日蓮の身延入山に関する一考
1 身延入山に至る日蓮の心情
「高橋入道殿御返事」(真蹟)に「たすけんがために申すを此程あだまるゝ事なれば、ゆりて候ひし時さどの国よりいかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども」(定P1088)とあるように、日蓮は佐渡流罪を赦免になったら配流地より直接、山中海辺へ向かうべきと考えていたようだ。だが「此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候ひき」(同)と、真言の悪法たる所以を平左衛門尉に申し聞かせて、蒙古襲来後も生き残るであろう衆生を助けようと一旦は鎌倉に赴いている。
続いて「申しきかせ給ひし後はかまくらに有るべきならねば、足にまかせていでしほどに」(定P1089)と、平左衛門尉に言うべきことを言った後は、鎌倉にいるべき身ではないとして、足に任せて出発したとしている。「いかなる山中海辺にもまぎれ入る」としていた日蓮が向かったのは身延山だった。関連遺文を確認してみよう。
「上野殿御返事」(文永11年[1274]11月11日 日興本)
抑日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども、日本国の上下万人一同に、国のほろぶべきゆへにや用ひられざる上、度々あだをなさるれば力をよばず山林にまじはり候ひぬ。(定P836)
「光日房御書」(建治2年[1276]3月 真蹟曽存・断片)
本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。(P1155)
「南条殿御返事」(建治2年[1276]閏3月24日 真蹟)
失もなくして国をたすけんと申せし者を用ひてこそあらざらめ。又法華経の第五の巻をもて日蓮がおもてをうちしなり。梵天・帝釈是を御覧ありき。鎌倉の八幡大菩薩も見させ給ひき。いかにも今は叶ふまじき世にて候へば、かゝる山中にも入りぬるなり。(定P1176)
「報恩抄」(建治2年[1276]7月21日 真蹟)
又賢人の習ひ、三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれということは定まれるれいなり(定P1239・前出)
中略
それにつけてもあさましければ、彼の人の御死去ときくには火にも入り、水にも沈み、はしりたちてもゆひて、御はかをもたゝいて経をも一巻読誦せんとこそをもへども、賢人のならひ心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出づるならば末もとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず。(定P1240)
「下山御消息」(建治3年[1277]6月 真蹟)
此れ日比日本国に聞こへさせ給ふ日蓮聖人去ぬる文永十一年の夏の比、同じき甲州飯野御牧、波木井の郷の内身延の嶺と申す深山に御隠居せさせ給ひ候へば、(定P1312)
中略
国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし、用ひずば山林に身を隠さんとおもひしなり。又いにしへの本文にも、三度のいさめ用ひずば去れといふ。本文に任せて且く山中に罷り入りぬ。(定P1335)
日蓮は「国恩を報ぜんがため」を精神的支柱の一つとして、「日本国をたすけんとふかくおもへ」「日本国のほろびんを助けんがため」「国をたすけんと」、日本国が邪法興隆の帰結として他国侵逼・自界叛逆の亡国、乱国となることを防ぐ為に「国をいさむる」、即ち「立正安国論」を以て諌め法華勧奨に励んだのだが、その答えは「用ひられざる上」「御用ひなく」「用ゐずば」「用ひずば」というものだった。
「三度までは諌暁すべし」と三度までは諌めたものの、「今は叶ふまじき世」という現実を認識し、結果として用いられることなかった教養ある仏教僧・日蓮が次に取るべき行動は、孔子の「孝経・諌争章」に見られるような「三諌不納奉身以退」であった。それは「三度いさめんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに」(定P1155)と記すところからもうかがえるものだと思う。そして日蓮は鎌倉を去り、身延に入山する。
身延に到着した当日、文永11年(1274)5月17日に富木常忍に報じた「富木殿御書」(真蹟)に、「いまださだまらずといえども、たいしはこの山中心中に叶ひて候へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一人になて日本国に流浪すべきみにて候。」(定P809)とあり、「報恩抄」の「遁世」、「下山御消息」の「御隠居」等と併考して「日蓮は幕府に用いられることなく敗北した」「挫折して身延に入山した」「漂泊者日蓮は遁世僧となった」等の解説もあるようだ。
だが、「遁世」「御隠居」とある「報恩抄」「下山御消息」では、世間の認識としての客観的な記述となっていて、それが日蓮の「思い」を表したものとは直ちにはいえないと思う。「富木殿御書」は前にある「けかち(飢渇)申すばかりなし。米一合もう(売)らず。がし(餓死)しぬべし。此の御房たちもみなかへして但一人候べし」(定P809)により、飢饉下にあって米一合の入手も困難な状況となり自身と一門の食料確保にも窮し餓死が他人事と思えない事態となっていたこと、また蒙古襲来を眼前とするにも関わらず自らは山林へと向かう身であったことにより記述したと思え、この時の心中は確かに「挫折感」あり、「漂泊者」としての沈鬱なものがあったと思う。
ただ、直後の5月24日に「法華取要抄」を執筆したことと、その後の書状、法門書などの執筆量、図顕曼荼羅の多さという結果から遡って考えれば、流罪赦免後より身延入山前の日蓮は「新天地で法華経信仰を完成することを期していた」と推考できよう。
