時を合わせるように、文永末の12(1275)から建治期にかけ日蓮は漫荼羅の図顕を本格化させていきますが、これは当の東密・台密の密教の曼荼羅を参考とし、独特の文字曼荼羅として形相化したものではないでしょうか。

 

日蓮の立教以来の教理的思考法は批判対象とする他教はもとより、既存の神仏、菩薩衆を「法華経最第一」の旗幟のもとに結集して摂入・包摂、自己の法門として再生・定義、それらを整足させて独自の法華経信仰世界を創り上げていくというものだったように思うのです。

 

教理面の展開は始めに「法華経最第一」「法華一経(涅槃経も)尊崇」「専修題目」の主題がある一方、もう一方では順を追って諸経批判を行いながら主題を正当化していきます。日蓮は法華経以外の他経を一気に否定するのではなく、自らが学んだ諸宗兼学、諸行往生という台密信仰圏での複雑にもつれあい絡み合った糸を解きほぐすかのように、法華経と諸経の関係性、優劣を一つ一つ鮮明にしていくのです。

 

それは、初期に念仏を批判し、続いて禅宗、更には南都諸宗、東密、そして身延入山以降は台密へと批判対象を順次拡大、次第に選択していく展開をたどるという「繰り返し選択」であり、それがはじめの「法華経最第一」「法華一経尊崇」「専修題目」をより強固ならしめていくようになります。この作業の過程で日蓮は念仏、密教、神祇などから実に様々なものを取り入れているのではないでしょうか。

既存のものを摂入・包摂して「日蓮が法門」(P476)の一部とし、独自の法華経信仰世界を作るという「日蓮的摂入・包摂思想」ともいえるでしょうか。

 

今、日蓮の30年近くの妙法弘通を概観すれば、建長5年の「法門申しはじめ」から初期における現実社会への展開は日蓮的には教主たる釈尊に立ち還った正当なものであったにも関わらず、様々な歴史的経緯により出来上がった宗教的秩序の上に立つ旧仏教・体制側からは異端と受け止められ、彼らの反発・反動が「他宗を誹謗して宗教的秩序を乱し破壊するもの」を名目とする弾圧・法難となり、これが日蓮と一門の信仰には「法華経身読の証」という理解となって日蓮一門の信仰に正当性を付与するという、圧迫者の意図に反する結果となっていったことの繰り返しでした。

 

このような法難を重ねることによって身延山に入って以降、日蓮独自の教理的解釈と新展開が更に加速され、その居住空間の狭隘さとは対照的に法華経信仰の空間は拡大、豊穣なるものとなっていったのではないでしょうか。

 

 

2. 法然浄土教から日蓮法華教へ                                     阿弥陀如来と久遠の仏(釈迦如来)、浄土三部経と法華経、口称念仏と口称題目、彼岸浄土と此岸浄土

青年日蓮は「法然・善導等がかきをきて候ほどの法門は、日蓮らは十七八の時よりしりて候ひき」(P326 南条兵衛七郎殿御書 真蹟)と師匠道善房の教示によるものか、念仏を行じたようです。

 

そして修学時の日蓮が比叡山で見たものは衰微する天台宗の姿であり、そのことを「立正安国論」では「仏堂零落して瓦松の煙老い、僧房荒廃して庭草の露深し。然りと雖も各(おのおの)護惜の心を捨てゝ、並びに建立の思ひを廃す」(P217)と記しています。

 

後に立教した日蓮は、そのような仏教正統であるべき比叡山の荒廃は法然浄土教の興隆によるものであって、叡山のみならず日本一国までもが「上国王より下土民に至るまで、皆経は浄土三部の外に経無く、仏は弥陀三尊の外に仏無しと謂(おも)へり」(P216)という状態になってしまったと嘆じています。

 

日蓮は「守護の善神法味を嘗()めざる故に国を捨てゝ去り、四依の聖人も来たらざるなり。偏に金光明・仁王等の『一切の聖人去る時は七難必ず起こらん』『我等四王皆悉く捨去せん、既に捨離し已はれば其の国当に種々の災禍有るべし』の文に当たれり。豈『諸の悪比丘多く名利を求め悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲』の人に非ずや。」(P168 災難対治抄 真蹟)と、当時の日本国の宗教事情=法然浄土教の席捲に「天災地変の元凶」があるとして、「如かず、彼の万祈を修せんより此の一凶を禁ぜんには」(P217 立正安国論)と念仏禁断を主張。

 

このように激しく念仏批判をした日蓮ですが、その念仏流布による国土の民に植え付けられた「機」を鑑みたものか、日蓮の教説は実に対照的なものとなっており、日蓮自身が誰よりも、法然の教理とその展開に影響されたのかもしれません。故にその批判も激烈なものとなったのではないかと考えるのです。

 

 

*浄土三部経受持・口称念仏・法然の専修念仏を批判、断じた日蓮が勧めるのは法華経受持・口称題目・専修題目でありそこに久遠の仏(文の表には釈迦牟尼仏と表現)がまします、とする。

 

「守護国家論」(正元元年 真蹟曽存)

問うて云はく、諸経滅尽の後特(ひと)り法華経留まるべき証文如何。答へて云はく、法華経の法師品に釈尊自ら流通せしめて云はく、「我が所説の経典無量千万億にして已(すで)に説き今説き当(まさ)に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為()れ難信難解なり」云云。文の意は一代五十年の已今当(いこんとう)の三説に於て最第一の経なり。八万聖教の中に殊に未来に留めんと欲して説きたまひしなり。(P102)

中略

問うて云はく、日本国は法華・涅槃有縁(うえん)の地なりや否や。

答へて云はく、法華経第八に云はく「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」と。

七の巻に云はく「広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」と。

涅槃経第九に云はく「此の大乗経典大涅槃経も亦復(またまた)是くの如し。南方の諸の菩薩の為の故に当に広く流布すべし」已上経文。

三千世界広しと雖も仏自(みずか)ら法華・涅槃を以て南方流布の処と定む。南方の諸国の中に於ては日本国は殊(こと)に法華経の流布すべき処なり。(P128P129)

 

「唱法華題目抄」(文応元年528日 「南条兵衛七郎殿御書」第213行の行間に日興筆の「唱法華題目抄」一部分の書写あり)

