日蓮仏法~白法隠沒後の末法に東土の日本より出づべき法

 

10年以上前、「法華経の寿量品に釈尊本仏は明白だ」と言われる方と語り合いました。

「日蓮本仏思想という考えは、実は法華経、取り分け法華経如来寿量品第十六の説示と矛盾しています」というものです。

 

自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇

 

常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫

 

為衆生度故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法

 

我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見

 

衆見我滅度 広供養舎利 咸皆恋慕懐 而生渇仰心

 

衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命…

 

 

我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数

 

無量百千万 億載阿僧祇なり

 

常に法を説いて 無数億の衆生を教化して

 

仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり

 

衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず

 

而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く

 

我常に此に住すれども 諸の神通力を以て

 

顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ

 

衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し

 

咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず

 

衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に

 

一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず

 

 

本門教主釈尊は、「我常住於此」(常に此に住して法を説く)と宣言しているのです。あなたと私がいるこの瞬間、娑婆世界で説法をなし衆生を教化し続けている。なのに、そこに新たな本仏が現れて新しい法を樹立する、即ち末法の教主日蓮や日蓮本仏などということは、この寿量品の記述に大いに矛盾してしまうのです。いや、教主日蓮・本仏日蓮こそ「法華経の思想」「法華経の心」に背く邪義というべきです。

そもそもが、日蓮本人は「釈尊、釈尊」と教主釈尊直参の信仰をつくった導師であって、日蓮自らが「我れ本仏、教主」など、露ほども思ったり、考えたりすることなどなかったのです。

 

⇒このように言われる方は以前は、「法華経は釈迦とはなんの関係もない妄想の産物、偽経なり」と主張していたのですが、「日蓮本仏」を否定するとなるといきなり「法華経釈尊教説」の立場に転じてしまったのですから、変わり身の早さには驚かされたものです。

 

さて、それはともかく、では日蓮は彼が指摘するように、教主としての自覚の片鱗すらもうかがわせることはなかったのでしょうか。

 

まずは「撰時抄」の一節を確認してみましょう。

 

答えて云く、仏眼をかつて時機をかんがへよ仏日を用て国土をてらせ。問うて云く其の心如何。答えて云く大集経に大覚世尊月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり、所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固[已上一千年]、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固[已上二千年]、次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠沒せん等云云。

中略

彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、

 

 

現在は後五百歳・末法の時であり釈尊の教えは「闘諍言訟・白法隠沒」として、

 

但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内八万の国あり、其の国国に八万の王あり、王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく、広宣流布せさせ給うべきなり。

 

念仏が広まったように、南無妙法蓮華経は一閻浮提に広宣流布していくのである、と教示します。

 

日蓮は「大集経」を否定して、「釈尊の教え、法は永遠である」としたのではありません。日蓮は「大集経」の五五百歳を引用して、後五百歳には「闘諍言訟・白法隠沒」となるのであり、その末法の時代では念仏ではなく妙法が一閻浮提に広宣流布するのである、というのです。

 

そうですね。

「白法隠沒」ですから、釈尊の教えはかたち(経典)は残れどもその内実は隠れ没してしまったというべきでしょう。

 

しかも、白法が隠沒した後、浄土教の人師が念仏の広まることを説くのに対して、南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提への広宣流布ですから、明らかに「白法隠沒後の末法に衆生を成仏せしめる法」を説いているのです。

 

次に「顕仏未来記」を確認してみましょう。

 

問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何。答えて曰く・仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり、仏法必ず東土の日本より出づべきなり。其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか。所謂仏生の時・転法輪の時・入涅槃の時・吉瑞凶瑞共に前後に絶えたる大瑞なり。仏は此れ聖人の本なり、経経の文を見るに仏の御誕生の時は五色の光気四方に遍くして夜も昼の如し、仏御入滅の時には十二の白虹南北に亘り大日輪光り無くして闇夜の如くなりし。其の後正像二千年の間・内外の聖人生滅有れども此の大瑞には如かず。而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変、宛かも仏陀の生滅の時の如し。当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか。大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん。当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし、惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり。

 

意訳

あなたに問いましょう。

(釈尊)の未来記が題目と法華経を弘め、難を蒙ったあなたにあてはまることはよく分かりました。それでは、あなたの未来記はどのようなものでしょうか。

答えましょう。

(釈尊)の未来記に準じてこれを考えてみると、今はすでに後五百歳の始め、末法の始めの五百年に相当しています。末法の仏法(正法)は、必ずや東土の日本から出現するのです。その前相は必ずや、正法・像法時代のものを超えた天変地夭として起こることでしょう。

いわゆる釈尊の誕生の時、仏(釈尊)が法を説かれた時、仏(釈尊)の入滅の時に起こった瑞相は、吉瑞も凶瑞も共に、前後の時代に比類なき大瑞でありました。

仏はこれ聖人の本であります。経典を開くと仏(釈尊)が誕生した時は「五色の光気が四方を遍く照らして、夜も昼のようであった」と説かれています。仏(釈尊)が入滅の時には、「十二の白い虹が南北にわたり太陽は光をなくして闇夜のようになった」と説かれています。

 その後、正法・像法二千年の間に内道・外道の数多の聖人が出現しては滅していきましたが、この釈尊の時のような大瑞にはとうてい及びませんでした。

しかるに、去る正嘉年中より今年に至るまで、あるいは大地震が起こり、あるいは大天変があり、あたかも釈尊の生滅の時のようです。ここにおいてまさに知るべきです、仏のような聖人が生まれることを。

大空に大彗星が現れましたが、どのような王臣を以てこの瑞相に対するのでしょうか。瑞相は大地を傾動して三度も振裂するものでしたが、どのような聖人・賢人を以てこれに当たることができるでしょうか。まさに知るべきです、一般世間の吉凶の大瑞ではないということを、これらはひとえにこの大仏法興廃の大瑞であるということを。

 

 

・「後五百歳の始に相当たって、仏法は必ずや東土の日本より出ずるべきである」とありますが、末法に入って日本から出ずる仏法とはどのような仏法なのか?

 

・「当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか」と記述している時に、日蓮の念頭にあった「仏の如き聖人」とはどのような人物なのか?

 

・「惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」天災地変が大法興廃の大瑞ではあるが、興隆する大法、廃れる法とは何なのか?

 

これらは「当に知るべし」ですから、門下が思考し理解して信仰の糧とすべきことではないかと思います。

 

ここに説かれる仏法の内実が「末法の本仏・教主釈尊の正法」であるならば、わざわざ改めて書き起こして「あなた方がよく知るべきことですよ」とやるでしょうか。

 

日蓮の「文が意味するもの」は、日蓮の仏法が日本より出でる。仏のごとき聖人にして、釈尊の仏法が廃れ日蓮法華の法が興隆するとの宣言と拝せるのではないでしょうか。

 

 

今回は「撰時抄」と「顕仏未来記」を通して、「末法の教主・日蓮」であることを読み解いてみました。

 

2022.12.31