従来は個々の修行者・教養ある者の観念世界でしか、その「効能」が知られなかった「法華経」。日蓮は日本国の政体、顕密仏教を中心とした既存秩序というものを前提としながらも、「法華経世界」を現実の国土に置き換え、此岸を再確認・復興して「法華経信仰の浄土」を顕現せんとしたが、「用いられる」ことはなかった。敗北感、挫折感と心中深く期するもの、絶望と希望、諦めと挑戦、陰的なもの陽的なもの、静的なもの動的なもの等、あらゆる作用と反作用を心中に同居させながら、彼は身延山に入ったのではないだろうか。
だが、時というものがとどまらず刻一刻と刻まれるように、周囲の環境、世の動向も止まることはなく絶えず変化してゆく。この「時の動き・働き」が「静かなる日蓮」であることを許さず、それ以前にも増しての「日蓮が法門」完成への取り組みを促していった。そして、日蓮のそれまでの「自己が一切の矢面に立った」伝道が因となったか、「仏教の師から弟子への法軌」通りか、これまた「新しい人を生み出す時の力」によるものか、師匠の日蓮が身延に入山して後は各地で「小日蓮」ともいうべき直弟子らの活発なる「専持法華」の主張と伝道活動が行われ、8年と5箇月後の臨終の時には「本弟子六人」とその系統による「日蓮教団」が形成されるに至るのである。
2 日蓮はなぜ鎌倉を去ったのか
日蓮の佐渡流罪赦免後の鎌倉滞在は、文永11年(1274)3月26日より5月12日までの2ヶ月に足らないものだった。4月8日に平左衛門尉と面談し、4月12日に鎌倉で吹き荒れた大風を加賀法印定清(阿弥陀堂法印)の祈祷と関連させて教理的に位置付けた後、「かまくら(鎌倉)に有るべきならねば、足にまかせていでしほどに」(定P1089)と鎌倉より身延山へ向けて出発する。
日蓮は自らが鎌倉にいるべき身ではないと判断した理由を、建治2年(1276)3月の「光日房御書」(真蹟曽存・断片)に記述している。
ましていわうや日本国の人の父母よりもをもく、日月よりもたかくたのみたまへる念仏を無間の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頸をはねらるべしと申す上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給ひたりと申すほどの大禍ある身なり。此等程の大事を上下万人に申しつけられぬる上は、設ひそらごとなりとも此の世にはうかびがたし。いかにいわうやこれはみな朝夕に申し、昼夜に談ぜしうへ、平左衛門尉等の数百人の奉行人に申しきかせ、いかにとがに行なはるとも申しやむまじきよし、したゝかにいゐきかせぬ。されば大海のそこのちびきの石はうかぶとも、天よりふる雨は地にをちずとも、日蓮はかまくらへは還るべからず。(定P1153)
「是一非諸・法華勝諸経劣=既存仏教批判」「謗法即断罪=諸寺院焼却・謗法者斬首」「宗教的論断=為政者の死後世界について」、これらを日常的に語り鎌倉の民衆に知らしめたこと、平左衛門尉ら幕府高官に訴えたことなどを理由として挙げている。
これらによれば、自らの主張するところが聞き入れられれば鎌倉は日蓮法華一色、逆であれば謗法諸宗に満ちるということであり、日蓮にとって謗法諸宗と同じ鎌倉都市空間で居住するという中間的思考はなかったということになる。
このような宗教都市=法華経中心都市思想は日蓮の法華経に対する教理的解釈「仏と申すは三界の国主」(定P881 神国王御書 真蹟)との「久遠仏三界国主観」、「娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり」(定P992 一谷入道御書 真蹟断片)との「久遠仏娑婆世界領有観」の現実世界への投影によるものと考えられ、「久遠仏三界国主観・久遠仏娑婆世界領有観」が法華最勝を鼓吹する活動の源となり、「久遠仏を三界の国主とする」「娑婆世界は久遠仏の領地とする」が活動の帰着点でもあったと思う。
即ち為政者の受持法華・帰命久遠仏により、日本国の宗教的国主として久遠仏が尊信され、国主・久遠仏の功徳力が満ちたる法華経の国である。そして、その実現なければ全くの逆方向・破滅へと向かい「他国侵逼難」による「亡国」とならざるをえない、というものが日蓮とその一門の社会に対する認識の中心にあったものか。
特に「他国侵逼」は「近い将来現実的なものとなる」との危機感により日蓮一門の教説は先鋭化、対して他宗を信奉する鎌倉仏教界・民衆よりの反発・反動が起きれば更に日蓮一門の結束と活動の活発化を促すという循環作用により、鎌倉日蓮法華衆と仏教界・幕府の緊張関係は沸騰点に達して文永8年(1271)の「悪党・日蓮一派逮捕・取り締まり」、日蓮一門にとっての「文永8年の法難」に至ったものだろう。
尚、建治元年(1275)6月10日の「撰時抄」には「権大乗経の題目の広宣流布するは、実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや。心あらん人は此れをすい(推)しぬべし。権経流布せば実経流布すべし。権経の題目流布せば実経の題目も又流布すべし。」(定P1048)とある。
実際には日本国全ての人が唱えてはいない南無阿弥陀仏が流布する様相を念仏の広宣流布として、法華経の題目広宣流布の序としていることにより理解できる「広宣流布とは直ちに全民衆の法華経受持を意味しない」ということに比べれば、鎌倉期の日蓮の主張は「日蓮法華以外の存在認めず」という極端なようにも思える。
これについては鎌倉期では、「幕府要路への立正安国論進呈後は権力との緊張関係が続き、覚悟の程がそのまま主張にも反映されただろうこと」「如来使として対決すべき諸宗を眼前とし接触も多かったであろう故、謗法禁断の意を強くしただろうこと。特に極楽寺良観の存在が大きいか」、これらに加え「鎌倉は一国の動向を決する日本国の事実上の首都であり、そこでの法華経信仰の有り様が法華経の国実現への源でありその盤石を期そうとした」などを要因としたものではないだろうか。
このような経緯により、真言師などの異国調伏の祈祷の声満ちる鎌倉は、日蓮の居場所のない地となった。鎌倉は門弟による継続的開拓の地、蒙古襲来による滅亡後の「法華経の国」への可能性が残されている地となって、日蓮自らの法華勧奨の地としては「終わった」ようだ。