問て云く 只題目計りを唱ふる功徳如何。

答て云く 釈迦如来、法華経をとかんとおぼしめして世に出でましましゝかども、四十余年の程は法華経の御名を秘しおぼしめして、御年三十の比より七十余に至るまで法華経の方便をまうけ、七十二にして始めて題目を呼び出させ給へば、諸経の題目に是れを比ぶべからず。其の上、法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり。(P202)

中略

今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて、十方世界の三身円満の諸仏をあつめて、釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に、一仏一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり。故に妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大也。諸仏諸経の題目は法華経の所開也妙法は能開也、としりて法華経の題目を唱ふべし。(P203)

 

「守護国家論」

又云はく「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念(しょうおくねん)し修習し書写すること有らん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」已上。

此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。(P123)

 

 

*「仏は弥陀三尊の外に仏無しと謂へり」(P216)という帰命の対象たる阿弥陀如来(脇侍たる観音菩薩、勢至菩薩)に対しては、日蓮は法華経の久遠の仏(釈迦牟尼仏)に立ち還るよう教示する。

 

「善無畏抄」(文永3年 真蹟断片)

而も彼の経経を依経として一代の聖教を聖道浄土・難行易行・雑行正行に分け、教外別伝なむどのゝしる、譬へば民が王をしえたげ、小河の大海を納むるがごとし。かかる謗法の人師共を信じて後生を願ふ人人は無間地獄脱るべきや。然れば当世の愚者は仏には釈迦牟尼仏を本尊と定めぬれば自然に不孝の罪脱がれ、法華経を信じぬれば不慮に謗法の科を脱れたり。(P412)

 

 

*浄土については西方極楽浄土という彼岸ではなく此岸即浄土を説く

「守護国家論」

問うて云はく、法華経修行の者何れの浄土を期すべきや。

答へて曰く、法華経二十八品の肝心たる寿量品に云はく「我常在此娑婆世界」と。亦云はく「我常住於此」と。亦云はく「我此土安穏」文。此の文の如くんば本地久成の円仏は此の世界に在せり。此の土を捨てゝ何れの土を願ふべきや。故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思うべし。何ぞ煩はしく他処を求めんや。故に神力品に云はく「若しは経巻所住の処ならば、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、乃至当に知るべし、是の処は即ち是道場なり」と。涅槃経に云はく「若し善男子、是の大涅槃微妙の経典流布せらるゝ処は当に知るべし、其の地即ち是金剛なり。是の中の諸人も亦金剛の如し」已上。法華涅槃を信ずる行者は余処を求むべきに非ず。此の経を信ずる人の所住の処は即ち浄土なり。(P129)

 

 

これらを要約すれば「帰命・阿弥陀如来⇔帰命・久遠の仏(釈迦如来)」「受持・浄土三部経⇔受持・法華経」「口称・念仏⇔口称・題目」「専修・念仏⇔専修・題目」「彼岸・浄土⇔此岸・浄土」となるでしょうか。

 

法然は中国・善導の「観無量寿経疏」の「一心専念弥陀名号」の文、源信の「往生要集」の口称重視により専修念仏を展開し、浄土三部経を「往生浄土を説く正しい教え」として従来の念仏信仰・観想念仏とは異なる(発展させた)事実上の「法然浄土教」を作り上げましたが、日蓮の一代の化導を俯瞰すると、「法華経」をもとに専修題目を展開し、「法華経」こそが仏(釈尊)の本意であり「法華一経尊崇帰依」を主張・勧奨して従来の法華経信仰(阿弥陀如来と法華経の一仏一経信仰、一字三礼の法華経書写など)とは異なる(発展させた)「日蓮法華教」ともいうべきものとなった。いわば、法華経の日蓮化、法華「経」の法華「教」化による日蓮法華教の誕生ともいえるのではないでしょうか。

 

 

3. 台密信仰の「諸経包摂世界」

日蓮は「開目抄」(真蹟曽存)にて、「法華経と大日経はその体同一」「西方浄土を志して法華と念仏を受持」する等、諸経随伴が一般的だった当時の法華持経者の見解を記しています。

 

「当世も法華経をば皆信じたるやうなれども、法華経にてはなきなり。其の故は法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経と一なるやうをとく人をば悦んで帰依し、別々なるなんど申す人をば用ひず。たとい用ゆれども本意なき事とをもへり」(P549)

 

日蓮以前から法華経の功徳力を説き、読誦に専念する法華経の持経者は数多いました。彼らの信仰は四宗兼学・融合の台密に象徴される「諸経随伴信仰」「兼信仏教」ともいうべきもので、「朝題目、夕念仏」などの諸経兼修を日常的に実践する者からすれば、「法華経最第一」を主張し、専修題目を勧奨する日蓮とは立場が異なり、主張も相容れないものでした。

 

しかし、日蓮も「法門申しはじめ」からしばらくは天台僧として台密信仰の「諸経包摂世界」に包まれていたことは「法華真言並列」を示す書簡、台密に配慮・期待する記述にうかがえるのであり、旧仏教・台密信仰の世界がいかに裾野の広いものだったかが知れるのです。

 

日蓮もおそらくは自己認識、意識していたとは思われるものの、当人が思う以上に、客観的に見れば、他宗・他経を批判しながらもその影響を受けて種々のものを取り入れており、日蓮の教理展開「日蓮的摂入・包摂思想」というものは、多分に台密信仰の思想的影響を受けてのものだと思われるのです。

 

日蓮は佐後になって、従来の仏教界では鮮明にする人がいなかった我即上行菩薩としての立場を「万年救護本尊」に示し、「三つの法門」(法華取要抄)を唱えることにより、先に記した「日蓮法華教」ともいうべき法華経信仰世界を創出するに至ります。ここにおいて四宗兼学・融合の台密に替わる、新しい日蓮的法華経信仰が確立したといえるのではないでしょうか。

 

 

4. 最澄、空海、日蓮

ここで、台密信仰の「諸経包摂世界」を認識するため、最澄より日蓮に至る天台世界を概観してみましょう。

 

日蓮は御書の随所に最澄の「法華秀句」を引用します。

 