3 日蓮が山林に交わる身となった意味
日蓮が「山林に交わる」具体的な居所として「なぜ甲斐の国波木井郷身延の地を選んだのか」については、波木井実長の招請によるものであることは広く知られている。
では、日蓮にとって「山林(身延山)に交わる」ということは、どのような意味があったのだろうか。
① 法華久住
まず挙げられるのは、鎌倉幕府より干渉されるのを避け、弟子檀越への教導の機会を確保して信仰増進不退を図り、佐渡で宣して以来の曼荼羅を図顕すると共に教理的基盤を固め、日蓮法華一門としての組織的確立を期した。即ち「法華久住に専念するため」というものがあるだろう。
真言師らによる祈祷盛んな鎌倉にそのまま留まるならば、「立正安国論」に「其の上涅槃経に云く『若し善比丘あって法を壊ぶる者を見て置いて、呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子、真の声聞なり』」(定P219)と涅槃経の文を引用した日蓮である、当然、破折を続けないわけにはいかない。しかしながら、その結果がどうなるかはこれまでの経験からして分かりきっている。もはや幕府膝下にあって同じことを繰り返すのではなく、『新しい展開の時である』というのが日蓮の考えだったのではないか。日蓮が身延のような深山に入れば、幕府としては眼の上のこぶが取れたようなもので、日蓮がそうであるように、幕府にとっても日蓮とは何ら関わるところがない故、後は両者それぞれの道を歩むだけである。
入山翌年の文永12年(1275)3月10日に、下総の曾谷・大田両氏に報じた「曾谷入道殿許御書」(真蹟)の次の一説は基礎的資料収集の万全を期す日蓮の意が読み取れるものであり、いかに教理面の整備・充足、そして完成に心を砕いていたかが理解できるものだろう。
本文
此の大法を弘通せしむるの法には、必ず一代の聖教を安置し、八宗の章疏を習学すべし。然れば則ち予所持の聖教多々之有りき。然りと雖も両度の御勘気、衆度の大難の時、或は一巻二巻散失し、或は一字二字脱落し、或は魚魯の謬悞、或は一部二部損朽す。若し黙止して一期を過ぐるの後には、弟子等定んで謬乱出来の基なり。爰を以て愚身老耄已前に之を糾調せんと欲す。而るに風聞の如くんば、貴辺並びに大田金吾殿の越中の御所領の内、並びに近辺の寺々に数多の聖教あり等云云。両人共に大檀那たり、所願を成ぜしめたまへ。涅槃経に云はく「内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」云云。天台大師は毛喜等を相語らひ、伝教大師は国道・弘世等を恃怙む云云。(定P910)
意訳
この大法を弘通するためには、必ず釈尊一代の聖教を用意して八宗(華厳、三論、法相、倶舎、成実、律、真言、天台)の章疏(経典注釈書)を教材として学習すべきである。私が所持する聖教も多くあったのだが、伊豆・佐渡の流罪と何回もの大難の時に一巻・二巻を散失し、一字・二字が脱落したり、或いは魚と魯は字体が似ていて誤りやすいように書写の際に文字を写し間違えたり、一部・二部を破損してしまった。もしこれらを直さずに一生過ごしてしまうならば、やがては弟子達の間で議論となって私の真意が伝わらずに誤った教義が出来する因となってしまうことであろう。故に私が老境に入る前に経典、章疏の不足、欠落箇所等、詳細を調べ修正、整備しておきたい。人から聞いたところでは、貴殿(曾谷)と大田金吾殿の越中の領地内、そして近在の寺々に数多くの聖教があるということだ。曾谷殿と大田殿は共に日蓮の大檀那なのだから、私の願いを是非、かなえて頂きたいものである。涅槃経には「内には智慧の弟子が有って甚深の義を了解し、外には清浄の檀越が有って仏法は久住する」と説示されている。天台大師は毛喜等と相語らって帰依せしめ、伝教大師は大伴国道・和気弘世等を頼り両名もまた最澄を助けたのである。
日蓮身延在山中の遺文は多く、伝来が真蹟・写本に関わらず昭和定本1・2巻の「正編」によって書状、法門書を確認すれば、入山当日の「富木殿御書」がNO144、身延最後の「上野殿御書」がNO431だから(432の身延山御書は除いた)、これら遺文だけで287の文書量であり、1・2巻全体434の七割近くとなる。真蹟・真蹟曽存・日興などの高弟写本の「正編」遺文は1・2巻に4巻を加えて263あり、その内身延期のものは206となる。これに3巻と4巻の身延期の「図録」真蹟10を加えれば216になる。
(若干の計算違いがあるかもしれませんがほぼこれくらいの数になります。間違いを確認したら修正します)
曼荼羅については周知のとおり、立正安国会による「御本尊集」収載真蹟曼荼羅NO1~NO123の内、NO11以降のほとんどは「身延期」図顕のものだ。その相貌座配についても文永~建治~弘安と次第に整足していったとされる。
日蓮は文永10年(1273)4月25日、佐渡で著した「観心本尊抄」にて「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」(定P711)と、久遠仏の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足されており、それを受持することにより久遠仏の因果の功徳が信奉者に譲り与えられるものであるという「受持即観心、自然譲与」を示す。そして「此の釈に闘諍之時と云云。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指す也。此の時、地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦、未だ此の本尊有さず。」(定P720)と、自界叛逆・西海(他国)侵逼の二難が起きた時に、地涌千界の大士が出現して本門の釈尊は脇士となる一閻浮提第一の本尊が日本国に立つことを宣している。
(観心本尊抄と同年の7月8日に顕された佐渡始顕本尊には、「此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之」とあり、後の曼荼羅にも「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」とあって、「一閻浮提之内」に「未曾有」ということは「第一である」ということと同義と思われるから、日蓮は多くの図顕曼荼羅にも一閻浮提第一の本尊の意を持たせていたと理解される)
続いて同年閏5月11日の「顕仏未来記」(定P740 真蹟曽存)では、「爾(しか)りと雖も仏の滅後に於て、四味三教等の邪執を捨てゝ実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩法華の行者を守護せん。此の人は守護の力を得て本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」と「本門の本尊、妙法蓮華経の五字」の一閻浮提への広宣流布を説く。
「観心本尊抄」の一閻浮提第一の本尊は自界叛逆・西海侵逼の二難が起きた後、国主帰依の時を待つとの意味が含まれていたとしても、「釈尊の因行果徳の二法=妙法蓮華経の五字」は直ちに日蓮の手で顕せるものであり、それを「閻浮提に広宣流布せしめんか」とした以上、具体化、顕現させる思いがあった。このような意による身延山中での曼荼羅図顕となり、「閻浮提に広宣流布せしめん」との日蓮の情熱と、檀越の増加に伴い門下の曼荼羅授与の要請も比例したことが、身延期の曼荼羅の数量に表れているのではないかと思う。
次に法華経八巻、無量義経一巻、仏説観普賢菩薩行法経一巻の本経行間、紙背に経釈の要文を注記した「私集最要文注法華経=注法華経・十巻」については、立正安国会の片岡随喜氏は「筆跡より推考すれば身延入山以降の注記」とし、稲田海素氏も同意見。山中喜八氏は「筆跡は立宗前後の注記とは拝し難く、早いもので文永9年(1272)、遅いもので弘安初年(1278)であり、大半は文永11年(1274)から建治3年(1277)に亘る期間のもの」(趣意)と推定されている。(「日蓮聖人真蹟の世界・下」山中喜八氏 1993 雄山閣)
遺文、曼荼羅の数量と膨大な注法華経の書き込み・・・・
これらのことは日蓮が身延山においていかに筆をふるったか、また、本尊としての曼荼羅の相貌座配の整足(本尊)と「日蓮が法門」の内的充足=教理面の整備・充実、完成(教義)に力を注いだことを表しているものであり、日蓮が「山林に交わる」意味がどこにあったか、即ち本尊・教義という宗教の根本要件を充たすことに精励せんとし、また実行したことが理解できるのである。
特に従来からの「法華経の行者」との自らの呼称を継続したことに加え、身延入山以降は久遠仏より付属を受けた上行菩薩と暗示する表現が増えており、自己の「教理的位置付け」について内外に示し後代に残すこともまた、入山の意としてあったのではないかと思われる。
もちろん、日蓮の教導は文書によるものだけではなく、実際に多くの弟子を身延の草庵で育成しており、遺文から身延山の日蓮のもとにいたことが確認できる弟子を列挙してみよう。
日朗、日高、三位房、大進阿闍梨、日興、日頂、日向、日永、豊後房、丹波房、山伏房。
身延を訪れた信徒についても見ておこう。
南条時光、南条七郎五郎、阿仏房、藤九郎盛綱、九郎太郎、国府入道、富木常忍、曾谷法蓮、四条金吾、高橋入道、西山氏、三沢氏、松野氏、松野尼御前、出雲尼御前、内記左近入道、波木井次郎、藤兵衛、右馬の入道、三郎兵衛、兵衛志殿御前、武蔵房圓日(有力檀越の使いの者も他にいる)。
身延以前、佐中までの「弥菩提心強盛にして申せばいよいよ大難かさなる事大風に大波の起るがごとし」(定P1237 報恩抄)の間は(文永8年の法難以前の鎌倉での数年を除いては)日蓮自らの居所すら定まらない状況であったから、弟子・檀越への法門教導は一定期間特定の場所に身を置いた「身延期」であればこそ、可能になったものといえるだろう。
② 俗権から離れる
幕府の干渉ということに関しては、系年、弘安元年(1278)とされる4月11日付けの「檀越某御返事(四条金吾御返事)」(定P1493 真蹟)によれば、わずか20日程前に「日蓮一生の間の祈請並びに所願忽ちに成就せしむるか」(諸人御返事 定P1479 真蹟)と喜んだ「真言禅宗等の謗法の諸人」(同)との公場対決の機運はどこへやら、三度目の流罪の話があったようで、日蓮は「法華経故の流罪となるならば、それは雪山童子の跡を追い、不軽菩薩の身になれるもので百千万億倍の幸いである。いたずらに疫病などにかかり、老い朽ちていく身を法華経に捧げて、生死を離れることができるであろう」としている。
「檀越某御返事(四条金吾御返事)」本文
御文うけ給はり候ひ了(おわ)んぬ。
日蓮流罪して先々(さきざき)にわざわいども重なりて候に、又なにと申す事か候べきとはをも(思)へども、人のそん(損)ぜんとし候には不可思議の事の候へば、さが(前兆)候はんずらむ。もしその義候わば用ひて候はんには百千万億倍のさいわい(幸)なり。今度ぞ三度になり候。法華経もよも日蓮をばゆるき行者とわをぼせじ。釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌千界の御利生、今度みは(見果)て候はん。あわれあわれさる事の候へかし。雪山童子の跡ををひ、不軽菩薩の身になり候はん。いたづらにやくびゃう(疫病)にやをか(侵)され候はんずらむ。を(老)いじ(死)にゝや死に候はんずらむ。あらあさましあさまし。願くは法華経のゆへに国主にあだまれて、今度生死をはなれ候はゞや。天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかい、今度心み候ばや。(定P1493)
意訳
お手紙に書いてくださった事の経緯については承りました。
日蓮のことを何度も流罪して種々の災いが重なっているのに、又何かと言われているようなことが起きるとは思わないが、人間というものは滅びへと向かっていると、道理のある常人には理解できない不可思議なことをやりだすものであり、実際に流罪となる前兆と言えなくもない。もしも、そのような三度目の流罪が行われるならば、「立正安国論」以来訴えてきた「法華勝諸経劣」「法華経最第一」「謗法諸宗禁断」が受け入れられるよりも、百千万億倍の幸いというものである。