「報恩抄」

伝教大師の秀句と申す書に云く「此の経も亦復是くの如し乃至諸の経法の中に最も為第一なり能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し一切衆生の中に於て亦為第一なり。

(P1218)

 

最澄は「法華秀句」などにおいて法華経の最尊・最上・最勝を説いています。

 

「法華秀句・仏説諸経校量勝五

天台所釈の法華之宗は、釈迦世尊所立之宗なることを。是れ諸の如来第一之説なり。又 於諸経中 最在其上。大牟尼尊、豈に愛憎有らんや。是れ法の道理なり。讃むべきに足るのみ。天親論師、説きて無上と為すこと、良にゆへ有り。天台法華宗は、諸宗に勝るとは、所依の経に拠るが故なり。自讃毀他にあらず。庶くは有智の君子、経を尋ねて宗を定めよ。

 

「法華秀句・仏説十喩校量勝六

已顕真実の日に説く所の法華経は、此の転輪王の如し。天台法華宗は、衆経の中に於て最も其の尊為り。

 

一方で「内証仏法相承血脈譜」(819年・弘仁10年の著作、系譜部は最澄筆、伝記部は後代とされる)によれば、最澄は円教・天台は道邃(どうずい)・行満(ぎょうまん)より受法し、戒律は道邃、禅は行表・翛然(しゅくねん)、密教は順暁(じゅんぎょう)、大素(だいそ)、江秘(こうひ)、霊光(れいこう)、惟象(ゆいぞう)から受法しています。

尚、禅の行表を除いていずれも804年・延暦23年の入唐時におけるもので、滞在期間わずか八箇月という間での受法でした。最澄は一乗仏教を提唱して仏教の総合統一を目指し、天台・法華のみならず戒律、禅、密教などの諸宗・諸経もあわせて伝え諸大乗経典を依用しており、更に密教の種々の修行をなす遮那行、智顗の「摩訶止観」による「止観行」も創設し、比叡山は四宗兼学の総合仏教道場となっていきます。

 

遡れば、中国の天台大師智顗(538597)は釈尊一代の教説を五時八教の教判によって分け、「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を講説して(弟子の章安大師灌頂筆録)、法華経を中心とする理論と止観の実践法、天台教学を確立しています。この時、善無畏らによる「大日経」などの密教経典類は、未だ中国に伝来していなかったことには注意を要します。

 

天台宗は智顗の後に衰退するも、6祖の妙楽大師湛然(たんねん・711782)が華厳、法相、禅に対して論陣を張って再興。ですが、湛然には華厳教学の影響も見られるようです。

以降は再び沈滞期に入り、このような時に湛然の門弟であり中国天台宗の第7祖となっていた道邃が、台州で最澄と弟子の義真に大乗菩薩戒を授けます。続いて天台山国清寺座主・行満(湛然の門弟)は天台の法門、典籍、法具などを最澄に授けるのですが、上記のような経緯から、最澄が受法した天台教学は智顗の時代とは相違しており旧態化したものだったようです。当時の最新流行の教学は密教でした。

 

インドより中国に入った菩提達磨(5世紀後半~6世紀前半)を祖とする禅宗は、第5祖・弘忍の門下が分裂して神秀(じんしゅう・606706)系の北宗、慧能(えのう・638713)系の南宗の二つの系統となります。北宗は神秀⇒普寂⇒道璿(どうせん・702760)行表と次第するも、最澄が行表より受法した時には非主流であり衰退期にありました。

 

唐僧の道璿は736年・天平8年に来日、大和大安寺で華厳・戒律・禅を教え広めています。また、自然智を求めて、日本の比蘇寺で修行したともされます。弟子の行表(722797)778年・宝亀9年、最澄が12歳の時に近江国分寺において出家得度した師僧です。行表自身は来日後、恭仁京(くにきょう・現在の京都府木津川市)にいた道璿により出家得度しています。

これらの経緯から、最澄は入唐以前に禅の法を受けていることになりますが、唐では天台山の僧であった翛然(しゅくねん)より牛頭宗(達磨系禅の別派)の法を授けられています。ここでも最澄の受法の内実は、傍系のものでした。

 

716年、インドより唐(6代玄宗皇帝の時)の長安に赴き西明寺などを拠点にした善無畏(637735)により「虚空蔵求聞持法」が漢訳されます。続いて724年に洛陽において善無畏、弟子の一行ら学僧と共に漢訳された「大毘盧遮那成仏神変加持経」=「大日経」と、インドより海路を唐に渡り広州から洛陽に着いた金剛智(669741)によって伝えられた「金剛頂経」系の膨大な経典群、この「大日経と金剛頂経」の二経典「両部の大経」を、王室の帰依、自らの伝道教化、祈祷、調伏などにより唐に定着させたのが金剛智の弟子で唐(出身はインド南部とも)の僧である不空金剛(705774)でした。以降、新流行の中国密教は最盛期を迎え、それは「会昌の廃仏」まで続くことになります。

 

※「会昌の廃仏」

道教を信奉した唐の武宗皇帝によって行われた寺院廃止、僧尼還俗などの仏教弾圧。845年・会昌54月から8月まで行われた。慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」に記録される。

 

不空金剛より金剛頂経による密教を学び、善無畏の弟子玄超より大日経・蘇悉地経による密教を学んだ恵果(746806)は「両部の大経」を統合し、唐朝の第11代皇帝・代宗、12代徳宗、13代順宗から師僧とされ、当時の密教界の第一人者的存在でした。

 

805年・延暦245月、長安の青龍寺に住していた恵果のもとを空海が訪ねます。半年間に亘って師事した空海は大悲胎蔵の学法灌頂、金剛界灌頂を受け更に伝法阿闍梨位の灌頂を受けて「遍照金剛」の灌頂名を授かります。以降も空海は恵果のもとで曼荼羅、密教法具の制作、経典書写も行い仏舎利などの阿闍梨付属物、袈裟・瑠璃の茶碗、箸などを「衣鉢を受け継ぐ者」として授けられるようになります。1215日の恵果の入滅後、翌806年・延暦25117日には、恵果の弟子を代表して顕彰碑文を起草しています。

 