何しろ今度は三度目の流罪なのだ。法華経(久遠仏)もよもや、日蓮のことを中途半端で懈怠な行者だとは思わないことであろう。久遠仏・多宝仏・十方の諸仏、地涌千界の諸菩薩らの加護の利益を今度は見極めたい。巷間言われていることが起きてほしいものだ。雪山童子の跡を継いで、不軽菩薩の身になりたいものである。いたずらに疫病に罹ってしまうか、老いて死んでしまうかの身である。重ね重ね嘆かわしいことである。願わくは法華経の故に国主に怨まれて、今度は生死の迷いから離れたいものである。天照太神・正八幡大菩薩・日天・月天・帝釈天王・梵天王等の、法華経行者守護の、仏前の誓いを今度こそ試みたいものである。
本書は、「対告については『本満寺目録』に『四条金吾殿御消息』とあるように、他の四条氏宛遺文との関連から、古来から四条金吾とされている」(日蓮聖人遺文辞典・歴史編 P732)とのことで、流罪の噂は鎌倉でのものということになるだろう。
日蓮が最後に平左衛門尉に会ったのが文永11年(1274)4月8日だから、幕府関係者と顔を合わせることがなくなってから早4年。しかも鎌倉から遥か遠く、身延の深山にいる日蓮について「三度目の流罪」との噂が鎌倉市内に流れているのである。
日蓮によって自らの宗教観を傷つけられ、怨恨を抱き続けた当局者によるものか。
在鎌倉の顕密仏教勢力=宗教的敵対勢力が、意図的に流したものか。
または迫りくる蒙古の影がそのまま在りし日の日蓮と重なり、対蒙古戦に向けての勇を誰人かが日蓮追放に転じて流したものか、真相は明らかではないようだ。
いずれにしても、暴徒の草庵襲撃、突然の逮捕という前例が鎌倉にはある。日蓮の身が身延ではなく鎌倉にあったならば、次に何が起こるか分からないある種の不安に師も弟子も日常的にさらされて、覚悟の程が法華伝道上の殉教的使命感を沸騰させたことだろう。続いては、熱湯が噴き出す如き布教活動も活発化、必然的な言論対決も日常と化してしまい、心落ち着いての法華久住の取り組みは成せなかったと思う。
「自己と久遠仏との関係、自己が久遠仏より与えられた宗教的使命、自己が久遠仏の使者として現在成すべきこと、そして自己の存在意義」これら日蓮自らの内面世界を語り書いていくのは、顕密仏教勢力がどのような敵対的行動を起こすか分からない鎌倉、また蒙古襲来への不安に陥り、様々な事象に過敏な反応を示した幕府が統治する鎌倉という都市空間では叶わないことだった。
入山以前、「少少の難はかずしらず大事の難四度なり」(定P557 開目抄)と日蓮が身読した法華経故の艱難辛苦は彼の内面世界で昇華され、彼が書状を書き続けることにより、身延期の門弟達に「日蓮法華信仰の利益をもたらす慈雨」となって降り注いだように思われるのである。
③ 蒙古襲来に備えて
次に「山林に交わる」意味として考えられるのが、蒙古襲来に備えるというものだ。
この頃の日蓮は先に見たように蒙古襲来は必定としており、実際に平左衛門尉に告げたとおりに元軍は文永11年(1274)の10月5日に対馬を襲い、続いて壱岐は10月14日、10月20日には筑前国に上陸して日本勢と激戦を繰り広げている。だが、この時は夜半のうちに元軍の姿は消えてしまった。
他国が日本に攻めよせて国土を蹂躙する他国侵逼難は周知の通り「立正安国論」以来、日蓮が主張するところであり、であれば鎌倉を出た日蓮の念頭に「蒙古襲来に備えて居を移す」というものがあり、その具体的な行動が身延入山だったのではないだろうか。
実際に元軍などが本土、特に東日本に進攻してきたらどうなるだろうか。まずは諸国との交易拠点、国内の物流拠点、地方都市等の軍事拠点を順次攻め落とし、最後には包み込むように武家政権、幕府の本拠地たる鎌倉が陸から海から攻撃され制圧されるだろうことは、軍事的な素人でも想像できるところだ。主要街道も軍事物資運搬の路線となり、周辺部も緊張に包まれることだろう。
では、身延山はどうだろうか
軍事的に元軍が意識をするような要衝の地なのか?
これもまた誰にでも答えは分かろうというもので、戦闘時もその後の占領でも見向きもされないような所だろう。日蓮遺文より身延山の様相を見てみよう。
「新尼御前御返事(与東條新尼書)」(定P864 文永12年[1275]2月16日 真蹟断片)
此の所をば身延の岳(たけ)と申す。駿河の国は南にあたりたり。彼の国の浮島(うきじま)がはらの海ぎはより、此の甲斐国波木井郷身延の嶺(みね)へは百余里に及ぶ。余の道千里よりもわづら(煩)はし。
富士河と申す日本第一のはやき河、北より南へ流れたり。此の河は東西は高山なり。谷深く、左右は大石にして高き屏風(びょうぶ)を立て並べたるがごとくなり。河の水は筒の中に強兵(がっぴょう)が矢を射出したるがごとし。此の河の左右の岸をつたい、或は河を渡り、或時は河はやく石多ければ、舟破れて微塵(みじん)となる。
かゝる所をすぎゆきて、身延の嶺と申す大山あり。東は天子の嶺、南は鷹取(たかとり)の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり。高き屏風を四つつい(衝)た(立)てたるがごとし。峰に上りてみれば草木森々たり。谷に下りてたづぬれば大石連々たり。
大狼(おおかみ)の音(こえ)山に充満し、猿猴(えんこう)のな(鳴)き谷にひゞき、鹿のつま(妻)をこうる音(こえ)あはれしく、蝉のひゞきかまびすし。
春の花は夏にさき、秋の菓は冬になる。たまたま見るものは、やま(山)が(賊)つがた(焚)き木をひろうすがた、時々(よりより)とぶらう人は昔なれし同朋(どうぼう)なり。
「法蓮抄」(定P953 建治元年[1275]4月 真蹟断片)
今適(たまたま)御勘気ゆりたれども、鎌倉中にも且くも身をやどし、迹(あと)をとゞむべき処なければ、かゝる山中の石(いわ)のはざま、松の下に身を隠し心を静むれども、大地を食(じき)とし、草木を著(き)ざらんより外は、食もなく衣も絶えぬる処に、いかなる御心ねにてかくか(掻)きわ(分)けて御訪ひのあるやらん。知らず、過去の我が父母の御神(みたま)の御身に入りかはらせ給ふか。又知らず、大覚世尊の御めぐみにやあるらん。涙こそおさへがたく候へ。
「種種御振舞御書」(定P986 建治元年[1275]或いは建治2年[1276]真蹟曽存)
此の山の体たらくは、西は七面の山、東は天子のたけ、北は身延山、南は鷹取の山。四つの山高きこと天に付き、さがしきこと飛鳥もとびがたし。
中に四の河あり。所謂富士河・早河・大白河・身延河なり。
其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候。昼は日をみず、夜は月を拝せず。冬は雪深く、夏は草茂り、問ふ人希なれば道をふみわくることかたし。殊に今年は雪深くして人問ふことなし。命を期として法華経計りをたのみ奉り候に御音信ありがたく候。しらず、釈迦仏の御使ひか、過去の父母の御使ひかと申すばかりなく候。
交通は不便、周囲は山また山で険難悪路、人里から離れ食糧事情は悪く、日当たりもなく冬は極寒、夏は草茂り蒸し暑い。平時ですら人の営みとは隔たった山間部であり、元軍が仮に進軍して来たとしても、このような所では全くの軍事的関心外、せいぜいが富士川沿いに通過するだけだろう。もちろん常駐する必要もない。元軍だけではなく、国内での「戦乱」も含めて身延の草庵の地を見たとき、戦闘行為に巻き込まれる危険性が少ない山間僻地なのだ。
故に日蓮は佐渡の国府入道に報じた書状中で、「蒙古国の日本にみだれ入る時はこれへ御わたりあるべし」(定P914 こう入道殿御返事 真蹟)と有事の際には身延山に避難するように呼びかけているのではないだろうか。
そして、「文永の役」では日本国として被った実害は一部地域に止まったものの、先に見たように日蓮は次なる蒙古襲来は大災難になるとしていた。もう一度、遺文を確認しよう。
日本中が次なる侵攻の恐怖に脅えていた「文永の役」の翌年、建治元年(1275)6月に著した「撰時抄」(真蹟)。
今末法に入って二百余歳、大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり。仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起こるべき時節なり(定P1016)
蒙古のせめも又かくのごとくなるべし。設ひ五天のつわものをあつめて、鉄囲山を城とせりともかなうべからず。必ず日本国の一切衆生兵難に値ふべし。(定P1018)
いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてゝ、各々声をつるべて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へ、掌を合はせてたすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。(定P1052)
元軍は必ずや攻め来たって「日本国を治罰」(定P1325)するということは、日蓮の法門展開の既定路線、構想の一部とまで化している感がある。
日蓮は身延の地にあって「大蒙古国にせめられてすでにほろ(滅)びんとする」(定P1816 上野殿母尼御前御返事 弘安3年[1280]10月24日 真蹟断片)日本の行く末を見極めて、謗法者が「隣国の聖人」(定P454、P1325)によって治罰された後、「是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か」(定P818 法華取要抄 文永11年(1274)5月24日 真蹟)と、「日蓮が法門」の内実=本尊と教義の国土への展開・妙法蓮華経の広宣流布を考えていた。この思いは身延入山後、遺文中に「蒙古襲来による亡国論」の記述が増え続けることから理解できるように、年月を重ねて次第に強まっていくのである。
④ 門弟等の避難所、拠り所として
「滝泉寺申状」(弘安2年[1279]10月 真蹟)に「去ぬる四月御神事の最中に、法華経信心の行人四郎男を刃傷せしめ、去ぬる八月弥四郎男の頸を切らしむ」(定P1681)とあることから、弘安2年(1279)秋の熱原法難に先立つ4月、ある神社での神事の最中、一法華信者に対する刃傷事件が起き、8月には同じく法華信者が殺害されたことがうかがわれる。
この神事での刃傷事件に関連したものか、「富士下方熱原新福地神主」(「弟子分本尊目録」日興)を南条時光がかくまっていた。それに対し日蓮は「去ぬる六月十五日のげざん(見参)悦び入って候。さてはかうぬし(神主)等が事、いまゝでかゝ(抱)へをかせ給ひて候事ありがたくをぼへ候。~中略~を(置)かせ給ひてあしかりぬべきやうにて候わば、しばらくかうぬし(神主)等をばこれへとをほせ候べし」(定P1766 上野殿御返事 弘安3年[1280]7月2日 真蹟断簡)と熱原の神主をかくまってくれた礼を述べ、南条家の周辺が不穏であれば、神主を「これへ=身延山へ」寄こすように告げている。
実際、弘安4年(1281)3月18日の「上野殿御返事」(定P1861 日興本)には「蹲鴟(いも)一俵給び了んぬ。又かうぬし(神主)のもと(許)に候御乳塩(ちしお)一疋(ぴき)、並びに口付(くちつき)一人候。」とあって、神主は南条家を出て身延山の日蓮のもとにいたことが確認される。
このことにより身延の草庵は日蓮法華信仰展開に必然する迫害、弾圧を被った門弟等の避難所としての機能を有していたことが理解でき、それは身延入山時の構想の一つとしてあったと考えてもよいのではないだろうか。
日蓮は南条氏に対しても、「所領」について「違ふ事」があったならば、「いよいよ悦びと」して、「これへわたらせ給へ」と身延に来るように促している。
建治元年(1275)7月2日「南条殿御返事」(真蹟)
このよ(世)の中は、いみじかりし時は何事かあるべきとみえしかども、当時はことにあぶ(危)なげにみえ候ぞ。いかなる事ありともなげかせ給ふべからず。ふつとおもひきりて、そりょう(所領)なんどもたが(違)ふ事あらば、いよいよ悦びとこそおもひて、うちうそぶきてこれへわたらせ給へ。所地しらぬ人もあまりにすぎ候ぞ。当時つくし(筑紫)へむかひてなげく人々は、いかばかりとかおぼす。これは皆日蓮を、かみのあな(侮)づらせ給ひしゆへなり。(定P1080)