最澄は不空金剛の弟子・順暁より、越州において胎蔵界と金剛界の密教灌頂を授かったとされますが、天台山下山より日本への帰国の間の慌ただしいものだったため、その内容には不完全なものがあったようです。

 

806年・大同元年10月に空海は帰国、809年・大同47月には入京して高雄山寺に入ります。それ以降、最澄は自らの密教受法時の不備を補うように、密教の経典類、文献を空海より借用し研究しています。812年・弘仁3年、最澄は高雄山寺に赴き、空海に弟子の礼を取り灌頂を授かるも、それは一般的な結縁灌頂であり伝法灌頂ではなかったようです。また、空海のもとに派遣、修学させた泰範、円澄、光定の内、泰範は比叡山に戻らず空海のもとに留まり、更には813年・弘仁411月、最澄の「理趣釈経」借用の申し込みを空海が拒絶したことにより、両者は決別することになります。

 

このように中国密教界の第一人者・恵果より金剛頂・大日の「両部の大経」を直授されて密教を己がものとした空海に対し、最澄は密教を欲しながらも遂には不足したままで、密教との関わりは断念せざるをえませんでした。晩年の最澄が力を注いだのは、一乗主義に立脚しての法相宗の徳一との「三乗一乗論争」、大乗戒独自の戒壇を求めての運動でした。

 

密教の伝授が不完全だった最澄は思想・教理体系を大成できずに終わり、彼の弟子・後継者達は渡唐を重ねて師の願いを達しようと努力します。そして円仁(794864)、円珍(814891)、安然によって天台密教が大成されるに至ります。

 

最澄は法華円教による一乗思想を打ちたてながらも、その思想体系は未完成なままであったということが、むしろ後年の比叡山の教理的展開の活発化を促し、円仁の「金剛頂経疏」の「若し真言に就いて教を立つれば、応に一大円教と云うべし。如来の演ぶる所は真言秘密道に非ざるはなきが故に」などの「一大円教論」、安然の「法華大日同体論」、源信・覚運の「法華念仏同体論」が生み出されるようになります。そしてこれらの隆盛と沈滞がまた、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮等の比叡山よりの自立・独立となって、易行・選択・専修を特徴とする鎌倉新仏教=叡山発の新宗教創出の土壌となっていったのではないでしょうか。

 

日蓮は清澄寺で出家し、円珍の著「授決集」を補った「授決円多羅義集唐決」を17歳の時に書写し、30歳では新義真言宗の開祖とされる覚鑁の著「五輪九字明秘密義釈」を書写、初めて法華経の教説を説いた翌年には不動明王・愛染明王を感見、北条時頼に法華経信仰を勧めた「立正安国論」では「天台沙門」と記す、天台の僧でした。

 

台密に対する批判を始めてからは円仁、安然らを、「天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(P1051 撰時抄 真蹟)、「伝教大師の御弟子、慈覚大師此の宗をとりたてゝ叡山の天台宗をかすめをとして、一向真言宗になししかば、此の人には誰の人か敵をなすべき。かゝる僻見のたよりをえて、弘法大師の邪義をもとがむる人もなし。安然和尚すこし弘法を難ぜんとせしかども、只華厳宗のところ計りとがむるににて、かへて法華経をば大日経に対して沈めはてぬ。たゞ世間のたて入りの者のごとし」(P1030 撰時抄)などと批判するのですが、これまで見てきたところによれば、円仁、(円珍)安然などは最澄の思想体系を補うために密教を本格的に取り入れたのであって、これ自体はむしろ、最澄の祖願に叶うものでした。叡山が密教を取り入れなければ、祖師・最澄の本願は達せられないままだったことでしょう。

 

 

5. 妙法曼荼羅は何を参考としたのか

次は曼荼羅を確認してみましょう。

 

日蓮は「仏勅を蒙」(P720 観心本尊抄 真蹟)った上行菩薩であることを示して、「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属したまはず、何に況んや其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付属したまふ」(P712)と久遠の仏(釈尊)より付属された妙法蓮華経を曼荼羅に顕し、虚空会の儀式を相貌として図顕しています。

 

文永12(1275)216日、新尼に報じた「新尼御前御返事」(P866 真蹟断片)でも、「今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕はし、神力品嘱累品に事極まりて候ひし」と、妙法曼荼羅は法華経本門寿量品の所顕なる所以を明示しています。

 

曼荼羅中央に大書された南無妙法蓮華経と教え主(教主)日蓮、首題左右の釈迦・多宝の二仏は並座して正面を向き(礼拝者に向いている)、上行・無辺行・浄行・安立行の本化の四菩薩は首題・日蓮と二仏に向かい、眷属たる文殊・弥勒等の迹化の菩薩、他方の大小の諸菩薩、万民は末座の大地に処しています。十方分身の諸仏ら迹仏も、三変土田の大地の上に処しています。

 

では、日蓮は何を参考にして、このような独特の曼荼羅を考えたのでしょうか。

妙法曼荼羅の形相的な起源はどこにあるのでしょうか。

 

曼荼羅といえば、まずは真言密教の両部曼荼羅を思い浮かべることでしょう。胎蔵曼荼羅・金剛界曼荼羅は、大日如来の教説する真理と悟りの世界を視覚化したものとされています。

 

 

       胎蔵曼荼羅 Wikipediaより
       胎蔵曼荼羅 Wikipediaより

善無畏(637735)と弟子の一行(683727)らが漢訳した大日経を典拠とする大悲胎蔵生曼荼羅=胎蔵曼荼羅は12の院と409尊から構成され、その内、中央に位置する中台八葉院は法界定印を結ぶ胎蔵界大日如来を主尊として宝(ほうどう)・開敷華王(かいふけおう)・無量寿・天鼓雷音(てんくらいおん)の四体の如来、普賢菩薩・文殊師利菩薩・観自在菩薩・慈氏菩薩の四体の菩薩、計8体が周囲に位置する配列となっています。

 

中台八葉院より上方()へ向かって順に遍智院、釈迦院、文殊院、外金剛部院の四つの院があります。

 

 

向かって右側()には金剛手院、除蓋障院の二院、左側()には蓮華部院、地蔵院の二院、下方(西)には持明院、虚空蔵院、蘇悉地院の三院があります。

      金剛界曼荼羅 Wikipediaより
      金剛界曼荼羅 Wikipediaより

金剛智(671741)と弟子の不空金剛(705774)が漢訳した金剛頂経を典拠とする金剛界如来の漫荼羅=金剛界曼荼羅は、一つの曼荼羅を一会とした九つの会、即ち九つの曼荼羅の集合体であり九会・1463尊で構成されます。

 

縦一列で三会の三列となっており、左の列上から下に向けて四印会、供養会、微細会(みさいえ)、中央の列上から下に一印会、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、右の列上から下に理趣会、降三世会、降三世三昧耶会となっており中央には成身会が位置しています。

 

中央・成身会の中尊は智拳印を結んだ金剛界大日如来で四方に阿閦(あしゅく)如来()、宝生如来()、阿弥陀如来(西)、不空成就如来()の四如来が配されます。これに中央の金剛界大日如来を合わせれば五智如来=金剛界五仏となります。更には各如来の四方(東西南北)には四親近菩薩が配されています。

       法華曼荼羅 Wikipediaより
       法華曼荼羅 Wikipediaより

 

東密、台密には法華経に説示される世界を視覚化、画像として表した法華曼荼羅があります。

 

八葉蓮華の中心に多宝塔があり、その塔中右に釈迦如来、左に多宝如来が描かれて二仏が並座。周囲の八葉蓮華の花弁には弥勒菩薩、文殊菩薩、薬王菩薩、妙音菩薩、常精進菩薩、無尽意菩薩、観音菩薩、普賢菩薩の八大菩薩が多宝塔を囲むように配列。

 

八葉蓮華の周りには摩訶迦葉、須菩提(しゅぼだい)迦旃延(かせんねん)、目蓮の四大声聞、更に外に向かって外四供養菩薩、四摂菩薩、諸天、四明王等が描かれています。

これら密教の両部曼荼羅は文字通り視覚に訴えるもの、仏菩薩を画像として表していますが、日蓮以前の文字としての本尊には親鸞の名号本尊があるようです。親鸞は存命中に「帰命尽十方無碍光如来」三幅、「南無尽十方無碍光如来」一幅、「南無不可思議光仏」一幅、「南無阿弥陀仏」一幅の計六幅の名号本尊を制作したとされます。

 

が、はたして日蓮がこれら名号本尊の存在を知る機会があったでしょうか・・・・

 

6. 塩田義遜氏の「両密の法華曼荼羅に就いて」

ここに、中国唐代の僧・不空=不空金剛(705年~774年・三蔵法師の一人、不空三蔵と呼ばれる)が著した「法華儀軌・または法華観智儀軌」(正式には成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌・じょうじゅみょうほうれんげきょうおうゆがかんちぎき)や、日本の台密の「法華儀」「蓮華三昧経」を参考にして日蓮は妙法曼荼羅を発案した、との考察があります。

 

塩田義遜氏の「両密の法華曼荼羅に就いて」(大崎学報87号・昭和101227日発行、P33)には以下のようにあります。

古い文献ですが、歴史のかなたに埋もれ忘却されてしまうには惜しまれる論考なので、ここに研鑽の為に引用させて頂きます。

 

 

( 以下、暫く引用 )

 

法華曼荼羅は法華経に根拠を置くことは言うまでもないが、今その発達の歴史を見るにその源を不空の観智儀軌に発し、次いで我が両密就中台密の法華曼荼羅を以てその成熟期となし、最後に宗祖の大曼荼羅を以てその完成期と見るべきである。

而して、法華曼荼羅の重心をなすものは、本誌前号に述べた如く宝塔品の儀相であるが、一経の中に就いて見れば迹門宝塔品の二仏並座の儀相と、本門寿量品の霊山浄土の儀相とである。両者は二処三会の中には共に虚空会に属しているが、前者は教法の真実を証明するために十方分身の来集を条件とし、後者は仏陀の常在を証明するために地涌千界の涌現を条件としている。勿論、経典の成立等の立場から見れば、種々の議論もあろうが、要するに、迹本二門の所詮と同じく、分身の来集は妙法の普遍性を証し、千界の涌現は妙法の永遠性を証したのにほかならぬ。

中略

故に法華曼荼羅中、不空の観智儀軌の曼荼羅は密家の見た迹門本尊であり、我が両密就中台密の講演法華儀乃至蓮華三昧経等に見ゆる曼荼羅は迹本未分又は迹本一体であり、宗祖の曼荼羅は正しく本門の曼荼羅である。

中略

宗祖以前に行われた法華曼荼羅と言えば、惠什の十巻抄又は圖()像抄、承澄の阿娑縛抄第七十、金胎房覚禅の覚禅抄第二十三、等に伝えらるゝ如く、台東両密に於いて滅罪生善、頓生菩提のために法華法の本尊である。此の曼荼羅は宝塔品の儀相に依り、釈迦多宝の二仏を中尊とする、胎蔵界系統の三重曼荼羅である。而してこれ不空に依って訳出せられたという、成就妙法蓮華経瑜伽観智儀軌にいずる所である。

中略

いずれにしても法華曼荼羅の最初としては、儀軌のそれを挙げねばならぬ。

中略

不空と全く正反対に法華経の意を以て、密教曼荼羅を解し、その理論的根拠を法華に置かんとしたのが智証(円珍、814年・弘仁5年~891年・寛平3年、天台第5第座主)の講演法華儀である。法華儀は法華三部を一具として解した最初のものである、

中略

金胎両部は妙法蓮華と無二無別一体不二なりと顕密一致の釈をなし、

中略

而して、智証の此の意味を具現したものが今の法華儀並諸品配釈とに顕れた法華曼荼羅である。

 

 

( 八葉 )

( 九尊 )

( 諸品配釈 )

( 法華儀 )

中台

大日

序品

諸仏智慧甚深無量

東葉

宝憧

方便

方便=人記

西葉

無量寿

寿量

寿量

南葉

華開敷

信解

宝塔

北葉

天鼓音

神力

神力等

東方

普賢

薬草

法師

西方

文殊

提婆

提婆=涌出

西北

弥勒

分別

分別

東北

観音

普門

普門等

 

  