建治元年(1275)夏、南条氏の周辺で日蓮法華信仰故の問題があったようだ。「所領」について「違ふ事」とあることから、上(または周囲)からの信仰退転強要等、南条家の領地存亡にかかわる大事だったろうか。
弘安元年(1278)11月29日の「兵衛志殿御返事」(真蹟断片)には、
人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかにせ(塞)き候へども、これにある人々のあに(兄)とて出来し、舎弟(しゃてい)とてさしいで、しきゐ(敷居)候ひぬれば、かゝはやさにいか(如何)にとも申しへず。心にはしづ(静)かにあじち(庵室)むすびて、小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じ候に、かゝるわづらわ(煩)しき事候はず。又とし(年)あけ候わばいづくへもに(逃)げんと存じ候ぞ。かゝるわづらわしき事候はず。又々申すべく候。(定P1606)
とある。
次々と弟子檀越が訪ねてくるので、狭い草庵は人が溢れるばかり。心静かに少人数で法華経を読み、研鑽に専念したいのだが、現実は騒がしい状況で、年が明けたら何処かへと逃げ出したいものであるとしており、山間の狭い草庵での賑やかなる光景を記録している。
これによれば、例えば「御庵室の後にかくれ」(定P1312 下山御消息 真蹟断片)て、日蓮の説法を聴聞、法華経の信奉者となった因幡房のような者もいたことだろうし、各地から様々な門弟が集ったことだろう。「人はなき時は四十人、ある時は六十人」ということは、日蓮は「求めて来た者は皆受け入れる」という姿勢だったことを示すものではないか。
ここに、物理的収容力よりも精神的包容力を優先した身延山での日蓮一門の有り様が認識でき、身延の草庵は多くの「弟子檀越の拠り所となっていた」と理解できるのである。そして、自らの法華伝道の運動により弟子檀越にも相当な類が及んだことを知悉している日蓮であれば、いつでも門下が安心して集える場所を確保することも入山構想の一環としていたのではないだろうか。
※「日蓮とアジール」という観点から、山中講一郎氏が示唆に富んだ考察をされている。「法華仏教研究」創刊号(2009 法華仏教研究会)を参照して頂きたい。
⑤ 日蓮の体調
弘安4年(1281)12月8日の「上野殿母尼御前御返事(所労書)」(定P1896 真蹟)
さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候ひて今年十二月八日にいたるまで、此の山出づる事一歩も候はず。たゞし八年が間や(痩)せやまい(病)と申し、とし(齢)と申し、としどし(歳歳)に身ゆわ(弱)く、心を(老)ぼれ候ひつるほどに、今年は春よりこのやまい(病)をこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々にをと(衰)ろへ、夜々にまさり候ひつるが、この十余日はすでに食もほとを(殆)どと(止)ゞまりて候上、ゆき(雪)はかさなり、かん(寒)はせめ候。身のひ(冷)ゆる事石のごとし、胸のつめ(冷)たき事氷のごとし。
冒頭より病が日蓮の体を痛め続けたことが記されるが、「八年が間痩せ病」ということは、弘安4年(1281)の8年前は文永10年(1273)なので、その体は佐渡の一谷に在った頃だと推定される。
ということは度重なる「法難」を因とするものか、日蓮は佐渡期よりなんらかの病の身となり、体調不良となっていたことになる。
文永11年(1274)には53歳となった日蓮は体調面を考慮した時、もはや第一線で「法華一経(実際は涅槃経も)尊崇」を自らが鼓吹するのは厳しいと判断したのではないだろうか。「文永8年の法難」以前、鎌倉にあって内に天台大師講を行い、外に法華折伏を敢行した時代に、佐渡期を区切りとして日蓮は自ら別れを告げたのである。老境に入った身と、痩せ病と体調、このような観点からもその足を山林へと向けたものと思われる。しかしながら、身延入山がむしろ「痩せ病」を進行させることになってしまったという見方もあり、同地は病者静養の地としては向いてなかったようだ。
弘安元年(1278)6月26日「中務左衛門尉殿御返事(二病抄)」(定P1523 真蹟)
将又(はたまた)日蓮が下痢去年十二月卅日事起こり、今年六月三日四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じて今百分の一となれり。しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給ふか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給へるかと疑ひ候なり。
日蓮は下痢が止まらず、弘安元年以降は亡くなるまで続いた模様。この時は四条金吾が処方した薬で体調が回復。金吾の真心に対して「釈尊が助けてくれたのであろうか」「地涌の菩薩が妙法蓮華経の良薬を授けてくれたのであろうか」と感謝している。
弘安元年(1278)11月29日
「兵衛志殿御返事」(定P1606 真蹟断片)
去年の十二月の卅日よりはらのけ(下痢)の候ひしが、春夏や(止)むことなし。あき(秋)すぎて十月のころ大事になりて候ひしが、すこしく平癒つかまつりて候へども、やゝもすればを(起)こり候に、兄弟二人のふたつの小袖わた(綿)四十両をきて候が、なつ(夏)のかたびら(帷子)のやうにかろ(軽)く候ぞ。ましてわたうすく、たゞぬのもの(布物)ばかりのものをも(思)ひやらせ給へ。此の二つのこそで(小袖)なくば今年はこゞ(凍)へじ(死)に候ひなん。
6月の四条金吾への書状では、やや体調が上向いたことを記されたものの、その後も「はらのけ」下り腹が続いたことがうかがわれる。
⑥ 「法華経の体現者・日蓮」として「原点の山林」に還り新たなる出発を期した