と胎蔵界曼荼羅の八葉九尊を法華の諸品に配して、その根拠を示したのである。法華儀には中胎の尊をして、

今斯法華復如是、釈迦如来聚集一切如来為智、以為自身、是故此仏亦名毘蘆遮那、即是中胎之身也。

と解して中尊を以て釈迦即大日と解し、釈迦大日不二一体となし顕密一致の釈をなしている。此の意を詳説したのが智証の顕密一如本仏である。斯く釈迦大日同体説をなすはこれ台密の特徴で、覚禅抄や阿沙縛抄に見ゆる、中古天台の釈迦法身説は此の意に外ならぬのである。

 

由来、真言家に於いては密教を以て、妙法蓮華の最深秘処となし、妙法蓮華の真言義は真言密教のみ能く開顕する処となし、前述の如く曼荼羅を以て妙法蓮華の開顕実相と解し、最深秘処なりと解するが故に、法華と真言とは実相理同なるも、三密の事相は異であり別であり、したがって事勝なりと談するが密家は勿論、慈覚以来の主張である。然るに逆に法華の意を以て密教曼荼羅の理論的根底となし、更に進んで此の意を以て曼荼羅をも解せんとしたのが、智証以後の台密の法華曼荼羅観である。而して阿弥陀の無量寿と寿量品の仏寿無量とが合致する故に、寿量品を以て弥陀の無量寿の説明をせんとしたのが、法華儀並びに諸品配釈の西方葉の解釈である。

中略

此の智証以降の台密の意を以て、法華曼荼羅を解せんとした、尤も具体的の説明書が古来より不空訳と称する、日本天台三部秘経の随一なる蓮華三昧経である。

 

 

蓮華三昧経は又無障碍経とも略称し、具には妙法蓮華三昧秘密三摩耶経と称し、古来不空訳と言うが経録には見えず、現に大日本続蔵に収められている。(中略)法門の内容よりして智証後の偽作と称すべきであろう。

中略

右に依って明らかなる如く、不空に発したる法華曼荼羅は、胎蔵より金剛へ、迹門より本門へと展開して、密教曼荼羅に依って培養せられて、三昧経の別釈に至っては全く本門中心の法華曼荼羅となったのである。これを以て台密に於ける法華曼荼羅の完成とも言うべきであろう。

然るにここに問題となるのは、宗祖の遺文中に見ゆる法華曼荼羅である。即ち法華取要抄には、

大日経・金剛頂経の両経の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝如来も寿量品の教主釈尊の所従なり。

と述べておられるが、ここにいう多宝は多宝如来の法身を指すもので、要するに多宝大日同法身の意である。これ別尊雑記並覚禅抄等に於ける、決定如来を多宝如来と釈する意である。即ち寿命無量を多宝とすることは、若し宗祖に依れば「命と申す物は一切の財の中の第一の財なり」と遊ばされたる如く、無量寿即多宝の意である。然るに同抄には又「此多宝如来は寿量品の教主釈尊の所従なり」とあるは、阿沙縛抄等の如く決定如来を寿量本仏と解した当家至極の所談で、これ報恩抄に、

両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給ふ。

と遊ばされたのと同義である。

若し我が大曼荼羅の中に於いて、右の取要抄等の意に一致するものは、即ち両部の大日を加えたる建治元年十一月身延図顕の大曼荼羅である。(遠沾亨師模写、御本尊写真帳)且つこれは三昧経中別釈の寿量品所顕の曼荼羅にも類似したる観がある。

 

 

( 三昧経 )

( 建治本尊 )

東南

普賢菩薩

無辺行菩薩

東北

弥勒菩薩

上行菩薩

南方 

無辺行菩薩

胎蔵界大日如来

東方

上行菩薩

善徳仏等

 

中胎

 

右・多宝如来

多宝如来

無量寿命決定如来

首題

左・釈迦如来

釈迦牟尼仏

西方

浄行菩薩

十方分身諸仏

北方

安立行菩薩

金剛界大日如来

西南

文殊菩薩

浄行菩薩

西北

観音菩薩

安立行菩薩

 

 

即ち右の下図に就いて、我が大曼荼羅の最上段を仏部とすれば、善徳仏等以下の仏菩薩は八葉の諸尊に当たり、随って此の曼荼羅は蓮華三昧経から来たことが知りえるのである。

即ち報恩抄に我が三秘随一の本尊を述べられて、

一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士(きょうじ)となるべし。

の文中「釈迦多宝」迄は中胎で、「外の諸仏」に就いて一般の建治式大曼荼羅は、善徳仏と十方分身諸仏を挙げているのである。然るに右の曼荼羅は二部大日を脇士として「諸仏」の文中に加えたことは、上掲取要抄等の文意であり、又三昧経を想像せしむるものである。

 

( 以上、引用 )

 

 

7. 密教の曼荼羅と日蓮の妙法曼荼羅

不空について、日蓮は書簡中でどのように記しているのでしょうか。主なものを確認してみましょう。

 

「撰時抄」建治元年(1275)6(P1022 真蹟)

問うて云はく、唐の末に不空三蔵一巻の論をわたす。其の名を菩提心論となづく。竜猛菩薩の造なり云云。弘法大師云はく「此の論は竜猛千部の中の第一肝心の論」云云。

答へて云はく、此の論一部七丁あり。竜猛の言ならぬ事処々に多し。故に目録にも或は竜猛或は不空と両方なり。いまだ事定まらず。其の上此の論の文は一代を括れる論にもあらず。荒量なる事此多し。先づ唯真言法中の肝心の文あやまりなり。其の故は文証現証ある法華経の即身成仏をばなきになして、文証も現証もあとかたもなき真言の経に即身成仏を立て候。又唯という唯の一字は第一のあやまりなり。事のていを見るに不空三蔵の私につくりて候を、時の人にをもくせさせんがために事を竜猛によせたるか。其の上不空三蔵は誤る事かずをほし。所謂法華経の観智の儀軌に、寿量品を阿弥陀仏とかける眼の前の大僻見。陀羅尼品を神力品の次にをける、嘱累品を経末に下せる、此等はいうかひなし。さるかと見れば、天台の大乗戒を盗んで代宗皇帝に宣旨を申し五台山の五寺に立てたり。而も又真言の教相には天台宗をすべしといえり。かたがた誑惑の事どもなり。他人の訳ならば用ふる事もありなん。此の人の訳せる経論は信ぜられず。総じて月支より漢土に経論をわたす人、旧訳新訳に一百八十六人なり。羅什三蔵一人を除いてはいづれの人々も誤らざるはなし。其の中に不空三蔵は殊に誤り多き上、誑惑の心顕なり。

 

*意訳

問うて曰く、

唐の末に不空三蔵が「菩提心論」一巻をインドより渡してきて、「これは龍樹(竜猛菩薩)が作成したものだ」と言った。日本の弘法大師は「顕密二教論」にて「この論は龍樹(竜猛)が作成した千部の論書の中でも第一の肝心の論なのだ」と言った。

答へて曰く、

この「菩提心論」は一部七丁だが、龍樹の言葉ではないものが処々に多い。故に経の目録にも或いは龍樹作、或いは不空作となっていて未だに決定されていない。その上、内容を検討してもこの論文は釈迦一代を総括された論ではなく、荒い箇所が多々ある。まずは、肝心の文とされている「唯真言の法の中においてのみ即身成仏する」というのが誤りだ。その訳は文証・現証が揃っている「法華経により即身成仏する」というものを無いことにして、文証も現証もあとかたもない真言の経に即身成仏を立てているのだ。また「唯真言の法中」の唯の一字こそが第一の誤りである。

このように検討を加えてみれば、不空三蔵は唐で密教を広めるために自分だけで作成した「菩提心論」を同時代の人達にさも重要な書物であるかのように見せかけようとして、「龍樹作の論書だ」としたのであろう。その上、不空三蔵には誤りが数多くある。いわゆる「法華経の観智の儀軌」の中で、「寿量品の仏は阿弥陀仏である」と書いているのは眼前の大僻見である。次に陀羅尼品は第26なのに第21の神力品の次に置いている。第22である嘱累品を経の末に下している。これらの誤りは言うかいもないようなものだ。そうかと思えば、天台の大乗戒を盗んで唐の代宗皇帝に宣旨を申し下させて、五台山の五寺を立てている。しかも真言の教相判釈には、天台宗の教相判釈を用いると言っている。どれもこれも世の人々を誑惑することばかりだ。他の人の訳した経ならば用いることもあろうが、不空三蔵の訳した経論は信じられない。総じてインド(月支)より中国(漢土)に経論を渡し訳した人は、旧訳・新訳で186人いる。羅什三蔵一人を除いては、いずれの人々も誤りのない人はいない。その中でも、不空三蔵はことに誤りが多い上に、誑惑の心が顕著なのだ。

 

同抄の前には以下のように記しています。(P1013)

 

太宗第四代玄宗(げんそう)皇帝の御宇、開元四年と同八年に、西天印度より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持て渡り真言宗を立つ。此の宗の立義に云はく、教に二種あり、一には釈迦の顕教、所謂華厳・法華等。

二には大日の密教、所謂大日経等なり。法華経は顕教の第一なり。此の経は大日の密教に対すれば極理は少し同じけれども、事相の印契と真言とはたえてみへず。三密相応せざれば不了義経等云云。

 

 

「真言諸宗違目」文永9(1272)55(P638 真蹟)

真言宗は天竺よりは之無し。開元の始めに善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等天台大師の己証の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、之を立て真言宗と号す。

 

 

「聖密房御書」文永11(1274)56月頃(P823 真蹟曽存)

不空三蔵の法華経の儀軌には法華経に印・真言をそへて訳せり。仁王経にも羅什の訳には印・真言なし。不空の訳の仁王経には印・真言これあり。

 

 

「本尊問答抄」弘安元年(1278)9(P1573 日興本)

問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし。問うて云はく、何れの経文、何れの人師の釈にか出でたるや。答へて云はく

中略

天台大師の法華三昧に云はく「道場の中に於て好き高座を敷き、法華経一部を安置し、亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安んずべからず。唯法華経一部を置け」等云云。疑って云はく、天台大師の摩訶止観の第二、四種三昧の御本尊は阿弥陀仏なり、不空三蔵の法華経の観智(かんち)の儀軌(ぎき)は釈迦・多宝を以て法華経の本尊とせり、汝何ぞ此等の義に相違するや。答へて云はく、是私の義にあらず。上に出だすところの経文並びに天台大師の御釈なり。

 

 

このように、日蓮文書に不空の名が出てくれば批判されないことはない、というほどに日蓮は不空批判を重ねています。しかも「成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌」まで大僻見と批判され、同書の法華経の本尊と日蓮の曼荼羅本尊の相違まで記しています。であれば、「塩田氏の論考やいかに」と思うところですが、法然浄土教の項でみたように、ここでも日蓮的摂入・包摂思想が生かされていると考えるのです。

 

「真言は亡国の悪法」の祖師の一人として、日蓮の批判の矢面に立たされているのが不空です。日蓮は何故に徹底して東密、台密批判をしたのでしょうか。

 

これについては前にも見たように文永5年の蒙古の牒状到来により日本を取り巻く情勢が緊迫することに伴い、密教による異国調伏等、真言師の台頭、活発化に対して、日蓮は承久の乱の先例に照らし「日本亡国」の強い危機感を抱き、対真言破を開始したということ。

その具体的な対象が鎌倉で身近にあり、祈祷のみならず貧者救済などの慈善事業などで名声を博していた極楽寺の良観であったことと共に、教理的側面というもの、即ち法華経の世界観、成仏観等の思想と密教の思想に近似性があり、近いが故に経の高低、浅深、勝劣というものを明確にしたかった、ということが考えられるのではないでしょうか。

 

その一端が弘安3(1280)72日、大田殿女房に報じた「大田殿女房御返事」(P1755 真蹟)にうかがえるのではと思います。

 

しかれども釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限るとをぼしめされて候ぞ。我が弟子等は此の事ををも()ひ出にせさせ給へ。

 

即身成仏は法華経に限るとして、その明文を示す過程で、

 