日蓮は清澄寺で少年から青年となり、修学期は比叡山で少なからぬ時を過ごし、結果として少年時代より壮年期まで山岳寺院で学び、多くの時を刻んでいる。身延の草庵もまた山中に位置している。修学期は「法華経の持経者」でもあったろう日蓮は、人間社会の日常の中で世俗権力・宗教的権威との対決、激しい法華勧奨を繰り広げて「開目抄」に「日蓮だにも此の国に生まれずば、ほとをど世尊は大妄語の人、八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし」(定P559 真蹟曽存)と記すように「法華経の行者としての自覚」を横溢させており、晩年の「仕上げ」を期すに当たっては「新たなる心持」で原点の山林に還ったといえるだろうか。
これは「持経者」に戻ったというよりも、身は「山林」に還りながらも豊富な経験を有する日蓮は「法華経の体現者」として、弟子檀越を時に厳しく、時に包み込むような優しさで教導していく。日蓮の意図があったか、潜在意識がそうさせたかは定かではないが、「山林」という一点で「出発の住処」と「新たなる出発の地・晩年の住処」を同じくしたのである。
自らの主張を始めた頃は「法華経は釈迦牟尼仏なり」(定P123 守護国家論 真蹟)だったが、「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(定P1446 三沢抄 建治4年[1278]2月23日 日興本)と宣言した身延期の多くの遺文を開けば、日蓮は法華経そのものと化していたようで、「法華経は日蓮なり」との境地であったろうか。
何しろ彼は「有諸無智人 悪口罵詈等」「加刀杖瓦石」「数数見擯出」等、多くの経文を「日蓮一人これをよめり」(定P560 開目抄 真蹟曽存)と身読したとしているのだ。そして多くの門下に授与した曼荼羅首題下に「日蓮」と大書しているところに、教理面を越えた日蓮の自負心、導師としての自覚、久遠仏の慈悲の体現者の心を感じるのである。
追記
宗教者が山林に交わる(特定の場所=聖地に籠る)ということについて考えたい。
人は多くの人と関わっている最中は、自己の力の無さと至らなさを知り、即ち自らの限界を知り、自らをして自らを向上させようと努力、辛苦するものである。人間であれば誰人にも備わる本然的欲求、人が人たる所以でもあろうか。逆に一人、静かなる環境に身を置いて、逆風・反作用なき世界で満たされた環境に包まれ、自己の内面世界に向かうだけの日常となれば、それまでの得たところを基にして、更に自己の内面世界は拡大、往々にして自己肥大化を果てしなく続けていくものと思える。そこには限界がなく、誰よりも自己を知りながら、誰よりも自己に盲目となる世界でもある。自己の身の丈は大きくなりながら自己は壊れていくという不思議な精神作用だ。自己に語り、自己を開拓し、自己を向上させて、自らをして自らを耕し、自らの意志の力により豊穣なる自己と成すのは並の精神力では成し得ないものだろう。
同じく世の宗教指導者も俗界の第一線で、「人生劇場の舞台」中に身を置けば、意に反する俗難に晒されて世人と等身大の「同じ人間」であり、「らしく見せる」虚ろな権威、威厳というものは微塵もなく、感じさせることもないだろう。彼は同じ目線の説教者であり、同志、そして導師でもある。
しかし、その「指導者を囲む集い」が形作られ、様々な形態の組織となり、側近が指導者を祭り上げ、指導者も受け入れるか、自らの意思で世俗を離れて同信者ばかりの安心世界に身を置いて、その教理的位置付け、宗教的使命を指導者一人の専権事項として皆が委ね、指導者自身が自己の内面世界に向かい発掘、次に宣説、説示されしものは側近の掛け声と共に皆が崇拝、の循環が日常となれば、宗教指導者は人間世界の上方に位置する生ける本尊にまで上昇し、宗教的絶対的真理体現者として指一本触れることを許されぬ世俗超越の神的存在になると見える。ただし、同信者の精神空間内のみという限定されたものではあるが。
そして指導者は言う「啓示があった」「神と対話した」「そこに仏陀がいた」「真理の珠を偉大なる人より授かった」「我は知った、見た」「私はかくも偉大なる存在である」等々・・・。
ここにおいて世間一般の人々と宗教指導者の心の乖離は修復不能に陥る。これには「良い」も「悪い」もなく、このような過程を経て形成されてきた宗教はけっこうあるのではないか。精神世界に君臨する偉大なる宗教指導者が本物なのか、または独善的閉鎖空間の妄想者に過ぎないのか、これを判定するのは「歴史」という生きものに委ねられた仕事だろう。
そして、宗教指導者が神的存在に安住を続け、程度が過ぎたと歴史が感じた時、歴史そのものは生きものと化して裁きの時を作り、宗教的権威の仮面を剥ぎ、実は俗物中の俗物と堕している正体を世に晒すことも時の力、歴史の法則というものだろう。歴史の主人公たるその時代の人々は、どれだけこれを見てきたことか。このような勃興と滅びの回転運動は、同信者の空間内に日々を送ることを常とする宗教指導者が世の動向、民の息遣いと無縁となることにより、俗界を超越したと自ら位置付けた自己であれば、俗界の全てのものを支配、有すると思いこむ故の悲劇だろうか、いや喜劇かもしれない。
導師・日蓮はそれとは異なっていた。
山中に在った身延期の日蓮は、教理的展開という観点からすれば「開目抄」「観心本尊抄」を上回る法門書は遂に著することはなかった。むしろ「佐中」までに法門書に記したものを曼荼羅として具現化することに力を注いだように思われる。著作としては教理的論述も有るが、精励したのは別方向で「蒙古襲来」に関して「誇大妄想的・終末論者的」傾向の説示が見える。ただ、それについても日蓮的には「仏教者として国を、民を思う意思強きが故」即ち「久遠仏の主師親三徳をその時代に体現、示したもの」と理解でき、「日蓮の法華経信仰の確信の範疇」に納まるのではないだろうか。
身延の草庵での生活、教導を遺文より知れば、上記「宗教指導者が往々にして陥る悪弊」と日蓮は無縁であり、後代の門下が自らの信仰、生活、仏教者としての有り様を点検する際の精神的基準を供しているのだ。
「身延草庵の日蓮と門弟」・・・・・現代の日蓮法華信仰者が物理的に同一化することは不可能だが、いつの時代に在っても変わらぬ日蓮門下の心の原点、忘れてはいけない精神的基準だと思うのである。
2024.2.1