即身成仏の手本たる法華経をば指()しをいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て、剰へ唯の一字をを()かるゝ条、天下第一の僻見(びゃっけん)なり。此(これ)(ひとえ)に修羅根性(しゅらこんじょう)の法門なり。天台智者大師の文句の九に、寿量品の心を釈して云はく「仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之を秘して伝へず」とかゝれて候。此こそ即身成仏の明文にては候へ。

 

と真言の即身成仏を批判するのです。

 

別な言い方をすれば、それだけ日蓮は密教、台密を摂取、その影響を受けていたともいえ、日蓮の心中では、台密を乗り越えねばならない何ものかがあったものか。真蹟書簡中、明確な東密批判が立教より16年、日蓮48歳の文永6(1269)に系年される「法門申さるべき様の事」(清澄寺に入った12歳から36年後)、同じく台密批判は立教より21年、文永11(1274)1120日の「曾谷入道殿御書」でこの時日蓮は53(清澄寺に入った12歳から41年後)

 

日蓮の教理展開で東密に対したのは「最後の13年」、台密には「最後の8年」だけなのです。

 

密教系の寺院であった出家得度の清澄寺。

四宗兼学・諸行往生を旨としながらも、浄土教により衰微していた顕密仏教の象徴たる青年日蓮が学んだ比叡山。日蓮自身も「真言の秘教をあらあら習ひ」(善無畏三蔵抄)、「顕密二道并びに諸宗の一切の経」(神国王御書)と述懐している京都、奈良を始めとした各地での修学。そこでは密教の胎蔵界曼荼羅(大日経を典拠とす)、金剛界曼荼羅(金剛頂経を典拠とす)、そして法華経に依る法華曼荼羅などを目にしたことでしょうし、のみならず、合掌礼拝も重ねたことでしょう。

 

このような日蓮の青年期の、台密からの思想的影響、更に法華真言並列の時期の書簡、台密批判前の諸状況から考えると、若き日に目にした不空の「成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌」や台密の「法華儀」「蓮華三昧経」を、また実際に拝した胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅、法華曼荼羅等を参考にして、画像を文字に置き換えての妙法曼荼羅の図顕であったことも十分に考えられるのではないでしょうか。

 

妙法曼荼羅が、全くの日蓮・自己の独創ということは俄かには考え難いと思います。

第一に、法華経を最上のものとするのは「法華経」自体に説かれるところですが、それを宗団として本格的に世に宣し明らかにしたのは智顗以降であり、法華経を軸にした教相判釈、教理展開は天台宗より始まったものでした。

日蓮はそれを自己の思考中に「摂り入れ」て、更に鮮明化、且つ強烈なる法華勧奨、専修題目の奨励等、独自化していったのです。題目自体はそれ以前でも、比叡山はもとより平安貴族などで行われていたものでした。

 

要は、日蓮は「それ以前の教え」、旧仏教・顕密仏教に蔵されるものからまずは「法華経」を摂り入れ自己のものとして「法華経最第一」を鮮明化して再生、教理面の核としながら、以降も同様の作業「日蓮的摂入・包摂」を繰り返し教理面の完成を試みて、独自の法華経信仰の世界=日蓮法華教を作り出していったように見えるのです。

 

尚、これも密教、特に東密に関連してきますが、空海の「御遺告」に基づき図像化した「三尊合行法」という、中央に如意宝珠、右に不動明王、左に愛染明王を描いた図像と日蓮の初期曼荼羅の酷似より、妙法曼荼羅は東密の図像にヒントを得たとの説もあります。(興風17P283・山上氏の論文中の西岡氏の説)しかしながら、「三尊合行法」の成立は日蓮の晩年以降との指摘もあり、更なる考察が必要な事項ともなっています。

 

日蓮は文永10(1273)の「祈祷抄」にて、「承久の乱」で朝廷側が配流、処罰された真因に「密教の祈祷」ありとし、以降の書簡にも記しています。そして今度は、日本国が蒙古の動きに動揺する事態に、「立正安国論」進呈時の一凶たる念仏に加え、東密、台密を的として批判を展開するようになります。

同時に、それら密教にとって替わるもの、そして日本国の万民が信ずべきものとして妙法蓮華経の広宣流布の必要を訴え、更に日蓮独自の発案たる妙法曼荼羅の図顕を重ねて新たなる展開をしていくのです。

虚空会の儀式を顕した曼荼羅には密教の曼荼羅に取って替わるもの、という意もあったのではないでしょうか。

 

繰り返しますが、「承久の乱」に関する長年の疑問の氷解。

その時より本格化する東密、台密への批判。

同じ頃から始まる曼荼羅の図顕。

日本国に差し迫る危機。

一方では「此の悪真言かまくら(鎌倉)に来りて、又日本国をほろぼさんとす(P1133)と、承久の乱で朝廷側敗北の因となった東密などの僧侶の弟子達が以前から鎌倉入りしており、今度は蒙古・異国調伏の為に祈祷を行なっている現状。

対して日蓮は佐渡に配流され、社会的には抹殺扱いの現実。

一連の流れに抗するような、佐渡での「開目抄」「観心本尊抄」の執筆。

「立正安国論」への東密批判の書き加え。

文永の役、続いての弘安の役。

時を同じくして本格化する曼荼羅の作成。

 

これら日蓮と社会の動向を勘案すると、日蓮は東密、台密破折、更に密教僧が調伏の祈祷を捧げる胎蔵・金剛また法華曼荼羅等への対抗心と破折、そして真の異国調伏・国土安穏は法華経に依るべきであり妙法曼荼羅への祈りである、という観点からも自己の曼荼羅を顕し続けた、という見方もできるでしょうか。

 

法華一乗思想を軸にした総合仏教として、教理面の完成を期しながら本格的な密教摂取は叶わないまま終わった最澄。

東密・台密を破折して、その異国調伏の祈祷により日本の亡国は必定と主張しながら結局は、弘安の役の後、「密教の祈祷に依る法験で蒙古軍は海に沈んだ」と世人に認識され、以来、本格的な密教破折は行わず急速に死期へと向かった日蓮。

 

最澄と密教と、そして日蓮と。

 

何かしら因縁めいたものを感じるですが(ここでは概要を書いただけでしたが)、ともかく、この件は更に考えていきたいと思います。

 

2023.4.22